若松コロニーとシュネル資料編_No.15

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シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎



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シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.15
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■各人物、資料編_No.7(=若松コロニーSERIES_No.15)
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)

Sec.1 <・・・< Sec.12 Sec.13 Sec.14 Sec.15:各人物【資料編_No.7】(現在頁) Sec.16 ・・
シュネル兄弟行動年表と、大脈箇条書き
シュネル兄弟と戊辰戦争(奥州藩:会津藩、米沢藩、長岡藩、庄内藩)との絡みに至るまで
A_シュネル兄弟行動年表
真下のB枠_大脈箇条書きコーナーもご参照

■下枠の1858年以前に日本にINしていた可能性は有。
この兄弟は、バタビア(当時のオランダ植民地:現在のジャカルタ)からやってきている。
尚、この兄弟との交友関係は明確にされていないが、同じくバタビアから日本の長崎へ進出して、
その後、横浜居留地に入り、やがて箱館に縁の深い「ガルトネル兄弟の弟側」が明らかに所属していた会社、
クニッフラー商会(L.Kniffler & Co.) は、同じくプロシア。
オランダ語が達者なシュネル兄弟は、同様に長崎に早期にINしていた可能性も考えられる。
日米和親条約の締結以前から、オランダは長崎に接点有り。その上、長崎伝習所もあれば、
松本良順らがオランダ軍医のポンペに学んだ長崎医学所もあった。

■兄弟は、オランダ語が達者だが、兄ジョン・ヘンリーが在籍したプロシア側には、
彼よりも上に、やはりオランダ人が居る。
  • プロイシアのシャルジェ・デフェール( Deffert)公使=オランダ人
    (シャルシェ・ダフェールとも国によって、資料の表記名は、多少異なる)
■兄・ヘンリー:(文久2)1862年: 下記ブラントの下で プロシア 書記官を務めた。
  1862年12月:マックス・フォン・ブラント:プロシアの初代駐日領事着任。
この時に書記官着任。

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1853
嘉永6年
日米和親条約の締結
1854
安政元年
日米和親条約の締結によりに箱館港開港
1858
色部久長による目撃情報
スネル兄弟双方か、エドワードのみか、この頃、既に横浜在住の形跡。
色部久長の日記に「1858年既に、エドワード・スネル、横浜44番街」表記
・▲1858年段階で、既に横浜に存在を確認できるが少年だった。
※この段階でプロシアはまだ枠外。ところがオランダ国籍(オランダの
植民地のバタビア)と考えられるスネルは既に降り立っている。
【バタビアとは現在のジャワ・ジャカルタ】
安政五カ国条約
:日米修好通
商条約など欧米
5ヶ国との条約
■米国、英国、フランス、ロシア、オランダ
■東京と大阪の開市、
■箱館、神奈川(現横浜市神奈川区)、長崎、兵庫、新潟の5港開港
1859
安政元年
■横浜港は、1859年7月4日正式開港の上、山下居留地が4年で完成
■1867年には南側に山手居留地も増設された。
■1859年長崎港が開港される
(外国人居留地:条約改正される1899年に廃止されるまで存続)
1860
万延元年
日普修好通商条約の為
初代領事として マックス・フォン・ブラント 赴任。
1861
文久元年
日普修好通商条約
日本はプロシアと正式通常条約提携
1861年1月24日:マックス・フォン・ブラントの日普修好通商条約調印に立会。
1862
文久2年
兄・ヘンリー
プロシア書記官
就任
1862年12月:マックス・フォン・ブラント:プロイセン王国の初代駐日領事着任
この時、兄・ヘンリーはその下で書記官就任。
1864
文久4年
弟・エドワルド、
スイス総領事
書記官着任。
■弟・エドワルド:(元治1)1864年: スイス 総領事書記官着任。
■実際、シュネルがスイスに絡む男である旨は交友関係などで明確。
  • (弟側)時計屋時代仲間:フランソワ・ペルゴ
  • (兄側)若松コロニーにスイス人:ディーボル(Dielbol)24歳が同行渡米。
  • 1885(明治18)年頃、弟側らしい曖昧情報ながら、シュネル生存説浮上。
    スイスのジュネーブに居たぞ発言。エドワードに会ったと報告。
    これは、Republik Indonesia:Java:kawashima_Ch?nosuke発言。
    川島澄之助か?
1867
慶応3年
慶応3年7/15
ヘンリー・スネル
襲撃事件

これは兄弟
共に絡む
■馬車乗車中、シュネル兄弟は、沼田藩士三橋昌に襲撃された。
これは、当時多発の攘夷主義者による無差別外国人殺戮事件のひとつ。
抜身の刀でエドワードが斬られる寸前、兄、ヘンリーが拳銃で反撃。運悪く、銃弾
は外れ、無関係の通行人(淺次郎【下駄商:幸次郎の雇人】)が怪我。
被害者はシュネルでありながら、結果として、マイナス要因をシュネルが被る。
■この頃、プロイシアの公使は、シャルジェ・デフェール( Deffert)
=オランダ人
新潟へ移住
兄弟は書記官を辞め、新潟に移る。
エドワルド・
スネル商会
弟・エドワルドはエドワルド・スネル商会を設立。武器弾薬販売業。
1868
慶応4年

明治元年
1月鳥羽伏見
幕軍と官軍の戦い本格化
北越諸藩内で活躍
兄弟は、北越の諸藩(幕軍側)を応援、武器弾薬販売。
兄は会津藩の軍事顧問となり会津在住。
会津降伏
諸藩恭順、降伏の後、慶応4年9月22日(1868/11/6日):ついに会津も降伏。
1869
明治2年
兄、ヘンリー・
シュネル大脱走

若松コロニー設立
カリフォルニアに会津の新天地を求めて、若松コロニー設立へ
  • 日本脱出: 明治2年の約4月or3月:ヘンリー・シュネル一(兄)は、
    一部の会津藩士と大工、農民を伴いカリフォルニアへ。
  • サンフランシスコ到着: 1869年5月27日 (明治2年4月16日)
    ゴールドヒル: 1869年6月9日 (明治2年4月29日)=若松コロニー成立
1869~1872年位
の何時か曖昧
情報
弟エドワード
移住情報
エドワードは、期間期日は不鮮明ながら、新潟から東京へ移る。
そこで商会を開いたとされる。

1870~1871年
明治3年~4年
■若松コロニーの状況は、 日本国内会津藩のその後と、若松コロニーの動き(略型比較表)
■若松コロニーは倒産。メンバーは離散。自力で帰国できる経済力を持つ一部の藩士を除き
皆、アメリカに放浪。一部は無事生き残り子孫に繋がる情報有。
■この時、コロニーの残金は、隣農場ビアカンプが支払い買い取る。
居残りのメンバーを雇用。この内、桜井松之助(会津藩士)は生涯をこの家に仕え
明治34年、アメリカの土に眠る。
1871
明治4年
1871年5月19日
シュネル金策の
為に日本へ旅立
「若松コロニー」の運営は困難に陥り、シュネルはメンバーを現地に残したままに、
金策の為、再び日本へ向うが、二度と、戻ってくることは無かった。
日本での暗殺説浮上。シュネルは絶望=行方不明。
  • 「若松コロニー」は諸事情(経緯は SERIESのTOP からご覧下さい。
    異国に置き去りにされた藩士達のその後に
    ついては、 シュネルシリーズNo.1 から、または資料編各頁
    (まずは 資料1 資料2 ・・・)ご参照

弟側のエドワードは、新政府を相手に米沢,会津など旧藩の負債および戦時掠奪
された物品の損害賠償の訴訟を起こす。

オランダ国弁理公使を通じて、時の外務卿副島種臣に対して、「新潟におけるスネル物資の損害賠償
要請の件」が出された。その額、56677両(五萬六千六百七拾七両)の支払い要求。
これは新潟が新政府軍に接収された際、エドワードが「 唐物屋ヤマキ所有の白山蔵 」に入れて
おいた彼の品物を略奪され、直ちに新政府が、軍用品として用いたことによる。

明治政府がタジタジになった理由は、大別二つある。
■一つ目は、オランダ国弁理公使を通じてきたこと。シュネル一人でない。
■二つ目がなかなか面白い。
新政府として差し押さえて、保存していた・・・だったら良かったが、
戦争の最中、まさか、そんな余裕無い。 早速、勝手に新政府が使った。訴状は、国ごと泥棒行為!
日本政府は悲しきかな、「治外法権」。その上、諸外国の兵力による抑圧に、この段階なら逆らう
実力も気力もあるわけがない。シュネル論法は、あくまで、我は外国人。オランダ国籍。条約違反。
日本は屈した。下枠のとおり、支払いで決着。
1873
明治6
6/3
勝訴賠償金GET
上記訴訟の結果、 明治6年6月3日 付けで勝訴。賠償金支払い旨を日本は呑む。
賠償金としてメキシコ銀(4万ドル)を得てひとまず帰国。

ここで、少々考察。
■仮に、兄の負債を助ける為に、若松コロニー負債補填用に、弟のエドワードが強硬姿勢で
勝ち取った資金だとしても、兄来日は、明治4年。約2年のブランクがある。兄の妻は会津人。その為、
裏切り逃亡はまずありえない。この段階でも、兄は行方不明。
■両者(両兄弟)の交友関係裏付は無いが、参考までに、この期間に巨額を得たプロシア人といえば、
ガルトネル 。(こちらも ガルトネル )。ガルトネルは、箱館近郊の七重土地租借条約破棄の賠償金として
明治3年(1870年)に賠償金62,500 両 を明治政府から受け取っている・・・が、折衝の有無は不明。

1874
明治7
再来日
明治7年(1874)年再び来日商業活動に従事した。
1882
明治15
(曖昧存命情報
1882(明治15)年頃まで日本国内で活動していたらしいと一般に言われる。
1885
明治18
上記の裏付として、
スイスのジュネーブにシュネルが居たぞ!情報を 川島澄之助 らしきが漏らした説有。明治18のこと。
1886
明治19
1886(明治19)年09月04日蘭人,シュネルの借地料不払に対し県知事の名で
訴状を発行。ところが、詳しい情報不足。

.
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上枠の「A_シュネル行動年表」も情報一部重複ながらご参照おすすめ

シュネル兄弟は、日本に来る前の軌跡で、バタビア(現在のジャカルタ。当時オランダの
植民地)から来日していることから、オランダ語が達者であり、条約提携の際には、各国に
重宝された。当時、日本の高官は、通詞達と異なり、外国語知識といえばオランダ語が
多少レベル。その為、書面のやりとりには必ずオランダ語翻訳バージョンが添えられた。
  1. 1860(万延元)年:プロシアが日本と通商条約。初代領事として マックス・フォン・
    ブラント
    が赴任。
    既に日本在住していたジョン・ヘンリー・シュネル(兄)は、プロシアの書記官に就任。
  2. 1864年(元治元年)一方、弟側のエドワルドは、スイス総領事書記官。
  3. 1867(慶応3)年:兄弟は書記官を辞め、新潟に移住。弟・エドワルドはエドワルド・
    スネル商会設立。この会社は武器弾薬を奥州諸藩に販売。
  4. 会津藩の梶原平馬は、武器購入の後、ジョン・ヘンリー・シュネル(兄)を軍事顧問と
    して会津に招く。藩主、松平容保は、シュネル(兄)に和名の「平松武兵衛」の名を
    与え、屋敷も提供した。妻(日本の侍の娘:会津藩士の娘といわれる:当該判然としない。
    誰の娘?名前は米国国勢調査の文字列ではJHOと見える。襄?丈?丞??)の紹介縁組も
    藩主、松平容保といわれる。
  5. 明治元年9月22日(1868/11/6日):会津藩、降伏
  6. シュネルの大脱走劇開始
    明治2年の約4月or3月:ヘンリー・シュネル一(兄)行の大脱走:一部の会津藩士と大工、
    農民を伴いカリフォルニアへ。これが、即ち若松コロニー設立の第一歩。
    カリフォルニアに新天地、第二の会津再生を求めた。
    • (注:但し、アメリカ到着期日は明確ながら、日本側に出発期日を記載した資料が
      存在しないためABAOUT情報。しかも第一群も3班に別れ、その上、さらに個別に
      藩士達が密航などで追ってメンバーINしている。
    • 尚、この決断の早さはシュネルの頭脳を象徴。箱館戦争の決着は、
      明治2年5月18日(1869/6/27日)。
      蝦夷に期待せず、戊辰の結果を先読み、既に頭の中、答えが出ている。
  7. サンフランシスコに到着した期日は 1869年5月27日 (明治2年4月16日)
    そこから、川船に乗り換え、ゴールドヒルに到着したのは、
    1869年6月9日 (明治2年4月29日)
  8. 「若松コロニー」設立も虚しく、水不足などの諸事情で倒産寸前、
    1871年5月19日 、ヘンリー・シュネルはは金策の為に日本へ。
  9. 二度と、戻ってくることは無かった。日本での暗殺説浮上。兄シュネルは絶望=行方不明。

  10. 一方、コンラート・シュネル(弟)は、兄と異なり、日本に居たことから、新潟から
    東京へ移り、そこで商会を開いた。
  11. 1872(明治5)年:コンラート・シュネル(弟)は、新政府を相手に損害賠償訴訟
    新政府を相手に米沢,会津など旧藩の負債および、戦時に、新政府に掠奪された物品の
    損害賠償を追求。 1873(明治6)年: 結果勝訴。 翌年4万ドル受け取り、帰国した
    • 新政府に掠奪された物品の損害賠償 とは、
      新潟に彼は専用の港を有しており、そこに販売用の武器倉庫を保持していたが、
      戊辰戦争に略奪された。これは、官軍側が、幕軍の弾薬を奪い、基地と軍港を
      剥奪した行為だが、シュネルの主張は、 「あくまで、商人としての財産を返せ!
      賊軍応援も何も関係ない!私は商人だ!金返せ!」
      開き直った。
      ついでに面白いことに、 「日本国として、外国人の私に彼らの負債も弁償せよ!」
      彼らとは、米沢,会津など旧藩の負債!
      これは、シュネル一人ではなく、 オランダ国弁理公使を通じて、時の外務卿副島種臣
      に対して、要請が出されたため、日本としては跳ね返せなかった。
      ■こちらにさらに詳しく
      日本政府が抱えた「スネル(=シュネル)物資の賠償問題」事件
    • 戊辰の展開中、この略奪時とは、
      この頁、「項目C_色部久長」の大奮戦散華のあたり 、文章で解ります。
  12. 1874(明治7)年:再び来日商業活動に 従事。
  13. 1882(明治15)年頃まで日本国内 で活動していたが、それ以降の消息は不明・・・と
    一般に言われるが、その詳細は不鮮明。
    • 「この頃まで、活動していたらしい」といわれる裏づけ情報といえばこれ▼
      1885(明治18)年: ジュネーブにシュネルが居たぞ!発言をkawashima_Ch?nosukeとある。
      川島澄之助か? ・・・と思われる。
  14. 1 886(明治19)年09月04日 :蘭人,シュネルの借地料不払に対し県知事の名で訴状を
    発行。今度は、シュネルが逆襲された。訴えられた。日本を去ったようだ。
    これも詳細曖昧。彼の軌跡不明。


  • 対:会津藩:家老の梶原平馬が弟側エドワードから、ライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬購入。
    (これは、越後長岡藩の河井継之助を仲介による。
  • 対:越後長岡藩:河井継之助は、弟側エドワードから、約2000挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入。
  • 対:庄内藩:本間耕曹が箱函館の商人:柳田藤吉の仲介でスネルから銃器弾薬の買い入れ契約提携。
    同年慶応4年7月、銃器弾薬は、酒田港到着。買い入れ人名義は本間光美(耕曹の従兄弟。光美は豪商)。
    総額3万4533両。


■この兄弟は、奥州の幕軍側に大量の武器を販売していることから、
マーチャンダイジング(死の商人) と呼ばれる。
東(幕軍応援)のシュネル、西のグラバー(新政府官軍応援:長崎在住)と呼ばれた。

■オランダ語が可能な兄弟は、他国(弟=スイス、兄=プロシア)の在日書記官として活躍
書記官としての活躍は主に(文久2)1862 ~(元治1)1864位の間目立つ。
(1862年=兄・ヘンリーがプロシア書記官就任、1864年=弟側のエドワルドが、スイス総領事書記官就任。

■(弟)エドワルド(エドワード)・シュネル
  • ■横浜に初めて入った頃、十代半ばの少年。居留地の外国人相手に牛乳を搾って売っていた。
    ・弟、 エドワルドの時計屋時代に於ける「スイス人との接点」 項目ご参照。
    ■数年後には、若いながらも早速、横浜で各種商売経営。(詳しくは 米沢藩の色部と、甘糟頁
    ■元治1(1864)年駐日スイス領事館に勤め,次いで同国総領事館の書記官 に着任。
    ■戊辰戦争時 オランダ領事と自称 ,(状況に応じて、我は○○人だと百面相状態。
    その為、オランダ人、プロシア人、時にはフランス人など多説有り、今日も歴史は混迷。
    ■新潟港の 勝楽寺 を根拠地に武器弾薬を確保。
    • 明治5年の「新潟におけるスネル物資の損害賠償要請訴訟」の際、エドワードが
      軍用品を保存していて、新政府に略奪されたと訴えた時に、登場した別の表現では、
      倉庫は「 唐物屋ヤマキ所有の白山蔵 」だった様子が解る。

    ■サイゴンの外人部隊の招聘を奥羽越列藩同盟軍に説き応援。
    ■会津藩と庄内藩に対して、幕府時代の蝦夷地分領地をプロシアに売り捌いて軍用金に充てるべく活動。 ■武器弾薬の売却総額は、14万ドルを超といわれる。
■兄)ジョン・ヘンリー・シュネル
  • 弟より、若干遅れて日本INした様子。
  • プロシアの書記官在籍期間有(研究者が彼のサインを発見している。
    ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が、オランダ語翻訳に兄のサインを見つけた。
    (当時国対国契約書面には、日本側の要求として必ずオランダ語版が添えられた。
  • ■軍艦の購入名義は、弟なのか、彼なのか不明ながら、確かにこの時の船「ロバ号」はシュネル名義。
    幕府時代の庄内藩に於ける蝦夷派遣藩士達が戊辰勃発に伴い、自藩に引き揚げる際乗船した船が
    シュネルのものであり、実際本人も乗船。この時、『本間耕曹』が武器弾薬購入を約束。
    従兄弟の豪商『本間光美』名義でシュネルは販売&納品。
    ■会津藩の軍事顧問として、藩主が受け入れ。会津に屋敷を与えられ、和名「平松武兵衛」。
    娶った妻は、藩主の配慮で縁組、会津藩士の娘といわれる。
    ■若松コロニー設立の為、生き残りの会津藩士達らを伴い、カリフォルニアに脱出作戦実行。

資料編No.1 資料編No.2 <・・・< 資料編No.6 資料編No.7 (現在頁)< 資料編No.8
■各人物、資料編_No.7(=若松コロニーSERIES_No.15)
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)
Sec.1 <・・・< Sec.12 Sec.13 Sec.14 Sec.15:各人物【資料編_No.7】(現在頁) Sec.16 ・・
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