「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
沖縄現代史~復帰以降
Jan 12, 2006
「沖縄現代史」(その1)
新崎先生が書いた「沖縄現代史〔新版〕」(岩波新書)。以下、本の内容を紹介します。
この本が主要なテーマとしているのは、1972年5月15日、沖縄が日本に返還されて以降です。「核抜き・本土並み」返還。その当時、沖縄返還はこのように言われていたそうです。沖縄側は、核兵器を置かず、本土並みの基地負担という意味でこの言葉を使っていました。しかし日本政府はそう考えてはいなかったようです。
まず「核抜き」について。今では、「緊急時の国内への核の持ち込み・貯蔵を認める」といった内容の日米両政府間の密約が存在することが明らかとなっています。
また伊江島で核模擬爆弾訓練を実施していることに対して、政府は復帰後はやめるように米側に勧告するとしていましたが、復帰後に訓練が実施されていることが明らかになると、いってんして「国民感情からいって好ましくはないが、あらゆる事態に対応するための訓練として当然」と容認姿勢になりました。
つぎに「本土並み」について。復帰後「本土並み」になったのは自衛隊配備でした。米軍基地はほとんど減ることなく、自由に使える状況は復帰後も維持されました。米軍基地の75%が集中している沖縄が「本土並み」でないことは言うまでもありません。
そもそも、沖縄返還とは何だったのか?
先生は返還について「日米軍事同盟再編強化の一環にすぎなかった」、「72年沖縄返還は、沖縄の日本への統合を前提とする日米安保体制の強化であった」と書いています。
「返還の何が問題なの?」という疑問はあると思います。なぜなら「沖縄の人たちが復帰を要求して実際にそれが実現された」という歴史として一般的にはふまえられているからです。この点については、頭の片隅においといて、次にすすみます。
自衛隊について
当たり前ですが、復帰前は自衛隊は沖縄にいませんでした。しかし沖縄が日本復帰すると、米軍基地がなくならないだけでなく、新たに自衛隊が配備されました。激しい反対運動が展開されたようです。
「自衛隊配備反対闘争のもっとも大きな成果は、沖縄の民衆に『日本軍とは何か』という問いを改めて突きつけたことであった。」と先生は指摘しています。
今でこそ、沖縄戦のとき日本軍が住民を殺害したことや住民の「集団自決」などは、周知の事実となっています。しかし「沖縄戦における日本軍の行状を、『天皇の軍隊』の本質と関連させて追及しようとするのは、1970年代に入ってから、つまり、日本政府が、自衛隊の沖縄配備をゴリ押し的にすすめようとし始めたころからである。」なのだそうです。
これはエッ?と思う事実です。「日本軍が住民を殺害した」というのは、以前から「周知の事実」だったはずです。なのにそれが公然化したのが、復帰直前だったのはなぜでしょうか?
Jan 16, 2006
「沖縄現代史」(その2)
軍用地政策について
占領下の米軍用地は、琉球政府が個々の軍用地主と賃貸借契約を結び米軍に転貸していました。復帰後は日本政府が軍用地主と賃貸借契約を結んでいます。
なぜかというと、日本政府は日米安保条約によって「施設及び区域」(米軍用地は条文上ではこう言います)の提供の義務を負っているからです。復帰は、沖縄が日米安保条約の下に組み入れられることも意味します。
復帰をはさんで、どうなったか?
一つは、軍用地使用料の値上げ。平均で6倍、協力謝礼金(これは一体何なんだ?)も含めると、6.5倍!
これがどのくらい乱暴かというと、農地として耕作するより軍用地のままのほうが金になるんです。これで1950年代の「島ぐるみ闘争」を担った軍用地主の団体である土地連は、基地維持策の支柱へと変貌します。それ以外にも、「基地周辺整備事業」という補助金や交付金で、基地所在市町村をとり込んでいきました。
もう一つは、公用地法の制定。これは1971年12月に制定されたもので、「米軍支配下で公用地(事実上は軍用地)として使用していた土地を、所有者の意思いかんにかかわらず、復帰後5年間は公用地(軍用地)として使用することができる」というものです。非常に乱暴な法律だと思いませんか?
ようは、軍用地料の値上げで地主を金でつり、どうしても契約拒否を貫く地主からは法律という名の暴力(これは暴力といっていいとわたしは思います)で土地を取り上げてしまうということでしょ。復帰前、約3000人いた契約拒否地主は、1977年5月までに396人まで減ってしまったそうです。
ここでふと考えたのは、契約拒否地主がどうやって拒否を貫いていったのか、あるいは契約させられていったのか、ということです。
どのように個々の人間が立ち向かっていったのか、あるいは追いつめられていったのか、そのとき何を感じて何を決断したのか、そうしたことを一人ひとりの経験に即して具体的に知ることが必要ではないでしょうか?
公用地法は、1977月5月14日までの時限立法(5年間)でした。つづく法律は地籍明確化法。沖縄は戦争で登記簿などが焼失してしまったため、多くの土地の地籍が不明のままになっていました。だから政府はこの法律で、地籍を明確化できるまでは土地を軍用地として使用できるようにしたのです(これも5年間の時限立法)。
これもひどいです。反対の声が強く、公用地法の期限切れまでに成立することができず、15日から18日までの4日間の法的空白ができました。何人かの地主は堂々と基地に入りました。しかし「嘉手納基地では、何の法的根拠もなく反戦地主たちの基地立ち入りを阻んだ」そうです。
1982年からはどうしたか?今度は本土では20年前に使われなくなっていた米軍用地特措法という法律を盾に土地を取り上げます。
この法律は、次の手続きをへて地主から土地を取り上げることができる。
一、首相が強制使用すべき土地の「使用認定」を行なう。
↓
二、防衛施設局が対象地の土地調書・物件調書を作成し、地主に署名押印を求める。拒否すると、市町村長の代理署名、拒否すると知事の代理署名を求める。
↓
三、調書が完成したら県収用委員会に裁決申請を行う。収用委は関係書類の公告・縦覧を市町村長に求め、拒否したら知事に求める。
↓
四、収用委は施設局と地主の双方から公開で意見を聞く「公開審理」を行なう。
↓
五、収用委は審理の結果などをふまえて裁決を行なう。
土地を取り上げるために使用期限切れのだいたい2年くらい前から手続きがはじまるみたいです。
はじめての裁決(1982年)では5年間の強制使用が裁決されました。これ以降現在までの土地取り上げは、この手続きにしたがって行なわれています。
ずいぶん都合のいい法律があるんですねぇ・・・
Jan 31, 2006
「沖縄現代史」(その3)
今回は、天皇制、とくに「日の丸」「君が代」と沖縄の接点についてです。基地なら分かるけど、天皇制と書かれても「?」という人も多いでしょう。でもまずは先へ進めましょう。
1978年に県知事が革新系から保守系に変わった頃、少しづつ沖縄社会も変わっていったようです。
その頃の時期について新崎先生は、「保守化しつつ日常に回帰する多数派と閉塞状況の打開を模索する自覚的少数派との分岐が目立ちはじめた。」と書いています。
天皇や「日の丸」「君が代」が大きな問題となったのは、沖縄では1980年代に入ってからのようです。直接の契機は海邦国体の実施(1987年)です。国体というのは、毎年各県もち回り。天皇が開会宣言を行ない、実施する県が優勝する、というのがお決まりなのだそうです。
「きらめく太陽、ひろがる友情」。
これがメイン・テーマ。今見ると、ちょっとクサすぎですが、たぶん当時は国体に明るいイメージを植えつけるのに宣伝されたのでしょう。
一方で「沖縄の歴史的体験をふまえた手づくりの国体を」という観点から、天皇の戦争責任を問う運動もおこりました。
なぜ、天皇(制)が問題になるのかというと、一度も沖縄に足を踏み入れることができないでいたからです。復帰後、1975年に皇太子が海洋博名誉総裁としてやって来たときには、ひめゆりの塔で火焔ビンを投げつけられました。
なぜ天皇は沖縄に来ることができなかったのか?それについては、さまざまな考察がいくぶんひかえめに書かれていました。詳しくは読んでください。
天皇が沖縄にやって来る。このとき沖縄社会はどうなったのか?
沖縄全体が厳重な管理体制の下に置かれました!各地に「海邦国体を成功させるための地域協力会」が結成されました。ほとんどの事務所は地域の警察署内だったそうです。
そして「日の丸」「君が代」も強制されました。そもそも1985年段階で沖縄は「日の丸」掲揚がわずか数%、「君が代」斉唱は0%でした。そこに文部省から「『国旗と国歌の適切な取り扱いの徹底』を求める初等中等教育局長の通知」が送付されてくるや、沖縄の状況はもうすごい。
日の丸!日の丸!日の丸!日の丸!
君が代!君が代!君が代!君が代!
日の丸!君が代!日の丸!君が代!
・・・カエルの合唱かっていうくらい。
県や市町村議会では、「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱を求める決議が次々あげられ、それをうけて県教育長から市町村教委や県立学校長宛てに「積極的に国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう」強力に指導せよという通知が出され、あげくのはてには県教育庁当局が「卒業式が混乱したら警察を導入せよ」、「妨害した生徒の卒業認定を保留せよ」などと指導したそうです。
なんだ、これは?
こうして1987年には沖縄の「日の丸」掲揚率は全国平均を抜きました。
歓迎ムードはこうしてつくられました。「・・・国体がんばらなきゃ!国体で勝たなきゃ!国体って楽しい!国体ってすばらしい!国体万歳!・・日本国万歳!天皇陛下万歳!」
この年、読谷高校では、生徒が「日の丸」を取り去るということが発生しました。そして同村の知花昌一さんは「生徒を前面に出してしまった大人たちの責任」を語り、自ら競技場の「日の丸」を下ろし焼き捨てました。
ところで沖縄は、「日の丸」を掲揚し「君が代」を斉唱する慣習がない。今もです。これはわたしが沖縄に来て驚いたことの一つです。
「(卒業式や入学式で)『君が代』の音楽は流れるけど誰も歌わない」、「知らない」。「『君が代』知ってます?」と聞いたら、「分かるよ。♪白地に赤く~」というオジサンもいたくらいです。
もちろん、学校によってだいぶ対応が違うみたいですが、それでも今なお「日の丸」や「君が代」に対する拒絶感があるということだと思います。
ちなみに、「日の丸」を「国旗」に、「君が代」を「国歌」と法律で定められたのは、これよりずっと後、1999年のことです。・・・知らなかった!
上のような動きをみると、「ちょっとヘン」という気がしませんか?誰が、何のために、「歓迎」するのでしょう?
それにしても、「きらめく太陽、ひろがる友情」というセンスはいただけませんなぁ。
Feb 5, 2006
「沖縄現代史」(その4)
●1990年代以降
1990年、県知事選で、保守系の西銘知事を破って革新系の大田知事が当選しました。
この大田県政(90~98年)の時期は、世界的には、冷戦構造が崩壊し、湾岸戦争の勃発(1991年)やら、朝鮮半島での戦争危機が煮詰まるやら(1994年)。
国内的には、自衛隊の海外派兵が開始されたり、「55年体制」が崩壊して熊本の殿様が総理大臣になったり(自民党一党で政権維持ができなくなって、1955年以降続いてきた〔だから55年体制!〕自民党vs社会党の構図が崩れた。社会党?今はないけど、現在の社民党の前身です。ちなみに殿様は日本新党でした。これも今はないです)、まゆ毛の長い(いや、ホント長いんだって)おじぃさんが総理大臣になったり。
まさに激動の時代です。以前にも増して複雑化した社会という気がします。それでも、生きていかねばなりません・・・。
ちょっと前からはじめます。軍用地問題について。
1987年の強制使用の際には、「強制使用20年」という申請がなされました。公開審理には警察権力も介入しました。結局、「10年」に縮められたのですが、これらは「反戦地主の抹殺」、「新たな反戦地主の出現の予防」という狙いがありました。こうした暴挙は、保守県政の下だったからできたという面もあったといいます。
では大田知事の下ではいかに?
1992年の使用期限前に、3度目の強制使用手続きが進められました。知事はこのとき、基地の計画的返還や跡地利用について、新たな立法化を含めた制度的措置が講じられたとして、公告・縦覧を代行しました。
「土地連加盟の地主は何人か。反戦地主会の会員は何人か。行政としては民主主義を重んじて判断したい」
こう言って知事は少数派を切り捨ててしまいます。
結局、保守県政と変わらなかった。うーん、どうしてでしょう?
そうこうするうちに衝撃の事件が!
1995年9月4日、3名の米兵による少女暴行事件が起こりました。少女は、現在の4年生と同級生です。
アメリカの占領時代と変わらない沖縄、復帰後もなくならない米兵犯罪。怒りは爆発点に達していました。
こうした声を受けて、知事は97年以降の強制使用の手続きである代理署名を拒否します。92年使用期限前とは異なる態度を示したということです。
この年、事件から1ヶ月余りあとの10月21日に行なわれた県民総決起大会には、実に
8万5千人が参加し声を上げました。
8万5千人!沖縄の15人から20人に1人が参加したということになります。
政府は慌てます。どうにかしないと。
これへの対応のひとつが「沖縄に関する日米特別行動委員会」(SACO)の設置です。これは沖縄からの最低限の要求であった「基地の整理・縮小」に対応するためのものです。普天間基地返還についてもここで協議されることになりました。これと引き換えに、首相が知事の代わって署名(法的手続きの開始)することになりました(首相の署名代行)。
ところで知事が代理署名を拒否するとどうなるのでしょうか?
まず主務大臣(内閣総理大臣のことだと思いますが?)が知事に職務執行を「勧告」、ダメなら「命令」、それでも拒否すれば、高裁に提訴、知事が裁判所の命令も聞かなければ、主務大臣自ら職務を代行する、こうなります。じっさい、首相が知事を裁判所に訴えるという事態になりました。
一方、県側は、「基地返還アクションプログラム」と「国際都市形成構想」というのをうち出します。アクションプログラムは、2015年までに段階的に基地を返還し全部撤去するというものです。
基地を維持したい政府に対し、段階的に基地をなくすシナリオを提示したということです。
とはいっても、「なぜ2015年まで基地を引き受けなければならないのか?」という反対もあったし、実現性への疑問も多々ありました。また、これとは正反対の立場からもっとキッパリと反対した人たちもいました。土地連です。「跡地利用計画が明確でない基地返還は軍用地の利益を損なう」と。
正反対。ようするに土地連は基地撤去に反対したのです。
土地連は、「基地の整理・縮小」を掲げて行なわれた1995年の県民総決起大会にも参加しませんでした。沖縄の世論は軍用地主に対して同情的だったけど、ここにきて土地連に対する批判も強まってきたそうです。内部からも「基地撤去を前提に跡地利用を検討すべき」という声も上がってきます。
こんな状況のなかで、今現在まで尾を引く問題、普天間基地の全面返還が電撃発表されます。
Feb 7, 2006
「沖縄現代史」(その5)
●1990年以降(つづき)
最終回です。
そうこうするうちに1996年4月12日、普天間基地の全面返還が日米で合意したと発表されました。
しかし
一、空中空輸機の岩国移駐
二、嘉手納基地への基地機能の一部移転
三、県内他施設でのヘリポート建設
四、有事の際の民間施設の軍事利用に関する共同研究
この、4項目がクリアーされることが全面返還の条件というものでした。そもそも返還ではなく、県内への移設です。四などは、「基地の整理縮小とは次元の異なる新たな軍事協力」と指摘されています。
4月17日には橋本―クリキントン会談で、日米安保共同宣言が発表されます。「日米安保再定義である。」条文を変えずに、どんどん日米同盟を強化していこうというのです。
10・21県民総決起大会につづいて呼びかけられたのが米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の見直しについて賛否を問う県民投票でした。これは96年9月に実施されました。結果、反対多数。
数日後。大田知事は、橋本首相と会談し、代理署名を応諾します。沖縄の世論とは正反対の決定を下してしまったのです。なぜでしょうか?
詳しくは読んでください、大田知事の「言い訳」を。わたしには知事の言い分が到底納得できるものではありませんでした。
1997年、米軍用地特措法が改定されます。
「収用委員会の裁決が出るまで暫定使用ができるだけでなく、収用委員会の採決に起業者(那覇防衛施設局長)が不満があれば建設大臣に審査請求を行うことができ、その審査期間中は何年でも強制使用を続けることができることになったのである。」
4月17日に国会で成立しましたが、この法案は衆議院の9割、参議院の8割が賛成したといいます。8割以上の議員が、沖縄を切り捨てたのです。新崎先生は「安保翼賛体制の成立」と書いています。
ここから、現在もつづく、普天間基地の移設問題をめぐる動きについて、ごく簡単に触れておきます。
普天間移設について、1996年12月には、「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)最終報告」が発表されました。
「普天間移設は必要なくなれば撤去可能な海上施設がよい」というものでした。しかも「基地の整理・縮小」という要求は、「基地の県内移設」というように変質させられてしまいました。1997年1月には、普天間基地の移設先は、名護市のキャンプ・シュワブ沖ということで日米政府は合意します。
すぐに、地元である名護市では住民の反対運動が取り組まれました。そして12月21日には市民投票が実施されました。
市民投票についてちょっとくわしく見てみます。というのは、政府がどうやって介入し反対派をつぶそうとしたかを押えておくことが重要だと思うからです。
はじめ市長は、市民投票条例の制定に難色を示しますが、制定請求署名がドッと集まるとこれを無視できず条例制定に動きます。しかし投票の内容を変更した上で。
「市長は、海上基地建設の賛否を問う条例案を、『賛成』、『環境対策や経済効果が期待できるので賛成』、『反対』、『環境対策や経済効果が期待できないので反対』の四択方式に修正」しました。
こうすると「賛成」「反対」の二択方式とだいぶ変わってしまいます。「現状維持か、振興策か」を問う投票に変質させてしまったのです。
条例制定に反対すると、批判を浴びるし、といって制定に賛成すると、「海上基地反対」派の思うつぼになるし。ということで、四択方式という「修正」=焦点ずらしを考えたのでしょう。
この内容で条例は成立してしまいます。推進派はさっそく「『環境対策や経済効果が期待できるので賛成』に○を!」という署名運動を開始します。
投票日が近づくと、政府高官や自民党幹部が次々やってきて、協力を要請し、振興策の要望を聞いてまわりました。那覇防衛施設局は、2人1組の職員が市内全戸を戸別訪問。投票日当日には、不在者投票という管理投票を強要。企業に動員目標を与え、送迎、監視付きでの不在者投票は、有権者の19.99%(投票者総数の24.24%)にのぼりました。
すごい物量作戦!!!これが「権力」というものでしょうか。
結果。
投票率82.45%
「賛成」8.13%
「環境対策や経済効果が期待できるので賛成」37.18%
「反対」51.63%
「環境対策や経済効果が期待できないので反対」1.22%
みごとに「反対」が過半数をとったのです!!!
事態は急変します。
3日後に、比嘉市長が受け入れを表明し辞任。
次期市長選では、基地反対派の候補者が敗北。知事選でも大田知事が敗北し、保守系の稲嶺県政が誕生。のちに知事、市長の受け入れ表明し、それをうけて1999年12月には普天間移設に関する政府の取組方針が閣議決定・・・。
知事や市長を選ぶのは地元住民。知事や市長が「受け入れ」表明。つまり、地元住民が「受け入れ」た。こういう筋書きです。じっさいに「地元の理解」とはこういうことを指しているのでしょう。はたして、これで「地元が理解した」といえるでしょうか?物事はそう単純ではありません。
・・・その後も数年間は、反対運動が苦しい時期に入りますが、政府は反対運動をつぶすことはできませんでした。普天間基地は返還されていないし、新しい基地もできていません。
そもそも、SACO最終報告では、普天間基地の返還は、「5年ないし7年」とあったのですが、あれから何年たちましたかね?
最後に、1999年の米軍用地特措法の再改定に触れて終わりにします。
「第一は、強制使用や収用の土地に関する土地調書・物件調書の代理署名や、関係書類の公告・縦覧(代行)といった手続きを市町村長や知事から取り上げ、総理大臣の事務にした点、第二は、土地の収用や強制使用を審理する収用委員会が、緊急使用裁決申請に対して早急に裁決を下さない場合や、裁決を却下した場合は、総理大臣が代行裁決をすることができるとした点である。つまり、米軍に関する土地に関しては、私有地であれ、公有地であれ、総理大臣の一存で、取り上げることができるというのである。」
97年の改定の時には、本土のマスコミも大きくとりあげましたが、この時はさっぱり。社民党県連も公明党県本部も共産党県委員会も社会大衆党も自由連合沖縄も批判のコメントを出しましたが、国会では、社会党も公明党も賛成しました。
こういう「高度な政治」は難しすぎて分かりません。同じ主張をしているはずなのに、東京では賛成、沖縄では反対。ふつう、こういうのは二枚舌といって信用を失います。
「沖縄現代史」、ぜひ一度は読んで損のない本だと思います。
最後まで読んでくれた方へ。いっしょに考えましょう。
「沖縄の基地は、なんのために存在するのでしょうか?」
以上です。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
あなたの旅行記はどんな感じ??
鳩サブレー「鳩の日」
(2026-08-08 00:12:25)
北海道の歩き方♪
みち・レ・ポ-北海道「道の駅」デジ…
(2026-08-09 00:00:06)
ぶらり、歴史の旅、歴史探訪(歴男、…
仙台の旧町名「東新丁」(今の住所も…
(2026-07-26 00:00:12)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: