“お笑い”哲学論のページにようこそ!

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◆失われゆくもの◆


今になって思うと、私の全盛期は子供時代だったかも知れません。
私の子供時代は華々しかったのです。
児童の頃は多くの天才たちと同様、児童の名をほしいままにしていました。

このまま行くと将来はきっと大人になるに違いない、と皆の期待を集めていました。
私は世間の期待を裏切らず、無事、中高年のオヤジになっていますが、児童を経て大人になる素質は生まれた時から、備わっていたのだと思います。

私が生まれて一週間後には、家族の中に私の名前を知らぬ者はいなかったし、小学校へ上がると、私の名前は、瞬く間にクラス中に知れわたりました。
人の名前を憶えられない頭の悪い子供を除く、クラスの五分の一は、私の名前を知り、「マッケンジーがスカートめくりをした」と先生に告げ口したものです。


私が幼少期を過ごした所は瀬戸内海に浮かぶ美しい島です。
駅で言うと、広島駅から山陽本線に乗り、電車を乗り継いで、呉線の「忠海」という小さな海沿いの駅に着いたら、乗り過ごしたと思って間違いないでしょう。
それでも、ハワイやモルディヴに着くより近いでしょう。

タヒチを地上最後の楽園と呼ぶ人がいますが、私には私の故郷の島は地上最初の楽園だったと思います。
小学生の頃、毎日のように家の近くの丘に登り、そこにある大きい岩の上に腹ばいになって海を見ていました。
太陽に暖められた岩の上から、穏やかな瀬戸内の海の上を大小の船がゆっくりと行きかっているのが見えました。
当時はなんとも思いませんでしたが、いま思い返すと、それが至福の時だったのでしょう。
あの頃には二度と戻れません。


しかし、どうして戻れないと思うのでしょうか。
同じ幸福が味わいたければ、今からでも電車に乗り、同じ岩の上に腹ばいになれば、戻れそうなものです。
それで足りなければ、ランドセルを買って小学校に入学してもいい。

だが何をしても、昔の幸福は絶対に甦りはしないでしょう。
何か貴重なものが決定的に失われた気がするのです。

では何が失われたのでしょうか。
奇妙なことに、いくら考えても失われた物は見当たりません。

その頃より、何もかも増えていて、失われた物は何も無いとしか思えないのです。
身長、体重、知識、想像力、感性、借金、コレステロール、欲望、欲望充足の手段など、どれを取り上げても当時よりはるかに多くを手にしているのです。

純真さが失われたのか、とも思われるのですが、しかし子供の時も悪い事を考えていたのです。
嘘もついたし、スカートめくりもしました。
小ずるく立ち回り、最大限の自己利益を追求して、他人への思いやりにも欠けていました。

感動が失われた訳でもありません。
小学生の頃は、今よりも感動することが少なかったし、映画を観て涙を流すことなどありませんでした。
(映画館もありませんでした)
そもそも、海を見て感動していた訳でもないし、絵を描いたり、詩を書いていた訳でもないのです。
ただぼんやり見ていただけです。
もしかしたら、親に怒られるような事をしでかして、家に帰れなかったのかも知れません。


結局、生活が余りにも複雑になり過ぎたのだと思います。
どこでどう間違ったのか、気が付いてみると、いつの間にか無数の義務に縛られ、大量の欲望に振り回され、多数の敵と少数の味方に小突き回されています。
なぜか、大人になると誰でも同様の生活を強いられるのです。


老人になって、この複雑な生活から開放されるのが待ち遠しい。
老人になったら、海辺の岩の上で、のんびり海を見ながら、しみじみ昔を振り返るのです。

そして、小突き回され、振り回されていた頃の幸福は二度と戻って来ない、とため息をつくのでしょう。






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