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壇ノ浦付近の関門海峡には電光掲示板があって、アルファベット・数字・矢印が交互に点滅しています。関門MARTISの火ノ山下潮流信号所です。潮の向きが「W」(西向き)・「E」(東向き)で表示された後、潮流の速さが数字(ノット)で表示され、最後に「↑」(速くなる)または「↓」(遅くなる)が表示されます。西日が当たって見えづらいのですが、この時は西向き7ノットで速くなるようでした。天気晴朗なれども波高し関門海峡では玄界灘と周防灘の干満の差による潮流の変化が激しく、源平の壇ノ浦の戦いでもこの潮流の変化が勝敗を分けました。 潮流の速さも最大で10ノット(約時速18.5km)に達し、鳴門海峡・来島海峡などのうず潮級の海峡に次ぐ潮流の速さがあります。また関門橋付近では対岸までの距離が650mしかなく、古来より早鞆ノ瀬戸と呼ばれる海上交通の難所となっています。 下関側の火ノ山から見た早鞆ノ瀬戸関門海峡では全国に7か所ある「海上交通センター(MARTIS)」の1つである「関門海上交通センター(関門MARTIS)」があって、関門海峡の航行管制や情報提供などが行われています。関門海峡の航路図海峡というより運河のような感じですが、ここを1日600隻の船舶が航行しています。火ノ山下潮流信号所も関門MARTISからの潮流信号で、他にも大型船舶が通行する際に「H」や「T」の表示がされる電光掲示板もあります。関門海峡が太平洋・瀬戸内海と日本海を結ぶ最短ルートになるため、通過する船舶の交通量も1日あたり約600隻と、まさに海上交通の要衝となっています。今のご時世、関門海峡を通過するか大隅半島を回るかでは、スエズを通るか喜望峰を回るかくらいの違いがあるかも知れません。関門海峡通行中の注意事項と事故事例について→こちら「係留」は関門海峡特有かも知れません。
2011/11/24
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防長の瀬戸内海には海上交通の関所が置かれ、都に近い東から順番に上関・中関・下関がありました。(上関や下関は上関町や下関市の地名で現在も残っていますが、中関は現在の防府市にあり、中関港としてその名前が残っています)航行する船舶から帆別銭(通行料)を徴収しており、瀬戸内海を支配していた村上水軍(能島村上氏)が上関に関所を設けて通行料の徴収を行っていました。その能島村上氏が拠点を置いていたのが上関城で、現在は上関歴史公園として整備されています。復元された冠木門村上氏の家紋である「丸に上」が描かれています。曲輪の跡物見台跡上関城の眼下には「鳩子の海」で知られる上関の周防灘や豊後水道の穏やかな海が広がっていますが、毛利氏VS大内氏・陶氏との争いの中で、瀬戸内海の支配権をめぐる争いが繰り広げられた舞台でもありました。1551年に大内氏の家臣であった陶氏の廻船が、将軍に献上する米を積んで、宇賀島(現在の浮島)を本拠地とする宇賀島水軍を警護につけ、上関を銃撃しながら強行突破していきました上関城からは早船を出して、能島・来島・因島の三島村上水軍に危急を知らせ、村上水軍の本拠地からも兵船を出して、安芸蒲刈の瀬戸で陶・宇賀島軍の船団を迎撃しました。この時に陶氏は能島村上氏を上関城から追放し、宇賀島水軍が上関を拠点とするようになりましたが、後に能島村上氏が上関城を奪還しています。このことからも、毛利氏VS大内氏・陶氏の瀬戸内海の制海権をめぐる対立の中で、毛利氏と村上水軍の結びつきや、瀬戸内海の制海権をめぐる構図も窺えます。実際に毛利元就が陶晴賢を討った厳島の戦いにおいては、村上水軍は毛利氏の援軍につき、宇賀島水軍は陶氏の援軍についていました。1588年に豊臣秀吉によって海賊停止令が出されると、村上水軍は瀬戸内海の支配権を失って、上関城も廃城になったと言われています。村上水軍を海賊と呼ぶことには抵抗があるのですが、略奪行為などはあったにしても、通行料を徴収しながら水先案内人(パイロット)を務めていたとも言われています。いずれにしても、潮流の変化が激しい瀬戸内海を熟知していたことで、瀬戸内海の支配を確立していたのだと思います。上関と室津半島の間周防大島と本州の間の大畠瀬戸
2011/07/17
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江戸城は渦巻きのように進化していったので、堀も同じように渦巻き状になっています。ちなみに江戸後期の古城図を見ると、こんな感じです。堀が時計回りに渦巻き状になっており、一番外側は隅田川が外堀の役目を果たしています。銀座界隈など、現在では埋め立てられてしまった堀もありますが、今なお残っている堀も数多くあります。残っている堀跡を辿りながら、クルクルと歩いてみました。まずは内堀部分、今回は北詰門~竹橋~平川門~大手門までをご紹介します。本丸天守台のすぐ北側にある「北詰門」は、本丸と北の丸の間にある門です。当時は櫓門があって枡形虎口になっていたのですが、現在は表門のみが残っています。北詰門、城外から見たところ。本丸でもこの辺りの石垣が最も高く積まれており、この高石垣は圧巻です。「算木積み」の隅石に「打込み接ぎ」の高石垣にはしびれます。北詰門から平川門までの堀は「平川濠」と呼ばれ、高石垣が続く場所です。複雑に横矢が掛かっており、本丸の搦め手方向を厳重に防御しています。平川門に至る途中で「清水濠」と合流するのですが、その合流地点にあるのが「竹橋」です。その名の通り、当時は竹を編んで造られており、大奥への通用口がありました。現在はコンクリートで出来ています。竹橋と平川門の間には細長い「帯曲輪」があり、途中で平川濠を区切るような格好になっています。左側にある樹林帯が帯曲輪です。そして平川門の前に到着、現在は橋が復元されています。平川門の表門。城外から見たところ。平川門も枡形虎口になっているのですが、他の門と違って左折れに櫓門があります。平川門の枡形の横にはもう1つ高麗門があるのですが、門の向きが内と外で反対向きになっています。これが「不浄門」です。(写真左側が城内で、右側が城外。向きが反対です)江戸城の鬼門(北東)にあるため、死者や罪人が出るとここから出されました。ちなみに生きたままここを通ったのは、絵島と浅野内匠頭だけだそうです。平川門から大手門までの間の堀は「大手濠」となり、石垣も北詰門辺りに比べるとずいぶん低くなり、堀の幅も広くなってきました。途中の気象庁の前あたりは、鬼門除けのために城郭が内側に欠けた「入隅」が見られます。「お城に行こう(第16回)」→こちら大手濠を左に見ながら、本丸の東側を回る形で再び大手門に来ました。ここからさらに内堀を回って、桜田門~半蔵門~千鳥ヶ淵~田安門~清水門と歩きました。
2008/10/04
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地元山口県の人に聞くと、海がきれいな場所として日本海側の角島、瀬戸内海側では上関の名前が挙がってきます。そして「鳩子の海」の名前も聞くのですが、こちらはNHKの連続テレビ小説の題名でもあります。山口県東部に突き出した室津半島の先端部と、そのさらに先にある長島に上関町があります。室津半島と長島の間に架かる上関大橋長島の北側(柳井側)長島の南側(周防灘側)最近は地元のニュースなどで上関の名前をよく耳にするのですが、中国電力の原子力発電所の建設が計画されています。原子力発電所の建設が予定されているあたり上関では反対派の「原発反対」の看板に混じって、「原電建設を妨害する人は上関に来ないで下さい。島民の多数は賛成しています」などの看板もありました。原発賛成派が多い中、福島の原発事故や中国電力の電力事情(電力が余っているので関西電力に35万kwの供給を開始)などで、事情も変わりつつあるようです。上関の原発建設については、地元住民以外は賛否を述べる権利がないと思っているので意見はありませんが、原発に限らず「鳩子の海」はこのまま残って欲しいと思います。それにしても「鳩子の海」はお菓子の名前だと思っていたので、実際に舞台があるとは知りませんでした。山口県銘菓鳩子の海 12個入
2011/07/16
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江戸城の内堀は時計回りに渦巻きを描いていますが、外堀も同様に渦巻き状になっています。雉子橋門をスタートして、ぐるりと回って浅草見附、さらには隅田川が外堀の役目を果たしています。「これを回ったのか?」って話ですが、ちゃんと回りました。(実は何回かに分けて回り、途中地下鉄なども利用していますが・・・)まずは雉子橋門から鍛冶橋門までをご紹介します。古地図で見ると雉子橋門は枡形をしていましたが、今もその一部が残っています。とあるビルの入口にあるのですが、なんとも面妖な感じです。現在雉子橋からの外堀は、日本橋川となっています。こんな感じでずっと続いていました。そして一ツ橋門に到着。当然ながら橋はコンクリートで再建されたものです。しかしながら対岸をよくよく見ると、石垣が残っていました。おそらく枡形門の一部だと思うのですが、これにはビックリです。徳川家康が江戸に入った時、ここには丸太が一本架かっていたため、「一ツ橋」の名前が付いたそうです。さらに8代将軍徳川吉宗の子、徳川家尹がここに屋敷を構えたことから、橋の名前をとって「一橋家」を名乗っています。また橋の北側には、一橋大学(東京商科大学)がありました。一ツ橋門の次の見附は神田橋門ですが、こちらはよくある普通の橋が架かっているだけです。やはり内堀と違って外堀は望み薄かと思いきや、その次の常盤橋門には枡形が残っていました。橋の向こう側に枡形が見えています。常盤橋門枡形の石垣。実は外堀の見附の中で、この常盤橋門が最もよく残っていました。この常盤橋門の橋のそばには、北町奉行所が一時置かれたこともあったそうです。常盤橋からは外堀通り沿いを歩いたのですが、だんだん古地図から目が離せなくなってきました。呉服橋交差点。もはや推理ゲームのような感じです。そして鍛冶橋交差点。かなりやけくそになってきました。まだまだ推理ゲームは続きます。
2008/10/09
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福岡や北九州がずっと近くなり、関門海峡を気軽に渡って何度か訪れたのですが、実は城めぐりで福岡県を訪れたのは初めてです。小倉城本丸大手門ちょうど桜が満開の時でした。小倉城は海と水堀に囲まれた曲輪が連なり、当時の縄張りを見ると水城のような感じがします。本丸にはいくつも門があり、いずれも石垣で囲まれた枡形門になっていました。槻(けやき)門跡藩主や公儀役人など、一部の人しか通行が認められなかったそうです。北の丸から本丸に通じる多聞口門跡当時は渡櫓があったのだと思います。本丸周囲の水堀やはり石垣の築城では西日本に軍配が上がります。本丸に上がってみると、満開の桜と花見客で埋め尽くされていました。本丸には天守が建っていますが、当時は南蛮造りの天守だったようです。復興天守内部にある縄張り模型現在の天守は当時の外観とは異なる復興天守で、千鳥破風を備えています。こちらの方が天守らしいのでしょうが、天守台が立派なだけに「外観復元でよかったのでは?」と思ってしまいます。小倉城天守台さすがに天守に登ると縄張りがよく見渡せました。下屋敷庭園北の丸本丸現在の小倉城は1602年に築城されたもので、築城主は関ヶ原の戦いの功で筑前に入った細川忠興です。1632年に細川氏が肥後熊本に移封になると、播磨明石城から小笠原忠真が15万石で入封しています。幕末1866年の第二次長州征伐の時、幕府軍の先方にあった小倉藩でしたが、長州藩の圧倒的攻勢の前に窮地に陥り、自ら火を放って小倉城を放棄しています。思えば去年も桜の季節に城跡を訪れたのですが、昨年はたまたま出張中に立ち寄った徳島城でした。去年の桜の季節には、夏の終わりに台北に赴任することなど思ってもいませんでしたが、台北にいる時は日本のしかも九州で桜を見るとは思ってもいませんでした。来年はどこになるのでしょうか。日本城郭協会「続日本100名城」
2011/04/15
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松本城のすぐ北にある旧開智学校は、明治6年開校の日本で最も古い小学校の1つです。旧開智学校校舎。昭和38年まで実際に校舎として使われていました。旧開智学校は、現在教育博物館として公開されています。内部には明治の小学生の制服や勉強道具、机なども展示されていました。さらには明治から現在に至るまでの教科書も展示されています。戦前の教科書に書かれた「水兵の母」現在ではとても授業に耐えられる題材ではありませんが、話の内容は感動的ないい話で、思わず全部読みふけってしまいました。100年以上の歴史を持つ校舎だけに、数多くの足跡も残っています。明治天皇が訪問した際の休憩室。明治の文明開化の時代に建てられた開智学校ですが、この洋風建築の設計施工を行ったのは意外にも日本人で、松本の大工棟梁であった立石清重という人です。巨額な工事費のうち、約7割が松本住民の寄付で集められたそうです。長野県と言えば教育県として有名ですが、開智学校を見ればそれも納得でした。市
2009/03/16
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江戸幕府による「鎖国政策」には、ネガティブな印象を持っていません。むしろ鎖国の250年間で文芸・工芸・美術など、現在にも誇れる日本独自の文化が完成されたと思っています。それでもその独自の文化を守るため、近代化は早晩避けて通れなかったかも知れません。その鎖国政策の終焉となったのが1854年の「日米和親条約」で、その締結の地が横浜でした。開港記念広場にある「日米和親条約調印」の碑調印の相手は、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督です。ペリー提督の応接所となっていた場所には、横浜開港資料館が建っています。1931年(昭和6年)にイギリス総領事館として建設され、1981年(昭和56年)から横浜開港資料館となっています。1854年の日米和親条約の4年後、1858年には日米修好通商条約(いわゆる安政の五箇国条約)が締結され、横浜港が開港されました。開港当時、横浜の中心部は東海道神奈川宿のあった場所でしたが、実際に開港されたのは辺鄙な「横浜村」でした。当時の横浜港があった「象の鼻」横浜開港に伴い、神奈川奉行所の管轄下に「運上所」が置かれ、関税と外交の事務を行っていました。県庁の敷地内に建つ運上所跡の碑横浜が開港された4年後の1858年、外国人居留地が造られましたが、当初は日本風の建築だったそうです。1866年の火災で外国人居留地が焼失すると、洋風の建築へと変わりました。火災後に居留地の大規模区画整理の設計したのが、イギリス人のリチャード・ブラントンです。横浜公園にあるブラントン像防火帯を兼ねて造られたのが現在の「日本大通り」で、日本大通りによって外国人居留地と日本人居留地が分けられることとなりました。1870年当時の地図南北が逆になっていますが、真ん中の大通りが日本大通りで、左側(東側)が外国人居留地、右側(西側)が日本人居留地です。現在の日本大通り北向きのため、左側(西側)が旧日本人居留地で、右側(東側)が旧外国人居留地です。日本大通りの南側には、外国人も日本人も両方が利用できる公園が造られ、その公園が今の横浜公園です。現在は横浜スタジアムが建ち、照明塔とバックスクリーンが見えています。旧外国人居留地時代の山下を歩いてみると、意外にも当時の遺跡があったりしました。英国一番館跡開港と同時に貿易を始めた「ジャーディン・マセソン商会」の跡です。山下居留地48番館ダイナマイトを扱っていたモリソン商会の建物で、関東大震災で被害を受けたものの、横浜では現存する最古の洋風建築物です。和蘭式野戦砲横浜開港の前、松代藩の佐久間象山が横浜警護のために使用したと言われています。横浜天主堂跡1862年に居留地80番地に建てられたカトリックの天主堂で、1906年に山手44番地に移転しました。関東大震災後に再建されたのが、現在の山手カトリック教会です。そして日本人にはなじみの深い人も山下居留地に住んでいました。ヘボン博士邸読みでは「ヘップバーン」となるのでしょうが、ヘボン式ローマ字の生みの親です。横浜開港後に造られた山下居留地でしたが、火災後の1867年には山手居留地が造られました。山下と山手の境にある堀川は、今も残っています。堀川右側(東側)が山下居留地で、左側(西側)が山手居留地です。
2018/02/06
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越後屋と言えば、時代劇では悪代官と並んでワルの代名詞のように登場してきます。それでも三井高利の越後屋は消費者の味方であり、「現金掛け値なし」や「切り売り」など、当時としては画期的な商売方法を展開していました。(当時は掛け売りや反物売りが当たり前の商慣習でした)三井越後屋(江戸東京博物館にて)三井高利の越後屋は三井両替店(後の三井銀行)、さらには三井財閥へと発展して行きました。歌川広重「名所江戸百景 する賀てふ」井桁に「三」のマークが、三井越後屋です。そしてこちらが現在の三井越後屋三越日本橋本店です。
2010/07/26
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日光街道宇都宮宿の先には徳次郎宿があり、「宇都宮市徳次郎町」の地名もさることながら、「徳次郎って誰よ?」というのが気がかりでした。その徳次郎宿や徳次郎町の地名の由来となったのが徳次郎城で、日光街道から300mほどのところにありました。徳次郎城遠景ここが徳次郎城虎口でしょうか名前からして名主の屋敷跡かと、てっきり単郭の居館跡を想像していたのですが、実は曲輪を複数備えた立派な戦国城郭でした。二ノ丸の空堀跡二ノ丸の曲輪跡さらに驚いたことに、ほぼ完璧な状態で遺構が残っていました本丸空堀跡保存もさることながら、復元をされた痕跡もなく、ここまで残ってきたのが不思議なくらいでした。本丸空堀跡本丸土塁相当な規模のある城郭で、「徳次郎城」の名前と目の前にある遺構がなかなか一致せず、そのギャップが激しすぎるほどでした。本丸跡果たしてここに徳次郎さんが住んでいたのでしょうか。これまで数多くの城跡を見てきた中で、保存・復元もなく遺構がここまで残っているのは稀なケースだと思います。ところで城跡を訪れる中でこれも稀にあることですが、何だか空気が重たいというか、「あまり歓迎されていないな~」といった雰囲気がありました。霊感が強いとかオカルト的な話ではないものの、激しい籠城戦を繰り広げた城跡でもこんな空気を感じたことはあまりないので、ましてや戦火に見舞われたことのない城跡では不思議な感じがします。徳次郎城は戦国時代に築かれたもので、北条氏と組んで敵対する日光の僧兵に対するために築城されました。築城主が新田徳次郎昌言で、その通称である徳次郎が城の名前となり、さらには宿場町や地名となって現在にいたっています。中世武士の慣わしから言えば、「源平藤橘」を朝廷から賜る姓とし、土着する地名を苗字(名字)とするのが通例です。例えば源義国が足利に土着して足利氏を名乗ったり、藤原宗円が宇都宮氏を名乗ったりと。本来ならば徳次郎城も元々の地名を氏とし、それが城の名前となるのでしょうが、通称が城の名前となり、現在でも地名となったレアなケースだと思います。
2013/01/04
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JR京浜東北線の大森駅西口を出ると、すぐ目の前に交通量の多い2車線道路がありました。かつては「薬研坂」の別名があった「八景坂」戦国城郭でも急勾配で切り込んだ空堀を「薬研堀」と呼びますが、そう考えると当時は相当急な勾配だったことかと思います。ところで「○○八景」はポピュラーな呼び方ですが、八景それぞれにテーマがあるようで、「夜雨・晴嵐・暮雪・帰帆・夕照・落雁・秋月・晩鐘」をもって八景とするのがオーソドックスな呼び方だそうです。かつては大森の海岸から房総半島までが一望できたようで、坂の上から眺める「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六号夕照・大井落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景をもって、八景坂の名前がついたそうです。大森駅西口の丘陵部には天祖神社があり、かつて源義家(八幡太郎)が奥州征伐に向かう途中、ここで戦勝祈願をしたとされています天祖神社源義家が境内にある松に鎧を掛けたと言われ、その松は「鎧掛松」と呼ばれていたようです。歌川広重の名所江戸百景にも、その鎧掛松が描かれていました。歌川広重「名所江戸百景 八景坂鎧掛松」当時は海岸線がすぐ近くまで来ていたようですが、この絵が描かれた30年ほど後、この海岸で大発見があるとは思ってもみなかったことでしょう。現在となっては鎧掛松もなくなってしまい、かつての風光明媚な光景も今や昔といった風情でした。再びかつての八景坂(現在の池上通り)を登って行くと、坂の上の交差点には「山王口」の名前がありました。山王口付近の池上通り平成13年にビルの建築工事を行った際、長さ16m、幅4mの道路跡が出土したそうです。室町時代の陶器も出土したことから、江戸時代の「池上道」や鎌倉街道とも関連があるとされています。また、道路跡の下からは奈良時代の須恵器も出土しており、この道が古代東海道の「大井宿」へ至る道の可能性もあります。その山王口の坂の上には、山王の名前通りに日枝神社が鎮座していました。「山王社」日枝神社その日枝神社の隣には「成田山 大森不動尊」があり、江戸時代はこちらが日枝神社の別当だったようです。「成田山大森不動尊」の円能寺おそらく不動明王がご本尊なのでしょうが、併設の幼稚園が学級閉鎖のためか、中に入ることはできませんでした。景観こそ変わってしまっていますが、地名だけは変わらずに昔の名残をとどめているものです。山王口の坂を越えると、日本史の教科書ではおなじみの史跡へとやって来ました。
2014/02/26
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探検部時代からいくつか鍾乳洞を観て来ましたが、やはり秋芳洞が日本で一番の鍾乳洞だと思います。鍾乳洞の規模もさることながら、何よりも洞内の二次生成物が数多く形成されており、1つの鍾乳洞でこれだけ見どころの多いのは秋芳洞くらいでしょうか。秋芳洞は何回か訪れていますが、洞内の二次性生物の中でこれだけは本当に見事だと思います。リムストーンプール「百枚皿」と命名されていますが、実際には500枚以上あるそうです。これまでリムストーンプールはいくつか目にしてきましたが、これだけの大きさのものは秋芳洞だけです。それにしてもリムストーンプールがなぜ出来るのか、いつも不思議に思うところです。百枚皿と並んで、いつも目を見張るのが石柱の「黄金柱」です。黄金柱高さ15m、幅4mもある石柱です。石柱は天井から生成されるつらら石と、下から生成される石筍がつながったものですが、ここまで生成されるのに何万年とかかったことでしょう。こちらも石柱の「大黒柱」リムストーンプールや石柱だけでなく、1つの鍾乳洞でこれだけの二次生成物が見られるのも、秋芳洞ならではでしょうか。洞内富士巨大なフローストーンです。こちらも大きなフローストーンです。「こうもり穴」の中をのぞいてみると、グアノまで堆積していました。グアノとは蝙蝠のフンです。この二次生成物の名前が思い出せないのですが、探検部時代に「ダイヤモンド何とか」と言っていたように思います。秋芳洞以外でも見かけるのですが、ヘッドライトで照らすと、結晶がきらきらと浮かび上がってきます。鍾乳石(つらら石)が平凡に見えてしまうのですが、ここまで生長するのに何百年の歳月がかかったことでしょう。何万年の時を経てゆっくりと生成されてきた秋芳洞ですが、これからも長い年月をかけて生長していくことでしょう。関連の記事秋吉台カルスト台地→こちら景清洞→こちら大正洞→こちら
2011/03/28
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