渡良瀬川で考えた事

渡良瀬
 渡良瀬川上流には足尾銅山があり、明治10年の機械化による増産で、その鉱毒による被害が渡良瀬川沿岸だけではなく、利根川や江戸川沿岸にまで広がり、大きな社会問題となりました。鉱毒の被害は拡大する一方で、有名な田中正造による明治天皇への直訴など、いわゆる「足尾鉱毒事件」がおこり、渡良瀬川沿岸は不毛の地と化しました。
 政府はその解決策として、渡良瀬川下流の低湿地帯を貯水池化とし、谷中村買収を具体化し現在の大湿原地となっています。
 渡良瀬遊水地の中ほどにある「旧谷中村遺跡」では谷中村を守る会の藤岡町議の針谷さんから強制買収された様子を聞くことが出来ました。
 これは、鉱毒の問題を谷中村貯水池(実際は、足尾銅山から流された鉱毒の沈殿池)という治水対策に転嫁したものでした。谷中村民は貯水池建設と廃村に反対しましたが、政府は谷中村を3年間水づけにするなど手段を選ばず買収を進め、ついに明治39年(1906)7月明治政府により谷中村は廃村にさせられました。買収に応じた人々は、親戚縁者をたより、北海道や近隣町村へ次々と移転し、残留民19戸は、家々の強制破壊を受けながらも抵抗を続け、大正6年までこの地に踏みとどまりました。
 遺跡跡地の説明書きには、足尾鉱毒事件の田中昭三の日記(明治43年4月1日)が紹介せれている。
 「谷中と鉱山の戦いなり、官憲これに加わりて鉱山を助く、人民死を以て守る。何を守る、憲法を守り自治を守り、祖先を守りここに死を持って守る」と記されている。「この地は公害闘争の原点であり、谷中村事件の唯一の生き証人である」とも記されていた。
 この説明書きとともに貼られていた「しんぶん赤旗」のコラムには、「……百年前、1901年の大事件の一つは正造の天皇への直訴(12月)でした。≪渡良瀬川にもとの清流を、鉱毒の根絶を≫。直訴は世間を驚かせました。盛岡の中学生だった啄木は感動し寄付金をおくります。東大生の河上肇(のちの経済学者、日本共産党員)は、後日開かれた支援の演説会に足を運びます金を持っていなかった彼は、着ていた外とう、羽織、えり巻きを差し出します。正造の頼みで直訴文を書いたのは幸徳秋水でした。幸徳や日本共産党の一人となる片山潜らはこの年、社会民主党を結成。軍備や階級の全廃をかかげ、普通選挙の実施を求めます。ただちに禁止。日本で初めて社会主義をめざす党でした。……」と記されていました。
 まさに日本の公害闘争の原点の地。

 この地に立って思ったことは、同じ利根川流域、群馬県の八ッ場ダム計画のこと。
 八ッ場ダム計画は、利根川に流れ込んでいる吾妻川に、東京をはじめ首都県の利水を目的にしています。しかし、さらに上流には品木ダムがあり、万座鉱山から流れ出す硫黄を含む強酸性の水が入り込んでいます。これを中和するとして毎日60トンもの石灰乳を投入しています。とても水道水に適したものではありません。
 このダム工事は始まっていませんが、既に935億円もの巨費が使われていて完成には5000億円を超えるとされているのです。
 無駄な公共事業をやめさせなければ、現在の国の借金660兆円はさらにふくれあがってしまいます。
身近にある公共事業をみんなでチェックする以外にありません。
 そんなことを考えた渡良瀬川遊水地見学でした。


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