将星☆赤報隊

将星☆赤報隊

赤報隊って?



慶応4年(1868年)、時代は幕末。その年の3月3日、1人の男が、江戸幕府討幕軍(後の明治政府)によって、処刑されました。
 名前は相楽総三。官軍東征の先鋒隊「赤報隊」の一番隊隊長だった彼が、何故、官軍によって抹殺されたのでしょうか?


                      相楽総三の生い立ち

 相楽総三は、天保10年(1839年)に、下総国北相馬郡椚木新田村の豪農・小島兵馬の四男として江戸赤坂檜町で生まれ、本名を「小島四郎左衛門将満」という。
 長兄と次兄は幼くして死亡し、すぐ上の兄も、総三が生まれる前に、幕臣の彦坂家に養子入りしていたため、総三は小島家の嫡男としての教育を受ける事になった。
 総三は文武に秀で、20才の時に、国学、兵学を講じる私塾を開き、門人は100人を越えるとも、200人を越えるともいわれた。
 その後、文久元年(1861年)、23才の時、尊王攘夷の志士となった総三は旅に出た。目的は尊皇攘夷の志士たちを糾合するためだった。
 旅に出た総三は、上州・赤城山で、「慷慨組」に参加した。「慷慨組」というのは、桃井儀八が中心となって結成された北武蔵の豪農たちの集まりで、勤王のシンボルとして新田義貞を立て、その末裔である岩松俊純(新田満次郎)の擁立をもくろんでいた。
 しかし、この計画は畿内における天誅組や生野組の壊滅が伝えられたため、岩松俊純の擁立も結局は行われなかった。
 そして、総三は元治元年(1864年)、今度は攘夷を唱える「天狗党」の「筑波山挙兵」に参加した。
 しかし、首謀者の水戸藩士・藤田小四郎らが水戸藩内の抗争にこだわりすぎるため、総三をはじめとする水戸藩外の志士たちは戦線を離脱することになった。

                      総三、江戸で暴れる

「天狗党」から離脱し、一度は江戸に戻った総三でしたが、慶応2年(1866年)、今度は京都へ旅立つ。
 都で、勤王の志士たちと交流するうちに、尊王攘夷論を説いた「華夷弁」を書き上げ、それが長州藩主の毛利敬親の目にとまり、敬親から、感心したという文を添えられたことが広まり、総三の名前は一躍世に広がることになる。
 また、総三は都で、薩摩藩の西郷隆盛と出会い、西郷から江戸の町の撹乱を依頼される。
 依頼を受けた総三は、同士とともに江戸薩摩藩邸で浪士隊を結成、討ち入りや強盗、幕府役人の殺傷などの破壊工作を行い幕府を攪乱する。
 これに怒った幕府は、同年十二月二十五日、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちし、この結果、西郷は討幕の大義名分を得ることになるのだった。

                      赤 報 隊 結 成

慶応4年(1868)1月1日、幕府軍と討幕軍が鳥羽・伏見で会戦、いわゆる「鳥羽・伏見の戦い」が起きた。
 この戦いに勝利を収めた討幕軍は、官軍となり、江戸に逃亡した15代将軍徳川慶喜や佐幕軍を討伐するため、官軍本隊に先立って、各地の情勢の探索や、勤王誘引活動を任務とする先鋒隊を結成しようする。
 そして、1月8日、近江の松尾山金剛輪寺において、公家の綾小路俊実・滋野井公寿を擁立した先鋒隊、「赤報隊」が旗揚げされた。隊の名前の由来は、
          「赤心をもって国恩に報いる」
というもので、総三の理念から、この名前が付けられた。
 「赤報隊」は、総三とその同士から成る一番隊、「新撰組」と袂を割った鈴木三樹三郎、篠原泰之進らが中心となった二番隊、そして岩倉具視の内意を受けた、油川錬三郎ら水口藩士を中心とした三番隊から構成されていた。
 また、「赤報隊」の結成には、岩倉具視、西郷隆盛のバックアップがあり、薩摩藩からも、金100両と小銃100挺が支給された。
 こうして結成された「赤報隊」は、官軍の先遣隊として、信州方面に進出していくのだった。

                        偽官軍の汚名

1月12日、総三は太政官宛に建白書と嘆願書を提出する。
 その内容は、官軍としての「官軍之御印」の下賜と、建白書として、「幕府領の年貢の軽減」を訴えたもだった。
 この建白書に対して、朝廷は、
  「是迄幕領之分総テ当年租税半減被仰付候、昨年未納之分モ可為同様」
という、世に有名な「年貢半減令」が布告されることになった。
 「赤報隊」は、この「年貢半減令」を旗印に掲げ進軍を続け、民衆を味方にしていく。また民衆の中には、「赤報隊」に共鳴し、入隊する者もでるようになり、「赤報隊」の勢いは益々大きなものとなっていったのだった。
 ところがこの後、都では、「赤報隊」について悪い噂が広がっていく。その内容は、「松尾山にいる赤報隊と称する強盗が民家を襲っている」とか「赤報隊は官軍本営の命令を無視している」といったものだった。

                    総三の最期とその後について

実は、「赤報隊」に関するこれらの悪い噂は、政府軍が意図的に流したものだった。
 総三の建白書によって、布告された「年貢半減令」だが、資金不足に苦しむ新政府軍は、これを認めず、「赤報隊」を「偽官軍」としようとしたのだった。
 政府軍は、噂の流布を理由に、「赤報隊」に都に引き返すよう命令書を届けるが、この命令を受けた総三は、弁明のため京都の東山道総督府に向けて出発する。
 ところが都での弁明は上手くいかず、やむなく大久手宿に戻ることになる。
 2月10日には、東山道総督府執事より、信州諸藩に、「赤報隊」を「偽官軍」として取り押さえる命令が下される。
 2月23日には、下諏訪で東山道軍軍議が開かれることとなり、総三も呼び出された。
 下諏訪に入った総三が目にしたのは、多くの同志が信州の各藩に捕らえられているという現実だった。
 総三もまた、3月1日に東山道総督府に出頭したところを逮捕され、3日、寒雨の中、総三以下の「赤報隊」幹部の死刑が執行されたのだった。
 相楽総三、この時30歳 。一切の弁明もしなかったといわれている。

 総三の死後、総三の孫にあたる木村亀太郎氏は生涯をかけて、祖父の無実の罪を晴らそうと決意。仕事の傍ら苦労を重ね、昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位に伴う御大典により、総三に正五位が贈られた。総三の死から60年後のことだった。

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