「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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神頼みな毎日
照らせない光で照らせ
黒猫がいた。黒猫は皆に嫌われていた。
黒は邪悪の象徴と思われていたから、その猫の全身の黒さは好かれるものではなかった。
黒猫の体は夜の空より黒かった。黒猫の体は海の底より黒かった。黒猫の体は闇より黒かった。
黒猫は火の化神だった。自在に火を扱えた。
自身の体から溶け出すように燃え盛る黒い炎。それを自在に操り、ありとあらゆるものを燃やし尽くすことができた。
彼は力を使い、魔を焼き潰す。何が与えた能力なのか。なんのために彼に与えた能力なのか。しかし魔を見ると勝手に炎が騒ぎ立てて、全てを飲み込む。
神が人間を守るために彼に宿したのか。それは分からない。
しかしその時が来て、黒猫は決めた。もう能力は使わないと決めた。
炎がある以上、彼は大切な物を傷つけてしまうし、彼は大切な物に近づけない。怖がられてしまうし、避けられてしまう。
大切な物から、もう置いていかれるのは嫌だった。最後の光のように現れた、その大切な物を見たとき猫は決意した。
黒猫は神から与えられた『破邪炎』を捨てた。
◇
「人間を食らおうか、右目」
「そうだな。人間を食らおう、左目」
闇夜に二羽のカラスが囁きあう。楽しそうに、時折下卑た笑い声を上げながら、二羽は心底愉快そうに喋りあう。
「久々の肉だ」
「久々の人だ」
黒い空に、光る目玉が二つ。カラスたちは囁きあう。
「何しろ、奴はもういない。最近炎はめっきり見ない」
「炎が邪魔で喰おうにも喰えず、忌々しかったそれは、今はもう消えた」
甲高い笑い声。
月が雲から出てきて辺りを薄く照らす。照らされたのは二羽のカラス。一つ目のカラスが二羽、楽しそうに会話している。
「喰える。喰えるぞ、右目。破邪炎が消えた。我らの夜だ。人間共を照らす光はもういない」
「ああ楽しみだ左目。人間達の肉を。内臓を。骨を。眼を。全てほじくりだしてくれる。我らがくちばしで、世の人間共を全て屍に変えてくれる」
羽音。
◇
「貴方の髪は綺麗ね。手触りがとても素敵だわ。一体どんな色なのかしら」
「僕の髪なんか手入れしていないから、粗末なものだよ。君の髪のほうが綺麗だよ」
少女が優しい手つきで撫でる髪は、漆黒だった。少年は少女の膝元で黙って目を閉じて座っていた。少女は彼の髪を触るのが好きだったが、少年としては複雑な気持ちだった。
大きな屋敷の広い庭で、少年と少女が楽しそうに会話をしていた。
「私の目が見れればなぁ。君の髪が何色か見れるのに」
閉じられたままの目で、どこか遠くを見つめる。少女は小さい頃、病気で光を失っていた。
「僕の髪は、詰まらない色だよ。君の金色の髪のほうが綺麗だ」
こんなことを思ってはいけない。しかし少年は時々思わず感謝してしまう。黒髪を持つ彼に優しく接してくれるのは、少女だけだった。
少女の目が見えなくて良かった。ふと心の底に一瞬だけ芽生える考え。自分はなんて愚かなんだろう。そんなことを思うなんて。
少年はいつも複雑な気持ちで少女の傍に座るのだ。そして彼の髪をいじりたがる彼女にされるがままになっていた。
「髪ばかり触っていても詰まらないでしょう」
「いいえ、楽しいわ。だって貴方のはすごくなめらかで、柔らかくて、暖かくて、やさしいんですもの」
そう言って、何度も少年の頭を撫でる。その細い指で黒髪を遊ぶ。
最高の時。少年は自分にこんな時間が訪れるなんて思っていなかった。昔は触れてくる者に怪我をさせたり、焼き殺してしまっていた。そしてそれ以前に黒髪を持つ少年には、誰も触れようとは思わなかった。だからこの時間の素晴らしさは例えようがない。
彼女と彼が出会ったのは、どれくらいか昔のことだった。
彼がいつものように殺しを終えて、血に塗れた体を引きづりながら帰り道を辿っていた時だった。魔が殺した人間の血を、たっぷり浴びて血生臭かった。
月の眩しい夜。
ふと通りかかった大きな豪邸の庭先に、彼女がいた。小さな木造の椅子に腰掛けて、目を閉じていた。金色の髪が月に照らされて輝き、白い肌は不思議な光を帯びていた。神がかった光景に、思わず少年は息を呑んだ。
「誰かいるの?」
何故気付かれたのかは分からなかった。しかし突然自分の存在を知られて、少年は焦って逃げ出した。振り返らず、とにかく逃げた。
別の夜。同じように魔を焼き殺した帰りに、同じ道を通って少年は息を呑む。こないだと同じように、月に照らされる少女がいた。
「誰?」
そして閉じたままの目を向けられる。なぜ気付かれるのかは分からない。少年は少女の目が見えていないことに気付いていた。
その日も逃げた。彼は誰かと関わることに恐怖と悲しみしか抱いてなかった。
ある日、少女が泣いていた。
雨の降る夜だった。雨をも無視して炎を行使した少年が、帰り道に少女を見た。月も出ておらずさらさらと雨がふっている庭で少女が立っていた。
雨の雫に紛れて、涙が混じっているのに少年は気付いた。
「誰?」
少女は同じように聞く。今度は少年のほうを向かなかった。
少年は逃げなかった。
「何で泣いてるの?」
少女はびっくりしたように、少年のほうを向く。閉じたままの目で少年をみつめて、そして優しく微笑んだ。
「私の友達が死んでしまったの。昔からずっと一杯お話していた友達が、死んでしまったの」
「友達が」
少年はただ少女を見つめる。
「私こうして目が見えなくて、目を閉じたままでいるのが周りには奇怪に見えたんでしょうね。昔から避けられたりいじめられたりした。病気のせいで外にも出られなかった。でもそれでも私と一緒に遊んでくれたの」
少年は羨ましいと思った。自分には黒髪を気にせず語りかけてくれる友達なんかいなかった。
「色んな話をたくさんした。両親は仕事でかまってくれなくても、家の中ががらんとしていても、友達がいれば寂しくなんかなかった。一杯色んなことを話して、たくさん話して……」
苦しそうに言葉を切り、月のない空を見上げる。
「でも、死んでしまった。私はまた一人ぼっちね」
雨の降る夜。庭は濡れて、月の光もない。ふたつの影は大きな距離を取って、ただ立っていた。
やがて少年は、口を開いた。
「……代わりになれないかな」
「え?」
「その友達の代わりになりたい。話だって一杯聞くし、いつでもここに来る。傍にはいられないけど、話はできる」
少年の中で大きな変化が生まれた夜だった。
「ありがとう。でもいいの? 私こんな目なのに」
「全然気になんないよ。ただ、一つだけ聞いて」
「何?」
「僕には触れないで」
◇
悲鳴。笑い。断末魔。笑い。
死。喜び。死。悦び。
夜は血で塗れていた。街には二羽のカラスが舞い降りた。巨体のカラスは楽しそうに人間で遊ぶ。
くちばしで突けば首がちぎれて、手足が舞う。血は噴出し肉はつぶれる。鍵爪を立てれば内臓は漏れ出し血も漏れ出し、引き千切れる。
甲高い笑い声が続く。死が続く。炎はいない。食べ放題。
「早く! 囲めッ」
刃を携え兵士がやって来た。月の光を反射して光る剣を振りかざし、カラス二羽に立ち向かう。
「非力なり」
カラスが目を細め、嬉しそうに呟いた。くちばしを動かすと、死が山のように生まれた。兵士たちは恐怖に怯えながら、守りたいもののために剣を振るう。
しかし全てが無駄だった。漆黒のカラスに全ての命が飲まれていく。
◇
少女と少年。彼らはその夜から友達となった。
毎日毎日、庭で会っては会話する。不思議と会話の種は尽きなくて、二人はずっと笑いあっていた。完璧に亡くなった彼女の友人の代わりにはなれないかもしれないけど、でも彼は出来る限り彼女と一緒にいた。
やがて少女は彼に触れたがった。光のない者は触れることが全てで、造形を理解する唯一の方法だった。少年は困惑した。触れられては困る。怪我をさせてしまう。怖がられてしまう。
魔を払うための内なる力。それは少年の手には負えるものではなく、どうしても完全に抑えて普通の人間になりきることはできなかった。だから触れられては彼女を怪我させてしまう。
しかし少年も彼女に近づきたかった。いつだって彼女は数歩先にいる存在で、いつまでも遠かった。初めての友達にもっと近づきたくて、でも壊したくなくて少年は悩んだ。
断るたびに残念そうにする彼女。楽しそうに笑う彼女。近くに来るように頼む彼女。
少年はある選択に行き着いた。
神から与えられた力なんかいらない。抑えられないものなんか、内から追い出してしまえばいい。
「でもそれでいいの?」
「いいよ。僕は、もう守りたいものしか守らない」
「守れるの? 炎もなしに」
「守れるさ。どこまでも逃げてやる」
その日現れた魔は悲惨な最期を遂げた。全ての炎を吐き出すように、からからになるまで地獄の業火を吐き続けた。吐きながら神に願う。
――もう僕はこんな能力はいらない。もう貴方から貰った能力は使わない。
――だから、もうこの力を捨てさせて。
やがて少年は炎を全て吐き出した。
彼はただの黒猫になって、少女の下へと走った。
◇
「黒だ」
「黒だわ」
「なんて禍々しいの」
「邪悪だわ」
「消えればいいのに」
「死ねばいい」
「いなくなれ」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
◇
「あら、あの子」
「……ああ、見えないのか」
「閉じたまま。見えないのね、可哀想に」
「病気か何かかな? あの子、目が見えないみたいだ。かわいそうに」
「可哀想に」
「大変だろう」
「可哀想に」
「辛いだろうなぁ、まだ子供なのに」
「可哀想に」
◇
「貴方の髪の色は何色なの?」
「僕の髪の色は……」
外が騒がしかった。少年には何の騒動が起きているか、大体見当がついていた。時折遠くで悲鳴が聞こえる。
きっと魔が暴れているのだろう。でももう僕には関係ない。少年は自分が守りたいと思ったものだけを守ろうと決めていた。
その判断が悪いなんて、神にも言わせない。
「私は見えないから、せめて教えて?」
「…………」
少年は黙り込んでしまった。もう自分の中には恐ろしい力はないが、黒は不吉で邪悪で恐れられる。
「僕の髪の色は……」
「恐れないで」
そっと少年の頭に、少女は頬を乗せた。その言葉に少年は驚いた。
何か、すっと奥まで見透かされているような気持ちになった。少女は何度も恐れないで、と彼に言う。
震える唇で彼は言う。
「僕の髪の色は……黒だ」
「やっぱり……」
少女の言葉にさらに驚いて、思わず少年はまじまじと少女を見つめる。
「何も見えない世界で、暗い世界の中に黒い光があったの。暖かい黒い火がずっと見えてたんだ。最近は見えなくなっちゃったけど」
少女はそうして微笑んだ。
「それにずっと普通じゃないなって思ってたんだ。だって君、いつも血の匂いをつけていたんだもん。私と会う前に、いつも何か大変なことをしてたんだなって。……分かってたよ」
少年は俯いた。これで、もう何もかもが終わりだ。
少女に隠していたことは大きすぎる。そして隠していたのは嫌われるには十分すぎるほどの事実だった。少年は覚悟して、
「でも、嫌いになんかならないから」
「え……」
間の抜けた声が出た。
「君が黒だからって、血の匂いをさせていたって私の大事な人だもん。でも……しなきゃいけないことをしない人は嫌いだよ」
目が見えなくても、彼女はちゃんと見ていた。いつどこでどう気付いたのか少年には分からない。けれど彼女なりに全てを感じ取っていた。
「何か起こってるんでしょ? それで君が行かなきゃならないんでしょ? 私が見た炎は、貴方の炎は、誰かを助けるためにあるんでしょ?」
少年をそっと抱きしめる。
「行って、頑張ってきて」
「でも……」
戦えば一度は捨てた能力がまた彼の中に戻ってきてしまう。魔と戦えば、少年はまた火をその体にまとわせる。
「そしたらもう、僕らは傍には……」
少女は少年の体を力一杯抱きしめた。そして小さく呟いた。
「それでも。それでも私の好きな貴方でいて」
かすかに震える彼女の背に手を回して、少年は最後に彼女に触れる。そしてゆっくりと立ち上がった。
「…………分かった」
炎が灯り、惨劇は終わる。
◇
下品な笑いの二重奏が、月のない夜に響く。その主旋律に骨の折れる音や血の流れる音。悲鳴、叫び、苦しみ、死が混ざりあい重なりあって、大きな曲になっていた。
「旨い」
「火はおらず。楽園を手にしたな、左目」
「ああ、ここは死の楽園だ。右目。――旨い」
大通りには肉片が散乱していた。足の踏み場もなく、地面には散り散りになった人体の欠片や血液が散乱していた。
と、そこに一人の影が現れた。街の寂しげな明かりに照らされて、影が伸びていた。
始めは人影だった影は、形を変えて猫となる。小さな猫のシルエットが二羽の魔の元に伸びる。
「破邪炎」
黒猫だった。
黒猫の黒さが溶け出したように、黒い炎がその体から巻き起こる。渦巻き集結して、増す。
黒い炎は燃え盛り、段々と黒猫の輪郭がぼやけていく。全身が半分炎と化してさらに炎は踊り勢い増す。
「破邪炎が今頃来たぞ。右目」
「我ら満足いくまで人間食して、破邪炎にも遅れはとるまい。左目」
耳を覆いたくなるような汚い嗤い声。
「僕は、彼女に好きでいて欲しいから」
猫の体は神がかった美しさで、その気迫だけで殺そうとする勢いだった。彼の周りで破邪炎が盛大に暴れだす。
闇の中で目立つはずのない黒が輝き、あたりを照らす。黒が輝く。
カラスが羽ばたいた。
漆黒の火柱が瞬いた。
◇
彼と彼女は、時折庭で話をする。
だけど昔のあの時のように、彼の髪に彼女が触れることはない。彼が触れさせることもない。
距離を取って会話をして、彼は闇へと戻る。彼女は広い広い庭で、ただ空を見上げている。
寂しくないといえば嘘だった。だけど彼は、魔を葬るそのたびに彼女を想える。彼女は、魔が消えるたびに大きく輝く炎を心の中で見つめてながら彼を想う。
二人はずっと孤独で、だけどずっと――。
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