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世界で初めて電子音楽を演奏したOKITAC5090(OBM社内報:S41.5)

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  【(昭和39年(1964)3月に安田信託銀行日本橋本店に導入されたOKITAC5090M型電子計算機が、昭和40年(1965)12月13日目黒区碑文谷に同行事務センター開設に伴い、同センターに『菜翁が旨』さん他の沖電気工業㈱及びOBMスタッフにより移設された。OBM社員として同センターの常駐スタッフの一員であった『菜翁が旨』さんが、業務の合間に開発した『 OKITAC5090 による電子音楽の演奏プログラム』の詳細である。】

世界で初めて電子音楽を演奏した電子計算機!
     OKITAC5090による電子音楽の演奏プログラム

(コンピュータの電源をオンしたままで、基板1枚を差し替えするだけで、日常のコンピュータ業務と音楽演奏を簡単に切り替えすることが出来る劇的な手法)

          著者:菜翁が旨さん S4105OBMMonthlyNews
          OBM MONTHLY NEWS(沖ビジネスマシン販売株式会社(現沖電気工業㈱)社内報) 昭和41年5月号 に投稿・掲載記事を転載


はじめに
 電子計算機を用いて、ソフトウエア上の手法によって電子音楽を演奏する・・・
ラインプリンタの印字音による音楽の演奏方法はIBM1401コンピュータですでに実現してが、それはメタル製のハンマーとドラムとその間に挟まれた布製のインクリボンとラインプリンタ用の連続用紙からかもし出される一種の機械音であって、電子音ではない。
従って、 IBM1401機の機械音やCPUの上にトランジスタラジオを置くと雑音で音楽を奏でることができるような特異(芸術的?)なプログラム手法 とは全く異なる方法によって、即ちコンピュータが内蔵するスピーカからの電子音での演奏をOKITAC-5090システムによって演奏させる方法はないものだろうか?

そこで目につけたのがコンピュータの数値計算でのオーバーフローなどの異常状態を警告するために内臓されたスピーカーを用いる方法である。

 この手法で開発したプログラム上で走らせる、紙テー上に採譜した楽譜を読み込ませれば、プログラマやキーパンチャーだけでなく、オキタイパーで紙テープパンチさえ覚えれば、誰でも簡単に、OKITAC5090コンピュータに演奏させられる、というIBMの特異(芸術的?)手法などとは比較することさえ馬鹿げるほどの単純で画期的な手法である。

 スピーカ駆動用パッケージの簡単な回路変更だけで、コンピュータの性能には何ら影響を与えないで否、コンピュータを正常に動作させながら、OKITAC-5090の機械語プログラムによって音楽を演奏させることが出来る。
 以下その詳細について述べる。尚、文中の機械語命令の論理動作については「OKITAC-5090インストラクション・マニュアル」を参照されたい。

1.概要
(1)音を得る方法
 音はパッケージ「ALM」(ES-2031警報回路)を若干改造し、増幅器として使用し付属のスピーカーを動作させている。
(2)制御信号
 「ALM」の入力信号には「OVER FLOW」(以下「OFW」と記す)のパルス信号を用い、
「OFW」する時間間隔及び回数をプログラムで制御して種々の音階の音を得ている。

2.改造点
(1)パッケージ
 パッケージは「ALM」を図1に示すように改造した。
      *---------図(略)---------*
     図1.パッケージ「ALM」の改造点(廃止:点線部分、追加:太線部分)
(2)布線(フセン)
 布線は下記箇所に一本追加するのみである。
 「OFW」の「SV」出力→「ALM」入力。

3.音の高さについて
 音の高低は周波数の高低で与えられる。
従って、演奏会で用いられる各音階の標準周波数は、高度表で定められている。
これを基にOKITAC5090で計算・印字した平均律高度表を表1に示す。
S4105表1平均律&clock数
 表1.『演奏会標準高度表(平均律)』と必要クロック数( 下対低オクターヴ「ハ」から五点オクターヴ「ロ」間の周波数とクロックの表


    「 平均律(equal temperament 」とは、1オクターヴを十二の等しい半音に調整したもので、鍵盤楽器の調律の基本周波数である。
    「平均律」の音組織の構造は次の原理に基づいている。
    オクターヴの振動数比は1:2であるから、十二等分された半音の振動数Sは
    S=12√2=1.05946(約1.06)になる。

    これを、半音階の各音に適用すると、
       ハ音=1
       #ハ(♭ニ)=1.05946
       ニ=1.05946²
       #ニ(♭ホ)=1.05946³
          ・
          ・
          ・
       となる。

       平均律組織においてはオクターヴは純八度であるが、他の音程はピタゴラス調や純正調と僅かずつ異なっている。

       ちなみに、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日)の「平均律ピアノ曲集(平均律クラヴィーア曲集)」は長短両調のすべての調を含み、平均律ピアノの使用法と作曲技法を示したもので、音楽の旧約聖書とも呼ばれ、今日でも音楽の宝典とされているそうである。


    (計算結果を一分間に600行(1行120字)印字できて印字が上下にぶれることがない特徴を持ち、ガリバー・IBMを凌ぐ沖電気独自のタイプベルト式ラインプリンタで印字してかな・漢字を手書きで書き加えたもの。
     周波数は音楽概論:音楽の友社による)

抜粋 平均律高度(周波数)と基本プログラムの所要クロック数
     ド(小字オクターヴ:ハ)130.81Hz、1529クロック
     ♯ド・♭レ(小字オクターヴ:♯ハ・♭ニ)138.59Hz、1443クロック
     レ(小字オクターヴ:ニ)146.83Hz、1362クロック
     ♯レ・♭ミ(小字オクターヴ:♯ニ・♭ホ)155.56Hz、1286クロック
     ミ(小字オクターヴ:ホ)164.81Hz、1214クロック
     ファ(小字オクターヴ:ヘ)174.61Hz、1145クロック
     ♯ファ(小字オクターヴ:♯ヘ・♭ト)185.00Hz、1081クロック
     ソ(小字オクターヴ:ト)196.00Hz、1020クロック
     ♯ソ・♭ラ(小字オクターヴ:♯ト・♭イ)207.65Hz、963クロック
     ラ(小字オクターヴ:イ)220.00Hz、909クロック
     ♯ラ・♭シ(小字オクターヴ:♯イ・♭ロ)233.08Hz、858クロック
     シ(小字オクターヴ:ロ)246.94Hz、810クロック


4.音の高低のプログラム化
 高度表に示された周波数の発振を「ALM」の入力に加えれば、スピーカからはその音階の音が聞こえてくる。
従って、高度表で示された周波数で「OFW」出力を得るようにプログラミングすれば、各種の音階の音を得る。
何クロック毎に「OFW」させるべきは、次式で求められる。結果を表1のクロック蘭に示す。
 C=1/F × Fc
 C:所要クロック数
 F:求める音階の周波数(c/s)
 Fc:計算機の制御クロック数(c/s)
     (注.OKITAC-5090Mは200Kcである)(周波数の単位は当時のまま)
各命令の所要クロック数は「OKITAC-5090M OPERATION TABLE」(社外秘)により知ることが出来る。
以上のことから、任意の周波数の音を得るプログラミングは可能である。

5.音の長さ
 音楽として演奏するためには音の「高さ」と共に「長さ」が必要である。
 音の「長さ」はスピーカーからの音の持続時間の長短で得られる。
従って、音階を表すプログラムで同時に長さもあらわすためは、各音階毎にプログラムをループ化する。
すると、「高さ」はループを一巡する時間で、「長さ」はループ内を繰り返す回数で、それぞれ表す事が出来る。
図2.にその関係を示す。
      *---------図(略)---------*
     図2.音の高さと長さを同時に得るプログラムの概念
例えば、二分音符は四部音符の二倍の回数ループ内を循環することにより得られる。
尚、音の「長さ」は曲のテンポにより同じ音符でも異なった長さになる。
従って、任意の長さにセットし得るようにプログラミングしなければならない。
(テンポ(Tempo)は、楽曲の速度で、一分間に奏せられる単位音符の長さで指示される。例♪=60)

6.音の強さ
 楽音のもう一つの条件に音の「強さ」がある。
これは振幅の大小で表される。
プログラムによって「OFW」出力パルスの振幅を制御することは出来ないので、割愛せざるえを得ない。

7.プログラミングの手順
 以上で、表1.の全ての音階のプログラミングが理論的に可能になった。
 必要な音階を得るためには、どの命令を用いても、どのように組み合わせても構わないが、それではプログラミングが煩雑で、むやみに長くなるので得策ではない。
使用する命令の数を少なく、且つどの音階にも共通の命令を用いればプログラムは非常に簡単になる。
又、実際の演奏には高度表の全ての音階が必要であるわけでもないので、適当なところで、高温、低音をカットすることも必要である。
以下、私の作成したプログラムについて手順を説明する。

(1)「OPERATION TABLE」を見れば明らかなように、〔32〕ADD IND(INDEX) の命令の所要クロック数はアドレス部の数値に影響されない。従ってループ一巡に要する総クロック数(=音の高さ)に影響を与えずにループ内繰り返し回数(=音の長さ)を制御することが出来る。
〔32〕の如く、〔〕の中の数値は、OKITAC5090の機械語命令コード以下同様)
(2)一方、SHIFT命令(〔40〕,〔41〕,〔46〕,〔47〕)はアドレス部に指定された数値によって所要クロック数が変化する。
故に、SHIFT命令は、ループ一巡に要する総クロック数(=音の高さ)を制御することが出来る。
(3)以上の考えから、必要最小限の命令を加えてプログラム「A」(表2に示す)を作成する事が出来る。
簡単に説明すると
(イ)〔38〕のアドレス部には、ループの繰り返し回数を指定する。
(ロ) ループは〔65〕n→〔46〕N→〔26〕3→〔27〕4→〔32〕9999→〔23〕1→〔65〕nと構成される。
(ハ)〔46〕のアドレス部のnがループの一巡に要する総クロック数を制御する。
(ニ)〔65〕でUA-MSBに"1"をセットし〔46〕で〔OFW〕させ、次回の〔OFW〕のため直ぐに〔26〕でリセットする。
  (UA;レジスタの名称でUAレジスタのこと、MSB;Most Significant Bit)
(ホ)ループの一巡に要する総クロック数はN=1の時は222クロックであり、N=99の時は320クロックである。
故に、プログラムAでは、「 二点オクターヴ ホ 」から「 二点オクターヴ イ 」までの六種類の音階を表す事が出来る。(表1参照)
(4)「二点オクターヴ ホ」より低い音を得るために、更に命令を追加して「プログラムB」を作成した。(表2)
(イ)ループは〔65〕n→〔46〕1→〔26〕3→〔27〕4→〔46〕N→〔32〕9999→〔23〕1→〔65〕nと構成される。
(ロ)アドレス部ゼロの〔32〕は必要なクロック数を得るために挿入したものであるから各レジスタの値に変化を与えない範囲であれば、他の命令でもよい。
(ハ)音色を同一にするために、「OFW」のパルスの周期を一定に保たねばならない。そのため、「OFW」させるための命令〔46〕は常にアドレス部の値を1としておいて、所要クロック数の制御は別に挿入した〔46〕で行うようにした。
 (プログラムAでは、音階毎に少しずつ音色は異なる)
(ニ)ループの一巡に要するクロック数は、N=1からN=99の範囲で295から395クロックの範囲となる。故に、「一点オクターヴ ロ」から「二点オクターヴ ホ」までの六種類の音を表すことが出来る。
(5)更に低い音を得るために「プログラムC」を作成した。
(イ)ループは〔65〕n→〔46〕1→〔26〕3→〔27〕4→〔40〕N1→〔41〕N2→〔40〕N3→〔46〕N4→〔32〕9999→〔23〕1→〔65〕nと構成される。
(ロ)N1~N4を変化させることにより、クロック数は350から1641まで変化する。
故に、「大字オクターヴ ロ」から「 二点オクターヴ #ハ・♭2 」までの27種類の音階の音を得ることが出来る。
S4105表2基本になるプログラムABC
表2.OKITACの『PROGRAM SHEET』に書いた基本になるプログラムA,B,C

(6)休止符のためのプログラム
 休止符は長さのみが必要である。然しそれを絶対的な長さで表す事はできない。
なぜなら、先に述べたように音の「長さ」は曲により「テンポ」で指示された任意の値をとる。
従って、休止符も音符と同時に同率の長さの変化を求められる。
故に、プログラムA,BあるいはCにおいて〔65〕のnを他のアドレスに求めてUAの「ゼロ」をセットすると、「OFW」しないので音はでない。そして、〔26〕の代わりに〔23〕を用いることにより、音符と同時に同率の長さを得ることが出来る。
休止符のプログラムにおいては、N及びN1~N4の値は、「一点オクターヴ イ」(440c/s)の標準音と同一値を用いた。
(7)プログラムA,B,Cによって、「大字オクターヴ ロ」から、「二点オクターヴ イ」までの35種類の音階の音を得ることが出来、これだけで大抵の曲はOKITAC5090電子計算機で演奏可能であるので、プログラムはこの三種類にとどめた。

以上で音の「高さ」と「長さ」を表すプログラムの作成が可能になった。
各プログラムは独立したループであるから、これらを「音のサブルーチン」と呼ぶことにする。例えば「一点イのサブルーチン」のように。

8.音のサブルーチンの種類
 必要な音階の「高さ」と「長さ」の全てをサブルーチン化するか、「高さ」のみサブルーチン化し、「長さ」はその都度必要に応じて変えるかにより、次の方法が考えられる。
(1)十六分または三十二分の短い音符のサブルーチンのみ作成して、他の音符はこれらの長さに換算して必要回数だけ同一サブルーチンへジャンプさせる。プログラムの語数は少なくて済むが、長い音符の場合は断続音なり、また、演奏プログラム作成の時、一個の音符毎に回数を指定しなければならない。
(2)高さと長さの両方を持ったサブルーチンを全て作成する。
演奏プログラムの作成が容易であり、長い音もなめらかに聞こえるが、プログラム語数が非常に長くなる。
(3)高さのみ表すサブルーチンを作成しておき、長さはサブルーチンに入るときに指定する。
プログラム語数は少なく長い音も滑らかになるが、演奏プログラム作成の時、音符一個毎に「長さ」を指定しなければならない。
 それぞれ一長一短があるが、音と音との不必要な時間をなるべく少なくするために、私は(2)の方法を採用した。
 音符は「十六分音符」から「全音符」まで「付点音符」を含んで九種類、音階は「小字オクターヴ ハ」から「二点オクターヴ ヘ」までの三十種類、計270個の「高さ」と「長さ」の異なる音と、九種類の休止符をサブルーチン化した。
そしてこれらのサブルーチンを格納する番地は、表3に示すように「高さ」を表す数字と「長さ」を表すアルファベットによりコード化した。
S4105表3音のサブルーチンのコード表
     表3.OKITACの『PROGRAM SHEET』に書いた音のサブルーチンのコード表

9.演奏の方法
 演奏は「音のサブルーチン」を順に並べて行うのではなく、279個のサブルーチンは表3に示すコ如く、数字と英字のコードに対応して整然とメモリーに格納されている。
そして、音符一個毎に「CALL SUBRUTINE」(機械語では「39 n 23 n」)の命令が与えられ、この命令を実行する事により演奏が行われる。
従って、ある楽曲を演奏するためには、音符及び休止符と同数のメモリー語数と演奏プログラムの準備のための若干の語数が必要である。
然し同時に数多くの曲を記憶し、メドレーで演奏することも可能である。

10.作成したプログラムの種類
 279個のサブルーチン(約2000語)の全てのプログラムをコーデイングし、紙テープなりパンチカードにあらわすには、相当の根気と労力を必要とし得策ではない。
そこで「音の高さ」のみをあらわすサブルーチンのみコーデイングし、残りはプログラムによって生成することにした。そのために、種々の補助プログラムが必要になる。
次に、それらについて説明する。
(1)音階メインプログラム
 「小字オクターヴ ハ」から「二点オクターヴ ヘ」までの音と休止符一個の計31個の音階のみで、「長さ」を含まないサブルーチン群よりなる。
(2)音のサブルーチン生成プログラム
 「音階メインプログラム」を基礎に残りの248個のサブルーチンを生成する。
この段階でもまだ「長さ」は表されていない。
(3)指定された演奏速度(Tempo)に、サブルーチンをセットするプログラム。
(略して「演奏速度(Temp)変更プログラム」)
演奏速度(Tempo)は、「♪=60」の如く示されるが、一分間に演奏すべき四分音符の数が決まると、十六分音符から全音符までの「長さ」は相対的に求める事が出来るので、それを計算して全てのサブルーチンに「音の長さ」を与えるためのプログラム。
(4)演奏用入力ルーチン
 全ての「音のサブルーチン」の格納番地はコード化されているので、そのコードを解読してCALL SUBRUTINE(「39 n 23 n」)に変換するプログラム。
(5)ローダー・プログラム(Loader Program)
  コンピュータのBootボタンを押して演奏プログラムを読み込む(Lord)ためのプログラム。
  当時のコンピュータは、Bootボタンを押して紙テープに記録されている最初の紙テープ読み込みのための一語(一語はLeft命令とRight命令の2命令)を読み込んで、その2命令によって次々と紙テープを読み込みながらプログラムを生成して、業務用プログラムの読み込み処理用のプログラムを生成していたのである。
  菜翁が旨さんが作成したこのローダーは、音楽演奏プログラムの読み込みに特化した簡便なローダーである。

11.結言
 以上で「OKITAC 5090M電子計算機により音楽を演奏するプログラム」の全貌を明らかにした。
この考え方はOKITAC 5090A~Hの全ての機種に適用できるのみか、増幅器とスピーカーを用いる事により他社の同期式電子計算機の全てについても適用し得るものである。
私は、ハードウエア上の改造を最小限にとどめ、且つそのままで電子計算機システムの機能を損なわない事を最大の条件としたために、「OFW(OVER FLOW)」パルスを用い「ALM(ALARM警報回路)」パッケージ基板と付属のスピーカーを用いた。

この方法の最大の特徴は、稼働中のバッチ・プログラムを停止させて音楽演奏用に改造した「ALM(ALARM警報回路)」パッケージ基板に差し替えるだけで、コンピュータの電源を切らずに演奏プログラムを読み込ませれば直ぐに演奏できるところにある。
演奏会が終了すれば、基板を差し替えるだけでそのまま、業務プログラムを走らせることができる。

「パルス」巾や波形ををいろいろ変化させれば種々の楽器に擬した音色の音を得ることが出来る。
又、もっと大出力の高級な増幅器を使用すれば良質の音を得られるのは当然の事である。

(筆者後日追記:梯郁太郎氏が1972年4月18日ローランド株式会社 (Roland Corporation)
を設立して、NEC-PC9801によるDTM電子楽器システムとして実現されて、シンセサイザー等の電子楽器の発展を遂げられたことは誠に嬉しく喜ばしいことである。)

メモリ番地割り当て表
   0番地~ 199番地…ローダー(プログラム読み込み用プログラム)
   200番地~ 254番地…音階コード→プログラム変換
   1900番地~1988番地…テンポ設定ポログラム
   1989番地~1999番地…音階連続テストプログラム
   2000番地~2216番地…音階メインプログラム
   2000番地~3952番地…全音階のサブルーチン
   3960番地~3999番地…全音階作成プログラム

コマンド   nL:演奏プログラム格納開始番地(ex 4000L)
     nT:テンポの指定(一分間に演奏する四分音符♪の数)(ex 60T)
     nnA~nnI:演奏する楽譜の音階コードを指定する(ex ドレミ=12A14A16A)
     S:音階コード読み込み後に,Lで指定された番地にJAMPしてHALTする



99.OKITAC5090M電子計算機による電子音楽演奏会の開催
   演奏会場は、当時、私がカストマー・エンジニアとして常駐していた安田信託銀行碑文谷事務センターにおいて随時、開催された。

   安田信託銀行碑文谷事務センターは、日本橋・本店にあった事務センターから新築・移設されたものであり、IBMのPCSやバロースの真空管式コンピュータなどとともに、OKITAC5090DやOKITAC5090Mも私たち沖電気の技術者を総動員して移設したものである。

   この新設された安田信託銀行碑文谷事務センターは、同行や取引先関係者のみならず、金融機関関係者や大蔵省や日銀関係者などの見学者が相次いでいたものである。

   これらの見学者の来訪のたびに、OKITAC5090Mの業務(当時のコンピュータはまだバッチ処理しか出来なかった)を中断して、見学者の目の前で、紙テープにパンチしていた演奏プログラムを読み込ませるところから始めて、次に、「君が代」、「荒城の月」や安田信託銀行のコマーシャル・ソングである「やっぱりヤスダ」などの演奏用紙テープを読み込ませて、最後に、コンピュータのスタート・ボタンを押して、これらの曲目を次々と自動的にメドレーで演奏させて、披露していた。

   時には、希望が有れば、見学者に音楽演奏のためにコンピュータのプログラム・スタート・ボタンを押してもらう事もあった。

   プログラムは磁気テープにも記録していたが、まだ電子計算機そのものが珍しく見たことがある人すら少なかった当時には、見学者にとっては、プログラムを紙テープで読み込ませるところから始める方が目に見えて分かりやすく面白いであろう、と、考えてのことであった。


             以上

あとがき
沖ビジネスマシン販売株式会社(OBM)は1957年3月,資本金450万円で設立された。全国に40余の営業所,サービス事務所を構え,事務機器の販売とアフターサービスに全力を尽くした。同社のサービスネットワークは国内である限り,どこへでも2時間以内にサービス担当者を派遣するというものだった。

 周辺機器に強かった沖電気は本体のコンピュータにかたよった考えをもたなかった。あくまでデータ処理システムの一部としてコンピュータを位置づけ,そのうえで本体の開発に乗り出したのであった。
端末機器との接続を前提に発想した沖電気の試作機OKITAC-5080は,小型・軽量のうえ,本体のスピードと出力装置高速ラインプリンタのバランスがよく,大変使いやすい設計になった。
1961年5月,試作機を商品化した中型コンピュータOKITAC-5090が完成,翌年には電子計算機事業部が発足した。

国産機では初のコアメモリを採用し,自社製のラインプリンタ,カードリーダ,パンチ,磁気テープなどを付属させたOKITAC-5090は,当時IBM社が日本に売り込んでいた1401に十分対抗できる性能を発揮した。
まず注目したのが大学だった。
文部省が国立大学のコンピュータ購入予算として,1校平均330万円の予算をつけたが,予算の範囲で学術研究用に最適なのがOKITAC-5090だった。
東京大学が購入し,つづいて京都大学,九州大学,小樽商科大学,神戸大学,横浜市立大学,電気通信大学などが採用し,文部省の当該予算の約80%を独占した。
このほか,日本光学,キヤノン,オリンパス光学に光学レンズ設計・事務計算用に納入したのをはじめ,太平洋炭礦,中興鉱業には給与・経理・資材関係用,パシフイック航業株式会社(現:株式会社パスコ)には航空測量・地図作製用に採用されていた。
また研究機関では,日本科学技術研究所,大阪工業技術試験所,理化学研究所など,自治体でも大田区役所などから受注があった。
OKITAC-5090は,A形につづき,磁気テープ装置をつけたC形,事務処理計算用にカードリーダおよびカードパンチを接続したB形,汎用システムとしてのD形とつつぎに発売された。1962年度から64年度の3年間に52機(システム)を売ったが,1機種でこれだけ売ったのは,国産機としては異例のことであった。

OKITAC-5090はメンテナンス態勢も充実したものであり、顧客の納入先にCE(Customer Eengineer)が常駐して、毎朝、顧客の利用に先立って電源を投入してメンテナンス・プログラムを走らせて異常のないことを確認して顧客に引き渡し、更に又、顧客の利用中の故障にも即応するという態勢で、時には、より効果的なコンピュータの利用法やプログラムに対する顧客の相談に応じたりして、OKITAC-5090コンピュータの利用促進にも寄与したりもしていた。

更に虎ノ門の森ビルの沖電気㈱本社内に設けられていたOKITAC5090コンピュータ専門のサービスセンターでは、ベテランのCEが常時待機して常駐先のCEからの応援要請に電話対応で解決できない場合にはすぐさま応援が派遣されるというものであった。又、このセンターに設置されているOKITAC5090コンピュータは、顧客がコンピュータの故障時には何時でも無料で利用することが出来る、というものであり、その上更に、顧客先で実際に発生した故障を疑似故障として発生させて、故障個所を探し出すという手法でCEの技術レベルの向上にも利用された。

OBM(沖ビジネスマシン販売㈱は)、1967年に沖電気工業株式会に設置されたデータ処理サービス本部へと発展的に解消された。(一部は 『沖電気社史「進取の精神 -- 沖電気120年のあゆみ」』 より転載)

ー 以上(改めて) ー


DTMステーション-500×331-画像で検索 PC-9801用のDTMシステムとして1989年に発売されたミュージ郎.
(DTM:DESK TOP MUSIC SYSTEM)

DTMのルーツ ミュージ郎: 藤本健のDTMステーション (広く使われているDTMという言葉が誕生したのは1988年のことでした。この年、ローランドが発売した「ミュージくん」という製品においてDTM=DESK TOP MUSIC SYSTEMという副題が付けられたのがスタートだったのです。)

その昔、DTMの代名詞的存在だったRolandのミュージ郎 : 藤本健のDTMステーション (PC-9801用のDTMシステムとして1989年に発売されたミュージ郎)

その昔、DTMの代名詞的存在だったRolandのミュージ郎。これは、以前「DTMのルーツ、1988年に登場したミュージくんの衝撃」という記事でも紹介したミュージくんの上位版として1989年に発売された製品。まさに「これさえあれば、すぐにパソコンを使って音楽制作がはじめられる」というハードとソフトを組み合わせたセット商品であり、当時としては革命的ともいえる高品位なサウンドを作り出せる製品だったのです。

Roland
商号 ローランド株式会社 (Roland Corporation)
設立 1972年4月18日

ローランド株式会社は、電子ピアノ、シンセサイザー、ギター関連製品、電子ドラム、デジタル録音機器、アンプなどの電子楽器や、デジタルミキサー、映像関連製品などの業務用機器を開発・製造し、トータルで音楽や映像によるベストソリューションをお客様に ...


デスクトップミュージック(wikipedia) より
DTMにおけるシーケンサーソフトのデータ入力方法 ・譜面入力:シーケンスソフトの画面上に表示される五線譜に音符や調号をマウスで貼り付けていく入力方法。
      初心者にも分かりやすいが、音の強弱やピッチベンドなど、細かいニュアンスの入力には適していない。
・数値入力:音の高さ、長さ、強弱等を数値にして、入力していく方法。
      初期のデジタルシーケンサーであるローランド MC-8で確立された入力方法で、その後のレコンポーザ等のシーケンサーソフトにも採用され、日本でDTMという言葉が普及する以前の「コンピューターミュージック」においては標準の入力形式であったと言える。
      MIDIデータそのものは本来数値データなので、現在でもほとんどのシーケンスソフトがエディットモードとしては備えている機能である。
      細かいニュアンスが出せるという特色があるものの、初心者には理解が難しいという欠点がある。
・ピアノロール入力:オルゴールのシリンダーや自動ピアノのピアノロールと同様の考え方でデータを入力する方法で、画面の左側に音の高さを表す鍵盤が表示され、画面右側に音の長さを表す横向きのバーでグラフィカルに音程・音の長さを表示する画面(縦軸を音程、横軸を時間とする方眼紙状の画面)において、譜面入力と同様に音符に相当するデータを置いていく方法。
     音の発声開始タイミングや発声持続時間を「音符」という単位に囚われずに入力していくことができるが、鍵盤に慣れていない人にはわかりづらいという欠点がある。
     同様の入力方式に、発声開始タイミングだけを指定する「マトリックス入力」がある。
     これはローランドTRシリーズなどのリズムマシンに起源を発する入力方式で、持続時間を指定する必要のないドラムやパーカッション音源、1ショット(ループしない)サンプリング波形の再生などに使用するデータの入力に向いている。


沖電気における計算機開発の歴史(情報処理学会 1978年5月(Vol.19 No.5)杉浦宜紀・松下温)



著者注0. 若し、この時代に、プログラム著作権があれば、この考え方を法律的に整備して、電子音楽の基本特許を取得して、世界中の電子楽器メーカーなどからの特許料収入でいまごろは・・・と、「獲らぬ狸の皮算用」を楽しんでいる。
  (1981年1月米国の著作権法が改正された。 今までなかったコンピュータ・ソフトウエアの著作権条項を追加したのだ。 この改正の前まではソフトウエア著作権はあまり意識されていなかった。
 1982年6月23日に突然のニュースとして伝えられた、日本のトップメーカーである日立製作所と三菱電機の技術者がIBM3081-K(新しいOSであるMVS/SPの一部をファームウェア化し、OSコードの解析をしにくくする策を講じた。)の機密情報を盗んだとしてFBIに逮捕されたのだ。後ろ手に手錠された技術者の写真が大きく報道された。
 1982年10月に富士通はIBMから著作権侵害の通告をうけた。 それは長い長いIBMとの著作権紛争の始まりだった。紛争はAAA: American Arbitration Association(米国仲裁協会)に持ち込まれ、 1988年に決着するまで実に7年の歳月がかかった。)
IBMからの脱出:こうして戦った VOS3/ES1の開発 [激闘の13ヶ月]元日立製作所  吉澤 康文

ちかごろおもうことのなかには、Webの世界って、パクリの世界だなぁ~って、つくづく思える世界ですねえ~。

当時、同僚の間では、 ラインプリンタによる万年カレンダーのプリントや、モナリザなどの絵画をプログラムを作成して印刷することがは流行っていた。
おそらくは、IBMはじめ、コンピュータメーカー各社のエンジニアの間で流行っていたものであろう。
OKITACコンピュータも例外ではなかったのであろう。

こんな一見、遊びのようなことをしておれば、NECのパソコンが閏年の間違いを起こすようなこともなかったかも・・・と、思える。

これらの人々のなかにあって、菜翁が旨いさんは、まだ誰もが手をつけていない分野に挑戦したかったのであった。

いやいや、Webの世界だけでなく、現実の世界すら、パクリだけでなく、仮想、否、幻想の世界のようにさえ思えます。
テレビ界隈の世界が生まれたときのままの幼稚な世界からまだまだまだ脱却・脱皮できていない大きな裏の一面でしょうね。

著者注1. 当時は、IBM以下内外のコンピュータメーカーのラインプリンタの印字方式は全て活字ドラム式であったが、沖電気は唯一活字タイプベルト式という独自の方式であった。
これは、ステイールのベルトに数字・英字・カナ文字の活字をはめ込んで、各活字の下には、小さな穴が設けられており、又、群の最初の活字の下にはホームポジション用の穴が設けられてこれらをの穴を磁気センサーで検出してラインプリンタ制御部のカウンタをカウントして印字する文字を判定するようになっている。

この活字ベルトには、学術用として英数(アルファベットと数字)と特殊文字だけのものと、事務処理用としてこれにカナ文字を加えたものがあった。
前者には、さらに英文字は大文字だけのものと、小文字を含んだものがあった。

さらに、ラインプリンタには、1ライン(1行)が120字のものと132字のものがあった。
ラインプリンタの性能を現す一つに、一分間の印刷速度はxxライン(行)という表現が使われていた。
これは、一分間に印字できる120文字または132文字の行数を示している。
沖電気の最初のラインプリンタは1分間で600行の印字速度を実現させていたのであった。

勿論、一行に印字する文字の組み合わせによって、大幅にこの1分間に印字できる速度は変わることになる。

最速で印字できるのは、活字ベルトの文字の並び順のままのときである。
なぜならば、同時に一行のすべての文字を印字できるからである。
最も遅いのは、一行全部に同じ文字を印字するときである。
なぜならば、ベルト上の活字が、ベルトの回転に従って一文字分ずつ隣の印字位置までずれなければ印字できないからである。

活字ベルトには、装着する活字グループが複数グループ装着されている。
グループ数が最も多い活字ベルトは、大文字英数(アルファベットと数字)と特殊文字だけのものであり、最も少ない活字ベルトはカナ文字を含んだものである。

グループ数が多い活字ベルトでは、1行である120字または132文字のなかに含まれるグループ数が多いので、印字速度がもっとも速く、カナ文字を含んだものは最も少ないので、印字速度も当然のごとく遅くなる。

活字ベルトの活字穴のセンサーとしてフォト・セルによる光電検知方式であったが、ベルトは定期点検時には活字ごと洗浄槽に入れて、アセトン系の洗浄液でブラシでこすりながら洗浄して、洗浄後は薄く油を塗ってふき取っていたが、プリント時に印字リボンや連続用紙のチリ埃で活字穴が汚れてふさがれて小さくなって、誤印字することがよくあって、常駐CE泣かせであった。。
その後磁気センサー方式に改良されてからは、このような誤印字は無くなった。


ドラム式のラインプリンタの印字出力は横一行に印字した文字の一字ずつがすこしずつ上下にぶれる欠点があって、読みづらいものであった。
これに比べて沖のベルト式では文字が上下にぶれることがないので、ラインプリンタの印字出力は読みやすいのが大きな特徴であった。
また、ドラム式では活字が摩耗すれば活字ドラム全体を交換しなければならなかった。
これに比し、沖電気のタイプベルト式であれば、数字など良く使う摩耗した活字を一個単位で交換するだけでよかったのでコストパフォーマンスにも勝れていた。
しかも、活字の交換はカストマー常駐CEが手待ち時間を利用して簡単に交換できるという利点さえある。

フライングベルト型とは,活字を連続的に移動させ,印字ハンマーをタイミングパルスで駆動する制御方式であり,当時 多くのラインプリンタが採用していたマルチホイール式では1行の文字数分に相当する活字の組が必要だが,フライングベルト式では活字の組は1〜2セットで構成できるという利点があった.
コンピュータ博物館(社団法人情報処理学会)


著者注2. OKITAC5090は、磁気ドラム記憶装置が主流であった主記憶装置に、日本で最初に磁気コアを全面的に採用したトランジスタ式電子計算機である。
磁気コアは動作を安定させるために恒温装置のなかに収容されていた。
磁気コアの1スタックは1024語、2048語又は4096語であった。
 ちなみに、OKITAC5090はワードマシンで、一語はデータ48ビット、符号1ビット、パリテイが1ビットで計50ビットであった。
機械語の命令は、1・1/2番地方式と呼ばれる方式で、数値2桁で8ビット、アドレス部は数値4桁で16ビットで構成されて、一語を左右に分けて2命令が入るようになっていた。
我が国で最初に内部記憶として全面的に磁心記憶(コアメモリ)を採用したOKITAC5090は,1961年に完成したが,その前年の1960年にプロトタイプとして,OKITAC5080を開発した.OKITAC5080は当時,国産機種のほとんどが磁気ドラムベースであった主記憶装置に磁心記憶(コアメモリ)を用い,スタティック回路方式を採用したトランジスタ型のコンピュータであった.入出力装置の多重化を取りやめて直列式とし,磁気コアの高速性を活かして回路を単純化し,高速,高信頼性化を図った.OKITAC5080の開発の成果はOKITAC5090に反映された.
コンピュータ博物館(社団法人情報処理学会)



著者注3. 沖ビジネスマシン販売(株)(OBM)は、沖電気工業株式会社の100%子会社として1957年 3月に設立され、OKITAC5090電子計算組織やテレタイプ、さん孔タイプ機器の販売・サービスを中心業務としていたが、1967年 4月に沖電気工業株式会社に合併した。
株式会社沖電気カスタマアドテック(OCA)会社沿革(前身は沖ビジネスマシン販売株式会社)

著者注4. OKITAC5090は、高尾山の麓に新設された沖電気の最新鋭の半導体工場である八王子工場で設計・製造されていた。
八王子工場は、中央線(東京~高尾間を走る電車は、中央本線とは呼ばれていなかった。)高尾駅から通勤していた。
この近くの中央線には、時刻表には載っていない、そして決して切符を買うことなどの出来ない東淺川駅があった。

ご存知の通り、原宿駅宮廷ホーム~皇室専用駅・東淺川駅間ノンストップのお召し列車の終着駅であった。
ここには、多摩御陵があった。
東浅川駅(ひがしあさかわえき)とは東京都八王子市にあった日本国有鉄道中央本線の駅。正式には東浅川仮停車場(-かりていしゃじょう)と称した

この八王子工場は、1Fでトランジスタや抵抗器などの素子を女の子が手作業でパッケージ基盤に半田付けしたりしていた。

2Fには、OKITAC5090A~DシリーズとOKITAC5090Mの開発・設計していた技術課(藤井課長)と、OKITAC5090Hを設計・開発していた開発係(安楽係長)があった。

私は、開発係であった。
OKIのあゆみ1946年-1970年:社史「進取の精神 -- 沖電気120年のあゆみ」」
   1961年 トランジスタ式電子計算機「OKITAC-5090システム」を発売
        東京都八王子市に半導体工場開設、トランジスタの生産開始

       1958年には,ベルト式ラインプリンタ,光電式テープリーダ,万能入出力装置なども完成させている。
      ラインプリンタは,IBM社の担当者をも驚かせる技術の成果だった。
      1文字ずつ印字するシリアルプリンタと違い,ラインプリンタは1行単位の高速印字機だが,当時はまだ活字をドラム上に配したドラム式が主流だった。
       沖電気の技術陣は,いち早く活字をベルト上に配列したベルト式を開発したのである。
      1分間に600行を印字し,ドラム式と比べて印字が上下に躍る欠点がないのが特徴であった。
      活字が横に走行するプリンタはIBM社でもいまだ開発中であり,同社は沖電気の開発力を評価して共同研究を申し入れてきた。
      当時すでに世界最大のコンピュータメーカーだったIBM社から,研究開発費40万ドルを提供してまで共同開発したいとの申し入れは,沖電気にしてみれば「してやったり」の思いだったろう。
       IBM社との共同試作の契約は約3年間つづいたが,互いに得意な分野の技術を交換し,共同試作して性能をチェックするという形で進められた。             共同開発期間中,沖電気はラインプリンタを市販できないという制約を受けたが,IBM社の徹底した品質管理やコンピュータのノウハウを学ぶことができた。
      沖電気のラインプリンタは,IBM社に注目されただけではなく,1959年にパリで開かれた 国際情報処理学会 の第1回展示会Automath-’59に出品され,その斬新な機構,正確な作動,高速性が国際的な注目を集めた。

        端末機器との接続を前提に発想した沖電気の試作機OKITAC-5080は,小型・軽量のうえ,本体のスピードと出力装置高速ラインプリンタのバランスがよく,大変使いやすい設計になった。
       1961年5月,試作機を商品化した中型コンピュータOKITAC-5090が完成,翌年には電子計算機事業部が発足した。
      国産機では初のコアメモリを採用し,自社製のラインプリンタ,カーリーダ,パンチ,磁気テープなどを付属させたOKITAC-5090は,当時IBM社が日本に売り込んでいた1401に十分対抗できる性能を発揮した。
      まず注目したのが大学だった。文部省が国立大学のコンピュータ購入予算として,1校平均330万円の予算をつけたが,予算の範囲で学術研究用に最適なのがOKITAC-5090だった。
      東京大学が購入し,つづいて京都大学,九州大学,小樽商科大学,神戸大学,横浜市立大学,電気通信大学などが採用し,文部省の当該予算の約80%を独占した。
       このほか,日本光学,キヤノン,オリンパス光学に光学レンズ設計・事務計算用に納入したのをはじめ,太平洋炭礦,中興鉱業には給与・経理・資材関係用,パシフィック航業には航空測量・地図作製用に採用されている。
      また研究機関では,日本科学技術研究所,大阪工業技術試験所,理化学研究所など,自治体でも大田区役所などから受注があった。
       OKITAC-5090は,A形につづき,磁気テープ装置をつけたC形,事務処理計算用にカードリーダおよびカードパンチを接続したB形,汎用システムとしてのD形とつぎつぎに発売された。
      1962年度から64年度の3年間に52機(システム)を売ったが,1機種でこれだけ売ったのは,国産機としては異例のことであった。

   1963年  米スペリーランド社と沖ユニバック株式会社設立
      スペリーランド社は,1927年にタイプライタなど事務機器メーカーとして設立したレミントンランド社と,33年設立の計器メーカーであるスペリー社が,戦後の55年に合併した歴史の浅い会社だった。
     だが,世界最初のコンピュータENIACをつくったエッカート,モークリー両博士の会社を買収し,商業用コンピュータとして世界初のUNIVAC􌑿を完成させた実力のあるコンピュータメーカーであった。
      1962年にはコンピュータ部門をユニバック・デビジョンとして独立させたばかりで,高いハードウェア技術をもち,オンラインや技術計算に強みをみせていた。
     日本国内でも,三井物産との合弁で日本レミントンユニバック(日本ユニバックの前身)を設立して自社のコンピュータを輸入販売しており,IBM社についで2位の市場占有率をもっていた。
     交渉は難航した。沖電気は技術提携を主張したのだが,海外進出に積極的なスペリーランド社は共同出資による合弁会社設立を求めて譲らなかった。           コンピュータの特許・技術ノウハウを提供するが,そのかわりユニバック・ブランドのコンピュータを生産したいというのである。
     沖電気首脳陣にとっては思案のしどころであった。技術提携の主張を譲らなければ交渉は決裂し,大型コンピュータへの進出は断念しなければならないかもしれない。
     相手に譲れば大型コンピュータはできるが,沖電気のブランドは認められない。
     とはいえ,ユニバックのコンピュータは国内でも大きなシェアを誇っている。
     とりわけ沖電気側の注意をひいたのは,金融機関のオンラインに強く,金融関係だけでみればIBM社をしのいでトップのシェアを占めていることであった。
      金融機関に強いのは,沖電気の端末機器も同様であった。
     テレタイプからオキタイパ,オキデックスと,金融機関の端末は沖電気製品が占めているといえるほどだった。
     合弁会社の道を選べば,オンラインの本体はユニバックの大型コンピュータ,接続する周辺機器は沖電気製品という売り込み方がある。
     熟慮の結果,沖電気のトップは名を捨てて実を取る決断をした。

     (この辺りの事情が菜翁が旨さんが、OBM(後の沖電気工業㈱)を退職してNEC日本電気㈱に入社した大きな理由であった。)

 データ処理機器の業界は,通信機器メーカーはもとより事務機器メーカーなども加わって競争相手も多く,日進月歩で付加価値を高めた新機種が登場する激烈な世界であった。
沖電気のさん孔タイプライタが人気を博しているのをみるや,事務機器メーカーが即座に競争に割り込んできた。
お手の物の事務用タイプライタにテープ作成,読み取り機能を加えた対抗機種を売り出したのである。国内だけでなく,アメリカのフリーデン社も事務合理化とデータ電送の自動処理をキャッチフレーズに,フレクソライタという機種を売り込んできた。
競争を受けて立った沖電気は,これらの対抗機種を圧倒する新機種として,さん孔
タイプライタを小型化する研究を進め,新たに開発したのが1961年6月に発売した電
動タイプライタ「オキタイパ2000」であった。
同機は,帳票類を発行しながらさん孔紙テープを作成するタイプライタで,印字,けん盤,読み取り,さん孔,制御の5部で構成され,印字速度は1分間に500字の能力を有した。その設計などに携わった当時の関係者が,つぎのように思い出を語っている。

さん孔タイプライタは非常に大きかったので,テープリーダ,パンチも専用に小さいものを設計して本体の横に取り付け,プリンタも小型化したわけです。
案外難しかったのがプリンタのタブ機構でした。文字の間隔が2.54㎜ですから,その間でぴたっとメカで止めるのが難しく,一番最後まで手こずった記憶があります。
 高崎工場苦心の傑作は,ワンタッチ方式で操作が簡単なうえ,小型・軽量のため,役所や銀行の窓口に設置でき,ユーザーにも好評だった。
とくに,労働省,社会保険庁などの官庁,金融機関やNHKなど大量の事務処理が必要で,正確な印字,伝送,記録が求められるユーザーから歓迎され,大量の受注を獲得することができた。
また,コンピュータに直接インプットできるので,コンピュータの普及につれて入出力装置として多方面に利用された。
オキタイパはシリーズ化され,このあとさらに超小型コンピュータを内蔵するとともに,会計機,伝票発行機の機能をもたせるなどの改良を加えた結果,沖電気のテレタイプ関係品目のなかでは,トップの販売実績を占める花形商品に育っていった。
(以上 社史より転載)


このころの都心部では、東京オリンピックで賑わっていたが、山梨県に近い八王子は、全くその気配すら感じられなかった。

もっとも、テレタイプの保守を担当していた連中は、オリムピック会場には仕事で出入り自由であったが、彼らも多忙でオリムピックなんぞには、興味を持っていなかったようであった。

昨今の、オリムピック騒ぎがまるでウソのようである。

勿論、テレビなんぞ見る暇も無いほど活気にあふれて、連徹しなければならないほどに兎に角、忙しかったのだ。

このころは、中央線武蔵野駅の北側にある、横河電機の元独身社員寮であった、千草荘に住んでいた。
ここでは、バラエテイーに富んだ住人達に出会った。

夜の新宿・歌舞伎町に男五人で繰り出して、女四人のグループにナンパされてアパートに誘われたが、ペアを組めない誰か一人を犠牲にすることに忍びなかったので、女四人のグループとはそのまま分かれてことなきをえた。

(素人は怖いと考える(後ろ盾とかやばい病気等々々・・・)ことが、君子危うきに近寄らず、というわけである)

昼間は駅南の寝具店で働いて、夜はバーに勤めている同じアパートの女の子の店に出かけたが、『この店は(値段が)高いからこのビール一本だけ飲んで、直ぐに帰りなさい。』と男五人グループが諭されて素直に帰ったり。

隣の部屋の一橋大・経済学部の学生さんが、その隣が若い管理人さん夫婦の部屋の物音や人声に悩まされて、卒論の執筆がなかなか進まない、とこぼしていたり…

向かいの部屋の津田塾大に通っている広島の酒屋の美人の娘さんで美人の女子大生などを呼んで、ドンファンの同僚の部屋で怪しげなカクテルを飲まされたり・・・

千草荘の近くにバーが新装開店したので、挨拶に、と、つっかけを履いて出かけて、男五人でビール一本を分け合ってママに開店を祝ったり・・・

その後一人で通って静かにカウンタで飲んでいたある夜、「女の子」に二人旅に誘われたり・・・

千草荘の近くにある飲み屋風の店で遅くに飲んでいると、もうすこしで「かんばん」だから、待っててね、といわれて、かんばんごに近くの旅館に連れ込まれて・・・
床ふとんの上だかでは飽き足らず、こんどーむを洗濯(?)して檜の湯船の中でまでせくすったり・・・
『おばさぁ~ん、部屋空いてる?』と聞いていたから、常連さんだったらしい。

休日には、千草荘に備え付けてある二層式洗濯機で、住人の女の子がパンティ~などを洗濯したあとの洗濯機で菜翁が旨さんがパンツなどを洗濯して、女の子のパンテーと菜翁が旨さんのパンツが触れ合うほどの狭い洗濯ロープの隣に干したり…

二階の洗濯物干し場で女の子が干しているときに、隙間を空けて板が張ってある洗濯物干し場をなにげなく見上げたり…

みんな、のぞきとか、せくはらとか、陰湿なおもむきなぞ、誰一人なかったものだ。

ときには、高尾山へ管理人夫婦や住人たちでピクニックに出かけて、フォークダンスに興じたり…

あっけらかんとした雰囲気のなかで、仲良く暮らしていた。

この木造の千草荘アパートの住人は、菜翁が旨さんにとっては、多忙な仕事の合間を縫った青春の思い出を詰め込んでもらった懐かしい人たちばかりであった。

OKITAC5090の安田信託銀行での思い出 :OKITAC5090により音楽演奏を実演していたのは、日本橋から目黒・碑文谷に移転した安田信託銀行の新設の事務センターで,OKITAC5090の後継機のOKITAC5090Mであった。
 同行や日銀,大蔵省などの"えらいひと達"が訪れた時に,息抜きに,と,バッチ業務を止めてセンターの管理者から依頼されて,菜翁が旨さんが演奏を披露していた。
 曲目は日本を代表する名曲「さくらさくら」や「荒城の月」を始め、安田信託銀行のCMソングの「やっぱりやすだ」などを中心に、楽譜が手に入るものなら大抵のものは演奏できた。
 その隣では、IBMのP.C.S.(パンチカード・システム)やBurroughs Corporationの真空管式電子計算機がガチャガチャと音をたてて、伴奏(?)をしてくれていた、懐かしい想い出がある。

当時のバロースのコンピュータは高千穂交易が取り扱っていた。

目黒・碑文谷に移転する前の安田信託銀行の計算センターの近くには日本橋・白木屋があった。
その交差点の角には裸婦像が建っていた。

酔って夜の間に、裸婦像(エミール・グレコ作「浴みする女」高さ2.16mのブロンズ像)の逆トライアングル・ゾーンにたわしを貼り付けり・・・悪戯をしたりもしたものだ。
安田信託銀行㈱:昭和39年(1964)3月OKITAC5090M型電子計算機一セット導入、昭和40年(1965)12月13日目黒区碑文谷に事務センター開設:『安田信託銀行六〇年のあゆみ』(1986.03)より


OKITAC5090の旺文社での思い出 :新宿区横寺町にあった旺文社が、道路を挟んだ向かいの車庫の上の建屋に「日本電子頭脳センター」を設立して,大学受験針路指導用コンピュータとしてOKITAC5090C(磁気テープシステム)を導入した。
その折に、英検(実用英語検定試験)の採点をコンピュータで行おうとして,バローズ・コンピュータ(高千穂交易Burroughs Corporation)のプログラマーから転籍したS氏が担当していた。
ところがS氏は検定試験日を残り一週間ほどに控えて,プログラムが間に合わない事を同センターの社長の申し出た。
社長は旺文社社長の赤尾好夫氏はじめ幹部と必死で協議したが,今更中止できない,ということで大変困惑されていた。
その場に居合わせた著者が,OKITACの名誉にかけてなんとかしましょう,と申し出て,プログラムを作成することにした。

機械語やアッセンブラー言語を交えて,分散・偏差等の統計用プログラムは沖電気のサブルーチンを使用して、数日間、コンピュータの筐体の上で仮眠をとりながらの徹夜をしたりして,検定試験当日の日曜日の朝日が登る頃に漸く、全てのプログラムが完成した。

最初に都内の試験場からの解答用紙が到着すると,キーパンチャーのM嬢を筆頭に数名のパンチャーが必死で電動タイプライタのオキタイパーのキーを叩いて紙テープを打ち出した。
それを筆者がPTR(紙テープリーダー)にかけて,磁気テープにデータを落としてゆく。
狭い室内はOKIタイパー(電動タイプライター)のにぎわしい騒音と打ちだされた紙テープで足の踏み場もない戦場のような有様であった。

パンチ漏れや重複パンチがあれば,磁気テープのマージ・ソートや受験地コードと受験番号と受験者数データと照合して発見できるようにするなどのサポートプログラムを作って完全を期していた。

受験者の採点結果や各種統計データがラインプリンタから打ち出されて,旺文社を経て英検の事務局に提出された時には、待っていた睡魔が襲ってきた。

この時、 日本電子頭脳センター のコンピュータ室ではリーダーの増子さんはじめ、3人のキーパンチャーの女性が働いていたが、この女性たちの正確で迅速な仕事力のお陰であってこその成果でもあった。
彼女たちの働きぶりは、今でもまぶたに残っていて、忘れられずにはいられない。

このときの経験を参考にされたのかどうかはともかく,英検ではいち早くマークシートが導入されたようである。
お礼に,赤尾好夫氏(1907-1985 旺文社社長、テレビ朝日名誉会長、文化放送会長)の実家が経営する山梨県勝沼(石和)のぶどう園への旺文社の社員旅行に招待して頂いたのは,懐かしい思い出である。
大学入試突破法・診断  旺文社日本電子頭脳センター [著]

マンガルポ 日本電子頭脳センターをたずねて 旺文社(中一時代 9(3)1964-06 P252)

『赤尾の豆単』(復刻版)著者:赤尾好夫

OKITAC5090の横浜市立大学での思い出 :京浜「金沢八景」にあった横浜市立大学で、OKITAC5090での横浜市の水道料金の受託計算を行なっていた頃である。
毎朝,電源オンして磁気コア製の主記憶装置のチェックプログラムを走らせているときに,パリテイ・エラーが出る事がある、という報告が入った。
数回チェック・プログラムを走らせて,エラーが出なくなると、その日は一日中異常なく稼動する,ということであった。
横浜市立大学に常駐しているCE(カストマ・エンジニア)などが、いろいろ調べてみても、原因を検出することががなかなか出来なかった。
その情報をキャッチした,筆者は西荻窪の社員寮から金沢八景の横浜市立大学の電算センターの業務開始時間に間に合うように,毎朝通って,著者自らがシンクロスコープでコンピュータの前日の故障原因追跡箇所をクリップしてから,OKITAC5090の電源オンを行なって,パリテイ・エラーが発生する極短時間の間に考えられる原因箇所を毎日少しずつ絞り込みながら追跡して,数週間かかってOKITAC5090の心臓部でそして我国で最初というセールス・ポイントであった磁気メモリー・コアスタック内の磁気コアの一つが不良であることを突き止めた。
毎朝の恒温槽内の温度の低い短時間の間だけわずかに出力の低いコアがあって,それがメイン・メモリーである磁気コア出力のパリテイ・エラーを起していたことが原因であることを突き止めた。
高価な磁気コアの恒温槽一式を無償で交換したのは,いうまでもない。
買取やリースなら、有償交換であるが、高価なコンピュータのレンタル制度の特徴であった。
(当時は、国産電子計算機メーカー各社の体力育成のために、納入先が決まると、電子計算機をJECCが買い取ってレンタルしていた。)
横浜市立大学 金沢八景キャンパス

当時は、岩崎通信機製の二現象のシンクロスコープを使いこなしていたが、トリガー・ポイントをしっかり把握して使いこなせなければ、宝の持ち腐れである。

道具は、いくら立派なものをもっていても、使用する対象物についての知識もそれに見合うものでなければ、宝の持ち腐れといえるのである。

OKITAC5090のカメラ業界の思い出 :OKITAC5090はオール・トランジスタ式で,且つ日本最初の磁気コア・メモリという事で計算スピードが早く,その上事務系のアッセンブラ言語だけでなく,ALGOL,FORTRAN系の言語やそれらで使えるササブルーチンが充実していたために,ニコン(日本光学),オリンパス光学,コニカ(小西六カメラ工業),カメ工(カメラ工業会)など当時の日本の精密工業の先端部門で活躍していた。
筆者もこれらの企業・団体を定期点検で巡回・訪問して,当時の日本の最先端技術の一つに触れる機会を持つ事が出来た懐かしい思い出を持つ一人である。

OKITAC5090の東京大学海の洋研究所思い出 :東京・中野にあった”東大海洋研”には、会津若松の若松工業出身の、東北弁丸出しの五十嵐君がCEで常駐していて、虎ノ門の森ビルにあった、センターに勤務していた時に、東大海洋研のOKITAC5090の定期保守の時に、よく訪れていた。
(東京大学海洋研究所(とうきょうだいがくかいようけんきゅうじょ、英: Ocean Research Institute The University of Tokyo、略称:ORI または海洋研)は、東京大学の附置研究所の一つであり、全国共同利用研究所として設置されていた。海洋学に関する研究が行われていた。
・東京大学中野キャンパス内の東京大学教育学部附属中等教育学校に隣接する場所にあった。)

OKITAC5090の専修大学での思い出 :定期保守のために筆者が,専修大学を訪れた時,丁度OKITAC5090を使っていた教授が「プログラムを作れば,OKITAC5090は簡単に電話の交換機にもなるんだよ。つまり,電子交換機になるんだよ。」ということを教えてもらったことは、クロスバ交換機が主流であった当時は聞き流していた言葉であったが、電子交換機が世に出始めた時に初めて、鮮烈に耳に甦った言葉であった。
そして,このおかげで,今でもこのアカデミックな新鮮な思い出に時折,浸ることができるのである。

そのせいかどうかはわからないが、定年少し前には、理化学研究所に出向して、 Spring-8 の建設・運用にかかわることが出来たのである。
堺の砒素入りカレー事件の鑑定に訪れておられた中井教授ともお話する機会を得たものである。


専修大学における情報教育とその支援環境

古典的コンピュータOKITAC5090について  専修大学:齋藤 雄志 《net_info_no9_02 (84.1KB) [ 138 downloads ] 》

情報教育の原点支えたOKITAC - 5090 製造元・沖電気工業が見学 2017.11.09(THU)

鉄筋コンクリートのスラブの曲げクリープ解法  山崎徳也(正会員工博九州大学教授工学部土木工学教室) 彦坂熙(正会員九州大学講師工学部土木工学教室)(土木学会論文報告集 第167号・1969年7月 より)抜粋
「終わりに 本論文の数値計算には東京大学大型計算機センターのHITAC5020E及び本学中央計算施設のOKITAC5090Hを使用したことを付記する。」

外圧を受ける円筒殻の弾塑性変形について(その1) 正員本間康之(東京大学教養学部)(昭和42年5月造船協会春季講演会において講演 より)抜粋
「計算機はOKITAC5090(プログラミングに使用できる記憶装置の容量は2,800)を使用し,級数の項数は収敏の程度によつて変え最大80項までとることができた。」


「電動刈払機のたわみ固有振動数(第4報)」 【科学技術情報発信・流通総合システム(国立研究開発法人科学技術振興機構 (JST))(J-STAGE)】投稿論文 小泉武紀(神戸大学農学部)より)抜粋
「なお,本研究における計算は神戸大学計算機センタのOKITAC-5090および京都大学大型計算ゼンタのFACOM230-60を用いて行なった」

「OKITAC-5090 C Machine codeによるフーリエ求和プログラミング」安岡 則武 大阪工業技術試験所季報 / 工業技術院大阪工業技術試験所 編 Year of Publication:1965-10

「OKITAC-5090による衆議院議員選挙予測について」山本 欣子 沖電気時報 / 沖電気工業株式会社 編 )Year of Publication:1964-02

「OKITAC-5090 トランジスタカード(本資料はOKITAC-5090の1号機のOR回路基板である)」国立産業技術博物館 産業技術資料情報センター(東京農工大学 繊維博物館所蔵) )

「総合情報基盤センター・デジタル・アーカイブスとデジタル・ミュージアム 」総合情報基盤センター 教授 高井 正三 
OKITAC 5090 システム関係のマニュアルでは,以下を残したい(図1.2).
1)OKI-PAL 解説書
2)OKITAC 5090 INSTRUCTION MANUAL
3)OKITAC-5090 OKI SAP by PAPER TAPE
4)OKITAC-5090 OKI SIP
・図1.2 OKITAC 5090 命令・言語関係マニュアル
・写真4.2 OKITAC 5090-C のコア・メモリ他


「日本の宇宙開発の父 糸川秀夫 生誕100年記念サイト 」特別寄稿 糸川先生のこと 松尾弘毅
さて、私が生研に居た2年間は、電算機の導入前夜から導入初期にかけてであった。この間、OKITAC 5090が導入され、3次元6自由度の軌道計算プログラムが整備されて、それまで不可能であった正確な軌道計算ができるようになった。ただ何としても演算速度が遅いので、10分程度の実飛行時間に対する計算に5〜6時間を要し、専有時間を確保するためまたぞろ徹夜の連続となった。さて、私が生研に居た2年間は、電算機の導入前夜から導入初期にかけてであった。

「HPCの歩み50年(第1回)-1964年(a)-(7月 14, 2014)」小柳 義夫 (高度情報科学技術研究機構)
この年、筆者は理学部物理学科の3年生であったが、初めてコンピュータに触った。物理学教室のあった理学部1号館(旧館)の1階にいつの頃からか「データ処理センター」があり、そこのOKITAC 5090(トランジスタ方式、コアメモリ、1語50ビット、十進法、出荷1961年)を使った。なぜ50ビットかというと、十進法1桁を4ビットで表すので12桁で48ビット、それに符号1ビットとパリティ1ビットという訳である。浮動小数は、指数が十進2桁(50の下駄履き)、仮数が10桁であった。

後藤英一先生の授業の一部に、清水留三郎先生がやってきて、OKISIPというアセンブリ言語を習い、プログラムを学んだ。入力媒体は紙テープであった。問題は勝手に考えろ、というので、よく覚えていないが4次の内挿のテーブルを作ったような気がする。自慢ではないが、筆者の第1言語はアセンブリ言語であり、その後同じコンピュータでALGOLIPというアルゴル風の言語を使った。これが第2言語である。FortranはOKITAC 5090ではサポートされておらず、HITAC 5020で初めて使ったので第3言語にあたる。今から思えば、このときコンピュータなるものに触れたのが筆者の運命を決めたのかも知れない。

「『情報基盤センターファクトブックⅡ』(沿革・構成編)(沿革・構成編)」 -神戸大学情報基盤センター
計算センターは,本学における研究,教育,事務に関する計算機利用を支援する学内共同利用施設として,昭和39(1964)年4月文部省令に基づき設置された。
・昭和39(1964)年 9月 計算センター建物(現分館)完成
・ 同 10 月 OKITAC-5090 1 号機稼動開始
・昭和42(1967)年11 月 OKITAC-5090 2 号機稼働開始
・昭和47(1972)年5月 FACOM230-35 稼働開始

「電子計算機 ( OKITAC-5090 ) による適用業務の研究 : そのシステム及びプログラムについて」
出版者: 九州産業大学産業経営研究所
著者: 渡部榮 九州産業大学経営学部
発行日: 1966年3月
出版者: 九州産業大学産業経営研究所

「アーカイブ室新聞 (2010年3月9日 第294号)」
国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室 中桐正夫

筆者が1966年に三鷹の東京天文台に転勤した後、岡山大学の電子計算機は岡山天体物理観測としてはほとんど使われなかったと記憶している。三鷹には1966年、人工衛星国内計算施設という組織が出来て、OKITAC5090という電子計算機が導入された。その頃の電子計算機の入力媒体が紙テープであった。
今の研究者は、計算機の媒体としての紙テープなどの存在すら知らないであろう。この紙テープには鑽孔器で穴をあけ、それを光電管で読み取るようになっていたから穴を見れば読み取ることが出来た。現在のHDなどどう眺めてもそのデータを読み取ることはできないが、肉眼でも紙テープ上に打ち込まれたデータが読めたのである。

「総合情報処理センター」富山大学計算センター
昭和40(1965)年に「富山大学計算センター」が発足してからの最初の12年間は、世に先駆けて大学がコンピュータ社会をリードしてきた時代であり、田中センター長が全精力を注ぎ込んで富山大学を世界のコンピュータ社会へと導いた時代であった。
沖電気製OKITAC 5090―C型コンピューティング・システムが設置され、多くの研究者がコンピュータのALGOL(ALGOrythmic Language)言語のプログラミング講習会を受け、コーディングを懸命に習得し、計算を試みた。後に電気通信大学からFORTRANコンパイラが移植され、学生の多くはFORTRAN言語を利用するようになった。
(3)ソフトウエア構成一覧
・OKINo.1(入力ルーチン:システム・プログラムの一つInterpretive Routine)
・OKISAP(OKI Symbolic Assemble Program:アセンブラ)
・OKISIP(OKI Symbolic Input Program:記号入力プログラム=アセンブラ)
・OKIPAL(OKI Practical Algorithmic Language:ALGOLコンパイラ)
・ALGOLIP(ALGOL Input Program:1パスALGOLコンパイラ)
・OKIART(OKI Arithmetic Translator:2パスFORTRANコンパイラ;未使用)
・Utility Subroutine(Sort、Merge、MT―Read/Write、…)
・科学技術計算用 OKITAC―5090 Subroutine Library
・FORTRAN 3000E(電気通信大学から移植したFORTRAN 3000レベル・コンパイラ)

タイムシェアリングシステムETSS の研究開発
弓場敏嗣
工業技術院電気試験所電子計算機部
(現在国立大学法人電気通信大学・名誉教授)

研究解説 : Runge-Kutta-Mersonによる常微分方程式の数値的解法
著者:藤田 長子
著者所属:東京大学生産技術研究所 天体物理学
雑誌名:生産研究 (巻16 号3)
発行年:1964-03-01
出版者:東京大学生産技術研究所
抄録:常微分方程式を数値的に解く方法として,最もよく用いられるのはRunge-Kutta法である.しかし,微分方程式の形が複雑であったり,函数自身に不連続点が存在するような場合には,ふつうのRunge-Kutta法では解けないことがある.Mersonは最近,Runge-Kutta法を改良し,初めに設定された許容誤差(tolerance)にもとづいて各点における積分区間の幅を自動的に制御できる方法を提案した.OKITAC-5090電子計算機のためのこの方法を用いた積分ルチーンを説明し,それを用いて解いた二三の例をあげてみよう.

(株)ニコン『光とミクロと共に : ニコン75年史. 資料集』(1993.06)
年表編より:昭和37年(1962)4月25日 コンピュータOKITAC-5090導入


タンク・モデノレの構造を自動的に定める計算機プログラムの開発(第1報)
菅原正巳*・尾崎容子**・渡辺一郎***・勝山ヨシ子**
国立防災科学技術セソター研究報告 第17号 1977年3月号
2・自動化の最初の試み
1962年我々は0KITAC-5090を利用することができるようになった.コァ・メモリ1,000語(1語=48ビヅト),1演算当たり約1msの演算速度の計算機であった.それまでクロスバー・メモリ120語,1演算当たり約1秒のリレー式計算機FACOM-128を利用していた我々にとって,信じられないほどの速さであった.そこでこの計算機を利用すればタンク・モデルの構造決定を計算機により行うことが可能であろうと考えた.OKITAC-5090によると,機械語でむだのない命令を書き,48ビット1語に4個のデータをパッキングすることにより磁気テrプとのやりとりを最小限にする等の工夫をしたにもかかわらず,数年間の記録についての流出計算に20分~30分程度の時間がかかったと記憶している。

(21) ニッコール・レンズについて(ニコンカメラの小(古)ネタ)
この頃のニコンとニッコールは国内外での評判が良く、自慢とも受け取れる内容になっています。
この中に収差計算に電子計算機を使っていることに触れられています。
社史を見ますと、その電子計算機は昭和32年秋に導入されたZ11/5リレー式コンピュータとなっています。
その後昭和37年には機械語による光学設計の技術計算用をメインとしたOKITAC5090を導入、高倍率ズームや超広角レンズなどの設計に一役かっていたようです。

(22) 九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
九州大学百年史 第6巻 : 部局史編 Ⅲ
九州大学百年史編集委員会
2017-03-31. 九州大学
第 25 編情報基盤研究開発センター
第3 節 大学初の汎用コンピュータシステム
中央計数施設設置当時の九州大学においては、工学部において翻訳機が試作されたことはあったものの、汎用コンピュータの導入は初めてのことであった。機種選定の結果、九州大学の設計仕様を取り入れた沖電気工業株式会社製のOKITAC 5090H の導入が決定された(図25-2)。なお、『九州大学大型計算機センター広報特別号・10 年のあゆみ』(1981 年)の寄稿によれば、同機は1963(昭和38)年春までに完成せず、代換機(OKITAC 5090)を入れたのち、1 年後に稼働が始まったとある。ただし、『計数施設ニュース』(1963~77 年)にはそのような記述はない。
OKITAC 5090H の主記憶は8192 語(1 語=42 ビット)、数値表現は2 進で、固定小数点数および浮動小数点演算が実装された。また、磁気テープ装置(2 台)・磁気ドラム(10000 語)などの補助記憶装置が増設された。1964年4 月には、プロッタ作図サービスを開始した。
(途中省略)
ソフトウェア
OKITAC 5090H 稼働当初のプログラム言語は、アセンブリ言語の一種であるOKISIP であり、1963(昭和38)年8 月にALGOL 系言語であるALGOLIP が、また1964 年7 月には、九州大学で開発されたALGOL-H が公開された。
この時期は、まだオペレーティングシステム(OS)の概念が確立していなかったこともあり、制御プログラム、プログラム言語のための各種サブルーチンや関数の多くが九州大学で開発された。


(文献1) コンピュータ開発史概要と資料保存状況について
― 第一世代と第二世代コンピュータを中心に ―
"History of First and Second Generation Japanese Computers and the Preservation of (Early) Examples"
山田昭彦


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