「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ラ・ラ・ラ・メディテーション
スーフィーの物語
多くの賢者たちを擁していた王が自分の富に不満を感じた。しかも近くの国、彼の国よりも力の強い国が攻撃の準備をしていた。王は死を、敗北、絶望、寄る年波を恐れていた。そこで、彼は自分の賢者たちを呼んで言った。「なぜだかはわからないが、私はある指輪を捜さなければならない……それは、不幸なときには私を楽しませてくれると同時に、もし幸せなときに見たら、悲しませてくれるという指輪だ」
彼は鍵を、ふたつの扉を開くことのできる鍵を求めていた――幸福の扉と不幸の扉。彼はなにを求めていたのだろう? 彼は自分のムードの習得を求めていた。自分のムードの主人になりたいと言っていた彼はもはやそれらの犠牲者になるのを望んでいない。
賢者たちは相談しあったが、どのような結論も見い出せなかった。ついに彼らはスーフィー神秘家のところに言って助言を求めた。スーフィーは自分の指から指輪を外し、それを彼らに与えて言った。「ひとつ条件がある。それを王に与えるがいい。だが、彼に伝えることだ。すべてが失われ、混乱の極みに達して、苦悩の極みに達して、まったく望みがなくなったときにしかその石の裏側を見てはならない。さもなければ、彼はメッセージを逃す」
王は従った。国は失われ、自分の命を救うただそれだけのために、彼は王国から逃げ出した。敵が迫っていた。彼は騎馬の音を聞くことができた……しかも馬は死んでしまい、彼は自分の足で走った……彼は窮地に陥った。底の知れない深淵しかなかった。
最後の瞬間になって、彼は指輪を思い出した。彼はそれを開けた。石の裏側を見ると、そこにメッセージがあった。そこには――
これもまた過ぎ去る、とあった。
Osho UNTIL YOU DIE, pp.192-204
「あるスーフィーマスターの理解」
ではこの小さな逸話を見てごらん。
一人の男がバヤジッドの許へやって来て……
ビスタムのバヤジッドというのは偉大なスーフィー・マスターの一人だった。
一人の男がバヤジッドの許へやって来て
三十年も精進し祈ってきたが
未だ神を理解するに至らないと言った。
初めの初めっから、この男はまちがった姿勢をしているね。この男はひじょうに計算高い、ずる賢い人間だったにちがいない。そうでなければ愛と祈りの瞬間をどうして数えていられよう?どうしてこんなことが言えるのだろう?
「私は三十年も祈ってきた……」この計算が示しているのはビジネス精神だ。三十年だって?よく数えていたものだ!
この男はこの俗世の人間、欲深くって計算高いこの世界の人間だったにちがいない。脱俗した世界に移っていったのだが、その姿勢は同じで変らなかった。
「私はこれこれ何日のあいだ断食をした、何回折った。それなのに何も起こらないなんて?」実のところ、もし祈りとは何かを知っていたら結果などどうでもいいはずだ。祈りそのものが結果だ。その価値は、すでに祈りそのものの内にある。
祈る……、と、それだけで充分だ!
祈りは幸福、祈りは歓喜だ。祈ること自体ですでに充たされる。ほかには何もいらない。
ところが、あなたがたは祈っていないときには祈りの結果を待ちこがれる。そうなったら、祈りは目的のための手段になる。〈神〉の理解とか〈神〉の実現とか、そういったことのための手段になる。が、祈りはけっして目的のための手段にはなりえない。
祈りはそれ自体で完結している。
すべて美しいもの、愛、祈り、瞑想、これらはすべてそれ自体で完結する。ほかのもののための手段にはなりえない。もし手段に変えてしまったら、あなたがたは大事な点を見逃すことになる。それらはただ楽しむだけでいい。
それはちょうど、朝、散歩に行くのと同じだ。陽が昇り、新しい一日が生まれる。ふたたび生命が復活する。夜の死のなかからすべてがよみがえる。樹々は目覚め、鳥たちは活気づき、香くわしい新鮮なそよ風が吹きわたる……。あなたは朝の散歩をただ楽しむ。それとも日記にこう書くかね?
「……私は三十年のあいだ毎朝散歩した、が、まだ何も起こっていない」
朝の散歩は朝の散歩、それ自体で完結する。その目的はそれ自体の内にすでに備わっている。あなたは散歩を楽しんだのだ。毎朝のその散歩によって豊かになったのだ。その散歩によって、将来いつか豊かになるというのではない。まさに今、あなたを豊かにするのだ。
〈生命〉はつねに現金払いだ。約束手形ではない。約束はしない。
〈生〉はキャッシュ、現金だ。即座に在るものだ。今ここで、〈生〉はあなたがたに与えられるすべてを与えている。
ハッピーで嬉しい気分のとき、あなたは唄いだす。踊りだす。それをあなたは数えるかね?日記につけるかね?「……三十年のあいだ踊ったり唄ったりしてきたが、いまだ神の会得が起こらない」
それならあなたは踊ったことはない。あなたは踊る人ではない。踊る技術はもち合わせているかもしれないが、踊る人ではない。唄い方は知っているかもしれないが、唄う人ではまったくない。
これが、テクニシャンと踊る人とのちがいだ。
踊る人は踊る!そしてその瞬間、すべてが達成される。その瞬間、踊る人は失われるからだ。エゴが死に、踊る人がいなくなる。踊りは在る、が、その中心はない。その踊りは無限の海の一つの波だ。寄せてはかえしつつ存在し、かつ溶け消える。踊りの振りを操作する何者もその内側にはいない。
テクニシャンが踊るとき、つまり訓練された踊り手が踊るときには、操作がある。それがいかに完壁であっても、その踊りは死んでいる。なぜならそこに操作する人がいるからだ。彼は計算している。どのくらい……と。
あなたがたに話したいある美しい話がある。これは、インドの偉大なミュージシャンだったタンセンの生涯に起こったことだ。
タンセンはあるとき、アクバル大帝の宮廷にいたことがあった。このタンセンは比類なき存在だった。一度アクバル帝がこう訊いたことがある。
「おまえに勝る者がいるなどとは想像もつかない。そんなことは不可能にみえる。おまえは決定的な存在のようだ。しかしそう思うたびわたしの頭に浮かんでくる考えは、おまえだって誰かの弟子として学んだのにちがいあるまいということだ。その師がおまえに勝るかもしれないではないか?おまえの師は誰だ?まだ生きているのか?もしも生きて在るならこの宮廷に招こうではないか!」
タンセンは言った。
「我が師は生きております。しかし宮廷に招くことはできますまい。あの方は野生の動物のようなもの、宮廷に招き入れることはできません。
流れるがままに、ものごとが起こるがままにあの方は動きます。社会人ではないのです。風のような、雲のような……。あの方はこの世に根を下ろさぬ放浪者です。
それにあなたといえども、あの方に唄い踊ることを求めることはできません。それは不可能です。あの方は唄を感じるときに唄い、踊りを感じるときに踊るのです。ですからあなたが彼の許に行って、待ってみるほかありません。」
アクバル帝はこの話にすっかり魅了された。彼はタンセンに傾倒していたので、「このタンセンの師が生きているとは!どんなことをしても出かける価値がある」と思った、そして、「その師がどこにいようともわたしは行ってみよう!」と言った。
タンセンの師は流浪のファキール(行者)で、名前はハリダスという。タンセンは人をやって師がどこにいるかを調べさせた。すると、ジャムナ河のほとりの小屋にいることがわかり、アクバル帝を伴ってその唄を聴かんものと出かけていった。附近の村人たちの話では、「真夜中すぎ、三時頃になると時折唄ったり踊ったりなさいます。それ以外は、日がな一日静かに坐っているだけです。」
というわけで二人は夜中に、まるで盗人のような格好で小屋のうしろに隠れて待った。なぜならもしそこにいることを知られたら、彼は唄わないかもしれないからだ。
しかし、ハリダスは唄いはじめた、踊りはじめた!
アクバル帝は催眠術にかけられたようになった。声ひとつ出せなかった。どんな讃辞も無意味な気がした。彼はただ涙を流すだけだった。
唄がやみ、帰途につくときになっても、アクバル帝は何も言えなかった。涙が絶えず頬を流机落ちる……。宮殿に戻り、廷内に入ろうとするとき、はじめてアクバル帝はタンセンに言った。
「わたしはおまえに勝る者はこの世にないと思っていた。おまえこそ唯一独特と考えていた。だが今では、おまえはその師と較べたら無にひとしいと言わねばなるまい。このちがいはいったいどうしたことだろう?」
タンセンは言った。
「ちがいは簡単です。私は何かを得るために唄い奏でます。力を、威信を、金を、賞賛を得るために。私の音楽はまだ目的のための手段なのです。私は何かを得るために唄う、が、私の師は、何かを得ているから唄うのです。それこそ二人のちがいです。
師は、自分の内側に何かが在るときだけしか唄いません。そういうときには唄が流れいで、踊りが起こるのです。唄も踊りも副産物のようなもの。彼が<神性>に満たされ、もうそれをかかえきれなくなって満ちあふれるとき、そのときだけ唄うのです。
師の唄はそれ自身で完結している。彼は祝福するのです!」
そしてそれこそ、真の愛と偽りの愛のあいだにあるちがいだ。
真の愛は単純に祝福するだけだ。真の愛にとって未来はない。真の祈りはひとつの祝福、それは努力でもなければ、何かのための手段でもない。生まれ起こり、そしてまた自らの内に溶けていく……。
祈りの瞬間は、それ自身の内で永遠だ。
真の祈りの人は、数えることなどしない。それはまったくバカげている。たったの一瞬であっても余るほどに多く、たったの一瞬であっても余るほどに深い充足の時となる。人はそこで満たされる。それ以上を求めることもない。ほんとうに、それだけでもあり過ぎるほどなのだ。
祈りの一瞬はそれほどに豊潤で……、あなたはもうそこにいない。それはあなたを完全に満たし尽くし、あふれ、流れだす。
もしあなたがたに一瞬でも、祈り、愛、瞑想の時が得られたら、あなたがたはいつまでもいつまでも感謝の念を覚えつづけるだろう、不平をこぼすことはないだろう。
この逸話の男は祈りの人ではなかったね。この男は欲が深かった。この世、この市場の世界にあっても欲の深い人間だったにちがいない。彼はこの市場の世界を離れはしたが、市場の精神はまだそこにある。この世の物質的な豊かさから離れこそしたが、その姿勢は変らず同じままだ。彼は金貨を数えるように祈った日数を数えている。
彼は、三十年も精進したり祈ったりしてきたのに、また<神>を会得するに至らないと言う。が、この男はけっして<神>を理解するまでに至らないだろう。なぜならこの男は全然変っていないからだ。彼は、自分の世俗的な姿勢を、全都もう一つの世界に持ちこんできている。
憶えておきなさい。あなたの姿勢があなたの世界なのだ。
あなたがたはそれをもう一つの世界に持って行くことはできない。持って行ったら、あなたがたは、その世界までも離れてきた元の世界と同じにしてしまう。
一人の男が私に会いに来たことがある。
たいへんな金持ちで、あちこちの施設や福祉計画、寺院などに寄附をしてきた男だった。彼は私に会いに来て、自分の寄附について話しはじめた。どの位、どこへ寄附したかを話すことで自己紹介をしたわけだ。そしていっしょに来た妻が、彼の話の足りない部分を補った。彼女は言った。
「この人は十万ルピーほども寄附したんですの」すると男は、いささか怒気を含んだ眼で妻を見て訂正した。
「十万ルピーじゃない。十一万ルピーだ」
自分の与えたものを数える。帳簿をつける……。
帳簿をつけたら、何も与えないのと同じだ。それはわかち合いではない。それは贈りものではなかった。数えるのだったら、それは取り引き1もう一つの世界のためにする取り引き――だったのだ。
この金持ちも、かならずいつの日か不平をこぼしてこう言うことになるだろう。
「これほども与えたのに、また<神>を会得するにほど遠いなんて。」
書名 著者 出版社 出版年 定価
円
あなたが死ぬまでは
ISBN: 4900612235 和尚著
(ナルタン)日家ふじ子訳 和尚エンタープライズジャパン 1997 本体2300
「The many teachers of Junnaid」
あなたの生のあらゆる状況があなたに教えてくれるのを許しましょう。
スーフィーの偉大な神秘家、ハサーンが死のうとしていたとき、ある人がたずねた。「ハサーン、あなたのマスターは誰だったのですか?」
彼は言った。「私には何千人ものマスターがいた。彼らの名前をあげるだけでも何か月、何年もかかるだろう。それに、そうするにはもう遅すぎる。だが、三人のマスターについてはっきりと話しておこう。」
「ひとりは泥棒だった。あるとき私は砂漠で未知に迷った。そして、ある村に着いた頃には夜も非常に更けていた。すべてが閉ざされていた。だが最後になって、私は家の壁に穴を開けようとしているひとりの男を見つけた。私は彼にどこか泊まれるところはないかとたずねた。彼は言った。『夜もこんな時間ではむずかしいだろう。だが、私といっしょでよければ泊まれる――君が泥棒といっしょに一晩すごせればの話だが』
「ところが、その男は非常にすばらしかった――私は1か月も滞在した! そして、夜ごと彼は私に言ったものだ。『さて、私は仕事に行ってくる。君はゆっくり休んで、祈っていてくれたまえ』。彼が帰ってくると、私はたずねたものだ。『なにかとれたかい?』。彼はよくこう言った。『今夜はだめだった。だが、明日、またやってみる。神が許してくれればね……』。彼はけっして絶望しなかった。いつでも幸せだったのだ。
「何年も絶えることなく瞑想して、さらに瞑想しつづけていたにもかかわらず、なにも起こっていなかったとき、もう自分ではどうしようもなくて絶望の淵にあり、このナンセンスすべてをやめにしようと思う瞬間が何回となくやってきた。すると突然、私はその泥棒のことを思い出したものだ。彼は夜ごとこう言っていた。『神が許してくれれば、明日には起こるだろう』
「そして、私の二番目のマスターは犬だった。私は河へいくところだった。喉が渇いていたのだ。すると犬がやってきた。彼も喉が渇いていたのだ。彼は河のなかをのぞきこみ、そこにもう一匹の犬――自分自身の影――を見て恐くなった。彼は吠えると逃げて行った。だが、あまりにも喉が渇いていたために、戻ってきた。ついに自分の恐れもかまわずに、彼は水のなかに飛び込んだ。すると影が消えた。そこで私は、神から私にメッセージが来たのを知った――あらゆる恐れにもかかわらず人はジャンプしなければならない、と。
「そして、三番目のマスターは幼い子どもだった。私がある待ちに入ってゆくと、子どもが火のついた蝋燭ろうそくを運んでいた。彼はモスクに蝋燭を置きにゆく途中だった。
「ちょっとからかうつもりで私はその少年にたずねた。『自分でその蝋燭に火をつけたのかい?』彼は言った。『そうです、おじさん』。そこで私はたずねた。『その蝋燭に火のついていない瞬間があって、その蝋燭に火のついている瞬間があった――その火がやってきた源を見せてくれないか?』
すると、その少年は笑って蝋燭を吹き消し、こう言った。『いま、火が消えるのを見たでしょう? それはどこに行ったのでしょうか? 言ってください!』
「私のエゴはこなごなになった。私の全知識がこなごなになった。そして、その瞬間に私は自分の愚かさを感じた。それ以来私は自分の知りたがりをすべて落とした」
私にマスターがいなかったのは事実だ。それは私が弟子ではなかったという意味ではない――私は全存在を自分のマスターとして受け容れた。私の弟子としてのありようは、あなたのそれよりももっと大きなかかわりだった。私は雲を、樹を信頼した……私は存在そのものを信頼した。私にはマスターがいなかった。私には何百万ものマスターがいたからだ――私はありうるすべての源から学んだ。
道において、弟子であることは絶対に必要なことだ。弟子であるとはどういう意味だろう? それは学ぶことができるということ、学ぶべくそこにいるということ、存在に対して感じやすいということだ。マスターとともにあなたはどう学ぶかを学び始める……少しずつ少しずつ、あなたは調子が合ってくる。そして少しずつ少しずつ、同じように全存在と調子を合わすことのできる、そのポイントが見えてくる。
マスターはスウィミング・プールだ。あなたはそこで泳ぎ方を学ぶことができる。一度学んだらすべての大洋があなたのものだ。
Osho THE SECRET OF SECRETS, Vol.1, pp.184-188
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