納庄麻里子 チーマリの日記

納庄麻里子 チーマリの日記

作曲家のへや ラヴェル



1.生い立ち

1875年3月7日、シブールに生まれ、3ヵ月後にパリに移ります。
そして7歳の時からピアノ、11歳から作曲をならいます。
1889年にパリ音楽院に入学し、べりオのピアノクラスに入り、
ジェダルジュ(対位法を習う)やフォーレ(フーガを習う)に出会います。
この頃、サロンにてドビュッシーやコレット(子供と魔法の台本を書いた)に出会います。
1900年からローマ賞に挑戦するものの、1901年の第2位を除いては3回落選、予選落ちします。
この頃弦楽四重奏や、シェエラザードを作曲しました。
その後、ディアギレフやストラヴィンスキーと出会います。
1916年、第1次世界大戦に従軍。
その後色々な国へ演奏旅行へ行き、1926年にはパリでラヴェルフェスティバルが行われました。
アメリカへも演奏旅行。オクスフォード大から名誉博士号授与。
左手のためのピアノ協奏曲がウイーンで初演され、
ビアリッツでラヴェルフェスティバルが開催されました。
1932年、パリでタクシー事故にあい、
その後神経症がひどくなり、1937年12月28日にパリで亡くなりました。


2.音楽史から見たラヴェル


3.作品
(作曲年代・作品名・編成)


1893年 グロテスクなセレナード  ピアノ曲

1894年 愛に死せる女王のバラード 歌曲ピアノ伴奏

1895年 古風なメヌエット ピアノ曲

同年 黒く深き眠り 歌曲ピアノ伴奏

1895-96年 耳で聞く風景 2台用のピアノ曲

1896年 聖女 歌曲ピアノ伴奏

1898年 二つの碑銘 歌曲ピアノ伴奏

1898年 シェエラザード オーケストラの為の童話劇の序曲

1899年 死せる王女のためのパヴァーヌ  ピアノ曲

同年 かくも陰鬱な 歌曲ピアノ伴奏

1901年 ミルラ ローマ大賞コンクール参加のカンタータ

1901年 水の戯れ ピアノ曲

1902年 アルシオヌ ローマ大賞コンクール参加のカンタータ

1902-03年 弦楽四重奏曲ヘ長調 

1903年 アリッサ ローマ大賞コンクール参加のカンタータ

同年 花のマントー 歌曲ピアノ伴奏

同年 シェエラザード 歌曲オーケストラ伴奏

1905年 おもちゃのクリスマス 歌曲ピアノ伴奏

同年 ソナチネ ピアノ曲

1905-06年 ハープのための序奏とアレグロ 弦楽四重奏、フルート、クラリネット伴奏

1906年 外海からの大風 歌曲ピアノ伴奏

同年 博物誌 歌曲ピアノ伴奏

1907年 草の上 歌曲ピアノ伴奏

同年 ハバネラ形式のヴォカリーズ

同年 ギリシャ民謡集 歌曲ピアノ伴奏

同年 スペイン狂詩曲 オーケストラ曲

同年 スペインの時 ミュージカルコメディー

1908年 マ・メール・ロワ 子供のためのピアノ連弾曲

同年 夜のガスパール ピアノ曲

1909年 ハイドンの名によるメヌエット ピアノ曲

1910年 民謡集 歌曲ピアノ伴奏

同年 クロード・ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲の2台のピアノ用編曲

1911年 優雅で感傷的な円舞曲 ピアノ曲

1909-12年 ダフニスとクロエ バレエのためのオーケストラ曲

1912年 マ・メール・ロワ バレエ曲

同年 アデライド、または花言葉 バレエ曲

1913年 マラルメの3つの詩 歌曲、ピアノ、弦楽四重奏、二つのフルート、二つのクラリネット伴奏

同年 ・・・・風に ピアノ曲

同年 エリック・サティの星の息子の前奏曲のオーケストラ編曲

同年 ムソルグスキーのホヴァンシチーナ

1914年 二つのヘブライの歌 歌曲ピアノ伴奏

同年 三重奏曲 ピアノ・ヴァイオリン・チェロ

同年 シューマンの謝肉祭のオーケストラ編曲

1915年 三つの歌 無伴奏の混声合唱

1917年 クープランの墓 ピアノ組曲

1918年 シャブリエの華やかなメヌエットのオーケストラ編曲

1919年 口絵 ピアノ連弾曲

1919-20年 ラ・ヴァルス オーケストラの為の舞踊詩

1920-22年 ソナタ ヴァイオリンとチェロ

1922年 フォーレの名による子守唄

同年 ムソルグスキーの展覧会の絵のオーケストラ編曲

1923年 クロード・ドビュッシーのサラバンド、ダンスのオーケストラ編曲

同年 ショパンのノクターン、練習曲、円舞曲のオーケストラ編曲

1924年 ロンサールの魂 歌曲ピアノ伴奏

同年 ツィガーヌ ヴァイオリンとピアノのための演奏会用狂想曲

1920-25年 子供と魔法 叙情的幻想曲

1925-26年 マダガスカル島の土人の歌 歌曲、フルート、チェロ、ピアノ伴奏

1927年 夢 歌曲ピアノ伴奏

同年 ソナタ ピアノとヴァイオリン

同年 ジャンヌの扇 ファンファーレ

1928年 ボレロ オーケストラ曲

1931年 左手のためのコンチェルト ピアノとオーケストラ

同年 ト長調のコンチェルト ピアノとオーケストラ

1932年 ドゥルネシア姫に心を寄せるドン・キホーテ 歌曲ピアノ伴奏  



ラヴェルに関する文献集

マニュエル=ロザンタール著 『ラヴェル-その素顔と音楽論』 春秋社

エレーヌ・ジョルダン・モランジュ著 『ラヴェルと私たち』 音楽之友社

エレーヌ・ジョルダン・モランジュ/ヴラド・ぺルルミュテール著 『ラヴェルのピアノ曲』 音楽之友社

ウラディミール・ジャンケレビッチ 『<永遠の音楽家>ラヴェル』 白水社

マルグリット・ロン著 『ラヴェル 回想のピアノ』 音楽之友社

マドリイネ・ゴス 『モォリス・ラヴェル』 音楽之友社

司馬遼太郎著 『街道をゆく 22 南蛮のみち1』 朝日文庫

ジャック・アリエール著 『バスク人』 文庫クセジュ

Arbie Orenstein 『A RAVEL READER Correspondence:Articles:Interviews』
Columbia University Press.



リンク集

Académie International de Musique
Maurice Ravel
ラヴェルの講習会のサイト
ラヴェルのゆかりの土地で、よりラヴェルを知ろうという講習会

暗愚楽CD博物館
ラヴェルの生い立ちや作品について知ることが出来ます

Ida Bagus!!
「亭主の部屋」の旅行記の中に、ラヴェルの暮らした
モンフォールラモリーやサンジャンドリュズの記事があります

Midori Official Web Site
五嶋みどりの公式サイト
ラヴェルのヴァイオリンソナタ、ツィガーヌについてのみどり自身による解説が載っています


バスク地方に関するリンク集

IPARRALDE.NET
バスク地方の情報が充実しています

Get to know Sebastian-Gipuzkoa
土地のことや、バスク舞踊のステップなどの画像もあります

Euskonews & Media
バスク地方のニュースの他、バスクの民族楽器の音を聴く事もできます

bogaboga
バスク地方の情報誌

handa wanda
CDの輸入が出来ます。
(バスクのCDも情報が多いです。ただし輸入には時間がかかります)



☆バスクのものが含まれる理由は、ラヴェルの母はバスク人で、ラヴェル自身も愛した土地であるという
理由です。ちなみにバスクとは、フランスとスペインの国境(ちょうどピレネー山脈のあたり)にあたる
地方名のことで、国境に関係なく独自の言語や文化を持っています。

モーリス・ラヴェルによる自伝的素描

ラヴェルが自分の作品などについて語ったものを、Roland-Manuelが校正したもの。
ただし、フランス語で語られたものを英語に訳され、それをチーマリが日本語に訳しています。
とても拙いですが・・・。また、人物などについての注釈も後々書きます。

An Autobiographical Sketch by Maurice Ravel
 モーリス・ラヴェル: 自伝的素描
 Roland-Manuel は自伝的素描執筆のきっかけを、次のように説明した。
 1928年、ピアニスト専門の映画会社、the Aeolian Companyは
作曲家の伝記的記録を作ろうとしていた。
 この会社の芸術監督であるMonsieur Henri Duboisは、ラヴェルにこの企画の参加を依頼した。
インタビュー形式で彼の秘書に答えるような形で進めるようにRoland-Manuelに頼ん だけれども、
ラヴェルはインタビュー形式を拒否した。
 彼は自伝的声明を記述し、後でそれを修正するという形で参加を認めた。
 その後はどんな理由があろうと、記述を訂正したり、この企画をやめようとすることはなかった。
 以下の記事は、執筆者Roland-Manuel の校正による草案に基づいている。

 私はサンジャンド・リュズ近郊の町、シブールで1875年3月7日に生まれた。
 私の父は、ジュネーブ湖の湖畔の土木技師をしており、私の母は、バスク人である。
 生まれて3ヶ月で、私はシブールを離れ、パリへ移りそこで育った。
子供のころから私は音楽に興味があった。クラッシックだけではなく、色んな種類の音楽に。
私の父は、音楽において普通のアマチュアの人より精通していて、どのように私の好みを発育させるか、
私の熱意を刺激たらよいかを知っていた。その勧めによって、私は6歳くらいからピアノを習い始めた。
 私はまずHenri Ghysに習い、続いてM.Charles-Reneに習った。
彼によって私は初めて、 和声、対位法、作曲のレッスンを受けた。
 1889年、私はパリ音楽院の、M.Anthiomeの大学予備ピアノクラスに入学し、
そして2年後、 Charles de Beriotのクラスに入った。

 初めての作品
 私の始めて書いた作品は、1893年頃のもので出版されてはいない。
私がM.Pessardの和声のクラスに居た時のものだ。
 この頃の作品である、ピアノの為の<グロテスクなセレナード>はシャブリエに、
そして<愛に死せる女王のバラード>はサティの影響を受けている。
 1895年、私は初めて出版された作品を書いた。それがピアノの為の<古風なメヌエット>と、
<ハバネラ>である。私は<ハバネラ>は様々な要因を含んでおり、
私の作品の中でも優位をしめると思っている。
: : :
 1897年、Andre Gedalgeに対位法とフーガの技法を教わりながら、
Gabriel Faureの作曲クラスに入った。私の作曲のテクニックに関しては、
Andre Gedalge先生からとても大事な事を教わったことを私はうれしく思う。
 フォーレについて言えば、彼の芸術家としてのアドバイスは私をとても励ましてくれ、
本当に感謝している。
 私の、未完成で未出版のオペラ、<シェエラザード>は この時期に書かれた。
これはかなり強くロシア音楽の影響を受けている。
私は1901年ローマ大賞コンクールに参加した。(この時3位を受賞した)
そして1902,1903年、そして1905年 、7月と何度もコンクールを受けたが、
賞を取ることは出来なかった。
 <水の戯れ>は1901年に書き始めたが、
私の今までの作品の中で、ピアニスト的な挑戦の始まりとなった。
この作品は、水の音、泉、滝、そして小川、によって、音に霊感を与えられている。
また、二つのテーマに基づき、まるでソナタの1楽章の様である。
この作品で、古典的な和声法をそのまま用いることは決してしていない。

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 私の<弦楽四重奏曲ヘ長調>(1902-03)は音楽的な構成へのこだわりを反映している。
それは不完全ではあるものの、確かに私の以前の作品よりは優れていると思う。
<シェエラザード>はドビュッシーの影響を少なくとも精神的に受けていることはかなり明らかである。
これを書いたのは1903年だった。
 この頃、私は子供の頃から興味を持っていた、東洋に再び深く魅了されていた。
 <鏡>(1905)はピアノ作品集の形を取り、私の和声的革命の中でかなり重要な変化をとげている。
私の和声感に慣れるまでは、これを演奏する音楽家は困惑させられるだろう。
この中の3つの作品集の中で、私が一番個性的だと思うものは、2曲目の<悲しい鳥>である。
この曲の中で、私は夏の最も暑い時間に陰気な森の中で迷える冬眠中の鳥を呼び覚ます。

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 <鏡>の後、私はピアノのための<ソナチネ>、そして<博物誌>を作曲した。
 <博物誌>については、ジュール・ルナールの詩に隠された、
全く明瞭な言語とそれに反する難解さに、長い間私は魅了されていた。その原文自体を私は何度も朗読してみた。
詩に音をつけるということは、フランス語の発音に深く関係すると思うからだ。
<博物誌>の初演はパリのラ・ナショナルで行われたが、当時の音楽界の中でスキャンダルとなった。
 <博物誌>を書いたことは、<スペインの時>を作曲する練習にもなった。
この作品は、M.Franc‐Nohainの詩によるコミックオペラだが、歌詞だけではなく、
音楽自体が会話のようになっていて、伝統的オペラの革新を狙おうとする、私の意図を表している。
 子供の為のピアノ連弾作品である、<マ・メール・ロワ>は、1908年作曲された。
この作品のねらいは、私の子供時代を思い出すことで、私の作品をより単純に、
また自由に導こうとしたのだ。
私はこの作品からバレエを抜粋したが、これは芸術劇場でプロデュースされ、
私の幼友達、Mimie and Jean Godebskiに献呈した。
 <夜のガスパール>はアロイジウス・ベルトランの三つの詩によるピアノの為の作品で、
卓越した名人芸を披露している。

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 <優雅で感傷的なワルツ>はシューベルトの模倣によるワルツのシリーズを作ろうとしたものだ。
 この曲では、<夜のガスパール>の明白、明瞭な書法なをそのまま受け継ぎ、
さらに和声を具体化し、音楽の輪郭をよりはっきりとさせようと思った。
 <優雅で感傷的なワルツ>は、ラ・ナショナルで抗議と非難の最中に初演され、
この時作曲家の名前は明らかにせずに、観客は有望だと思われる作品に著作権投票をした。
私の作品の著作権は、僅かな過半数により認められた。7番目のワルツが、私は最も個性的だと思う。

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 <ダフニスとクロエ>は3幕の舞踊的シンフォニーで、
ロシアバレエ団の監督であるセルゲイ・ディアギレフに依頼され作られた。
脚色はミシェル・フォーキンで、その上彼は名高いバレエ団のダンサーでもあった。
この曲での私の作曲のねらいは、広大な音楽のフレスコ画を作曲することだった。
それは18世紀のフランスの芸術家によって想像され、描写されたのに似ている。
作品はいくつかのモティーフによる、とても厳密な音の配色によって交響曲的に構成される。
そして、それらのモティーフの発展により協和音を構成する。
 ダフニスは1907年にスケッチされ、何度か改訂され、入念に完成した。
初演はロシアバレエ団により行われた。
 <マラルメの三つの詩>で私はマラルメの詩を音楽に置き換えようとした。
特に彼の詩が意味する内容と、その個性的な気取りのようなものを表現したかった。
この作品のなかの“もろいガラスの器”はとても奇妙で彼のソネット(14行詩)の中で、
最も難解ではないかと思う。
この作品の中で、私はェーンベルクの“月に衝かれたピエロ”と大体同じ編成のアンサンブルを使った。
 <トリオ>はその最初の主題はバスク風で、1914年、サン・ジャン・ド・リュズで、ようやく作曲された。
 その翌年、私は軍隊に志願した。
そして、当然のことだが私の音楽活動は、私が解雇される1917年の秋まで中断されることになった。
私はその後、<クープランの墓>を作り終えた。
実際、クープラン彼自身に対する敬意を示そうとしたわけではなく、18世紀のフランス音楽に興味があったのだ。
<クープランの墓>の作曲後、時々私は病にかかるようになり、作曲も中断された。
 しかし、<ラ・ヴァルス>で作曲を開始した。
これは舞踊的詩だが、私がこの曲の最初の考案を行ったのは、<スペインの時>よりも前のことだ。
<ラ・ヴァルス>は、ウイ―ンワルツのように書こうという、ファンタスティックで印象的な試みを思いついた。
私は<ラ・ヴァルス>を1855年くらいの皇帝の宮殿の中で行なわれる用に設定した。
しかし、本質的に踊る事を意図したわけではなかったが、
アントワープ劇場でのマダム・ルービンシュタインのバレエ公演で、バレエの作品として上演された。

 <ヴァイオリンとチェロのためのソナタ>は1920年作曲され、この時私はモンフォート・ラモリーにいた。
私はこのソナタが、私の作品のター二ングポイントになると信じている。
この曲では、限界まで音が薄く書かれている。和声的な魅力は放棄され
メロディーに偏るという、顕著な特徴がはっきりと現われている。
 一方<子供と魔法>は2幕の叙情的なファンタジーであり、
類似した音の希薄さはあるが、全く異なる特徴をあらわしている。
旋律は単純になり、物語をより自然にし、私はアメリカのオペレッタの精神にある自由を手に入れた。
マダム・コレットのおとぎ話の台本は、この自然さにぴったりだった。
 <ツィガーヌ>はハンガリー狂詩曲のスタイルを取る名人芸的作品だ。
 <マダガスカル島の土人の歌>はパルニーの詩が示す通りにドラマティックで、
官能的で、今までの私の作品とは違った雰囲気を持っている。
編成は四重奏のような形式に基づき、歌はファーストヴァイオリンのような役割を果たす。
単純さが重要なことの全てである。歌のパートではそれが明白に現れており、
<ヴァイオリンとピアノの為のソナタ>ではそれがもっと顕著に現れている。
 私はピアノとヴァイオリンという両者の独立を、<ヴァイオリンとピアノの為のソナタ>の作曲の中で押し通した。
お互いに、本質的に相容れないと思われるような楽器によって、
両者のバランスを取るというよりは、それらの対比を明らかにしようとしたのだ。
 1928年、私はマダム・ルービンシュタインの依頼により、オーケストラの為の<ボレロ>を作曲した。
これはとても穏やかなテンポの舞曲で、完全にメロディー、和声、そしてリズムに関係なく常に一定で、
スネアドラムによって絶え間なく刻まれてる。ただ一つの変化はオーケストラのクレッシェンドによってのみ与えられる。

 これが今までの、私の主な仕事である。これからの未来は私には予測できないが、
ピアノとオーケストラの為のコンチェルトと、
ジョゼフ・デルティユの“ジャンヌ・ダルク”に基づく大規模な声楽曲 を書く予定である。


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