三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

あまりにも不自然な自然葬



先日から、ある方と延々と葬儀についての論を交わしています。

その中で散骨を含めた自然葬の話が出てきました。

その方がおすすめされているのがこちら

葬送の自由をすすめる会

現在日本には「墓地埋葬法」というものがあり
「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、
これを行ってはならない」
とされています。

つまり、墓地と決まられた以外の場所に
埋葬してはいけないということです。

一方、この団体は自然葬という名のもとに、
散骨を行なおうとしているようです。

~~~~~以下引用~~~~~

本会は「会結成の主旨」で「遺灰を海・山にまく散灰は、
それが節度ある方法で行われるならば法律に触れることは
ありません」「私たちは先入感となら わしに縛られて
自ら葬送の自由を失っている」と主張した。

~~~~~以上引用~~~~~

まず気になるのが、「遺灰を海・山にまく」という部分です。

自然葬というからには、自然に帰すのが
目的ではないでしょうか?

それならば、海や山にまく必要は無いでしょう。

自宅の庭で十分ではないでしょうか?

さらに言えば、火葬時に焼骨を拾わないという
選択肢もあると思います。
そうすれば産業廃棄物として処理されるでしょう。

また、一般的な葬送方法であるお墓を建ててお骨を納めても、
いずれはお墓も無くなり、骨壷も無くなり、お骨は自然に帰ります。

それに、海はともかく、山には墓地として許可を
受けているところが少なくありませんし、そこでは
「自然に帰すように見える」散骨も可能です。

そう考えると、

「先入感とならわしに縛られて自ら葬送の自由を失っている」

のは失礼ながら「葬送の自由をすすめる会」の方ではと
思えてなりません。

もともと葬送儀礼自体は法律などで
制限されている訳ではありません。

現実に自由に行われているはずです。

ただ、散骨というのは衛生上の問題もあるでしょうし、
もっといえば、日本人の穢れに触れる部分がありますので
管理者がいる土地で公然と無許可で行うことは
出来るとは思えません。

私などは他人のお骨を自宅に撒かれたら気持ち悪いと
思うのですが、「葬送の自由をすすめる会」に
入っている方はそう思わないのでしょうか?

延々と論を交わしている方は

「散骨は反社会的ではないし、違法でもない」

とおっしゃられますので

「ではご自宅の庭を自然葬の散骨場として
開放されてはいかがですか?」

と申し上げました。

本当に、お骨を自然に帰すのならば自宅の庭で十分です。
自宅の庭にお骨を撒かれるのは嫌だが、
海や山にお骨をまきたいなどというのは
自分勝手としか思えません。

そう考えた時にこの「葬送の自由をすすめる会」には
葬送の自由という旗印の下に、自分さえよければいいとうエゴ
が見え隠れしているように思えてならないのですが
いかがでしょうか?

先日、自然葬について書いたところ、
コメントをいただきありがとうございました。

参考にさせていただきたいと思います。

ところで、以前、葬儀に公正証書遺言が必要か?という記事を
書いたことがあります。

遺言までして自分の葬儀を指示することに
どれほど意味があるか?
また、遺言までしなければならない人に葬儀を
頼むというのもいかがなものでしょう。

~~~~~以下引用~~~~~

まずは親類縁者とよい関係を築くこと、
そして自分の意思を伝えること、そしてそれ以上に
自分が先祖の供養を行なうことです。

自分が信心深く、周りともよい関係を持っていれば、
自分の意思に近い葬儀を遺族が行なってくれる
可能性は高くなります。

~~~~~以上引用~~~~~

こう締めくくりました。

葬送の自由をすすめる会

のサイトでもう一つ気になることがありました。

自然葬契約と自筆証書遺言

自然葬相談会で、参加者から「自然葬契約を締結したけれども、
その実施を確実にするために遺言を作っておきたい。

という趣旨らしいですが・・・

身寄りがいない一人ぐらしの独居者ならともかく、
身内がいるならそう頼んだら済む話のように思いますが・・・

さらに言えば、わざわざ葬儀方法を指定するということは
身内を信じていないということ。
死んでまでわがままを通すように思えてなりません。
そのような遺言する人を、故人の望んだ葬送方法で
送ったとして遺族は満足できるでしょうか?
そのようなことは考えられないように思います。

「所要の費用を支払い済みなら、その旨を記載し、
もし不足が生じたならば、本人の死後の財産から
支弁する旨を併せて記載すること。」

遺言のサンプルにこのような条文が入っているのも不可解?

実行するときの支障になりそうです。

「亡くなってから火葬して遺骨になるまでの費用は
平均で50万円から70万円。」

う~ん、自然葬も結構お金がかかりますね!
さらに、それを散骨ということになると
100万近くいきそうです。

「カネばかりかかり心のこもらない旧い葬送習俗、
つまり葬式仏教とか金ぴか葬儀への批判」

ということがこのサイトには書いてあるんですが・・・

しかし、自然葬でこんなにお金を払う人がいるとは意外!(@_@;)

実は当院には墓地で登記している山林があるんですよ!

「雄大な吉野川を見ながら、眉山で眠りましょう」

おお~キャッチコピーも出来た!
早速、自然葬に参入を検討しないと(*^^)v

ちなみに徳島では葬儀社に頼んでも
火葬だけなら10万もかからないはずです。

そういえば、質問のあった遺骨の粉末方法。

1、家族の手で砕く

2、専門家に頼む

粉末化に使うのは理化学実験用のスタンプミルという
高さ1メートルほどの試料粉砕装置だそうです。

身内のお骨の粉砕を人に頼むのも・・・
そこまでして自然葬???

先日、葬送の自由?-あまりにも不自然な自然葬という記事を
書きました。大変反響があったようです。

それに答える形で、延々と論を重ねている方も
日記を書かれました。
それを読んでよくわかった事実があります。

「散骨は宗教行事か?」ということです。

その方は、散骨は宗教行事だと思われているようですが、
こちらはそう考えておりません。

全く議論がかみ合っていなかった理由も判りました。

三度び葬送の自由をすすめる会に登場していただきます。

~~~~~以下引用~~~~~

「骨を砕いて粉と為し、之を山中に散らすべし」と遺言した
淳和天皇(786年―840年)や、「それがし閉眼せば、
加茂川に入れてうほ(魚)にあたうべし」と言い残した
浄土真宗開祖の親鸞(1173年―1262年)などの例からも、
遺灰を山や川にまいていた日本人の姿が想像できる。

~~~~~以上引用~~~~~

昔から散骨は行われていたと主張したいようです。

権力者はともかく、一般庶民は山野に遺棄されて、
川に流されたというのが事実でしょう。

ただ、その根拠として淳和天皇や浄土真宗開祖の親鸞を
引き合いに出すのはいかがでしょうか?

淳和上皇は危篤となったとき、兄の嵯峨上皇や仁明天皇に
遠慮して「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残して
いないことを示して欲しい」と遺言したのです。

つまり政治的な問題から墓所を作らず
散骨を選んだということです。

自分の息子が権力闘争に巻き込まれる心配がなかったなら
陵を築いたはずです。

一方の親鸞上人と言えば浄土真宗の祖です。
浄土真宗の教義は
「阿弥陀如来の慈悲にすがれば極楽浄土へ往生できる」
というものです。
さらに言えば
「阿弥陀如来にすがった時点で、極楽へ行くことが決まっている」
のです。

だから、今世はどんな苦難があろうとも、極楽往生出来ることに
感謝して生きるべきと考えていました。
死後の自分の葬送方法に興味などあろうはずがありません。

川に入れること自体に意味はなく。
「適当に処分して欲しい」
という解釈が普通ではないでしょうか?

つまり淳和天皇や親鸞上人は、むしろ、ある程度地位が
あった人の間では、墓所を作ることが普通だったことの
裏返しのように思われます。

当たり前のことは記録に残さない。
むしろ、特異なことを記録する。
という歴史の原則からすると
いわば、自然葬が普通でなかったという記述です。

しかし、一般庶民は山野に遺棄されて、川に流された
というのが事実だろうといわれそうですが・・・

そのとおりです。

しかし、それゆえ私は散骨に問題ありと思うのです。

当時の山野や川というのはごく身近な存在です。
自然葬として遺棄してしていたとはいえ、
そんなに遠い場所ではありません。

飼っていた犬や猫が亡くなると庭に埋めますが、
それと同じ感覚だと思っていいでしょう。

現在のようにわざわざ交通手段を使って
お骨を撒きにいく散骨とは趣が違います。

むしろ、私の提唱した、自宅の庭に埋めるほうが
自然葬の名にふさわしいことが
お分かりいただけますでしょうか?

人間は自分達が便利なように都市を作りました。
ところが、その都市が皮肉なことに住みにくい。

そこで、たまに自然の中へ出かけます。

「いや~自然はいいな~」

でもそこに住もうとは思わないでしょう。
それは不便だからです。

自然のたくさんある田舎は、不便です。
出かけるのも大変だし、儲かる仕事もできないし・・・
だから過疎化が進んでいます。

でもそんなところに住んでいる人がいます。
もし、住んでいないとしても、いきものはいます。

散骨をしたいという人で、大都市のど真ん中で
しようとする人はいないでしょう。

もし行ったとしたら「節度がない」と
いわれるんでしょうか?

でも、海や山なら散骨してもよい???

そこで生活している、生活の糧にしている人に
理解が得られなくて、反発されるのに???

「田舎に住んでここが好きだから死んだら庭に埋めてほしい」
「都会に住んでここが好きだから死んだら庭に埋めてほしい」

これは理解できる意見です。
尊重したいとも思います。

「都会に住んでいる、でも死んだら静かな海や山(田舎)で
眠りたいので散骨してほしい」

「田舎に住んでいる、でも死んだら大都会に住んでみたいので
大都会で散骨してほしい」

これは二つともおかしくありませんか!

散骨をしたいという意見自体を否定する気はありません。
するなら、交通機関など使わない、お散歩の距離ぐらいで
してほしい!

かつての日本人は自然を畏れかつ敬っていました。
だから入ってはいけない神聖な場所を設けていました。
自然を人間が利用し、その恩恵を受ける、その一方で
自然を畏れ無制限の開発から守っていく。
それが誰に教えられることなく、受け継がれてきました。

それが日本人の自然観です。
自然とともに生きる生活。
その中で自然葬があることは当たり前の話です。

どう考えても、お骨をわざわざ砕いて、交通機関を使って
誰もいない場所へ撒きに行くのは不自然すぎます。
環境にも優しくないし、人間が住んでいないところへ
散骨に行けばいくほど自然環境に余計なストレスを
掛けてしまいます。

それが宗教行事といわれると疑問を感じざるを得ません。

いかがでしょうか?

最終更新日 2009年03月21日

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