「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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物事には前兆とか前触れがあるというが、あれは嘘だ。
「幸弘。もうすぐバレンタインだけど、欲しい? 良かったらあげるわ」
少し前のことだが、なんの前触れもなく真衣は俺にそう言った。本当に突然である。あんまりにも唐突過ぎて、しかも突拍子だったものだから、しばらくその言葉の意味を捉えるのに時間がかかった。
それからやっとのことで意味を理解したあと、真剣にいったい何の冗談だと思ったのを覚えている。なんせ真衣とは小学校の頃からの腐れ縁だが、バレンタインに何かを貰ったことは今までに一度も無かった。それがお互い中学三年生になった今頃「あげる」と言い出すのだから、本当に何を今更といった感じだった。
でもそこは少し期待してしまうのが男心と言う奴。
「まぁ……楽しみにしてるよ」
その時はそんな感じの返事を返したものの、俺だって伊達に何年も真衣の幼馴染をやってるわけではない。真衣がそういう冗談が大好きなのは知っていた。変に期待させて実は無し、落胆してる俺の様を見て高笑い。とか企んでいるに違いないと気付き、そう考えたら一瞬感じた期待もあっさり霧散して、そのやりとりの記憶はバレンタインデーの事もろともゴミ袋に突っ込んで放り出してしまった。記憶の彼方にある廃棄物処理場へと運ばれていった。
しかしこの廃棄処分した筈の記憶が、下駄箱に入っていた紙袋を見た瞬間一気に脳内に舞い戻り、まるでビデオのように過去の映像を再生したから、俺はしばらく下駄箱の前で呆然と立ち尽くしてしまった。
「そうか、今日はバレンタインデーか……。すっかり忘れてた。驚いたな……」
思わず独り言まで飛び出すほど驚いた。
再生される過去の映像は、真衣の表情や言葉を繰り返し頭の中に映し出す。考えてみればたしかに冗談のような素振りはなかったし、真面目な口調だったように思える。心なしか頬が少し赤かった気が……。それは気のせいか。
とりあえずこのまま突っ立っていても仕方ないので下駄箱から紙袋を取り出し、靴を履き替えた。手に持った紙袋には僅かな重みが感じられ、掻き消えたはずの淡い期待が再びゆっくりと沸きあがった。
「にしても……真衣がねぇ?」
また独り言。もしかしたら照れがあっての独り言なのかもしれないな、なんて自己分析をしながら、それにしても下駄箱に入れるなんて真衣の奴め柄にもなく女の子らしいことするじゃないかと感心する。少し手法が古い気もするが、真衣の性格から考えると下駄箱は予想外だ。なるほど今回はそういう遊びなのかも知れない。騙し、とかではなく演出ごっこ的な趣向なのだろう。
校舎四階にあるクラスに向かって歩きながら、手の中にある紙袋を眺める。真っ白な紙袋で、持ち手は赤い丸紐だ。質素ながらどことなくお洒落であり、バレンタインの贈り物を入れるには妥当な袋だと思う。どことなく大人っぽさまで醸し出されていて、なかなか真衣はいいセンスをしている。
階段をゆっくり上りながら、今度は紙袋の中身に意識を向ける。こういうのは鞄にでも収めて、家でゆっくりと拝見すべきなのだろうか。しかしこれは真衣の遊びであるからして、やはりその場で開けてリアクションを取るのが一番妥当なのかもしれない。
とか色々考えながらも、俺の右手は勝手に袋の中身を取り出そうとしているのだから、つくづく飼主である俺に似て好奇心旺盛な右手である。
「きゅー」
「……きゅー?」
俺の右手が探り当てた袋の中の物体は、想像していたそれとかなりかけ離れたものだった。袋の大きさや持ったときの重みから小さな箱かラッピングされた包みでも入っているものと思っていたが、これが全く違った。
「なんだこれ?」
初見ではそれはまるっきり蛇だった。蒼い鱗を持った蛇。俺の右手はそいつの細く丸い胴体をばっちり掴んでいて、その蛇もどきは右手に絡みつきながらうねうねと動いていた。鱗の感触が肌に伝わってきて、見た目からも蛇でしかないと思った。
「蛇?」
しかし手があるのだ。可愛らしい小さな二本の手が、胴体半ばより少し上と言うなんとも中途半端な場所から生えている。となればトカゲの一種? いや、それにしては胴体が長すぎる。しかも足がない。千切れたようでもなかった。
うねうねと動いていたそれは、やがて俺を視認した。お互いの眼と眼が合い、視線がぶつかる。無駄に長い細い白い髭が宙を踊っていたり、頭の部分にちっちゃな角が生えていたりして、その顔はどうみても蛇のものではない。どこかで見たことあるな、と考えること数秒。
「龍……?」
見れば見るほど龍だった。そう、ドラゴンである。しかも胴長の東洋タイプだ。しかしどうにも全体的に愛らしく、しかも体も細く小さいためか龍らしい威厳は無い。そのクリクリとした小さな丸い眼がじっと俺の事を見つめていた。
「そう来たか……まさか龍とは」
実は少しは疑っていた。袋の中身が肩すかしなんじゃないだろうか、たとえば中身はただの石ころだったり、はずれと書かれた紙きれが入っていたりするのでは、と。なんせ仕掛け人は真衣なので、入っていてもおかしくないのだ。
なんて先の先まで読んでしっかり予想を立てていた俺だったが、よもや龍が入っていようとは完全に予想外であり、て言うかそう言う問題ではない。なんなんだ、この生き物。
「きゅー」
鳴き声は甲高く、ある種の笛の音のような感じだった。硝子玉のようなきらきら光る瞳を俺に向けている。汚れの無さ過ぎる瞳といい蒼色のなめらかな鱗といい、全体的に綺麗で可愛らしい龍だった。
しかし可愛らしいからと言って害がないと断定はできないので、とりあえず現状をはっきりと認識し終えたので、冷静に対処することにした。龍を袋の中へと戻し、体を掴んでいた右手を離す。やがて右手に絡まっていた龍が離れるのを確認すると、龍を刺激しないようにゆっくり手を引き抜き袋の口を閉じた。対処完了。あとは元凶から細かい事を聞きだし問い詰めて、返却すればいい。
とか思ってると何時の間にか教室の前にいて、どうやら龍との格闘中も気に足は動いていたらしかった。ドアを開けると教室の中には人の気配があり、それは間違いなく真衣だった。
「あ、幸弘。……お、おはようッ」
「おー、おはよう」
教室には他に誰もいない。俺が朝早いのは今に始まったことではないし、真衣はそんな俺の下駄箱に袋を入れるためにいつもより早く登校したのだろうから当然のことだった。
「それで、えーと……」
真衣は慌てて席から立ち上がると、何故か目線を逸らしながら何かぼそぼそ呟き、やがてきっと睨むように俺を見た。朝からなんだか怖いし、どこかいつもの真衣ではないので不気味である。何かの前触れだろうか。
「や、約束通りバレンタインデーあげた」
何故か口調もおかしい。ああ、もしかして笑いを堪えているのだろうか。なんせ中身は龍だったんだから。
「ああたしかに受け取ったよ。龍」
「龍?」
真衣は怪訝な顔をして聞き返した。俺は黙って頷き、袋の口を開ける。すると龍がそぉっと顔を外へと出した。
「なっ――。あ~~~ッ!」
龍を見て真衣は驚愕の声を上げた。口をあうあうと小さく動かし、しばらくその表情のまま人形のように動かなくなった。しかしやがてハッと意識を取り戻し、思い出したようにつかつかと歩み寄ってきて、
「な、なんであんたがここにいるのよ!」
と龍の首根っこ捕まえて悲鳴に近い怒声を上げた。龍はただ困ったようにきゅーと鳴くばかりで、そんな龍の様子に真衣はむぅーと唸ると、またハッと何かに気がついた動作を取った。
「あ~~~ッ」
龍を袋の中から引っ張り出したかと思ったら、袋の中を覗いて真衣はまたしても声を上げた。落胆と悲しみの入り混じった声だった。俺も真衣に続いて袋の中を覗いてみると、さっきは気付かなかったが小さな箱が入っていた。しかしフタは開けられていて、中身は空。
「あぁそんな……せっかく作ったのに、想龍が全部食べちゃった……」
うなだれて、か細い声でそう呟く真衣。
そんな真衣の横で、ふわふわと浮かぶ龍もまた、真衣の悲しさが移ったようにしゅんとうなだれた。そう見えたってだけだから、実際のところどうだか分からないが。
「で、一体何がなんなんだ?」
なんだか俺一人だけ訳が分からない状況で、実に好ましくない。
「え、あ……。その……」
真衣は俺の存在に今気付いたように驚き、慌てた。
「その生き物は一体なんだ。この状況はどういうことだ?」
真衣の横でふわふわ浮く龍を指差し聞いてやると、真衣は目を丸くしてぽかんとした。
「え?……えッ、えッ? ……これ、見えるの」
「ばっちりと見えるが。なんだ、見えたらいけないものか」
それにしても翼もないのに宙に浮いてるところを見るとますます龍らしく思える。神秘的な飛行能力だ。どうやって浮いているのだろう。
「で、こいつはなんだ。なんの生き物だ。て言うか生き物だよな」
「本当に見えるんだ……」
唖然と言った感じで真衣に見つめられる。龍も何故か俺の顔を凝視していて、その目がさっきより僅かに見開かれているように見えた。
「で、こいつはなんだ? 説明してくれ」
「これは――」
と言い掛けたその時、教室のドアが開かれた。他のクラスメイトたちが登校してきたようで、突っ立ってる俺達を見て怪訝な顔をした。俺と真衣は顔を見合わせて、その間をふわふわと龍が通って、
「えっと……後でね」
「ああ、後で」
慌てて龍を押し隠しながら、二人してぎこちなくそう言いあった。
◇
「私の家系には昔から龍がついてるの。私のおばあちゃんにも、お母さんにもついてて、最近私の元にもこの子が現れた。ある年頃になると現れて、一生付き添うっていう話よ。それも女の人の下にだけ現れるの」
「ふぅん? 非現代的な話だな。……でも目の前にいるんだから否定しても仕方ないか」
眼前にふわふわと浮かぶ龍を指で軽く小突きながら、こんな奇怪な生物がまだ現存するとは。と呆れの混じった感動を覚えた。世界に蔓延ってる化学はまだ完全に『不思議』というものを殺しきれていないようだった。
龍が誰かの眼に留まると困るので、俺達は昼休みになると屋上へと移動した。この学校が劣悪の環境化、つまり最悪の不良校だった頃、愕然とするほどワルだったと噂に聞く先輩達が鍵を叩き壊して以来、屋上は鍵もなく開け放たれた空間となっている。新しく付け替えればいいのでは、と思うところだが、大きな問題もなくちょっとした憩いの場になっているから放置されていた。
今は時期が時期だけにあまりにも寒いので屋上に出る者なんかは俺達ぐらいだ。今日なんかはまだ日が暖かくマシだが、それでもコートやマフラーを着込んでる。
「私の元にも龍が現れるんだって子供の頃から思ってたわ。それで数日前にその子が、――想龍が現れた」
「そう、りゅう?」
「人を想うの想に、龍。お婆ちゃんが名づけたの」
真衣のおばあさんと言えば過去に一度だけ会った覚えがあった。たしか厳かな雰囲気を背負った人だった。人を想う龍とは、なかなか粋な名前をつけるのも、古き良きなんとやらのセンスだろうか。
「想龍って言うのか、こいつ。それにしてもお前の家系にそんな不思議な事情があったとは初めて知ったぞ」
「言ってなかったもん。それに私小さい頃から龍を見てたし、普通の事だと思ってた」
龍と言う存在のどこが普通なんだ。こんな面白いものは、十五年生きてきて初めて見たぞ。
「それにしても……」
真衣は俺をまじまじと見つめて、いや睨んで、首を捻っていた。気の強い目で見つめられると、どうしても睨まれてるように感じてしまう。それほど鋭い視線なのだ。
「龍の存在は不可視な筈なのよね……」
「不可視?」
「私達龍の主以外は、つまり私達の家系以外の人間には、龍の姿は見えないはずなのよ。そういう風に教えられたわ」
しかし俺はばっちり龍の姿を視認している。くねくねと楽しそうに浮かぶ想龍は、俺のコートのフードに納まって嬉しそうに身を縮めている。
「俺はお前の家系の人間ではないが、完全に見えるぞ」
「なんで見えるのかしら」
しばらく真衣は考え込んでいたが、どうにも答えは出ないらしい。静寂の時間が流れて、しばらく大人しく待っていたが俺はいい加減痺れを切らして、
「で、他には?」
俺が聞くと、真衣はきょとんとした。
「他って?」
「他だよ。結局名前と、お前の家系が特殊だってことと、不可視存在の癖に俺に見られてるぐらいしか分かってないぞ」
「私だってそれぐらいしか知らないわよ。だって、教えてくれないんだもん。想龍が現れたときも、おばあちゃんたち凄く嬉しそうにしてたわ。でも何故かは教えてくれないの。この子にどんな意味があるのかも教えてくれなかった。ただ嬉しそうに笑ってるだけ」
「ふぅん」
「それより、なんであんた想龍が見えるのよ。意味わかんないわよ」
「なんでって言われても。俺の観察眼の鋭さからは逃れられないんじゃないか?」
自慢ではないが、俺は物事の観察とかちょっと得意だ。道行く人のさりげない仕草とか、表情の僅かな変化とか。そういうのに目を走らせるのが得意だったりする。人間よりは、物事を観察するほうが好きだけど。
これもまた別に自慢する気はないが、この観察癖のおかげで人の恋愛にはいち早く気付いたりする。そういうのがあるとかすかに行動に現れるのだから、人間は実に正直だ。まぁ別に気付いたからと言って言いふらしたりしないし、別にどうでもいいのだが。
「あほか。龍の不可視は絶対なのよ。それにあんただって子供の頃、おばあちゃんの龍を見たけど、見えてなかったでしょう」
どうやら一度だけ会ったことがあるあの時、俺は真衣のおばあちゃんの龍を目の前にしていたらしい。しかし記憶の映像に龍の姿はもちろんない。気配すら感じなかった。
「あの時は俺も小学生だったからな。中学三年と成長した今、観察眼もしっかり成長したに違いない。そしてお前の最近現れた未熟な龍だから、見えてるのかもしれない」
「何言ってんのよ……」
結局説明を求めても大した答えは得られず、俺はこの未確認生物に対する知的欲求を持て余す形となった。
想龍をフードの中から引っ張り出して真衣に返そうとするも、想龍は今度は袖から服の中に潜り込み、首下から顔を出して「きゅー」と鳴いた。首下から顔を出してる想龍を見つめて、つくづく龍っぽくない呑気な顔つきだと白い息を吐く。
冬の空は淡い青色で、寒い空気は気持ちよく張り詰めていた。今年はまだ雪は降ってないが最近じゃ早くも春の暖かさが感じられるようになったから、このまま行くと今年は雪は降らずに終わるだろう。
中学最後の年はそんな風に幕を閉じようとしていた。お互い進路が決定しているので、俺も真衣も呑気なものだった。俺は春から近くの公立高校に、真衣は少し遠くの私立に通うらしかった。
隣で俺と同じように白い息を吐き、そして頬に手を当てて身を縮こまらせてる真衣。その横顔を幾度見てきたものやら。まぁ小学校を卒業してから自然と距離も離れて、時折会話を交わす程度だったが。
綺麗な黒髪は後ろで一つに纏められていて、すらりと毛先が首下まで垂れていた。毛の先まで気の強さが伝わっているようで、まるで一本一本に神経が通っているような隙のなさだった。
黒い瞳は宙をぼんやりと見つめていて、頬は寒さのせいで少し赤い。そのもともとの白い肌にやんわりと赤みが差しているので、とてつもなく可愛らしく見える。
膝を抱えて身を縮め座っている姿はとても小柄で、弱弱しい小ささだった。性格はそうでも彼女は立派なか弱い少女であり、容姿は他より抜きん出てるからして、黙っていれば可憐な少女の見本のような感じだった。
「……な、何よ」
つい、いつもの観察癖が出た。少し見つめすぎたのか、さすがに真衣が俺の視線に気付いて不満げな声でこちらを睨んだ。黒い瞳が真っ直ぐ俺を捉えてから、別の方向へと恥ずかしげに軽く泳ぐ。何故だか真衣がそわそわとしてる。
「別に。もうすぐ冬も終わるなって」
「……? 冬が終わるのと私を見てたの何か関係あるわけ?」
「なんにもー。ただ、もうすぐ卒業だなって」
「卒業と私を見てたの、どう関係するのよ」
「別にー」
チャイムが鳴った。昼休み終了のチャイムだ。俺はさっさと立ち上がり、ドアへと駆け寄る。真衣が不満げに「何よ、なんなの?」と呟いていた。
屋上からの階段を降りる途中、
「ねぇ幸弘」
呼び止められて、立ち止まる。振り返ると数段上で、真衣が立ち止まって俺を見下ろしていた。
「その……バレンタイン、ごめん」
「ん。ああ、別にいいよ」
袋にはしっかりバレンタインのチョコが入っていた。しかも聞けば真衣の手作りだったらしい。しかしそれをいつの間にか入り込んだ想龍が食べてしまった。
たしかに真衣の作ってきたチョコなんて物凄く興味深い代物だ。なんせ今までに何かを真衣から貰った覚えはなく、まずチョコを作れる能力があったことに驚いた。しかし、
「龍なんて珍しいもの見れたんだから満足だよ。俺もあんまり甘いもの好きじゃないしな。ありがとう」
「……うん」
真衣は俯き加減で頷いた。しかしいまだに立ち止まったままでしばらく黙りこみ、やがてか細い声で呟くように
「あの……さ」
コートの裾を力一杯握り締めて、何故か顔を真っ赤にして、口をぱくぱくと動かしている。真衣は俯いているから長めの前髪が顔を隠していて、下段にいる俺の位置からでも頬の赤さぐらいしか見えない。
俺の首元から想龍が顔を出した。きゅーと鳴いて、その顔を俺の頬に押し付けてくる。そんな想龍を片手で相手をしながら、俺は真衣の言葉を待ち続けた。真衣は何かを言おうとして、しかし言葉は出ず無意味に口を動かし、
「その……あの……」
実に真衣らしくない仕草である。いつもうるさいほどはっきりとした声で喋るのに、真衣らしくない。しかし長年真衣の幼馴染をやっている俺は、実はこの仕草、何度か見たことがあった。しかし過去にも同じことがあったと言っても今回ほどはっきりとしたものではなく、いつも一瞬で消えてしまうような僅かな変化だった。
「……もうすぐ卒業でしょ」
「ああ、あと一ヶ月もないな」
真衣がやっと口を開いた。しかしそれはすぐにでも消えてしまいそうな危うい声だった。
「私達、学校別々じゃん」
「うん」
「…………だから、ね。その……」
真衣の内部で何が起こっているのかは知らないが、何か大きなものがぶつかり合っているような、はたまた何か大きなエネルギーが膨張し続けているような、舞の様子はまるでそんな感じだった。その何かの運動のせいで発生した熱が真衣の顔を赤く染めて、さらには真衣の小柄な体では収まりきらず膨大な熱エネルギーがじりじりと湧き出ているようだった。
しかし俺はこの『何か』がなんであるのかは知ることはできなかった。真衣がやっと何かを言おうと口を開いた時、五時間目授業開始のチャイムが鳴り響いた。爆発寸前だった真衣の中の何かは、チャイムに阻まれ急速に縮まって、冷えて、真衣の奥底へと帰っていったようだった。
「……っ」
真衣は下唇を噛み、親の仇を見るような目で俺を睨んだ。いや実際はそうではなくただ見つめただけなんだろうが、しかしその目に宿った感情はとんでもなく鋭利なものだったように思え、怒りもたしかに混ざってるようだった。俺に向けられたものなのかは定かではないが。
「……いい」
「なに?」
あんまりにも小さい声で呟くものだから、思わず聞き返した。すると今度こそ真衣は俺をきっと睨み、
「いいっ言ってんの! なんでもない! ほらさっさと教室戻るよッ!」
吼えた。そして一気に俺の脇を抜けて、階段を駆け下りていった。さながら龍か、はたまた虎か。そんな気迫だった。
階段に一人残された俺は、やがて真衣の荒い足音が遠ざかった頃に、
「なんなんだよ。一体……」
また独り言をもらした。今日は訳の分からない事ばかり起こるから、独り言も思わず三回目だ。すると首元に巻きつくようにしていた想龍が、茫然と立ち尽くしている俺の頬にまた顔を摺り寄せた。鱗の感触とひげがくすぐったい。
「きゅー」
指で遊んでやると一声鳴いて、その指を軽く噛んだ。あくまで軽くであり、かじかじと人差し指の腹をその小さな口で噛み続ける。鳴き声にはどこか湿っぽい調子が含まれていた。
教室に戻るとすでに授業は始まっていて、しかしこの時期になると先生も今更教えることなど何もないと言わんばかりに適当な態度だったから、特にお叱りを受けることなく席へとついた。窓際の一番後ろの席。その席へと戻る途中、四つほど前に座ってる真衣をちらと見たが、真衣は頬杖をついて窓の外へと視線を投げていて、なんだかイラついたオーラを纏っていた。
席に着きぼおーとすることもなく頬杖をついて、教室をなんとなく見渡す。もう卒業真直だから空席が目立ち、いるだけでも二十人くらい。寝ているものやぼぉーとしているものが大多数で、起きてる者もそれぞれが隅の方に集まって静かにおしゃべりをしている。黒板には自習と殴り書きされていて、どうやらプリントをやるらしいが、もちろん誰もやっていないようだった。
三年生は受験以外は楽だと聞いた事があるが本当らしい。あんまりにも気の抜けた空気だから、なんのために学校に来ているのか忘れそうになる。
「きゅー」
首元から袖元に移動した想龍を見て、そういえばなんでお前ここにいるんだ。と今更これは真衣の龍だと気付いた。袖から顔を出している龍に教室の皆は誰も気付かないようだった。
「不可視の能力、か……」
俺には全く効いてないがな。もしかしてやっぱり俺は他人と違って、そういうのに敏感なのだろうか。日頃の観察癖がついに実を結んで、他人が気付けないものにも気付けちゃうとか。でも幽霊とかそう言う類のものは一度も見た事がない。まだ会った事がないだけかもしれないが、どうにも俺に霊感があるとは思えなかった。
「お前の飼い主は、なんだか不機嫌だぜ」
想龍の頭を人差し指の腹で撫でる。四つ前の席にいる真衣の背中に視線を向けると、いまだに怒気のオーラが立ち上っていた。何に向けての怒りなのかは知らないが、俺だとしたら俺は何をしたよ。
他人を観察する癖はあるが、自分を観察する癖はないので、もしかしたら知らないところで真衣の怒りを買ったのかもしれない。
想龍は撫でられてくすぐったそうにしてから、また俺の指を噛んだ。なんだかふて腐れた犬のような噛み方だ。昔飼ってた犬が、よく構ってやらないとこういう噛み方をしてきたのを思い出し、撫でてやったのにそう言う仕打ちかよ想龍君、とか思ったりして時間を潰した。
「飼い主に似て、君も訳が分からんなぁ」
想龍は黙って俺の指を噛み続けた。
◇
やがて六時間目が終わり、帰りの会も気だるい空気のまま終了したが、想龍はまだ俺の元にいた。休み時間の間も真衣は不機嫌空気を纏い続けていて、なんとも近寄りがたい雰囲気だったし、下手に刺激して矛先が俺に集中するのも怖かった。そうして学校が終わった今、真衣はずかずかと足早に帰宅してしまって、想龍も飛んで追いかけてくれればいいのに何故か俺に纏わりついているから、結局返せずじまいだった。
「お前、ご主人様帰っちゃったぞ?」
「きゅー」
俺の人差し指がお気に入りなのか、想龍は置いてけぼりを食らったことも気にせず指の腹を噛み続けていた。痛くは全然ないのだが、こうなると手が使えない。痛くは無いが邪魔ではあった。
仕方がないから今日のところは預かって、明日にでも返そう。にしても何を食うんだこいつ。雑食だと助かるんだけどな、あ、もしかして食べさせちゃいけないものとかあるんだろうか。
なんて考えながら帰路を辿る。途中神社の前を通った時だった。想龍が噛むのを止めて、首を持ち上げて「きゅー」と嬉しそうに鳴いた。
「ん?」
「おや」
俺の声と、年老いた風な声が重なった。声の主はちょうど神社から出てきたお婆さんだった。白髪の見事な背中の丸まった老婆で、買い物袋を片手に提げていた。そして、
「想龍じゃないか」
「え、龍?」
彼女は俺の袖元にいる想龍を見て、俺は彼女の首に巻きついている龍を見て、またしても同時に声を上げた。
「想龍って……知ってるんですか。それにその龍……」
改めて老婆の外見を見て、どこか見覚えがあることに気付いた。そうだ、小学校の頃、たしか真衣と一緒に、真衣の家で。
「真衣のおばあさん?」
「そうだよ。あんたは……誰だ? なんで想龍を」
どうやらこっちは覚えてもらってないらしく、俺は自己紹介をするはめとなった。
「幸弘、幸弘……。ああ、真衣がよく遊んでた少年か。あの壷を叩き割った」
「は、はははは……。そのときはどうも」
壷割り事件。そう、このおばあさんと俺が対面した時、事態は最悪だった。真衣と遊んでた時に、ちょっとうっかりして家にあった高価そうな壷を叩き割ったのだ。――真衣が。
「こっちは怒り狂ってるってーのに、平然として謝り続けてたムカつく少年か。はー、あの時の」
「そうです。その時のムカつく少年です」
その頃から俺は無駄に斜に構えてて、たしかに可愛くない子供だった。それに真犯人は真衣のわけで、見当違いの老婆の怒りなんか全く平気だった。
「私が怒ってるのはお前なのに、何故か真衣が泣き出して、本当訳が分からんことだったな」
「おばあさんの怒り具合は本当に恐ろしかったですからね」
真衣の家で二人して遊んでた時、真衣の不注意で壷を叩き割れて、真衣はその後の展開に恐怖し半泣きになった。普段壁をも突き抜けていくような元気娘だった真衣がそんな様子だったので相当一大事なのだろうと子供ながらに驚いたことを覚えてる。実際怒られてみて、たしかにその迫力は龍の如し。なんであの時自分が泣き出さなかったのか不思議なほどの勢いだった。
なんで罪を被ってやったかといえば、それはほらやっぱり……、女の子が泣きそうだったらかばうのは男の役目、みたいな。……いや実際は他人様の子供にそんな厳しく怒らないだろうという子供らしくない目論みを持っていたからだ。だから泣きそうな真衣をなだめて、自己申告した。壷を割りましたと。
この目論見は見事外れおばあさんはしっかりと怒り狂ってくれた。しかし性格の捻くれた、計算高い、しかも真衣の保護という大義名分まで抱えた俺には大して効果はなく、自分でも恐ろしいほど冷静に謝りつづけた。やがて傍で見ていた真衣が老婆の怒り具合と、おそらく自分に代わって怒られてる俺に対する申し訳なさでわんわんと泣き出した。それで事態は混乱に乗じて無理やり収束した。
なんとも懐かしい思い出である。たしか真衣が泣いたところを見たのはあれが最初で最後だったように思える。なかなか貴重な体験だ。
「で、なんで想龍がここにいる」
「ああ、真衣が忘れてったんですよ」
「ほお。真衣が」
真衣のおばあさんはにやっと笑みを浮かべた。俺はこの人が怒ってるところしか知らないので、なんとも変な感じだった。
「真衣がお前さんねぇ……ほおほお、ふーん」
ひとしきり変な笑みを浮かべたあと、おばあさんはのろのろと歩き出した。なんなんだとその場に立ち尽くしていると、
「ほれ、ついてこんかい。それから荷物を持つぐらいの気を利かせんか」
「……はぁ」
何故だか荷物持ちをやらされることになった。真衣のおばあさんなだけはあり、とても強引である。まぁ帰り道は途中まで一緒なので構わないが。
しばらく黙って歩く。俺はおばあさんの少し後ろを歩き、そのペースにあわせた。おばあさんの首元には想龍より少し大きめの、頭に立派な角を持った龍が巻きついている。鱗の色は灰色だった。想龍と違って、龍らしい威厳に満ちていた。
「真衣はどうだ。学校では」
突然おばあさんが口を開いたかと思えば、そんなことだった。
「どうって言われても普通でしたよ。ああ、今日はなんか少し変だったけど」
「あいつは私に似て、強情な奴だ」
またも突然の切り替えだ。話題についていけない。
「強情で、自分を出すのが下手だ。いつも自分を押し隠して、強がってる」
「はぁ……そう……、なんですか?」
真衣が自分を押し隠している? あれだけやかましい、全身からエネルギーを放出しまくってる奴もいないと思うが。まぁ今日はなんだか静かだったけど。
「そうだ。しかしやっと想龍も現れて、時期は遅いがとりあえず安心だよ。なにがきっかけかねぇ。もうすぐ春だからか、高校生になるからか」
なんだか置いてきぼりを食らってると思った。おばあさんは一人でぶつぶつと呟くように話しているが、それは俺に向けられた言葉にしては不親切で、どちらかといえば独り言だった。
「私のもとに好龍がやってきたのは、もう少し若い時だったがなぁ」
おばあさんは首元で落ち着いている灰色の龍の頭を撫でて、そう呟いた。
「こうりゅうって言うんですか」
「そうだよ。私のおばあさまが名づけてくださった」
どうやら祖母が孫の龍に名前をつけるのは彼女達の家系の伝統のようなものらしかった。
やがて分かれ道がやってきて、俺は持っていた荷物をおばあさんに返した。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだい」
「龍って一体なんなんです?」
俺の質問を聞いて、老婆はにやっと笑った。
「定義なんぞない。自分なりに捉えるものだよ。教えてもらうものじゃなくて、感じ取るものよ。いや、真衣の為にも感じ取ってやっとくれ」
結局答えではなかった。ますます意味が分からなくなり、ボケてるんじゃないか? この婆さん。決して顔には出さず、そんなことを思った。
「あの子は強情な上に、鈍感だから。さすがに自分の内面くらい気付いてるだろうけど、龍の意味に気付くかどうか……」
また独り言。それからおばあさんは俺の袖から顔を出している想龍を、その皺の多い手で優しく撫でて、それから俺の顔をじっと睨み、
「龍はよくなついてるが、あんたも自分には疎そうな顔してるな。やれやれ」
なにやら失礼なことを言ったあと、おばあさんはくるっと背を抜けてゆっくり歩き出した。手をヒラヒラと数度振って、歩いていく。
「なんなんだよ。全く」
独り言を呟いて、それから袖から顔を覗かせてる想龍を見て、
「返すの忘れた……。お前もいい加減、自分の場所に戻れよなぁ」
「きゅー」
想龍はいい加減指を噛むのを止めていて、ふて腐れたりいじけるのに飽きたようだった。なんとなく大人しくなり、そっと袖元から首の辺りに移動して、そこから顔を出して、頭を俺の首筋にこすり付けた。随分懐かれたものだな俺も。
空にはいつの間にか灰色の雲がかかっていた。昼頃の晴れ渡った空はどうしたのか、雨すら降りそうな気配だ。太陽が隠れたせいで気温が愕然と下がっているみたいで凄く寒い。
「帰るか」
吐く息は白く、吸う空気は冷たい。ゆっくりとした歩調で、冷え切った道を歩いた。
そういえば忘れていたけれど今日はバレンタインだ。なんだかんだ不思議なことがあったが、結局俺は真衣のチョコを貰え損ね、手元にあるのは龍一匹。想龍だって貰ったというか、ついてきちゃっただけだけだ。明日には返す。
つまりバレンタイン収穫無し。そう思うと、なんだかこいつめ。
「想龍~。一口ぐらい残してくれればよかったのに」
なんとも惜しい。あの真衣のチョコで、しかも手作りだ。恐ろしく貴重じゃないか。二度とそんな機会はないかもしれないというのに……、
「二度と……?」
ひっかかる単語だった。しーんと言う変な音がして、心から色が薄れていくような、そんな訳のわからない感覚に襲われた。二度と、二度と。
そうかもう二度と、今日のような日は訪れないのか。小学校の頃は毎日一緒に遊んでたけど、中学になった頃から随分お互い距離が出来た。卒業したら多分もう会わなくなるだろう。
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