リヒトクライス-ペンギンTAKAの軌跡

リヒトクライス-ペンギンTAKAの軌跡

祖父の戦争体験



自分ペンギンTAKAの祖父は、苦労人であります。
詳しくは申せぬものの、少年時代から働きに出ており、
就職の後、あの太平洋戦争へと突入しました。

ここでは、そんな祖父の青春時代である。
太平洋戦争前の1941年から、終戦直後の1945年までの記録を、
自分が1・2年前、当時聞き取った体験談を記したノートと、
改めて聞く、祖父自身の証言を基に、遂次書き綴って行きたいと思う。
(直、新しい事実、詳細不明点や内容の誤りが判明した場合は、
順次訂正していきます。)



1 溶接工として軍需品の製造へ

1938年(昭和13年)4月12日、故郷の新潟にて祖父は、
昭和電工の前身である昭和肥料に入社をする。
研修社員として契約してから、6ヶ月間を経て準社員に昇格。
その翌年の14年には、昭和肥料は日本電工と合併して昭和電工となった。

研修の頃は、雑役が主な仕事であり、何でもやっていたそうだが、
13年、10月16日、準工員に昇格すると、本格的な溶接関係の仕事に携わる事となる。
(ちなみに研修時の日給は40銭、
準社員になると、35銭増しの75銭となった。)

溶接工として製造した物は、ほぼ軍需品であり、海軍向けが中心である。
鋳型を作り、鋳鋼で溶かした鋼を流し込み、
軍艦の碇、バルブ類、潜水艦の舷窓の枠と、様々な物を製品に変えていった。
この様な仕事が、41年の太平洋戦争開戦以降も、暫く続いていったのであった。
周囲に変化が現れるのは、戦争も中盤に入るであろう頃、もう少し先の事である。(注)


(注)
41年頃には、工場が海軍工廠管轄の生産施設の認定を受けたりするのだが、
そのあたりの話はまたの機会とする。


2 現地徴用がかかり軍属に

開戦前、舞鶴工廠管轄、第000号指定工場(注2)となっていた、
昭和電工、鹿瀬工場は戦時体制によって、
作業のピッチも今まで以上に増やされていった。
まだ10代だった祖父は、午前中は社内にあった青年学校で勉強に励み、
午後からは会社で作業と言う状況にあった。
昭和18年にもなると、軍は1月にガダルカナルの撤退も決定し、
戦線は徐々に後退を始めていた。
戦局の悪化も始まり、工場の工員にも召集がかかり始める。
戦地へ送られる者も出始める中、
祖父は現地徴用がかかり、海軍軍属として引き続き工員として働く事となる。

当時は、海軍の工場の工員が、陸軍の兵士として召集されてしまう事が
ざらにあったらしい。その所為で、工場の作業に支障をきたし。
酷いと生産ラインがボロボロになってしまったともいう。

一例を挙げるなら、
昭和19年度の航空機生産数は、開戦直後に比べ何倍かに跳ね上がるも、
稼働率、品質の水準を満たせる物が、
全体の2・3割だったという事実からも分かる。
熟練工が召集されて、代わりに来るのが素人同然である、
勤労奉仕の学生では実情は窺い知れよう…

そこで軍は、必要な人材をキープする為、兵隊に取られてしまう前に、
優秀な人材に対し、現地徴用の形で軍属として、
戦地に連れて行かれない様にとったのである。
この辺りを見るに、祖父はかなり優秀な溶接工だったと推測できる。

(注2 舞鶴工廠管轄000号は、祖父が番号を失念した為。
試しにネットで調べてみたものの、
指定工場に入ったという記述は見つからなかった)


3 捕虜の話

昭和電工に、連合軍捕虜が連れてこられたのは、
昭和19年初めの頃であったとされる。(注1)
捕虜は、工場の裏山にある。倉庫を改造して作られた。
捕虜収容所に収容されており、主に半数以上が英軍兵、
米軍の兵士がいたという。
捕虜は、工場の作業に従事していて、
祖父の下には、初め13人程が派遣されてきた。
祖父の班では、アメリカ人の軍曹が指揮を取っていたそうだが、
この軍曹が精神的に参ったのか、発狂してリタイアしてしまい。
イギリス人の伍長が、捕虜の班長を引き継ぐ事となる。
祖父と捕虜達は、主に女性工員が多かった夜間に回されて、勤務していた。
祖父の捕虜の扱いは、丁寧たったためか、
捕虜も皆良い奴ばかりだったという。
ある日、現場でイギリス人の班長が、祖父にお茶を入れてきてくれた。
飲んでくださいと薦められたお茶は、紅茶であった。
初めて見る茶色の液体に、祖父は戸惑ってしまう。
毒かもしれないと思った祖父は、結局怖くて飲めなかったそうだ。
その後、3ヶ月ほど経って、通常の昼間勤務となった様である。

収容所から工場までの、捕虜の送迎は、工員が担当していた。
無論、祖父にもその役目が回ってくる。
10人程の捕虜を、1人2人の人数で引率するのだが、
捕虜の兵士は、皆、身長17・80の大男揃いで、ガタイも良く。
一方の祖父は、160センチ位の、
当時の日本人の標準といったところである。
しかも身を守る武器は、拳銃等支給される訳でもなく、
樫の木の棒1本のみ・・・
もし捕虜が脱走しようとするなら、とめる術はない。
夜の送迎時は、かなり怖かったそうだ。


注1 捕虜収容所について
収容所は、通称鹿瀬分所と呼ばれ、19年4月15日に、
東京捕虜収容所第16派遣所という正式名称で開設された模様。
建物は、昭和電工の製品倉庫を利用しており。
1945年8月、第16分所と改称してとの事である。
終戦時の収容人員は、288人で内、
英兵152、蘭兵86、米兵50人。収容中の死者4人となっている。
開設時期や英国兵の話等、祖父の記憶とほぼ一致している。

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