小笠原長行,行動事情経緯2,幕末箱館戦

幕末,箱館戦争,小笠原長行,七重の戦闘、少年散華_三好胖の壮絶終焉,唐津藩の事情,小笠原長行辞世の句,共に行動した唐津藩士(江戸脱走、脱藩、奥州参戦、蝦夷新撰組参加組),長行本人にとっての胖之助は甥なのか、弟なのか?の問題について,小笠原家_小笠原長行本人にスポット=近年の掛川藩時代からご案内,小笠原長行中心に見る「小笠原家一族&藩主」,小笠原長行_人生経緯と行動,小笠原胖之助について,蝦夷の初期戦:小笠原胖之助と同時期に散華した人々,【楽天市場】


小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦
▲下記資料内容をストーリー&流れで読むには▲




サイトTOP 幕末_WITH_LOVE玄関 _函館戦争の余波<小笠原長行&小笠原胖之助について
資料編:小笠原長行&小笠原胖之助について_No.2
開国派_唐津世子_ 小笠原長行 ・・・ No.1


現在の頁内ガイド:資料編_ No.1 No.2 (現在の頁)< ストーリー風に流れで読むには

件名
解説
本名と変名、幼名
本名:小笠原胖之助、変名:三好 胖(みよし ゆたか):胖は『裕』とも
本姓:源(清和源氏)、家紋:三階菱、
生没
嘉永5年11月?日(1852)~ 明治元年10月24日(1868/12/7)享年16歳11ヶ月
  • 生期日は?(調べ中)ですが、墓記載内容から割り出したといわれる年齢は
    17歳を少々割って、16歳11ヶ月&旧暦の11月生まれらしい。
出生と
父母&兄弟

父=小笠原長泰、
母=父の侍妾=濱
(江戸の町家の者

姉:寿姫、歌姫
  • 江戸生まれ(父は既に隠居の身、母は妾
  • 長泰の4男で末っ子
  • 彼が生まれた時、姉の寿姫や、歌姫はすでに、死んでいない。
    兄は、養子に出ている。
  • 長泰は文久元年(1861年)12月14日に56歳で死去した。
    胖之助が9歳の時である。
奥州と小笠原家の関係
  • 胖之助の父(=長泰)は庄内藩酒井家からの養子
    胖之助が、庄内藩に行こうとしたのはそのため。
  • 白河郡棚倉は小笠原家の旧領
父死亡
時に胖之助_9才
幼少で父失う。江戸で就学&武芸を磨く。江戸には長行が居る。
小笠原長行との間
柄&感情的な関係
  • 長行本人にとっての胖之助は甥なのか、弟なのか?の問題について
    長行は彼の兄じゃないのに、胖之助は兄上とよぶ
    また長行は胖之助を「我がいろと=弟の意」と人に語る。
    (不遇の人生だった長行にとって、感情的に弟同然に可愛いかったから)
    年齢は30歳位離れているため、傍目は、親子にも見える。
  • 10歳の時、父=小笠原長泰が没した為、長行に養育された。
学問&武芸
  • 文武双方に優れる人:剣術、槍術、馬術などフルコース
  • 漢学: 林大学頭 に習う。
    深川高橋 から湯島まで休むことなく通った。
    尚、官軍の手が伸びる中、彰義隊で戦った彼は、この人物にだいぶ
    匿ってもらった形跡有り。
容姿&印象
  • 背が高い。(16歳と思えない程長身とあるから、当時の感覚では
    大人達の中でも断トツに大きいかどうかは不明。
  • 眉目秀麗の美男子。容姿端麗、誠実、温厚、言葉使い、振る舞い優秀
  • 父が病弱だったことから献身的な子
  • 優しい性格:
    中島登の絵に有。蝦夷上陸間もなく、疲労した愛馬に水を与える姿が
    描かれている。淋しがりやで優しいタイプ・・・かも。なにかと敏感な中島
    登は、彼の勇戦の姿ではなく、その姿を描いた。この時の印象が余程強かった
    のだろう。中島登にも息子が居る為、感情的にリンクしたかもしれない。
資料
懐旧談「貴公子の面影」他
戊辰に飲み込まれて散華した少年:胖之助の戦闘経験 と経緯
戊辰戦争_16歳の時(慶応3年10月=1867):大政奉還、同年12月、王政復古大号令

慶応3年10月
=1867
時に胖之助_16才



■上野で 彰義隊


■仙台で榎本艦隊
ここで 新撰組 入り

  • 輪王寺宮 の護衛をして上野の彰義隊に参加
    彰義隊の内の 純忠隊に客兵として編入された。
  • 慶応4年(1868年)5月15日、上野山に彰義隊に唐津藩士9名 と共に合流し
    戦ったが敗北し、幕府 大学頭林家 に身を隠し、
  • 5/26、 長鯨丸 で品川沖脱走、奥州へ。
    榎本武揚の艦隊の「長鯨」に乗船し江戸を脱出し、会津若松に向かった。
    5/28に平潟到着。輪王寺宮を警護しながら、
    岩城平、三春経由で6/6会津若松へIN。ここで長行と合う。
  • 他の唐津藩の家来と共に猪苗代口を防衛するが敗れ、敗走を重ね
    会津、庄内の降伏が迫る9/16、長行は大鳥らと仙台へ向かう。
    胖之助は長行と別行動。
    8/23に会津から出て、藩士の8人を桑名に付属させて、残りの藩士と共に、
    8/27に上ノ山(←姻戚関係がある)、9/14に白石経由で9/16仙台着。
    (これらの移動中に、若松城は落城。)
  • 奥羽越列藩同盟が崩壊し、旧幕府軍は仙台に到着した榎本軍と合流。
    9/19仙台で新撰組加入。9/20仙台を発して、松島へ。5日位滞在して、
    里浜へ転陣。
  • 10/1頃に石巻へ移動して、フランス式調練を受ける。
  • 10/10、小船を雇い、折浜沖の 大江丸 に乗り込み、蝦夷地へ向かう。
  • 10/22蝦夷、鷲の木到着し、同日進軍開始。
  • 10/24七重村での戦闘において死亡。
    若田榮吉 の記によると、突貫に参加した人物としてあまり知られていない
    人名もある。「決起盛んな青年指揮官は午後4時頃、 鳴川野、中須田 で、
    単身敵中に斬り込んだ。」とあるが、この二人生死不明。
  • 新撰組入隊:
    仙台で榎本艦隊に合流、その際、新撰組に編入される。
    • 小笠原長行は榎本に同意して蝦夷地渡航を決意したため、
      胖も土方歳三率いる新選組に入隊して蝦夷へ同行した。
    • その際、変名を用いた。それ以来、三好 胖となる。
    • 蝦夷での新撰組内での役職:差図役
    • 唐津、桑名、備中松山の各お殿様族の家来は乗船定員の都合から、
      家来としてなら2~3名しかダメということになり失望。土方歳三が
      新撰組がスカスカだったことから同隊に入って戦闘員になるならOK
      という条件で乗船させてあげた。
  • 1 0/24 、蝦夷の「鷲の木」上陸わずか3日、
    箱館戦争初期の戦い(峠下の戦い)にて戦死。享年16歳11ヶ月。
    • 剣の腕は相当らしいし、長行と別行動で勇敢に仙台に入っていること
      からお坊ちゃまではないが、家来に守られてるので、死闘経験(殺戮
      )はどの程度か不明。その後、奥州で戦っていることから、この前の
      時点で既に、多少死闘経験(殺戮)発生していたかどうか不明。



死亡の時
七重の戦闘

胖之助死亡は
10/24の午後4時位
説有力

七重の戦闘:突貫は3回説か、たった一回の事件で瞬時散華だったのか?

・戦の様子(散華した者一覧は現頁下行に別途有)

蝦夷上陸後、福山兵は21日に入ったばかり。敵は約300。
遊撃隊の大岡幸二郎25歳、副長の杉田金太郎25歳、砲兵隊の
諏訪部信五郎19歳、新撰組では三好 胖(=小笠原胖之助)らが突貫。

『大岡、おおいに怒り、刀をふるって敵中に踊り入り、縦横に血戦する。』
とある。

家来達は、長行に言いつけを授かっていた矢先のでき事だった。
「くれぐれも胖之助の身の安全を頼むからな。」

その為、胖之助は、後列に下げられていた。しかし味方が苦戦して
殺されてゆく姿。若い正義感が我慢できなくなった。胖之助爆発。
「やにわに重い冬の装具だか雨具だかを脱ぎ捨てて突入。
トンビ(=雨具、カッパのこと)、銅服、長靴全部抜き捨てた」・・・とある。

また、 今井信郎の「蝦夷の夢」 には、こうもある。(初戦時の場面)

「呼声地に震い、深雪変して紅の如く、屍横わって丘の如し」

ショックの度合いは丘だったと思う。味方8人位とあるが、複数資料で調べると
今のところ15人位いる。卒はおろそかにされているから、もっと居た可能性有。
嫡の斬首19人。全部埋葬してやったとある。
寺の記録では13名とあるが、
「屍あれど、名処解らず」ともあったから、本当に19人だったかも。
参考資料: 榎本艦隊蝦夷上陸早々、初期戦での官軍側犠牲者達
・・▲この資料からすると、それどころかもっと居る。発見しだいまた追加予定。
  • 名処解らずとは、名前も解らなければ、どこの隊なのか?
    地元現地採用なのか不明の意味

尚、現場が騒然としていて、詳細については、記録も皆異なる。
別説概略
  • 別説1_後列に下げられていた胖之助が、家来の目が届かぬ間に飛び出した
    のでなく、大岡幸二郎が呼びかけた突貫隊に自ら志願したというもの。
    この場合の話では、たった一回のことでなく、突貫三回。
    この説でゆくと、家来達は、長行の言いつけを守れぬままに、引くに
    引けない状況になり、薄暗くなるまでの数回突貫に彼を見送る者有り、
    或るいは自分達も同時に突貫隊に入った者有り・・・ということになる。

    その為、胖之助が居ないことに気付いたのは夕方。暗くなるまで皆で探し、
    印具馬作が屍を担いで泣く泣く帰ってきた。
  • 別説2_戦闘の途中で彼が倒れたことに気付きつつ、乱戦中のため、
    後方に引き摺っておいて、自分は再び戦ったという者の証言もある。
  • 別説3_家来の小久保清吉が殺られたため、爆発して突入したとの説。
  • 別説4_別説3の正反対で、大切な主:胖之助を殺られた小久保が
    自分も死ぬつもりで仇討ち死亡した説
  • 別説5_突貫隊に志願してしまった胖之助のかわりに、小久保が出撃。
    その結果、殺られたため、胖之助は次の突貫で家来の目を盗んで突入説
これらの記録を残した人々が、いかに皆混乱していたかが解る。
どれが正解でどれが嘘とはいいがたい。考え方しだいでは、全部繋がる。

しかしながら、誰もがこの若い英雄の死を深く嘆いたのは事実。
表現異なれど、皆が落胆した姿は明確。
後日、別途、この資料編タイプではなく、お話風SERIESでご案内予定。(準備中
蝦夷で共に戦死
した唐津の者
■唐津メンバーについては、現在の頁TOPの 表1_共に行動した藩士 をご参照。
峠下の犠牲、唐津に限らず榎本軍全状況
この時=峠下:小笠原胖之助(=三好胖=本人)、小久保清吉、
この後(終焉時翌年明治二年の瓦解戦時):栗原仙之助、小林幸二郎
蝦夷で怪我した
唐津の者
山久知文次郎、明石覚四郎・・・完治&帰還できたかどうか不明。
胖之助の遺骨
について
現在の頁最上枠内「 胖之助の遺骨騒動




1.山本康次郎(19歳)・・・伝習隊士
2.諏訪眞五郎(19歳)・・・遊撃隊【諏訪部ともいう】・・・会津の人
3.杉田金太郎(25歳)・・・遊撃隊頭取長・・・会津の人
4.大岡甲次郎(25歳)・・・遊撃隊頭取長
5.三好胖(16歳11ヶ月)・・・本名:小笠原胖之助、小笠原長行の甥、唐津藩
6.小久保清吉・・・唐津藩、上記、三好の従者
7.竹内(武内)武雄・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
8.佐治寛(広)・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
9.竹内(武内)武雄、・・・桑名藩(仙台で乗船時に新撰組入隊
10.蟻村勘吉
・・▲ 桑名藩とあるから、蟻通勘吾に似てるけど別人でしょう。因みに桑名にも蟻村は居ない。誰か別人埋もれてる!
11.中村登助(砲兵隊)
12.伝吉(砲卒)
13.世蔵(砲卒)
14.巳之助(砲卒)
15.他

他に生死不明ながら、突貫に参加した雄者の名前有。( 鳴川野 中須田 :氏名でなく当時の
地名呼称の可能性有)この記載は、胖之助の友と自称する 若田榮吉 の記による。




上記内容をストーリー&流れで読むには▼
小笠原長行、夢よ夢、夢は夢ならぬ夢!(七重戦

小笠原長行,夢の訳:普遍の契り,小笠原長行と家臣達の明治

文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示


幕末_WITH_LOVE玄関


ペットが主流 飼い主さんが主流


楽天市場ペットホットスクープ

大型犬総合玄関(洋服,介護,用品,暮らし

大型犬のがっちり!フェンス付快適ハウス_No.5




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: