魂の還る場所

魂の還る場所

第一夜   真夏日

 触れた指に、大きな心の動きが隠せなかった。
 焦って、慌てて、動転して…この動揺はちょっと大きい。
 いきなり背後から声を掛けられた時のような、単なる「驚き」にも似ていた。だが、最大の相違点を挙げるとすれば、一瞬で色を変えた頬と、その熱さだった。季節に関係なく白い肌の色は、少しの心理的変化に結びつき、嘘なんてつけないようにしてしまう。
 この時も、やはりそうだった。
 たった一歩の差で信号が赤に変わってしまい、隣りで「あーあ」と声を上げた青年は、何気なく、前髪を挙げようと右手を額へと伸ばそうとした。すぐ側にいる木綿子(ゆうこ)との距離を測ることを忘れ、下ろしていた手が動き、互いの手が触れたのだった。
 本当に一瞬の、本当に偶然の出来事だった。
 だから、不覚にも、「何でもない顔」というのを作り損ねてしまった。
(…ま、まずい…)
 こんなことで赤くなるなんて、知られたくなかった。
 今までずっと、ケンカ友達の枠に居て、からかい合って、追いかけ合って、笑い合っていたのに。
 …本当はその後で、込み上げてくる笑いが隠せなかったり、小突かれたところに手を伸ばしてみたり、日記の中には些細なことが踊った文字で書かれていたとしても、もしバレたとしたら…最低最悪な事態しか想像出来ない。
 とりあえず今は、どうにかして心も頬の火照りも鎮めなければならない。
 隣りでは、目の前の信号と車道側の信号とを交互に見ている。身長差に、どんな表情をしているのかは分からなかった。
「まずったなー。ここの信号、長いんだよな」
 そんな言葉に「そ、そうだね…」と返すが、内心それどころではない。
 こっそり俯き、「しずまれ、しずまれ…」と呪文みたいに呟いて、頬に手を当ててみたりする。
 一応努力しているのに。
(これが触ったんだよね…)
 この事態の元凶を思い出して、余計に赤くなってしまったりして…。
「うわあぁぁ…」
 零れ落ちた動揺が、車の音と蝉の声に書き消されていますように…と祈らずにはいられない。
 気付かれませんように…気付かれませんように…、と呪文が変わる。
 二〇センチの身長差が、彼の視界から今だけは自分を外してくれますように…と。
 思っていたのに。
「…おまえ、何やってんの?」
「…」
 ささやかな願いは、無情にも聞き流されてしまった。
「べ、別にっ」
 突き放すような口調に、(何やってんの、私のバカーッ)と思っている周りでは、蝉が「しゅわしゅわしゅわしゅわ…」と合唱を続けている。
 信号はまた赤のままで、本当に長い。
 …沈黙も長い…。
「…」
 どうにか体温も脈拍も正常値に戻りつつあったが、逆に低下していきそうでもあった。自分の可愛げの無さに、彼女を包む空気だけが濃い青へ変わり、南極まで連れていってくれそうな気配である。
 それに気付かない様子で、彼は再び前髪を掻きあげ、視線を彷徨わせながら言葉を降らせてきた。
「おまえと居ると、ほんとツイてないよな」
 降ってきたのは、雹(ひょう)ほどの威力を持っていた。何せ、小さな溜め息も付いていたから。
「…な…」
「こんな暑い中、買い出しジャンケンには負けるし、信号には掴まるし」
 折角の夏休み、二週間は補習で埋まっていた。いつもと変わりなく朝から夕方まで授業を受けている。そんな状況でいつしか生まれたのが、仲間内での『買い出しジャンケン』だった。よりによって「真夏日になるでしょう」という予報が的中したこの日、二人は負けたのだである。
 「あーあ、暑い暑い」
と呟く隣りで、
「それはこっちの台詞よっ」
と、いつも通りに返すのだが、見上げても合わない視線が、今度は悲しかった。
 彼は解襟シャツの胸元を引っ張ったりして風を送り、やはり信号を見ている。
 そうしながら、
「おまえが負けたんじゃねぇか」
 …これには返す言葉がなかった。
 というのも、このゲームは先ずジャンケンでチームを作り、代表一人が更にジャンケンし、負けたところが買い出し、というルールだった。
 二人はチームに決まると同時にジャンケンし、勝った木綿子が代表となるや否や、一回で見事敗北を決定させたのである。
 そのことを思い出したら、「…ごめん…」と謝るしかなかった。
「…」
「…」
 再び沈黙が広がり、「しゅわしゅわ…」だけが、やけに大きく響いた。
 目の前では車が次々停まっていく。
 もうすぐ、横断歩道が青に変わる。
「…炎天下に買い出し、の罰な」
 落ちてきた声に、知らないうちに俯いていた顔を上げた。
 今度も目は合わない。
「次の日曜、空けとけよ」
「…え?」
 訳が判らなくて見つめた横顔。
「…わかった。涼しいところにお供します」
 目が合わないのは呆れてるからじゃなくて。
 赤くなっていたのは暑さのせいじゃないみたいだ、と思ったのは、掴まれた左腕と、足早に信号を渡り始めたことに、気付いた時だった。 


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