顕正会の誤りについて

顕正会の誤りについて

平成十五年 元旦勤行の砌


                              平成十五年一月一日
                              於 総本山客殿

 宗旨建立七百五十一年元旦、おめでとうございます。

 本朝の元旦勤行において、あちらこちらの遠隔の地方からわざわざ総本山に御参詣をなされた皆様方と相共に仏恩報謝を申し上げ、また本年度における正法興隆、各々方の業務増進、心願満足の御祈念を申し上げた次第であります。

 前からも種々お聞きのことと存じますが、本年は六年後における「平成二十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」という佳節に向かって、僧俗一致しての正法興隆、広宣流布への前進をすべく、その第一歩を印する大事な年であります。

 この年に当たって、我々は昨年度における正法護持の大きな功徳を基として、さらに六年後に向かうところの広布への前進を図りたいと思うものであります。

 昨年度のことを振り返りますと、大法護持による瑞相があらゆるところに顕れておりました。

 私ごとにもなり、また私自身の立場から、つまり日蓮正宗の管長・法主の職を務めさせていただいております上からのことでもありましたが、あの創価学会による「クロウ事件」なる忌まわしい誹謗が以前から続いておりましたところ、昨年度の宗旨建立七百五十年の佳節において、その一月三十一日にこれについて和解が成立したのであります。その和解の内容は既に御承知と思いますが、勝訴以上に満足すべきものであります。

 つまり、向こうはそれまで「クロウ事件」に関してありとあらゆる罵詈雑言を重ねてまいりましたが、今後は一切、それに触れることができなくなったのであります。それと同時に、こちらは単純な形において「そのようなことは全くなかったのである」という否定はいつでも行ってよろしいということでありまして、したがって、これは申すまでもなく勝訴以上の意義を持つ和解の成立でありました。

 そして開宣大法要が奉修された三月二十八日には、また不思議なことが起こりました。それは、例年では四月の虫払大法会の前後、すなわち六日・七日ごろに満開となる桜が、昨年度に限って三月の二十八日が最も開花の盛りでありました。そして、その桜は次の日からだんだんと散り始めたのであります。まるで三月二十八日の大法要を待って、その法要を本当に讃する如く二十八日に満開になったということも、これは不思議な実相と受け止めております。

 それから四月の二十七・二十八日の特別大法要もまことに好天に恵まれ、さらに次の日からの三十万総登山も、ほぼ良天候のもとに奉修されました。

 さらに十月下旬から十二月上旬にかけて海外信徒総登山が三回にわたって行われましたが、すべての方々の登山の往き還りにおいて、その行路が平安でありまして、国内三十万総登山も含め、いささかの不祥事も事故も起こっておりません。これもまことに仏法の正義を顕揚するための加護の在り方と存ずるのであります。

 また、奉安堂の完成に伴い、十月十日に本門戒壇の大御本尊の御遷座を行いました。その時に、不思議にも鳳凰の如き雲が現れ、ちょうど御遷座の時刻にその雲が奉安堂の真上にまで達したということを見て、その雲の写真を撮った方もいらっしゃいます。

 さらに十月の十二日・十三日の両日のことですが、十二日は奉安堂の落度大法要、十三日はそれから十日間にわたる落慶記念大法要の初日であり、しかも大聖人様の御命日でもあります。この十二日・十三日が、朝から晩まで、わずかひとかけらの雲もない晴天でありました。このようなことは通常、全くないことであります。いかに晴天とはいっても、一日のなかのいずれかの時刻にわずかな雲は出るものであります。このことは毎日の天気に気をつけて御覧になっていればよく判ると思うのですが、二日間にわたって本当にいささかの雲もなかったのであります。

 このような点から拝しましても、我々が僧俗一致して行った宗旨建立七百五十年の大事業がすべて完遂したことは、仏祖三宝尊の御照覧・御加護あそばされるところの姿であると思うのであります。また、これらのところから、本当に我々は昨年度において正法護持興隆の功徳を修することができたと思うのであります。

 そして、その趣意は破邪顕正ということにありました。特に奉安堂の建立の元は正本堂の解体によるのでありますが、あの正本堂を解体したのは、凡夫であり下衆の人間であるところの池田大作が、宗祖大聖人の境界を乗り越えようとするような大それた野望と悪念を持っており、その大謗法の塊として正本堂が建立されたことがはっきりと判ってきたからであります。このことは初めのうちはなかなかはっきりしませんでしたが、時を追うにしたがって、彼らの、特に池田大作の正法を否定するところの考えがはっきりと表れてきたのであります。

 つまり、大聖人様は本門の題目を弘宣され、また本門の本尊をお弘めになったのであります。それに対して池田大作の心底には、「日蓮大聖人ができなかったところの本門の戒壇を建立する。その本門の戒壇が正本堂である」という、まことに不逞極まる図式をもって、いわゆる日蓮大聖人様以上の法華経の行者が池田大作であるという考えがずっと存在しておったのであります。そして、このことが時間の経過とともにはっきりと表れてきました。そこに大謗法の根源があったのでありますから、これを断固として打ち破るためにも、正本堂を解体するということが自然の流れのなかで顕れてまいりました。

 このところに初めて、本当の正法を護持し、また正しく広布に向かって前進する内容が備わったということを、私はひしひしと感じておる次第であります。

 このような昨年の正法護持の功徳を基として、本年からさらに真の広布への出発をしなければならない、そこに正義顕揚の広布へ向かっての意義が存すると思うのであります。

 「立正安国」の「正」、また「正義顕揚」の「正」とは、すなわち「一に止まる」と書きます。その「一」とは何かと言えば、仏法の上においては、あらゆる方便を交えて説かれた教えに対する真実、すなわち中心というところに「一」が存するのであります。すなわち釈尊が華厳、阿含、方等、般若等の五千・七千の経巻を説かれたなかにおいて、法華経のみが唯一の仏乗であり、中心であるというところから「一に止まる」の「正」の意義を持っております。

 さらに宗祖日蓮大聖人の下種仏法をもって拝するならば、いわゆる「一に止まる」の「一」とは久遠元初であります。大聖人様が『当体義抄』に、

  「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(御書六九五ページ)

と仰せられた「因果倶時・不思議の一法」が、いわゆる「一に止まる」の意義を持っており、それが久遠即末法の上から、久遠元初の御本仏の御当体として御出現あそばされた日蓮大聖人様の御化導の根本である終窮究竟の本門戒壇の大御本尊様に帰するのであります。そこに真の「正」という意義があり、ここを離れて正しい仏法は全く存在しないのであります。

 しかるに他宗の者達は、華厳、阿含、方等、般若等の方便の教えをもって、それを方便と知らずに、中心の法華経に背いて宗旨を建立しておるところに、大聖人様が、

  「諸経は無得道堕地獄の根源」(同六七三ページ)

と仰せられた所以が存するのであります。すなわち根本の一法からはずれると、一切が狂いに狂っていくのであります。

 昨今において創価学会が、大聖人の仏法の四箇の格言の主意をぼかして、単なる円満な生命の力の開花にあるなどと言いながら結局、他宗他門と一緒に行っていくような姿がありますが、すべては他門を怖じ恐れるごまかしであり、これらはことごとく久遠元初の一法、一切の根本中心をはずれ、背き、忘れたところから、このような謗法の姿が現れてくるのであります。

 私は、創価学会の謗法がはっきり現れた平成二年から三年の時に「創価学会の大謗法の姿は、これからますます、ありとあらゆる面において現れてくる」ということを予言いたしましたが、まさしく昨今においては、既に謗法与同以上の謗法をもって他宗を容認し、また、その謗法の義を許して摂受だけの形になっておることからしても、大聖人様の教えを全く蔑ろにしておるとしか言いようがないのであります。

 したがいまして、我々はそのようなこととは異なり、破邪顕正を根本とするところに、すなわち妙の一字をもって即身成仏をなし、我々自身の成仏の意義を確立して幸せになりつつ、また人をも幸せにしていくところの破邪顕正、自行化他の修行こそが、本当の正義顕揚に通ずると存ずる次第であります。

 大聖人様は『開目抄』に、

  「正は妙なり。妙は正なり。正法華、妙法華是なり」(同五四八ページ)

と仰せであります。この「正法華」というのは、竺法護が梵語の「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」という題を訳して「正法蓮華経」としたものです。すなわち「薩とは正である」と考えたのであります。しかし羅什三蔵は、御書(一七一九ページ)にもお示しのように「薩とは妙である」と訳されました。いわゆる「妙法蓮華経」ということをもって、その主題の文として顕したのであります。したがって「正」はそのまま「妙」という意義をもって行ぜられるところに、本当の正しい「正」が顕れてくるのであります。

 さらに大聖人様は、

  「爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし、法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり」(御書一五四五ページ)

ということをお示しになりました。すなわち、これは凡夫即極の即身成仏の意義であります。我々凡夫の命には迷いもあり、悩みもあり、苦しみもあるが、妙法を受持するところに、その当体がそのまま仏の当体となる、妙法の当体となるというのが真実の正義であるとはっきりお示しであります。

 したがって、妙法を常に持ち、たとえひとことなりとも、力あらば他の人にこの妙法を伝えていくという、この志を持てば必ず即身成仏をするのであるということが、大聖人様の御指南において明らかであります。

 本年はそのような意味において、「平成ニ十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向かっての第一歩を印する年であります。皆様にはこの妙法弘通の志を持って本年度、いよいよ自行化他に御精進せられることを心からお祈り申し上げまして、本日の言葉とする次第であります。

 本日はまことに御苦労さまでございました。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: