2011・9壷川・楚辺周辺

2011/09/26 壷川・楚辺、超短距離ドライブ(1)

9月23日(金)、秋分の日でしたが、旅の会動きました。といっても市内散策。なのに車でドライブ。なんだかうっすらと旅の会の薫りが・・・。

12時集合。すぐに出発。向かうは壷川のそば屋「こどら」。通り沿いで車が止めずらい。

それはいいとして、全員で「三枚肉小そば」を注文しなければならなかったのだろうか?単純にみんな貧しい生活を過ごしているだけです。

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なんとなく斜めから撮ってみました。

味ですか?M君曰く「友達からおいしいと聞いている」、Kさん曰く「うまいらしい」。
さて、そば研の判定は・・・


「●ーめんみたい」




こういう暴言を吐くのは、決まってボスです。ボスの評価厳しいからなぁ・・・。

おいしかったんですよ、確かに。わたしは完食でしたから。でも「沖縄そば」といわれると、想像してたのとはちと違うみたいな。

昼時でお客さんが次々やってきて、狭くなったので史跡めぐりに向かいました。

「タバコ吸わせてくれないか?」

はいはい、分かってますよ。



まず城岳小学校向かいのサンエーに駐車。気の弱いメンバーは「買い物すれば30分くらい止めてもいいよね?ねぇ止めさせてもらってもいいよねぇ」。

最初に向かったのは「王川(オーガー)」。今回は「那覇 ガイドと歩く まちまーい」(http://naha-machima-i.com/wp/wp-content/uploads/2011/07/map23.pdf#search=)の地図を参考にしました。

案内板によれば、王農大比屋(オウヌオヒヤ)の遺跡。

大比屋は16世紀なかばの人で、那覇港北岸に三重城を築いた外、王樋川、奥武山、石田城とも関係の深い人といわれている。

王川とは・・・
川は井戸の意。昔、大比屋が使用していた井戸である。その形はいわゆる弯銅で大きく広く掘り、石積みは腹はひろく、口にいくに従って狭くなり、また、水をためるによく、使用にも便利なように築かれている。井戸の後面は木が茂り、石を積み上げて壇をつくり、香炉を置いて拝所をなしており、沖縄独特の井戸の形式を備えている。

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集落の中にポツンとあって、大切にされてる感じ。週末にでも掃除しているのか、清掃用具がすえつけられていました。

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今も水出ます。あんまり冷たくはありませんでした。味は鉄。

D君はポンプに刻まれた「DORAGON」という文字に突っ込み入れてました。シェンロンは出ません。

王川から50mくらいはなれたところに「王の殿」。

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大比屋の屋敷跡で、その死後は祭祀場となった。祭は楚辺大阿母が主祭し大比屋の子孫や楚辺の住民達が列席して行われた。

王農大比屋とはいったい何者なのか?

メンバーはその謎に迫るべく・・・特に何をしたわけではないが、あっちから転がってきた。

「すいませんねぇ」。

「王の殿」のところに犬をくくりつけていたおばさんがそそくさとやってきた。

見学に来るなんて珍しいねぇという感じで話しかけてきた。

「ここの人は、首里の王様の次くらいに偉い人で、王様の子どもが生まれたときは、そこの井戸で産湯をつかった。ここの人は息子がいなくて、全員娘で、王様に嫁いだ娘もいた。息子がいなかったから、読谷に嫁いでいった娘の子ども=孫がこの土地を継いだ。読谷にも楚辺という地名があって、ここも楚辺。つながりがあるらしい」

だいたいこんな趣旨でした。

おばさんは娘が嫁いだ王様の名前を忘れてしまっていましたが、調べたところによれば「尚清王」。娘は「大按司志良礼」(うぶあんししられ)という。

おばさんから次なる目的地への行き方も聞いて、たくさんお礼を言って戻りました。

つづく。


2011/09/27 壷川・楚辺、超短距離ドライブ(2)

城岳のサンエーの前の通りは「古波蔵馬場」。

説明板によれば
 この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が、近郷の国場村、与儀村と馬模合を組織して、月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や、那覇の潟原(カタバル)で年に一回行われた全県大会に出場していました。
 馬場(ンマウィー)は、幅10m前後、長さ200mほどで、両側には大人3人がでもかかえきれないほどの大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/アシクマスン)で競っていました。この馬のオブジェは、当時の写真を元に実物大に造られています。 また、歩道の大きなガジュマルは、この場所で数十年という長い年月にわたって地域の人たちに愛され育てられてきたものなので、那覇市の景観資源として保全されています。


いつ頃までやってたんでしょうか?


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これがガジュマル。こんな憩いの場が身近にあったら、なんとなくいい感じ。

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勝負に使ってた宮古馬。丈がわたしのお腹ぐらいまでしかない。2009年現在で33頭しかいない希少の在来種です(ウィキペディアより)。

サンエーの向かい側にある城岳小学校ですが、戦前は「楚辺尋常小学校」(後に楚辺国民学校に改称)でしたが、戦争中は日本軍の野戦病院として接収されました。碑によれば「 楚辺小学校は摩文仁にて再建後移転を重ね終に現与儀小学校に留まり、学校名は永遠に消滅 」ということです。

ちょっとさびしい感じです。



次なる場所へ。「城岳公園」。

城岳公園は休日だというのに、おじさん一人が本読んでるだけという妙な寂しさ。那覇高近くにあって、小学校も近くにあるのに。

さびしい。

公園内には拝所と「二中健児の塔」があります。


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拝所はコンクリート製で、かなり劣化してます。

中には
城岳タキ乃守護神
あやくのひやおいべ
あふらいのおいべ
てんごのおいべ
ともよしのおいべ


と書かれてました。ありがたいんでしょうけど、どれもよく分かりません。


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「二中健児の塔」は、もとは奥武山にあったそうですが、那覇高の創立80周年の記念事業でこの地に移設したとのこと。

沖縄戦で沖縄県立第二中学校の生徒と職員は動員されて、 或は、鉄血勤皇隊として、北部の防衛に當り、或は通信隊に参加して首里以南の山河に馳駆し、其他防衛隊又は軍属として各地に勇戦奮闘中、表記の勇士はついに壮烈なる戦死を遂げられました。

亡くなったのは学徒186名と引率教師9名だそうです。


ここまでは簡単に見つかったんですが、もうひとつ、「殿・南無志や加如来碑」が、まぁ見つからない。公園中くまなく探したんですが分からない。

あきらめかけてた時に「地図的にはフニャフニャ・・・」と言いながらEさんが民家へ入っていく。ついていくと、アスファルトが塗られた奇妙な2つの人工物と、何が書いてあるか読めない碑が建っていました。

「ごめんくださーい」

Eさんが近くの民家に尋ねようとしましたが、残念、不在!

写真と見比べて「やっぱりこれがフニャフニャだ」と、メンバー誰一人覚えてない「殿・南無志や加如来碑」をついに発見しました!

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ガイド「まちまーい」には

公園手前の左側のちょっとした空地に一見お墓のように見える小さな塚のような構築物があり、その傍らに『殿・南無志や加如来碑』が立っています。詳細は不明。城嶽や古波蔵之嶽に向けての儀礼の場であったようです。

とありますが、あそこは「ちょっとした空地」と思えないし、「小さな塚」にしては地面にめり込んでるし、「『殿・南無志や加如来碑』と刻まれた石碑」といってもまるっきり読めないし、これで実物見つけるのは結構至難の業です。

つまり、結局、旅の会よく見つけたねっていう、自画自賛なんですが。

つづく。



2011/10/01 壷川・楚辺、超短距離ドライブ(3)

城岳公園を離れて今度は「曝書山房跡」。バクショサンボウって何かかっこよくないですか?

城岳公園から車がギリギリ入れる細道を行くと到着。所要時間2分。近っ!

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「跡」ってことですが当時の名残いっさいなし。今は単なる駐車場。お隣は「どんぐり保育園」。

案内板を全文引用します。

 沖縄学の父と呼ばれる伊波普猷の別荘跡。城岳の西の麓にあり、かつては、濃い樹影に囲まれた静閑な別天地であった。
 城岳を背にし、地域のウブガー(産井)を含む2,500坪の伊波家の畑地は、幼少の頃、昆虫や草花の最終に興じた所、と後に記している。
 沖縄県立図書館時代の1914年、持病の療養のため、地内に12坪ほどの瓦葺を建て、晴耕雨読の日々を過ごした。屋内には、尚泰王の第4子松山王子の筆による「曝書山房」の額字が掲げられていた。
 この別荘では、比嘉春潮らも参加して沖縄研究の会が開かれた他、組合教会(キリスト教)運動の拠点ともなっていた。
 しかし、この地も大正末期、伊波の上京後には人手に渡ったという。


伊波普猷といえば「沖縄学の父」。比嘉春潮の名も聞いたことがあるような・・・。

案内板の隣には自治会の案内板が。

二中前自治会

今でも那覇高より「二中」のほうに親しみがある雰囲気があるのかなぁと思いました。



細道をUターンし、人を轢きそうになりながら(完全なるウソ。F君の運転は完ぺきでした)、那覇高前に出て今度は裁判所のほうへ右折。琉球銀行樋川支店の向かい側に小さな拝所があります。

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これが汪樋川(オウヒージャー)。「まちまーい」の説明によれば、 17世紀、尚貞王の冊封使 汪楫が、首里城の龍樋の次に美味しい水として称えた湧泉。その後、18世紀に訪れた冊封使の周煌は、“中山八景”に『城嶽霊泉』と題して絵を『琉球国志略』(1757年)に載せました。

だそうです。

「中山八景」って何だ? 他7つはどこにあるんだ? ちょっと気になります。

・・・で、ネットで調べてみたところ、「中山八景」は次の通り。

泉崎夜月、臨海潮声、久米村竹籬、龍洞松濤、筍崖夕照、長虹秋霽、城嶽霊泉、中島蕉園

ひとつひとつどこなのか気になるところ。それに想像力を加えて「琉球八景」として描いたのが、あの葛飾北斎だそうです。見てみたいですね!


拝所には塩がたっぷり盛ってあって、何だかさらしちゃいけない気分なので写真は載せません。あと井戸の内部はレンガ造りで見ごたえあるんですが、これまた何かさらしちゃいけない気分にさせたので、写真は載せません。



次にぐるっとまわって、開南交差点近くへ。少し分かりづらいところにあります。

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「神里之神」。拝所です。

「まちまーい」より。 『琉球国由来記』(1713年)によれば、琉球王府時代の楚辺大阿母と呼ばれる女性の神職の方が祀りを行った由緒ある御嶽で、神名を“トモヨセノ御イベ”と言います。いくつか場所を変遷したために元の場所は不明となっています。

「トモヨセノ御イベ」ってもしかして、城岳公園の拝所の中に書いてあった「ともよしのおいべ」と一緒かな?

ここでウケたのは、入り口にある看板。笑っちゃいけないかもしれないけど・・・。

告ぐ
家内安全・商売繁盛・健康祈願にこられた皆様、後を振り返って見て下さい。皆様方がお供した先行・うちかび・食物等、そのまま置き去りしてありませんか、ここには掃除する管理人はいませんから各自で持ち帰ってください。
(ここから赤字)神は大へん迷惑して居ります。それでも聞いてくれない貴方、貴方の諸々の祈願も神には通じませんよ、心して下さい。
神里之神より


たしかに隣の家との間には、ゴミが溜まってました・・・

神の声なのか、神を代弁する(預言者?)の声なのか? いずれにしても、言うこと聞かないと大変なことになりそうです。

商売繁盛ということで、遠くを眺めると、アコムのむじんくんの赤い看板がこっちを向いていました。コワイコワイ。



というわけで、わずか3時間の旅でしたが、急ぎ足ながら、穴場スポット巡り終了です。「那覇にもまだまだ知らないところがいっぱいあるんだね」というメンバーの感想がありました。



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