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碧血碑について,箱館戦争,碧血の意味,故事,矢不来伝説,碧血碑について箱館戦争の傷跡_滅んで「賊」となされた側の祈り碧血碑箱館戦争が終わって、長い戊辰が幕閉じる。やがて官軍の死者は靖国へ。一方、賊と呼ばれた負け人の魂は無念。死んで、時流れて朽ちて消え去っても、魂は塗り分けられた。そこで、明治8年、碧血碑が建立された。碧血碑は、その戦死者の魂を弔うために。碧血とは故事に由来する伝説。誠の忠義、その英雄なれば、その血は三年後、碧(あお)く輝く。「賊」の文字を重く背負いつつ、明治に生き残った者達の祈りだった。建立メインメンバーは、榎本武揚、大鳥圭介他。「賊軍の犠牲者の魂」を救う為に。碧血碑の故事伝説紀元前中国の話。「周」の国に「萇公(ちょうこう)」という志士が居た。国を思うが故、誠心誠意で王様に上告した意見は、理解してもらえず、彼は自刃に追い込まれた。ところが、不思議なことに、三年後、その現場の血痕が変色していた。それは、なんと不思議なことに、碧(あお)く、碧く、光を放って輝いていた。これは、まさに軌跡!目撃者の一人、「鄭元祐(ていげんゆう)」という名前の詩人は、感動して、ここに詩を詠んだ。その詩の内容が、概略、下記に。「誠の英雄なれば、その血は、三年経つと、碧く輝く色彩に転じて、碧血と化す!」皆の魂よ、碧血の奇跡に召し賜え!碧く、碧く、光を放って輝き燃えよ! 滅んで尚虚しく「賊」となされた者へ、生き残りの「元賊達」の祈り。碧血の四方山話「碧血碑」の原型&発端:柳川熊吉の努力柳川熊吉:文政8年(1825)~大正2年(1913)「賊葬るべからず」の高札。箱館の街には、永らく幕軍兵の屍が放置されていた。見かねた「柳川熊吉(箱館の侠客&マルチ経営者でもある)」が死刑覚悟で、榎本軍死者を葬る。案の定、捕縛されて、斬首確定。そこへ、正義の味方は官軍の「田島圭蔵(薩摩)」。柳川の死刑は、田島の活躍で無事阻止される。折角命拾いした柳川だが、この人物は、とことん徳川報恩派。暫くしたら、またやった。土地を買い取り、実行寺にも協力を得て、きちんと埋葬。箱館戦争当時は、土の中に葬ってやるだけが精一杯。それでも捕縛されている。今度は一応墓標も。ところが、案の定、ひと悶着。されど、今回は、覚悟しており、要人リンク(明治政府活躍中の者の中、理解派)を貼っていた為、どうにか収まる。▼その軌跡が、上記、「碧血碑」のモトとなる。即ち、この碑の建立に於ける最大の尽力者とは、榎本達ではなく、柳川。柳川は、マルチ経営者(詳しくは上記リンク先)であり、料亭も経営している。昔、箱館奉行だった「堀利煕【文政元年6/19(1818)~万延元年11/6( 1860)】」は、大層、彼の料理を気に入っており、特に、彼が作った「柳川鍋」が大のお気に入り。それ以来、彼を「柳川」と呼ぶようになった。それまで、彼の本名は、「柳川」でなくて、野村だった。(明治以降、正式に柳川に変更)それは、さておき、「堀」は、万延元年11月に、自刃してしまう宿命に終わるが、かつて、「堀」が蝦夷探検の旅に出る際、小姓として連れていったのが、少年の日の「榎本武揚」。その「堀」が箱館の地を去る時、柳川に伝言していた。「あの子は、きっと将来大物になる。その時は、ひとつ、お前も、一肌脱いでやってくれよな。」・・・それが遺言になってしまった。その為、柳川が斬首覚悟で、幕軍の屍を葬り、こうしてさらに弔いを。この人物「柳川」は、私財を殆ど、彼らの弔いに投入している。実に犠牲的人物。<柳川に関して:明るい話もひとつ>熊吉亡き後も、子世代に「柳川亭」は継承される。榎本も出張で箱館に寄る際は、時折顔を出す。また、「椿説蝦夷訛」という本には、「明治19年:旨いもんの店」一覧の記事の中に、「柳川桜」というのがあって、この店「柳川桜」のオススメは蕎麦と葛餅とある。「柳川鍋」はどこいった?!「碑文」:よくよく見ると泣けてくる「賊」となされた側の立場この碑は、建立されたものの、当時はまだ、堂々碑文を謳えない背景を背負っていた。勇気を讃えるとか、弔うとか、箱館戦争で戦った者達である旨、これは憚って建てられた。「明治辰巳実有此事。立石山上以表厥志。」これが碑文。なんのこっちゃ?なのは、憚っているから。▼◆此(この)事がありました。=箱館戦争。◆厥(その)志=犠牲者の勇戦と、弔う側の心気をつけてみると、全国に、こんなかんじで賊側故、憚って、何を示唆するか解らない碑がある。「知ってる人にしか解らない文章」を刻んでいる碑が実在している。「碧血碑」は、すっかり有名になったから、まだマシかもしれない。矢不来伝説◆矢不来伝説矢不来(上磯町)には、15世紀の伝説が。この地は、断崖絶壁が海まで迫る。崖は高さ20~30メートル。まず、矢不来の語源はアイヌ語。カモイヤンケナイ由来。カモイヤンケナイとは、神が創った聖なる沢。この地名は、上記のとおり、アイヌの神が味方のはず・・・なのだが、15世紀、和人とアイヌの戦争が。その時、どうしたものか、不思議な神?登場。この神は、なんと和人の味方。この時の戦争は、「下国家政」の軍対、アイヌ民族。当時、アイヌの人が使う毒矢は、和人にとって恐怖。どの草を用いて作るのか不明だが、その毒が強烈で、当れば最期。毒の回りが異常に早い。部位を急ぎ切除しても、まず絶望。ところが、不思議な現象が起きた。恐怖の毒矢は、なぜか、特定の位置に飛ぶと、ことごとく、突如転落してくれる。おかげで、皆が命拾い。おかげさんで、和人は戦に勝利した。「下国家政」の軍は、この有り難い現象を、不思議に思って、そのポジションを歩き調べてみた。すると、なんと、そこには、深草に埋め尽くされて殆ど見えない状態ながら、小さな「祠」があった。おそらく、この「祠」が我らを救ってくれたのだろう。毒矢をことごとく転落させてくれたのは、ここに宿る神の力に違いない!皆が歓喜した。だが、不思議。いったい、いつの時代、どこの誰が?とはいえ、この「祠」様に大層感謝して、雑草を刈って、周囲を清め、守護神として奉った。名づけて「矢不来天満宮」。矢が来ないから、矢不来。(他にも色々:箱館戦争の伝説的実話コーナーどうやら、ここの神様は、官軍の味方なのか?箱館戦争の際、ここに陣取った榎本軍は大敗。数多くの犠牲者。◆箱館戦争矢不来の戦「矢不来」は、箱館戦争(明治元年【1868】~明治2年【1869】)に於ける末期激戦地のひとつ。多くの英雄がこの地で散華した。官軍の新型砲が撃ち込まれ、この地に於ける犠牲者の死因の大半は、糜爛死。砕け散った。安部井政治(会津)も、この地で烈死。この人物は、自ら、敵の砲弾に飛び込む形で散華。原因は、数日前の榎本武揚発言に対する抗議。発言内容を略すると、「会津は近頃、腰抜けが・・・」。安部井政治は会津の汚名返上!突貫死。年齢的にまだ少年の 「石田五助1,石田五助2(会津、改名後:日下義雄)」に伝言の直後、飛び込んだ。「この事を榎本に伝えよ。会津は腰抜けなどではない!!」榎本は、後々、明治に及んでも、思い出しては涙して悔いたという。まさか、それが原因で、安部井を失うとは思わなかった。▼こちらは純情系幕末玄関<人物名から追跡
2012.09.20
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.6,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.6明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳晩年の「林忠崇」に於ける「岡田斧吉」の影響初めから読むNo.1<前頁から読むNo.5林忠崇は、最悪の人生だったが、不幸中の幸い、健康だけは人一倍。なんと昭和まで生きた。しかし、幾度も夢に魘された。枕元に冥土の母が降り立って、泣きながら、彼を諭す。「もう良い、良いではないか。ここまで頑張ったのだから、それ以上苦しむでない。さあ、早く、来い。生きていれば、苦しむばかりじゃ。さあ、こっちにおいで。母は、もうこれ以上、耐えれぬ。そなたの苦しむ姿を見るのは、辛い。さあ、おいで・・。」全身冷汗で、真夜中にガバッ!と起き上がる事が頻繁にあった。不思議と同じ夢を幾度も見る。あるいは、夢ではなかったのでは?・・・と終いに心配になるほどだった。その林忠崇は、長生きして、己よりも先に冥土に旅立つ者を多く見送ってきた。また、辛うじて存命しているものの、病に侵され弱気になっている者も居る。そんな時、必ず、「岡田斧吉」の詩を思い出して、己を励ました。自分だけじゃなくて、今、ここで弱気になっている者にも、その力を贈ってやりたいと考えた。▼林忠崇が老齢に及んで、恰も「戯れ詩」のごとく詠んだ詩は、「岡田斧吉」の詩の形式に類似している。言わんとするところは、「死んではならぬ!あきらめるな!」なのだが、あたかもおとぼけ老人のノリで軽いタッチにアレンジして詠んでいるところに、生死の崖っぷちを潜り抜け、生き抜いたインテリ老人を感じる。詩の根底にあるのは、共通して「ネバー・ギブ・アップ!」。三拍子になっている。一度ならずや、二度転んでも、三度目までオチが組み込まれているのが特徴だ。<岡田斧吉>「我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。海に出て再挙を諮るべき。房総に敗れんか、奥州に敗れんか、蝦夷に往いかん。」<晩年の林忠崇>冥土から、もしも迎えが来たなら88を過してから冥土から、またも迎えが来たなら99までは留守だと答えそれでも来たなら、いやだといえばいい林忠崇は、永久に「岡田斧吉」の勇気を尊敬していた。自分は藩主。その地位から見れば、彼らは末端の兵にすぎない。「されど、身分など関係ないのだ!」若い彼は深く感動した。自分よりも遥かに身分の低い者達が、命をかけて徳川報恩。この姿に、心から感銘していた。それは、皆を励まして、死の崖っぷちから救った男、「岡田斧吉」の姿だった。冥土に咲いた「岡田斧吉」の魂おそらく、冥土の果てまで、林忠崇における「岡田斧吉」の偶像は、このままだったことだろう。昭和16(1941)年1月22日午前11時、林忠崇は、93歳で生涯を閉じた。(■林忠崇資料表、■参戦経緯他、■林家及び林忠崇人物について)ネバー・ギブ・アップ!たとえ、箱館の地に命は散っても、岡田斧吉よ、貴殿は、永久の英雄だ!最期の最期まで勇猛果敢な男だった!実に不思議だ。明治も半ばにして、よりにもよって、昔の敵、官軍の男「元徳山藩士_林顕」まで、岡田斧吉の勇ましい実像を、彼の古手帳に読み取っていた。「ふるさとに かへらむほどをまつまえの旅に いつまで日を送るらん」誰よりも強い男が終焉に詠んだ詩だった。強い者が強いままの姿を維持可能期間リミットの示唆。口で語れぬ立場。手帳の裏表紙に、密かに望郷の思い。先の見えない長戦に磨耗。死んで初に、魂は待望の故郷へ。これも、ひとつの「雄者」の証。同一立場の経験者のみ、その原理が解った。「雄者」の証。サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1<No.2<No.3<No.4<No.5<No.6(現在の頁)
2012.09.19
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.5,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.5明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳若い藩主「林忠崇」の目に映し出された「英雄_岡田斧吉」の姿_その続き初めから読むNo.1<前頁から読むNo.4林忠崇は、仙台で最終、降伏した為、仲間達にさえ、裏切り者よばわりで苦渋の明治を。しかし、林は、「岡田斧吉の勇気」を永久に忘れなかった。それは、JAPAN流の「ネバー・ギブ・アップ!」。血みどろの「ネバー・ギブ・アップ!」大宣言。仲間の屍に埋もれ、本人も傷だらけ、血みどろで叫んだ、あの時の岡田斧吉。「我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。海に出て再挙を諮るべき。房総に敗れんか、奥州に敗れんか、蝦夷に往いかん。」諦めるな!たとえ、己の命は散っても、徳川の葵は、万年不滅じゃ!それは、尊い志じゃ!皆の者、奮起せよ!!やがて皆は、岡田斧吉の勇気に支えられて、船に乗り込み、奥州へ転戦。岡田の発言は正解だった。仲間は山盛り死んで半減したはずが、次から次へと、脱藩して合流してくれた他藩士、加えて、陸軍の砲隊の者も、追いかけ合流してくれた。遊撃隊は、盛り返した。そして、最期の生き残りは、戊辰のクライマックス箱館戦争に突入。その一人が、有言実行、発言の張本人「岡田斧吉」であった。先の見えない長戦の果てに「熱血漢の磨耗」その「岡田斧吉」は、先の見えない泥沼「箱館戦争」の生贄。武器も砲弾も尽きた。それどころか、兵糧さえ無い。されど、徳川報恩。薩長の不義を許すな!彼らは、それでも、屈することなく、最期の最期まで戦った。英雄_岡田斧吉は、明治2年(1869)4月17日、箱館戦争の末期、激戦地「折戸浜」にて、砲弾に吹き飛ばされ、壮烈な死を遂げた。<その一方、林忠崇>惨めな拘留生活を経て、明治のどん底を生きる「林忠崇」は、何も知らない。知っているのは、結果だけ。あの岡田斧吉は、惜しいことに、「箱館戦争」で戦って死んだ。最期まで、勇猛果敢、兵を叱咤して、「ネバー・ギブ・アップ!」。見事散華を飾った・・・・と、ずっと死ぬまで信じている。まさか、この詩が同一人物だなんて、全く知らない。「ふるさとに かへらむほどをまつまえの旅に いつまで日を送るらん」<一方、明治の泥沼長旅に磨耗した元官軍の男:林顕の場合>そしてまた、人の人生とは、どこまで皮肉なのか。上記の林忠崇と正反対の立場、官軍の林顕は、こちら側の末期詩しか知らない。箱館戦争の後始末、屍の山から拾った「賊_岡田斧吉の古手帳」。上記の詩は、その手帳の裏表紙に書き付けられていた。漠然と、彼が感じた予感。あたかも弱気に見えるこの詩は、元をただすと、人一倍強い男だったに違いないと感じ取った。だが、それは、ぐんと時代が流れて明治に頬杖ついた或日のこと。若い時、箱館戦争の現場でこの詩を見た己は、思わず鼻で嗤った。弱気の賊め!明治の泥沼を彷徨って初めて痛感したその予感とは、まさに大正解だったのだ。「強いからこそ、熱血漢だからこそ磨耗する。・・こやつは強かったに違いない!」人間模様と、倒立実像先の見えない長戦に磨耗する前の「岡田斧吉」。請西藩の藩主「林忠崇」が男惚れした「岡田斧吉」。本来の英雄の姿。どちらも人間模様。同一人物故の真実。相異なる二つの習性は、人の魂に共存しているのだ。倒立実像は、戯れて逆立ち。だが、いつも背中にぶらさがっている。現に見える姿は・・・仮の姿。「我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。海に出て再挙を諮るべき。房総に敗れんか、奥州に敗れんか、蝦夷に往いかん。」晩年の「林忠崇」に於ける「岡田斧吉」の影響サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1<No.2<No.3<No.4<No.5(現在の頁)<No.6★
2012.09.19
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.4,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.4明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳初めから読むNo.1<前頁から読むNo.3林顕は、ただ、漠然と感じた。この男は、人一倍、強い男だった・・・に違いない。そして、彼は一人呻いた。今やまるで「今の己映し鏡」。幸いにして、彼は、磨耗前の「岡田斧吉」の勇詩を知らない。だが、直感は、まさに命中だった。いくら漕げど、進めど、所詮泥沼、先の見えない長戦。泥沼を彷徨い、強いからこそ、磨耗する。熱血漢だからこそ、心の逃げ場が無い。「ふるさとに かへらむほどをまつまえの旅に いつまで日を送るらん」岡田斧吉とは、かつて、百人斬りの片腕男とその名を馳せた「伊庭八郎」と同様、遊撃隊の猛将校。岡田は、英雄だった。皆を死の崖っぷちから救った張本人だったのだ。彼がいなければ、遊撃隊は、小田原で全滅していた!!あの時、不屈の岡田斧吉(遊撃隊)集団自決を食い止めた男「魔の小田原戦」遊撃隊頭取改役_岡田斧吉の銘スピーチ明治元年(1868年)遊撃隊全滅の危機!小田原藩のケース小田原藩は、当初援軍だったにもかかわらず、突如踵を返し、官軍に寝返った。無論、この藩には、二転三転せざるをえぬ辛い事情が秘めていた。土壇場で藩論が割れる悲壮な藩でもある。とはいえ、遊撃隊にしてみれば、これは、絶大なダメージ。突如、敵に化けたのだから、たまったもんじゃない。おかげで遊撃隊は山盛り死なされた。トップスターの伊庭八郎でさえ、これが原因で、片腕を斬り落とされる最悪事態に至る。これには、流石の遊撃隊同盟も総崩れ寸前まで、追い込まれ、大苦戦を強いられたのであった。▼▲ここに、小田原の二転三転混乱様子も解ります。自藩の生贄家臣を新政府に捧げる羽目に。藩の方針にキレて、そのまま遊撃隊に参加して、自藩を捨てて箱館戦争まで行動した者も居れば、咸臨丸座礁チーム(小田原藩士は咸臨丸が襲撃を受ける悲惨事件の前、一足早く、途中下船。)にも、同藩士が居ます。こうして見ると、小田原も可愛そうな藩。累々と連なる味方兵の屍。傷ついて呻き苦しむ兵達。もはや、絶望だった。仲間の屍の狭間、異様な光景が展開された。皆は観念した。一斉に上衣を脱ぎ捨て、腹に脇差を突き立てる。「もはや、これまで!」皆が口々に・・・。その瞬間だった!声高らかに、岡田斧吉が叫んだ。「我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。海に出て再挙を諮るべき。房総に敗れんか、奥州に敗れんか、蝦夷に往いかん。」この言葉が、どれほど、皆を支えただろうか。林忠崇 も、その一人であった。岡田斧吉:(遊撃隊頭取改役)=明治2/4/17箱館戦争:折戸で死亡_尚、岡田斧吉の首を敵に取られまいと運び持ち帰ったのは、「柴田真一郎・・(=柴田伸助倅)」若い藩主「林忠崇」の目に映し出された「英雄_岡田斧吉」の姿岡田斧吉とは、皆の集団自刃を食い止めたまさに英雄なのだ!観念して、腹に脇差を突き立てた軍団の中、たった一人、若い藩主が紛れていた。それが、上記の「林忠崇」。彼は、22歳の純な藩主様。請西藩の堂々藩主。この藩は、もともと徳川忠義。その上、突如説得に現れた伊庭八郎と、人見勝太郎の熱意に共鳴してしまった。藩主自ら脱藩!藩主の地位を義理弟(血の上では甥に該当)に譲り、藩士を引き連れ、自ら参加した。結果から見ると、天下の大馬鹿者と嘲笑われた。藩主自ら脱藩は、日本中に一人しかない。戊辰のA級戦犯扱いで、どんぞこの会津も仙台とて、実は、答え「ゼロ=無一文!」までは追い込まれてない。(ガッパリ減石&生贄_首謀者の首提出&罰金&賊の烙印を背負わされているが)その点、林忠崇は天下一品。まさに答え「ゼロ=無一文!」。・・この点でいえば、会津よりも、仙台よりも悲惨。屈辱の極み。裸一貫、士族の肩書きも剥奪。明治の後期、かつての藩士家系が頑張って、どうにか、人らしい暮らしに漕ぎ付けてもらえたが、この人物の明治初期は、文字どおりのどん底。百姓暮らしも、番頭暮らしも・・人に言えない期間さえある。若すぎたのだ!清すぎたのだ!・・・日本一純情&潔癖な藩主様!その「林忠崇」が、岡田斧吉を絶賛している。なぜなれば、林も、腹を掻っ捌く直前だった。己を信じて、ついてきてくれた藩士は、全部で約70人。ところがこの段階で、死んで死んで、死にまくって、既に半減していた。己のせいなのだ。その上、この頃、裏情報も耳にした。折角、義理弟に藩主の座を譲ってきたのに、己がこの戦に参加している旨が官軍にバレて、藩は、まるごと取り潰されてしまった。その為、彼は本気の切腹覚悟だった。皆の切腹を阻止した岡田斧吉の銘スピーチがなければ、林忠崇は死んでいた!!サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1<No.2<No.3<No.4(現在の頁)<No.5薫風館:菖蒲と白い刀;
2012.09.19
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.3,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.3明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳反射板「今の自分」と、磨耗した末期、賊の姿初めから読むNo.1<前頁から読むNo.2あの時の自分が蘇る。手帳を拾ってきた末端兵を褒めて、その手帳を閉じた瞬間のことだった。背表紙には、句が書き付けてあった。それは、どうみても、辞世の句ではない。しゃーない戯れ、駄詩。あの時、自分は、鼻で嗤った。「つまらん輩だっちゃ。これでは、所詮、奴らは勝てぬわ。」そして、ついでに、手ぶらで戻った他の雑兵に渇を入れたのだった。「貴様ら、根性がたるんでおるぞ!家に帰りたいだの、カカアに会いたいだの、下らんことばっかりぬかしておると、今に、こいつと同んなじ事になるぞ!この賊はのう、家に帰りたいだの、なんだの・・・ぬかしておるわ!!所詮、賊なんぞ、この程度じゃ。遊撃隊頭取改役だのと、のたまえど、つまらんやっちゃ!」遊撃隊頭取改役「岡田斧吉」こと、本名、岡田義雄の詩はこれだった。「ふるさとに かへらむほどをまつまえの旅に いつまで日を送るらん」この詩を見て、鼻で嗤った。あの頃の自分。今思えば、雑兵も己も同類項だったのだ。武士が武士らしく、武士の情け、美しい美談をやってられるのは、期間的にリミットがある。長い間、戦が続けば、心は荒む。死と背中あわせといえば、武勇談に聞こえるが、人とは、手繰れは本性は動物なのだ。賊の屍に群がる野犬と、自軍の末端兵のやらかす事は五十歩百歩。末端兵は、屍をまさぐり、小銭や食い物を漁る。だが今、明治を生きる林顕は、背筋を悪寒が走りぬけた。野犬も、雑兵も、あの時の己もおんなじだったのだ!!俺は、あの時、この詩を、「惨めな男」と嘲り嗤った。・・・それこそ、武士の風上にも置けぬとは、己の事ではないか!!俺は、知らずして、部品が欠落していたのだ!!己も同類項だった。長い、長い、長い戦が、人の魂を貪り卑しめていた。今、明治の林顕。彼は、あらためて、白髪混じりのこの年齢にして、はじめて、この詩に涙が零れ落ちた。「ふるさとに かへらむほどをまつまえの旅に いつまで日を送るらん」手に握りしめたこの古い手帳。通称、「岡田斧吉」と名乗った勇猛果敢な男が、がらにもなく、手帳の背表紙には、生身の叫び。林顕は、思わず、呟いた。今ならわかる。この年齢に至って、この泥沼明治を彷徨い、歩き疲れた今の自分なれば解る。「岡田どん、すまんかったのう。・・・わしも、おんなじじゃ。いつまでも泥沼じゃ。いつまで日を送るらん。わしは明治の長旅迷子じゃ。明治という名、この時代こそ、まるごと迷路じゃ!」いくら頑張っても努力しても、先の見えぬ世界。そこに、如何に勇猛果敢な男とて、ふと、故郷を思う。その姿は、人事と思えない。あたかも今の自分のごとく。頭の天辺まで、若い正義感。真っ赤な血を滾らせて、信じて疑うを知らぬ。 「正義の為!尊皇攘夷!今こそ戦え!徳川を潰せ!我らには錦の御旗!命を惜しむな!違勅の罪じゃ!異国の夷共を招き入れる愚かな徳川なんぞ賊じゃ!押し潰せ!」 ▼それが、あの頃の自分。燃えてる男程、磨耗する。 熱血漢の宿命。人一倍、勇猛果敢な男だったからこそ、磨耗する。そして望郷。まるで、今の己の姿。あたかも反射板。林顕は、呻いた。彼は、幸いにして、磨耗前の「岡田斧吉」の勇詩を知らない。ただ、漠然と感じた。この男は、人一倍、強い男だった・・・に違いない。それは遠い過去。小田原戦「英雄_岡田斧吉」の姿寄り道コース:幕末現代アラカルト(文化、食):堅苦しくない!お気軽幕末コース◇現代に影響多大!今食べてる食べ物・・・江戸時代はどうだった?サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1<No.2<No.3(現在の頁)<No.4_
2012.09.18
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.2,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.2明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳とんちんかんな明治の長戦に疲れて・・蘇るあの頃「箱館戦争の記憶」前頁から読むNo.1とんちんかんな明治の中、林顕も、ふと頬杖ついた。馬車馬も、時に及んで、力尽きる。思ってもしゃーないのに、ぼんやりと、過去が脳裏に蘇る。それは、机の引き出しから出てきた「古い手帳」のせいだった。(▼賊軍家系側としては悲しいが、まあ、それが歴史。)明治2年(1869)、5月。場所は蝦夷の箱館の戦場。徳川の賊共は、往生際が悪い。武器も尽きれば、糧も無い。それでも、なかなか降参しない。よせばいいのに、生身の体を曝け出して、新型の砲弾相手に、抜刀斬り込み、集団自殺の連発。この時期に至れば、もう答えは丸見え。その為、官軍の立場からすれば、上記は、自然の感想文。雄藩幹部は、見学掛。戦場に、煙管を忘れず、お持ち込みなされる余裕。対して、手下の各隊やら、途中で恭順した藩やらは必死。手柄を挙げぬことには、我が藩の未来は無い!我が隊の評価は水の泡!必死なのです。この落差!そんな渦の中に、若き日の「徳山藩士:林顕」が居た。彼は地位としては、まずまず。ここに至るまでは必死だったが、この時期になれば、 「死なされ専門掛」は既に卒業している。厳しい戦衣装に身を包んだ彼は、堂々、部下に指図する。部下達は、折戸浜(末期箱館戦争激戦地のひとつ)一面に散らかった賊共の屍を検証して廻る。目ぼしい上官らしきカケラを見つけても、賊が必死の足掻き。肝心の首っ玉は、背負って逃げたらしい。手柄ご馳走さん!といわんばかりの大物屍に、首が残されてるためしはない。折戸浜は、 海からの艦船砲撃にやられた遺体がほとんど。砲弾だから、砕けて千切れて、五体満足に繋がってる遺体は少ない。木っ端微塵で、話にならぬものさえある。下っ端にすれば、歯噛み。手柄にならないからだ。ここまで砕けてくれると、何ひとつブツをつかめない。「こうなりゃ、砲弾には、有り難迷惑じゃのう。」・・・彼らはぼやいた。「早く、うちのカカアの面見たいっちゃ。亭主の面も、そろそろ忘れたんじゃなかろうか。いつまで、こったら屍相手の商売せんとならんのじゃ!・・ああ、カカアに会いてぇなァ・・・。「いつになったら、帰れるんじゃろうのう?いいかげんにして欲しいわのう。」皆が皆、長戦に疲れていた。長いから、精神も麻痺する。残忍も野蛮も、自分達のせいじゃない。・・・賊が執こいからだ。既に負けてるくせに、執こい。俺らに、要らん仕事増やすな!貴様らのせいじゃ!彼らは、終いに散乱する屍を足蹴に、時には、屍にさえ鞭打つ。「家に帰りたいのに帰れない。貴様らのせいじゃ!」屍相手に憎しみをぶつける。無理やり徴兵された末端の者なれば、これが本音。尊皇もへちまも関係ないのだ!!雑兵が拾ってきた「賊の遺品:古手帳」珍しく、雑兵が「手柄材料」を拾って帰ってきた。この時、林顕は、「賊の手帳」を拾ってきた一人の雑兵を褒めたおして、褒美を授けた。「どれ、その者、でかしたぞ!名は何と申す。褒美を与えよう。」末端兵が拾ってきたものとは、賊の役職者と思われる屍から拾い当てた「手帳」だった。久々に、林顕は、震えた。「評価は万事手柄から生じる」、その構造は、彼ら末端兵のみならず、自分自身も、藩の地位も、全て、はてしなく上迄同様なのだ。手柄を雄藩に申告&集積せぬことには、藩の地位が確保できない。後で思えば、あたかも獲物を咥えて、飼い主の元に帰って、褒美に骨のカケラを貰う猟犬のごとく・・・惨めな話だが、この頃は必死だった。手帳とくれば、人名、スケジュール、秘密計画・・・どんな手柄が潜んでいるかわからない。徳山藩の功績チャンス!林顕は、必死で頁を捲り捲った。手帳の持ち主は、「岡田斧吉」。遊撃隊頭取改役。なかなかの大物。箱根戦で、さんざん、官軍を泣かせてくれた連中の大玉。指名手配で、そこらじゅうに立て札を立てた「片腕の男、伊庭八郎」の仲間だ。生け捕りなれば、大手柄だが、あいにく、本人は冥土入り。首も、賊の部下か、仲間が持ち去った後だった。ただ、ひとつ尻尾を掴んだ。「岡田斧吉」とは、通称として、いわば偽名だったのだ。手帳に、林顕は、本名を発見した。本名は、「岡田義雄」であった。ここまで、思い出して、今明治に生きる林顕は、そんな自分に、思わず溜息ついた。手柄を挙げたといえば挙げたのだが、今となっては、そんなことは、どうでもよくなった。反射板「あの時の自分」と、磨耗した末期、賊の姿サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1<No.2(現在の頁)<No.3★
2012.09.18
遊撃隊_岡田斧吉,賊の遺品古手帳No.1,先の見えぬ長戦,明治の世、賊の気持ちが解って泣けた元官軍の男,箱館戦争,幕末戊辰岡田斧吉(遊撃隊) _No.1明治の世、賊の気持ちが解って泣けた「元官軍の男」:思い出の古手帳明治の世も、どっぷり暮れた頃、今さらにして、ひとりの男が、冷々と涙した。時代は流れた。あれから幾年。あの頃の自分、若い正義感が爆発。頭の天辺まで、真っ赤な血を滾らせて、信じて疑うを知らぬ。「正義の為!尊皇攘夷!今こそ戦え!徳川を潰せ!我らには錦の御旗!命を惜しむな!違勅の罪じゃ!異国の夷共を招き入れる愚かな徳川なんぞ賊じゃ!押し潰せ!」 ・・・それが、彼らにとっての戊辰だった。男の名は、林顕という。元徳山藩士。彼は、奮起して戦い、クライマックスの箱館戦争まで出陣。とことん戦った。混乱の実情:夢にまで見た「ご維新」とんちんかんな明治の長戦に疲れて・・長かった戊辰が、ついに幕閉じた。感動の涙。錦の御旗は、我らを勝利に導いた!!末端兵も皆泣いた。権現台場、四稜郭(砲撃台場基地のひとつ。五稜郭の間違いじゃなくて)から、まずは、制圧奪取の合図、狼煙があがった。祝砲が打ち上げられた。港の外国船が、皆、呼応して返礼砲を返す。陸では、官軍の各長達が、喇叭手に命じて、勝利のファンファーレを奏する。我らは勝ったのだ!感動の涙が止まらない。そして、彼、林顕は心に誓った。「否、ここで気を抜いてはならぬ。こっから先が正念場。賊を責め滅ぼした以上、次なるは・・・。これからが、誠の戦也。この神州を踏み荒らす異人共を、虱潰しじゃ!殺せ!追い出せ!」いよいよ、聖戦!異人相手の大戦争!!しかし、どうだろう。明治が幕明け。奇想天外。以外な転回に締め出されて、崩れ行く全国の同士。皆は、頭がついてゆかない。時代は急速回天。これはなんぞ?攘夷はどこ行った?なんで神戸に異人共が基地を築いて、横浜に山盛り陣取っているのだ!!全国で反乱分子が隆起しては、制圧されて、第二の弾圧幕開け。今度は、戊辰で共に力あわせて戦った仲間同士の殺し合い。土俵にあがったつもりも、力関係。力足らずは、蹴落とされて殺害されてゆくのが宿命。薩長は、直接外国に喧嘩を打って、打ちのめされた張本人。そこで初に頭打って、方針切り替え。攘夷なんぞ、所詮無理なのだ。寧ろ、英国としっかと手を握る。そもそも、それがなけりゃ、戊辰に勝ってるわけはない。武器力は英国の賜物。水面下の小手先も彼らの力。だが、全国のほとんどの志士は、そのあたり、不思議だが、理解していない。今日、我々が客観的に歴史を見つめると、奇妙ながら、彼らは、完璧に取り残されていたのだ。これは、寧ろ上層部、雄藩の意図的なせる業。真実としての「攘夷は不可能。方針切り替え!」・・・なんぞという現実を聞かされたなれば、たちまち、彼らは、一抜けた、二抜けた!彼らの多くは、「合言葉は攘夷!」。雄藩と異なり、後ろに連なる連中にとって、幕府イジメは、二の次。その為、雄藩は、徹して、初期混乱発生に結びつく要素は、隠蔽していた。まさか、結果として総合考察するなれば、あの時、井伊直弼の独断調印は正解だった!内容的不利=不平等条件のミステイクは別として、仮にこれが薩摩幕府だろうが、長州幕府だろうが、いざ、その立場であれば、必然的にそうなった・・・の旨は、アタマを打った瞬間解ったのが雄藩。だがしかし、闇雲に、まずは「幕府潰し」・・・これが我ら雄藩の本音!・・・だなんて言えない!うっかり漏らすなれば、官軍は、歯抜け。精力二分、退廃してしまう。徳川潰す前に、自分達内で自爆してしまう。シナリオ上、倒幕がメインで、攘夷は実のところ闇雲に転じた実態は、彼らに説明するには100年かかる。その上、徳川260余年は絶大。倒幕がメインと謳えば、大変!尊皇言語は、実は「下克上の正当化」と彼らが騒ぎ始めたら、もう最期!武士の哲学が変に跋扈したら、ダイナマイト。その為、雄藩は、真実を伝えず、ひたすら「尊皇攘夷」と叫びまくる連中をうまく使った。誰にでもわかり易い初歩コース「尊皇攘夷の合言葉」に結集力を無駄にせず、「使える間に、使える男」は、とことん使い切る。消耗品は、それまでよ。掃いて捨てても、また、湧いて出る。蓋をあけてみるなれば、明治は、とんちんかん。皆の思惑、脳に描いた方向性は、180度異なり、十人十色。よーいドン!といえば、なんと、みんな真っ直ぐ、同じ方向に進まない。円周状に飛び散らかって分散してゆく。各地で、不満士族の反乱が勃発する。官軍内で殺し合い。こんなはずじゃなかった!これは、なんちゅうザマよ!・・・裏切り者!卑怯者!・・・あっちでも、こっちでも殺し合い。教科書に出てくる主な大反乱以外にも、朝から晩まで、全国各地で殺し合い。雄藩の椅子取りゲーム。加えて、蹴落とされた各志士の各隊ごと反乱。それらの事件は、全て、恨みつらみ。過去の怨恨。中身をぐんと、かいつまんで、あえて雑に言うなれば、全部同じ。▼嘘つき!!よくも騙したな!!屈して耐えるも悔しいが、他を傍観するなれば、おのずと答えは見えてくる。キレたら負けよ!悔しくても、歯を食い縛れ!明治に食い縋って、まずは凌ぎ、やるならそれからだ!否、これは己に対する口実か?否、そうじゃない。キレたら負けだ・・・。自分に言い聞かせて、耐えて生き抜く。とりあえず、生き抜いたら、それなりに、勝ち組。されど、虚しい。元徳山藩士の林顕も、その一人だった。こんなはずじゃなかった。命をかけて、仲間や大切な親族に、命の犠牲を払って、ここまで漕ぎ付けたのに・・・夢に描いた「ご維新」とは、いずこに・・?レールに乗って、快調の時、人とは気付かない。頭を打って、ふと、振り返る。とんちんかんな明治の長戦に疲れて・・サイトTOP< 幕末玄関_<人物名から追跡<:No.1(現在の頁)<No.2
2012.09.18
彰義隊_笠間金八郎の愛した人,せめて冥土で夫婦に!宮古湾海戦の裏ドラマNo.3,箱館戦争,宮古湾海戦資料編へリンク,宮古湾に散った戦士が「愛した妻とは・・」_No.3宮古湾海戦の裏ドラマ_せめて冥土で夫婦に・・・!「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人の姿初めから読む<前頁から読む笹間は、妻の地位を得られずに、ひたすら待ち続ける娘に哀れんで、心で訴えたのだ。同年代のこの隊士には、笹間の気持ちが痛いほどに解る。耳裏に、彼の「心の叫び」が聞こえてくる。<笹間金八郎心の叫び>夢次よ、夢次。・・・お前は、俺の正真正銘、妻なんだよ。笹間金八郎が「愛した人の姿」夢次よ、夢次。・・・俺のこの愛だけは、誰にも負けない!人が何を言おうと、我らは、本物の夫婦なんだよ!・・・だけど、夢次よ、俺を許せ!今、俺は跳ぶ!徳川報恩!俺は跳ぶ!・・・許せよ!だが、信じてくれ!お前は、俺の女房なんだ!嘘じゃない!本物の女房なんだ!!いつの日か、あの世で結ばれよう!必ず待ってるぞ!ついに、運命、飛翔の時到来。笠間は、ひらりと身を交し、敵艦「甲鉄」に飛び降りた。その落差、なんと4~5メートル。彼は、敵艦上で、抜刀して勇戦。乱れ戦い、尽きて・・・宮古の海に散った。友情:夢次を訪ねて<その後、生き残った仲間は、「夢次」探しの旅へ>笠間は、我ら仲間に伝えたかったんだな。実の女房同然なんだ、本物の女房なんだと・・・。されば、それを、その娘に伝えてやるのが、生き残った俺の使命だ。友は、足を棒にして歩き回って、聞き当てた。この娘は、水挙げされて、花町には居ないという。だが、その主たるや、どこぞの腹黒い金持ち親父ならず、どうやら笠間本人らしい。驚いた!笠間は大分無理をしたのだろう。その娘は、胸を患い、房洲の浜で療養する身と聞き知った。ようやく、見つけた。だが・・・なんということだ!!夢次という名の娘は、既に死んでいた!!しかも、驚いた!彼女の死亡日は、偶然にも、全く同じ日。明治2年3月25日だったという。突如、「金さま・・」と叫ぶなり、大喀血。そのまま冥土へ。笹間金八郎が死んだ同じ日に、この娘は死んでいた!!・・・なんということだ!!芝居じゃあるまいし!!思い寝の夢や通はん妹と背が替らじものと 契りかさねて天は笠間の心を彼女に届けたのだろうか。二人は、冥土で結ばれたことだろう。「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人の姿:完!不思議!!▼普通に考えると、当時の人にしては、笠間さんの詩は、少々「赤裸々」気味の詩。だが、その背景には、こんな訳(前述本文全体)があったのだ。泣ける。皆に認められて、皆に祝福された夫婦の仲なれば、たとえ新婚とて、・・ある意味で、こんな露骨ともいえる表現は、回避する。それをあえて、語った彼の心は、そうした事情があったからだった。泣ける。最初、小説か、作り話かと思いましたが、そうじゃないようですね。資料解説本にもありました。仲間が訪ねたうんぬんは、私が書いてますが、つまるところ、掘り当てたとは、そーゆーことでしょう。天国の仲間達が、二人の祝儀を、きっと盛大に祝ってくれたことでしょう。夢次さんは、待ちきれなくて、同日に、テレパシー。すぐ後を追って飛んでいった新妻。世の中、こーゆーこともあるんですね!!うちの親族でも、入院中の人に、親族が怖る怖る伝えに行ったところ、茶碗が割れたから、いよいよ夫に何か起きた、先越されたと、実は知っていたと語った人が昔おりました。(大分ご年配の故:老夫婦ですが)ところで・・・笠間は、いい男ですね。きっちり、引上げていたんですね。もしも、これが遊女の場合、胸を患ったら最期。置屋の地下室か、座敷牢に閉じ込められて、死んだら筵で包んで、無縁寺に放り込まれます。衣装や、簪は、勿体無いので、当然屍から取り外されて、腰巻一枚。【稀に人情遊女屋さんも実在したらしいですが、あくまで稀!】お寺さんも特定のご指定。お約束の場に、店の雇われ下男が、捨ててゆきます。店は埋葬までやってくれません。お寺さんが多忙で少し遅れることもあるそうです。その為、よく怪談モノで、火の玉が飛ぶとか・・・。あれは、事実、骨から、燐が飛ぶのだ説もあれば、科学的に不十分説!否定説と双方あるようでして、そのへんは、私は専門家ではありませんから、よく解りませんが、遊女の屍入りの筵包から、そーゆー現象を見たという話は実際あるようです。ギョッ!戊辰の際、遊女にお金を借りた人物(人物名、略!人気者もおりますゾ!)、案外居るんですが、・・・というわけで、非常にイカン!事でありんす。笠間君を見習おう!!賊側家系の枷として、子孫が、その後、我こそは!と語らないから、埋もれてる人が沢山。大勢の英雄が埋もれてる。情報が少ししか解らない人についても、何か談話が残る場合、今後、こんな程度ではありますが、色々書いてゆこうと思っています。「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人の姿:完!甲賀源吾と宮古湾海戦甲賀源吾:「願わくは、たとえ、回天の一艘なりとて、我に与え賜うものなれば、我、之を試みんと欲す・・・」TOP<幕末玄関<人物名から追跡<宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁<宮古湾に散った戦士「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人」No.1<No.2<No.3(現在頁)
2012.09.17
笠間金八郎の愛した人,冥土で夫婦に!宮古湾海戦の裏ドラマNo.2,宮古に散った命,彰義隊_笠間金八郎,箱館戦争,宮古湾海戦資料編へリンク,宮古湾に散った戦士が「愛した妻とは・・」_No.2宮古湾海戦の裏ドラマ_せめて冥土で夫婦に・・・!「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人の姿艦長の甲賀源吾が、叫ぶ。その手にはサーベル振り翳して、皆を鼓舞する。アボルタージュ!乗っ取れ!敵艦に飛び移れ!!怖れるな!いざ、進め!敵弾は雨嵐。脅威の連続射撃砲、ガトリングが火を吹く。指揮を取る甲賀自ら撃たれた。それでも、起き上がる。断じて屈しない。足を撃たれて、血みどろながら、さらに、叫ぶ!・・・(彼は、脳を撃ち抜かれ、死の瞬間まで、指揮をやめなかった。アボルタージュ!アボルタージュ!!怖れるな!いざ、進め!・・・その時だ、勇ましい第一声。「一番っ!大塚浪次郎!いざっ!」 次々と、皆が続いた。敵艦への飛び降り距離たるや、なんと4~5メートル。艦同士の高差だけでないからだ。前述のとおり、回天は、敵艦の真上に突端を乗り上げている。それでも、勇者達の飛翔は止まらない。撃たれても、殺されても、次々と続く。「薩長ごときの不義を許すな!いざっ!」敵のガトリングがフル回転。艦上の者も次から次と屍に化ける。死傷者多発。ましてや、死への飛翔に挑戦した者は悲惨。<飛び降り戦死 >【1】大塚浪二郎、【2】笹間金八郎(彰義隊指図役)、【3】加藤作太郎(彰義隊指図下役)、【4】?、【5】野村利(理)三郎 (下側にバナー有り:新撰組)宮古湾海戦犠牲状況他「おまとめ表」上記のとおり、この中に、笹間金八郎(彰義隊指図役)が居る。彼の治世の句と言われる唯一の歌をご紹介します。笹間金八郎が「愛した人の姿」笹間金八郎_辞世の句思い寝の夢や通はん妹と背が替らじものと 契りかさねて宮古湾海戦は明治2年3月25日。笹間金八郎は、敵艦「甲鉄」に飛び降り勇戦。戦って散った。数日後、箱館には、死者達が無言の帰還。艦長の甲賀源吾はじめ、多くの死者を乗せて回天は港に戻った。榎本自ら、数珠を手に持ち、読経して迎え入れる。しかし、ここに、笹間金八郎の屍はない。敵艦の上に残したままだから。葬ってやることすらできない。彰義隊仲間は唇を噛んだ。誰もが、この句に泣いた。戦のこと、忠義のこと、徳川のこと・・・詠んだ詩じゃない。若い彼が、素直に、そのまんまに胸の内。それほど、愛して、愛していたんだな・・・。己を少しも飾らない彼。正直すぎて、皆が泣けた。笹間金八郎が「愛した人の姿」やがて、皆は漠然と思い込んだ。そうか、可愛そうに。新婚だったんだな。この上なく愛する新妻を故郷に置いて、志の為に、この蝦夷にやってきたんだな・・・。彰義隊の生き残りは、彼の為に、碑を立ててやった。屍がないから、仕方なかった。「空の墓とて、心は本物だよ。」心から彼の勇戦を讃えた。誰かが、ぽつんと呟いた。「だけど、笹間君よ、俺も同じなんだよ。だけど・・・な、安心して眠れよ。お前の妻なれば、きっと、しっかり者さ。ちゃんと笹間家を守ってくれるさ。女房を信じなよ。弱くたって、強いのが女房なんだよ。女房なんだからさ・・・。なっ、笹間君よ・・・。」この隊士はブツブツ言いながら、実は自分自身に、そう言い聞かせていた。「笹間よ、うちはな、腹に子供ができてたらしいぞ!手紙が来たよ。おい、笹間君よ、お前は無口だから、何も言ってくれなかったな。もしかして、案外、お前んとこも、うちとおんなじか?女房ってな、案外頑張ってくれるもんだぞ。そう思えよ。きっと、ちゃんと育ててくれるさ。・・・だから、お前は、もう何も心配するなよ。お前は偉大だったよ。誰よりも、勇ましかったよ。笹間君よ、安らかに眠っておくれ。」時が流れた。ご存知のとおり、榎本軍は無残に敗れた。葵は枯れて、菊が咲き誇る。世は明治維新。生き残りは、賊のレッテル。暫し獄中にて、臭い飯を食う。娑婆に出たはいいが、浦島太郎のごとく。誰かが、訪ね、やっとこすっとこ、掘り当てた。笹間金八郎の女房とは・・・列記とした女房なんかじゃなかった!!それは、哀れ芸者。江戸辰巳芸者の「夢次」という娘だった。そうか、そうだったのか・・・笹間金八郎よ、お前は、そうだったんだな。お前ってやつは、なんて優しいやつなんだ!!・・・事情を知ったこの隊士は、再び涙した。笹間金八郎が愛した人とは、妻じゃなかった。誰からも祝福された事のない仲だった。たとえ戦に無縁の平和な世とて、武家なれば、妻に娶るには、家で一悶着。許されぬ愛だった。笹間は、妻の地位を得られずに、ひたすら待ち続ける娘に哀れんで、心で訴えたのだ。同年代のこの隊士には、笹間の気持ちが痛いほどに解る。耳裏に、彼の「心の叫び」が聞こえてくる。笹間金八郎心の叫び>TOP<幕末玄関<人物名から追跡<宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁<宮古湾に散った戦士「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人」No.1<No.2(現在頁)<No.3宮古海戦「新撰組_野村利三郎の活躍状態について:石井勇次郎の記」
2012.09.17
彰義隊笠間金八郎の愛した人,冥土で夫婦に!宮古湾海戦の裏ドラマNo.1,箱館戦争,宮古湾海戦資料編へリンク, _宮古湾に散った戦士が「愛した妻とは・・」_No.1宮古湾海戦の裏ドラマ_せめて冥土で夫婦に・・・!「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人の姿今回は、久々に、戊辰の純情系。泣ける恋話!政略ドロドロ話は、無縁!明治2年3月25日(1869年5月6日)、空前の大ドラマが。現場は、盛岡藩宮古村の海上。・・・なんと!突然、沖に現れた敵艦が、新政府軍の新艦、「甲鉄」に、体当たり!そのまま、ドガンと乗り上げた!現場は、見るも無残!血祭り!!敵艦、「甲鉄艦」奪取作戦。豪雨のごとく降り続く敵弾の中、アボルタージュ!飛び移れ!!艦長甲賀源吾の怒号が飛ぶ。 これは箱館戦争の一事象。フランス士官「ニコール」による提案。敵艦に襲い掛かり、そのまま艦を乗っ取る!!窮地に追われた榎本軍。一か八か、最期の大博打!箱館の地から、遥か宮古の地迄、襲い来た!窮地の榎本軍MORE:宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁ところが、史実とは過酷。結果は、こう言われた。榎本軍は、ご丁寧にも「自軍集団自殺の出前サービス!」詳しくは上記、テキストリンク内「宮古湾特集」。今回特集は、「笠間金八郎」個人編につき、詳細割愛ながら・・。いずれにせよ、「自殺出前サービス」とは、結果からすると否定する権利はどこにもない。襲っておきながら、敵の死亡より、自軍の死傷者が圧倒的なのだ。原因はハプニング続き。本来三艦で行うはずの計画だったが、一艦(高雄)は嵐にやられ舵が折れて、ボロボロ。これじゃ参加できるわけはない。もう一艦(蟠竜)は、現場到着が遅れてしまった。結果、回天たった一艦にて、断固計画実行に至った。窮地の証以外の何者でもない。まるで無茶苦茶・・・ながら、これしか手段がなかった!このまま、敵が蝦夷に襲い来るまで、指を咥えて待つわけにはゆかない。甲賀源吾が叫ぶ!アボルタージュ!乗っ取れ!敵艦に飛び移れ!!進め!結果、自軍は、屍の山。こちら「真下図」のとおり。回天艦側面には水車状のものがついている為、側面接舷が不可能。そこで、甲賀は、艦ごと、敵艦にゴーン!と乗り上げた。この高さから、隊士は飛び降りないと、事始まらない。しかも、飛び移るポジションは一箇所「突端」しかない。当然、敵の集中砲撃。わざわざ、一人づつ、「射撃的(マト!)」になって飛んできてくれる!▼一人、二人、隊士達は、次々と死のダイビング!まず、飛ぶ前に撃ち殺される。次なるは空中で被弾して息絶える。それでも跳んだ者は7人。されど帰還したのは、僅か2人。文字通り、「自軍集団自殺の出前サービス!」実質の責任者「艦長_甲賀源吾」も冥土入り。もちろん・・本人もそのつもりだった。さて、今回は、飛翔の勇者、犠牲者その一人「笠間金八郎」について。TOP<幕末玄関<人物名から追跡<宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁<宮古湾に散った戦士「彰義隊士_笠間金八郎」の愛した人」No.1(現在頁)<No.2_
2012.09.17
人見勝太郎と松前の姫君についてNo.2,松前に取り残された妻女達推察,箱館戦争,松前に取り残された妻女達推察_No.2人見勝太郎と松前の姫君について(人見寧履歴書)「我、二三の隊士と共に殿中を巡視したるに、奥深き所の仏間に藩主の家族待女等老小の婦人、七~八名ここにあり。皆、首をたれて号泣す。」前の頁から読む前藩主「崇広」は病死であり(※少々謎的死亡ながら)、追放とかじゃないから、その絡み妻子やお女中は城内の隅に居るはずだ。前藩主とは、現状藩主の父さんではありません!年齢も親子みたいに離れておりません!色々・・(前述のとおり)テンテンテンがありました。一族内、「流れる血筋に係る相違」の問題。▼崇広(12代藩主)の死亡は、1866年。この段階でたったの二年前。しかも37歳だから、子が居る。明治の世、前頁記載の「死亡した鋭姫」の他に於いて、彼女の兄弟姉妹はだいたい存命している。しかし、ブレーンでゆくと、幼子だけではないから、その他はどうなっただろうか?もう少し調べてからじゃないと断言できませんが、前藩主に絡む女性やお女中は、必死の脱走劇の時、べつに見捨てるじゃなくても、必死すぎるから・・・まずは、第一の脱走、館城に逃れる段階で、同行してるだろうか?ことによると、脱走の輿を、自ら遠慮した者が居てもおかしくはない。松前福山と、館城を建てた側の地域は、昔から微妙な体温差。ここに松前福山の女達の宿命と意地。実際、館城へ逃れる脱走の輿は相当悲惨。榎本軍が迫り来る恐怖。藩主が元気なら馬に乗せて、パカパカ走らせるからいいが、生憎藩主は重病。急ぎたくても、乱暴な運び方したら病が悪化してしまう。ここに神経が尖るから、とても大人数を輿で運ぶ余裕はない。史実の上で、手紙(礼状)の主が、はたして、正妻なのやら、妾なのやら親戚なのやら全然解らないが、前藩主「12代_崇広」絡みなら、ありえる話だと思いませんか?全面否定されている原因は、現状13代藩主_徳広(松前)ばかり視点に考えるからじゃないのだろうか?「例え正妻じゃないにせよ、関係の婦女子が、そんなところに粗末に残されるわけがない!現に、熊石から脱走しているぞ!」・・・に起因してないだろうか?思想の異なる者が政権を握った時、少女「例:死亡した鋭姫(5歳)他」はべつとして、そこそこの年齢の女性なれば、どうだろうか?主幹「崇広」は天の人。唯一の頼りは、彼のかつての重臣。彼らに縋って生きた女性の宿命。この重臣達は、クーデターで全員殺された。このクーデターの時、崇広報恩派、及び、彼を補佐してきた松前勘解由尊重派の者達は、防戦して共に冥土入り。また、諦めて、ひとたび、新派に追従しつつ、途中でキレて反論したが故に、斬り殺された者も居る。こうなると、女性は、いったい誰に縋ったらいいのか?かつて、蝦夷のその昔、蝦夷の館は全部で12個。互いに争い。その中で統一政権を確立したのが松前福山。「松前、国獲り興亡物語」:幕軍&松前えとせとら_Vol.2 他所の者から見れば、どれもこれも松前に見えるが、実のところ微妙な体温差。▼新城「館城」が完成したということは、彼女達にとって、ひとつの時代が終った。自分の時代は見納め。蝦夷に於ける「松前福山時代」は終幕・・・と観念するは、全く不自然ではない。新たな城「館城」を黙って辞退するも、そんなに不自然じゃないと感じますが。幼子の居る者には、「生きよ!時代の波に身を任せてでも、家を存続せよ。」と諭して、無理やり、脱出ブレーンに送り込みつつ、己は辞退。また身内に幼子が居ても、新派「正義士」にとって最も憎かった男「松前勘解由」を全面支持した家系なれば、生きながらえても己は所詮空蝉。(新派の上層部は、この実力派家老「松前勘解由」を猛烈に憎んでいた。詳しくは下の空転!バナーから。勘解由家系は取り潰され追放されてしまった。一方、彼を支持していた上層家系の女性は、命残れど、肩身は狭い。)されば、自分の血族側の少女は諭して、運命を己と共にするべく、ここに残すはずだ。<彼女達にとっての「松前城」と「新規築城したばかりの城:館城」>我が身に置き換えて考えると、そうじゃないかナと思う。榎本到来以前に、クーデター時点で既に己は空蝉、生きながらにして亡骸。前藩主ブレーンの女性は、潮時を観念して城に居たのではないだろうか。私は「館城」の女ではない!「松前福山城」の女!先祖の魂を裏切るわけにゆくまい!自刃は怖いが、城に命を捧ぐ時、ついに来たりか!・・・とモタモタしてるところに人見登場なら頷く。モタモタの訳会津落城の時、婦女子の集団自刃は凄まじい。(会津戦争:一家自刃)薩長ごとき敵に生き恥曝すまい!対して、松前の上記女性は、なぜ自刃できずにいたか?この差は歴然。ここに居た女性の死んだ男家族(夫、親兄弟等)の多くは左幕派。官軍派の新派に異論を唱えた故死んだ側。そんな中、襲い来たのが薩長なれば覚悟は早いと思う。ところが、榎本軍は幕軍。されど、現に、松前の城を奪いに襲い来た。兵達が死んでゆく。やはり賊なのか?どう考えたらいいの?幕軍&松前えとせとらSERIESの目次◆江差の民、悲願の築城_館城、◆三上超順と館城ここに、12代松前崇広の右腕達家老他重臣が皆殺しになった松前クーデターの様子抹殺された家老他▼クーデターの時、上記のとおり重臣達は蝦夷内在住の者に限らず、江戸や京都に居た者まで、わざわざ、出張サービスで派遣された暗殺部隊によって殺傷された。遠藤又左衞門 、高橋敬三他は天昇。しかし、崇広の子、隆広は無事。明治2年、いよいよ榎本軍討伐の際、ミカドは、まだ11歳の少年「隆広(幼名:敦千代)」に「追討の名誉刀」を授ける。本来なら、これは、いかに幼児(4歳)といえど、13代藩主_徳広の子「修広」名義で代理の家臣に手渡すべきところ、この名誉をあえて「隆広」側に与えたあたりも奥深い。これにて、一族内平和協定で新規一変明治を・・の配慮とも思えるが。実力派の暗殺された家老「松前勘解由」とは、左幕派といえど、実はかなりの老獪頭脳マン。彼は、若いが老獪。左幕派として奥羽列藩同盟の時、使者を送り込みつつ、その一方では事前対処。日和見には他ならないが、幕府がもし、ダメになった場合にも対処済。ミカドに見初めてもらうには、こちらの血が良いと思うが故に、「隆広(幼名:敦千代:12代崇広の子)」を、京都御所守護の目的で、名代としてミカドの前に、早期より登場させてあった。本来、こうした経緯である以上、維新以降、実権を握った側の新派としては、少々ん!だが、冷静に考えれば、お家内の今後平和協定対策に良策。4歳の修広は無事藩主確定している。となれば、前藩主崇広(12代)の子には、ミカドからの拝刀の名誉を与える形で柔軟仕上げ。幕軍&松前えとせとらSERIESの目次(▼ボリュームあるので、目次▲からをおすすめします。)現在頁に絡む編「箱館戦争時の噂「女の影」【幕軍松前えとせとら:Vol.17】」TOP<幕末玄関<人物名から追跡<人見勝太郎と松前の姫君について<No.1<No.2(現在頁)人見勝太郎略歴頁:コレ多分後で追加編増えますが、暫定はこれにてご了承。
2012.08.13
人見勝太郎と松前の姫君についてNo.1,松前に取り残された妻女達推察,箱館戦争,維新時の藩主_松前徳広(13代)と12代藩主ブレーン,松前崇広(松前の12代藩主)絡みの婦女子について考察,松前福山と、館城に係る上ノ国、下ノ国,体温差,松前に取り残された妻女達推察_No.1人見勝太郎と松前の姫君について 人見勝太郎の手記から発した「松前城内に取り残された妻女達」について。一般に、松前城内に「妻女達が取り残されていた」とは、記憶違いか虚構ではないか?などと言われてしまう率が高いが、ふと思う。ちょっと勿体無いと思う!! (人見寧履歴書)「我、二三の隊士と共に殿中を巡視したるに、奥深き所の仏間に藩主の家族待女等老小の婦人、七~八名ここにあり。皆、首をたれて号泣す。」確かに彼らの手記とは、互いに後で不足部分を補填していて、実際は本人が見てない要素も、全体的からいえば少なくはない。尾ひれがついてくるうちに、この話は現代、どちらかといえば錯覚か虚構かなんて言われている率が高い。ちょっと勿体無いと思う!!親切に護衛してあげた人物だとか、礼状だとか、そのへんは長い歳月の中、あっちやこっちの情報の一人歩き、脚色あるかもしれないが、ちょっと勿体無いと思う。まるごと、そうじゃなくても、火元はあったのではないか!?人見勝太郎はかなりの正直者。自分でも「我は鈍直」と言っている。虚構は、ありえない。彼は、自身の恰好悪い事も正直に書いている。気の効く者なら、榎本にとって後々都合が悪いだろうからと、考え、一部に関して、隠して書かないタイプの者も居る中、そのへんは、やはり「鈍直」に近い極上の正直者。榎本が皆の制止を押し切り、江差に開陽を強引に出航させた推移まで書いている人物。・・・ということから考えて、松前に取り残された姫君説は事実以外のなにものでもないはず。(人見寧履歴書)「我、二三の隊士と共に殿中を巡視したるに、奥深き所の仏間に藩主の家族待女等老小の婦人、七~八名ここにあり。皆、首をたれて号泣す。」▲ここにまた、「鈍直!」有り!「藩主の家族」と思い込んでいる!あたりも、鈍直!折角の事実なのに、「これは虚構だ!」などと否定される原因のひとつ。そりゃあ、現役側の藩主の家族なわけはない!人見はドロドロややっこしい事に鈍感。晩年にはついにこうも語る。「予、性頑鈍にして処世の術を知らず。」▼これは、推察するに、前藩主絡みブレーンの女性と思う!!▼【着目ポイントは前代藩主】▼■松前崇広(松前の12代藩主)絡みの婦女子について考察箱館戦争時の藩主「松前徳広(松前13代藩主)」は、明治元年10月、榎本軍蝦夷上陸早々、館城に逃れるも束の間、熊石から船にて津軽に逃れる。この船は、目谷又右衞の中漕船長栄丸。この船は大きくない。藩主と、側近&家族ら70人で満杯。到着間もなく、藩主は死亡。この人物は、若いのだが、もとより病弱。この時の話は「空転!松前に齎された平和交渉、あの時、捉えられた捕虜」。この時、結局藩主も死んでしまったが、その前に、船中で一人犠牲が明確。それは、前藩主「松前崇広(松前の12代藩主」の五女「鋭姫:5歳」。荒れ狂う冬の津軽海峡。彼女は死亡。さてと、上記70人の内、水主(船員)15人や、家来は別として、藩主一族フルコースの内訳は、残念ながら存じません。但し、この中に、どんだけ、前藩主側絡みの人物が乗船していたか?少々気になります。前藩主側付随の者のうち、死亡した鋭姫の他は?■松前崇広(松前の12代藩主):文政12/11/15(1829)~慶応2/4/26日(1866):享年37歳神戸開港問題で責任を問われ謹慎処分。江戸から出て、国許松前に帰るも、上記のとおり死亡。松前藩は、松前崇広系の血か、松前徳広の血か、どっちを取るかで藩士思想が二分。しかし、松前崇広死亡は一応「病死」。しかし!慶応4年5月、崇広の右腕「松前勘解由1、松前勘解由2」他、左幕派の重臣達が全員、藩内クーデターで皆殺し。松前勘解由の他、山下雄城、蠣崎監三、関左守 等全滅。前藩主「崇広」は病死であり、追放とかじゃないから、その絡み妻子やお女中は城内の隅に居るはずだ。崇広の死亡は、1866年。この段階でたったの二年前。しかも37歳だから、子が居る。明治の世、上記の「死亡した鋭姫」の他に於いて、彼女の兄弟姉妹はだいたい存命している。しかし、ブレーンでゆくと、幼子だけではないから、・・・その他はどうなっただろうか?現在頁に絡む編「箱館戦争時の噂「女の影」【幕軍松前えとせとら:Vol.17】」TOP<幕末玄関<人物名から追跡<人見勝太郎と松前の姫君について<No.1(現在頁)<No.2人見勝太郎略歴頁:コレ多分後で追加編増えますが、暫定はこれにてご了承。人見勝太郎絡み(明治の世、突然長州人に手渡された「陣旗!」人見の驚愕!▼
2012.08.13
箱館戦争,桑名藩_石井勇次郎の記に見える「新撰組_野村利三郎の特異性」について考察No.4,誰かが誰かに思いやりの優しい嘘,文献に見える心系,宮古湾海戦と甲賀源吾特集頁へリンク _桑名藩_石井勇次郎に見える「野村利三郎」_No.4戊辰に見えた!「誰かが誰かの為に『思いやり』の優しい嘘!野村利三郎が、なぜ甲鉄飛び移りを失敗したか考察宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁初めから読む:No.1<前頁から読む:No.3この項は、完全に推論に他なりませんが、一応考察。野村は非常に敏捷な男と言われます。飛び降り失敗は、非常に不自然。空中で既に被弾したも可能性有りですが、彼ならではの無茶離れ業をやったかもしれません。 ■近藤勇と関羽:肩の傷、■近藤勇の本を探す、■谷干城(土佐藩■近藤勇が、会津の井深恒五郎に譲渡した六連発元込銃▲(近藤絡み)野村は、近藤勇が官軍に捕縛された時、追従していたが、近藤本人嘆願により、野村は助命された後、春日左衛門隊に吸収されて蝦夷へ渡ります。ここに至る前、奥州で暫し小隊の指揮を任されるも、彼の作戦が過激すぎて、隊員の死者を多く発生させて降格。これは、自分が敏捷であるタイプの士官に多くある事例。やればできる優れた者は、平均的な凡人の機能能力に鈍感。(後の時代、戦争の時の例にもあります。稲妻のごとく俊足で走れる者は、亀のようにとろい速度でしか走れない者の実態把握ができない。)ついつい無理させてしまった結果も無関係ではないはず。そこでふと、思うのが、空中姿勢とガトリング。・・・さては、俊敏な野村、なんか、離れ業をやったか?戊辰戦争で、ガトリングは大層有名。当時としては画期的連続発射式。下側の図をご覧下さい。回天は外輪船。横に車輪がくっついている為、甲鉄に横付不可能。そこで、甲賀源吾は、ドカンと甲鉄の側面から垂直に船の突端を乗り上げる形で接舷。回天の船高は、甲鉄に比較すると猛烈に高い。その上、乗り上げてますから、飛び降りる人間の空中飛行は4~5メートル位と言われる。とんでもない!!が他に方法なかった。しかも、接点が1つしかないのが最大の弱み。同時にうじゃうじゃ飛べたらいいが、側面接舷でないから、飛べる地点は、文字通り、接点は「たったの一点」。船の突端だけ。だから、一人づつしか飛べない。こうなると、ガトリングが連発直撃。ガトリング砲は高機能ながら、欠点は左右前後、広範囲に瞬時散開発射できない。因みに、これが原因で、長岡藩の河井継之助は痛い目に。陸地につき、敵が散開して攻めてきた時、能力最大限に活用しきれなかった。その一方、宮古湾海戦の時、敵はご丁寧にも一人づつ、わざわざ的になって飛んで来てくれる。これじゃ、命中するにきまってる!!即ち、ガトリングは、同じ方向に山盛り連射される。されど、右へ左へ自由自在に方向転換できない。▼さては、野村!空中姿勢で、ぐらぐら右へ左へ木の葉作戦か?・・・なんてふと思います。或いは、あえて、飛躍力を活かして、突端まで行かず、やや手前から斜めに飛んだか?的を絞られまいとして、神業使ったか?普通の人ならできない事、この人物、なんか試みたか?死者に口無し。史実は不明ですが、人並みはずれて敏捷、運動神経が良かったらしい人物、野村が海へ落ちるは、何か訳があったことでしょう。▼これ、この角度じゃ、回天上から砲の狙いも悲壮。まともなら視界が拾えない。狙撃覚悟で相当前方まで移動しないと見えない。その上、船は斜めだから、そのまま撃ったら、お空に弾が飛んじゃうぞ。なんせ、宮古湾海戦は悲壮だ。わざわざ自殺にやってきたと言われるも、まあ仕方ない。それでも他に選択肢がなかった窮地が悲しい。▼ニコールと、宮古湾海戦「アボルタージュ」計画▼死のダイビング。飛び降りポジションは突端「一点」のみ!!ニコールの言うアボルタージュ作戦。敵の艦に飛び移り、そのまま乗っ取る。話だけで聞けばそれは、まるで雲を掴むような夢物語。しかし、この頁のとおり、入念な計画として、戦士には専用の調練が行われた。野村の魂は今尚埋もれたまま。彼の詳細は謎のまま。それは、賊軍側の宿命。賊軍側の枷は延々尾を引く。子孫が、早期に我こそはと、まさか名乗れない。息を凝らして明治を忍び生きる。彼に子息が居なくても、傍系は居たはずだから・・。古いから埋もれただけじゃない。真実を知る遺族は、あえて語らず、飲み込んで冥土へ持ち去る。戦争はどっちも悲惨。官軍も賊にされてしまった幕軍も。犠牲者は犠牲者。しかし、ここに差がある。賊側は、語れない。語らぬ間に歳月、ついに摩滅。この悲壮は、賊側の他、官軍内の一部にも。勝って土俵から蹴落とされた者。そして差別と身分。彼らも語れない。寧ろ語りたくない。子孫への愛だ。苦しみに終止符を。いっそ己が冥土に持ち去る。■幕末引き摺る明治大正昭和の記事集約玄関▼TOP<幕末玄関<人物名から追跡<No.1<No.2<No.3<(現在頁)No.4★
2012.08.05
箱館戦争,桑名藩_石井勇次郎の記に見える「新撰組_野村利三郎の特異性」について考察No.3,誰かが誰かに思いやりの優しい嘘,文献に見える心系,宮古湾海戦と甲賀源吾特集頁へリンク桑名藩_石井勇次郎に見える「野村利三郎」_No.3戊辰に見えた!「誰かが誰かの為に『思いやり』の優しい嘘!「宮古湾海戦」夢の中、誰かの祈り「野村利三郎の活躍」誰かが、誰かに思いやり・・だから、オブラートな優しい嘘初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2<歴史を読む時、時には、アタマ柔らかく!自己反省の巻>戊辰を読むと、あっちもこっちも食い違う。どっちやねん!と短気は損気・・と或る日気がついた。昔は、小説ならイザ知らず、なんで資料たるや、こんなに異なるの?と思った時期もある。だがしかし、アタマをいちいち箇条書き構造にして、せっかちにバサバサ斜め読みするからその現象が起きるんだナ・・とついに反省。時間はかかるけど、ズッシリ落ち着いて読んだら、中身だけじゃなくて、「心」が見えてくる。まず、上記、野村と相馬の話ですが、カチンカチン頭で言うなれば、これはウソ!史実で言えば、「相馬が、なんで、甲鉄に飛び乗っているもんか!」・・・であります。しかし、それこそイシアタマ!この場合、石井が嘘を書くわけないですから、誰かが、そう語ったのでしょう。語った人の気持ちにも泣けますが、これは、野村君の餞にせめて花を持たせてやりたい・・・じゃなくて、おそらく、語ってあげた相手の状態に由来するのではないだろうか。相手が健常者なればいいが、瀕死の重傷者や、少年だったらどうだろう。これは、推測にすぎませんが、石井は直接聞いたでなく、「また聞き」状態ではなかろうか。例えば蟻通勘吾に、誰かが語って聞かせるとすれば、おそらくオブラート。蟻通は、宮古海戦の頃、気力だけで頑張って存命していますが、実際は、蝦夷に来る段階から重傷者。奥州戦で重症を負い、それでも仲間と共に行きたくて蝦夷へ。入院しっぱなし状態。もしも、そんな彼に「野村」の勇戦ぶりを問われたら、とても真実なんて語れない。「ああ、あいつはね・・・。」「・・やっぱり、死んだのか?」▼・・・まともに事実なんて語れば、重症の蟻通は力尽きて死んでしまうかもしれない。▼「・・ん。だがな、あいつは、さすがだったよ。ダテに死ぬもんか。見事だったぞ。」「されば、それを俺に、聞かせてくれんか?」・・・こうなりゃ、きっと、ついつい語ってしまう。それが人の心というものではないでしょうか。注:これはあくまで架空例。蟻通は野村にそんなに親しい間柄ではない。重傷者の例。尚、蟻通勘吾については後日別特集準備します。また、市村鉄之助(父は元大垣藩)のような少年相手でも、同様でしょう。彼は奥州入り前に兄と離れ離れ。蝦夷には一人ぼっち。・・(市村鉄之助は有名。土方歳三に遺品を託されて、土方義兄の佐藤彦五郎家に運んだ少年)いずれにせよ、「野村のお兄さんは、どんなふうに戦って、亡くなったのですか?」・・・・もしも聞かれたら、大の大人が、少年相手に、まさか事実は語れない。<誰かが、誰かに語ったと思える由縁>これは、石井センテンスが随分長いあたりも、そう思える由縁です。ありありと、延々語られているところをみると、実際、誰かが誰かにそう語ったのでしょう。無論、上記の蟻通や、市村の例は、あくまで、私が例として勝手に書いただけで真実ではありませんが、シチュエーションは、まあ類似したパターンと思われます。野村利三郎の死に様に誰かが天上に祈り夢の中、誰かの祈り「野村利三郎の活躍」いずれにせよ、野村の死を悼んで、誰かが祈る思いで、彼の大活躍を語った・・・その心が痛々しい。『傷の深い相馬主計を、ぐいっと担ぎあげて、回天に移乗させた。そして、いざ!と己が海に飛び込もうとした時・・!(MORE)』新撰組_野村利三郎よ!天上で輝いてくれ!君は誰よりも偉大だったよ!相馬が甲鉄に乗ってるわけないじゃないか!怒る前に、そう語った人の心を寧ろ尊重したい。宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁実は別件ながら、ここにも「優しいオブラートな嘘が!」・一聯隊,祈りとサーベル(銃剣)夢は夢だから、夢には、何ひとつ残らない。野村利三郎が、なぜ甲鉄飛び移りを失敗したか考察死のダイビング。飛び降りポジションは突端「一点」のみ!!TOP<幕末玄関<人物名から追跡<No.1<No.2<(現在頁)No.3<No.4
2012.08.05
箱館戦争,桑名藩_石井勇次郎の記に見える「新撰組_野村利三郎の特異性」について考察No.2,誰かが誰かに思いやりの優しい嘘,文献に見える心系,宮古湾海戦と甲賀源吾特集頁へリンク桑名藩_石井勇次郎に見える「野村利三郎」_No.2戊辰に見えた!「誰かが誰かの為に『思いやり』の優しい嘘!宮古海戦の夢:思わず、泣けた!思いやりの嘘!夢の中、誰かの祈り「野村利三郎の活躍」初めから読む:No.1歴史として、「宮古海戦」を読むには、前頁(=No.1)下側のテキストリンクからどうぞ。今回特集は、史実の狭間に見えた「人の心」の話です。桑名藩_石井勇次郎は、誰かから、聞き知り、書いたのだろう。信じたが故、そのまま正直に書いたのだろう。彼の場合、宮古湾海戦記述に於いて、この部分は、伝聞表記にて、詳細信憑性は少々ハテナながら、もう、こうなると、史実だ、信憑性だ!そんな事は二の次!思わず、泣けてしまった。それはまさに「優しい嘘!」だから。<石井日記に見る「誰かから彼が聞き知った宮古湾海戦に於ける野村利三郎の活躍」>石井勇次郎が語る宮古湾海戦部分は、他の点、例えば甲賀源吾部分等は、他のいろんな人物の語りと殆ど同じ。ところが、野村と相馬部分だけは、かなり特異。▼これには、かなり深い訳がありそうだ。おそらく、これは、誰か、野村を心から賞賛したい立場の者が、同じように野村を讃えたい者に対して語ったちょっとした「優しいが故の優しいオブラートな嘘!」だろう。こうなると嘘でもかまわない!嘘でも嬉しい! 本来、勇猛果敢で誰よりも勇ましい男、野村の最後は、こうあって欲しかった・・。そんな気持ちが、この語りに隠れている。<先に、悲しい現実>実際は、どうやら、野村は、甲鉄飛び乗り失敗にて、海に転落。それが、敵によって、銛のような野蛮な道具で、散々突き刺された上、獲物のごとく掻き寄せられて、敵艦甲鉄に引上げられたとも伝わる。その為、既に瀕死に近く抵抗らしき抵抗もできず、そのまま斬首・・・のようでありますが。(宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁)(野村飛降失敗原因考察)とはいえ、信じたくないですが、世の掟だろうか!!現代人でさえ信じたくないのだから、当事者達なれば、尚のこと!!対して、こちら▼は、誰かの祈りにも近い描写<誰かの祈り!が痛々しい。>・・・【ニュアンスはこんなかんじ】・・夢でいい!天上で輝いてくれ!新撰組_野村利三郎・・・石井日記に見る「野村利三郎の活躍」は、あたかもスーパーマンのごとく!!例え幻でも、信じたい!誰かの祈りが、なんだか乗り移ってしまいそうだ。まずは、その経緯を下記に。【注】繰り返しますが本件は心系です。斜め読みするタイプさんご用心ね!史実に矛盾有りとか言われても困りますヨ!こーゆー心系文献こそ人間らしい。心が伝わる。▼<石井の文章意訳>敵艦甲鉄に、勇者達が次々と飛び降りる!新撰組の相馬主計も、みごと飛び乗っている。だがしかし、傷を負ってしまった。野村利三郎は、相馬を救う為に、艦上で、大暴れ。一人斬り、二人斬り、大活躍。そして、傷の深い相馬主計を、ぐいっと担ぎあげて、回天に移乗させた。そして、いざ!と己が海に飛び込もうとした時だった!なんと、この時、敵に背中を斬られ、惜しくも、海に転落死。▼との意味が書かれております。・・・涙!たとえ夢でいいから信じたい!野村は、いかにも彼らしく、誰よりも、勇ましく戦って死んだよ・・・。誰かの祈りが痛々しい。誰かが、誰かに思いやり・・だから、オブラートな優しい嘘TOP<幕末玄関<人物名から追跡<No.1<No.2(現在頁)<No.3・・
2012.08.05
箱館戦争,桑名藩_石井勇次郎の記に見える「新撰組_野村利三郎の特異性」について考察No.1,誰かが誰かに思いやりの優しい嘘,文献に見える心系,宮古湾海戦と甲賀源吾特集頁へリンク _桑名藩_石井勇次郎に見える「野村利三郎」_No.1戊辰に見えた!「誰かが誰かの為に『思いやり』の優しい嘘!今回の特集は、歴史があんまり好きじゃないタイプさんも、宜しければご覧下さい。貴重な文献といえど、その文献の中にも、「嘘」があります。しかし、これは、なかなか泣ける・・「優しさゆえの嘘!」誰かが、誰かの為に『思いやり』。・・・言えなくて、まさか、真実を語るには、惨すぎて、相手を思いやる気持ちから、誰かが、誰かに、きっと、そう語ったんだなあ。「優しさゆえの嘘!」それが伝わってきます。嘘の訳を色々考えてみました。▼現代に於いて言い換えるなれば、こんなかんじです。医師に死を宣告されている患者が、たとえば家族に尋ねる。それが子供だったらどうでしょう。事故にあって瀕死の子供が、「僕は、もう死んでしまうの?」まさか、つらっと、「はい、そうです。もうじき死ぬでしょう!」・・・と答える人は居ない。「ねえ、あの時、一緒に怪我したお兄ちゃんは、もう死んだの?」「はい、そうです。もちろん死にました。」・・・と答える人が地上に居るわけない!「嘘言っても僕には解るよ。だって、もう死んだって誰かが言ってたよ。本当の事、教えてよ・・・。」誰かの為に、誰かが優しい嘘を・・・。時代かわれど、人の心って、ずっと同じなんだな・・・。宮古湾海戦に於ける「野村利三郎」の描写。新撰組、勇猛果敢な「野村利三郎」の死に様。数多くの文献の内、特異な一件。明らかに嘘だけど、思わず泣けた優しい嘘。新撰組_野村利三郎よ!天上で輝いてくれ!君は誰よりも偉大だったよ!誰かが、誰かの為に、言えなくて、優しい嘘を・・・・・祈りの思いが胸が痛い!!今回は、戊辰に見えた!「誰かが誰かの為に『思いやり』の優しい嘘!・・・の話をご紹介。宮古湾海戦とアボルタージュ!この時、新撰組、勇猛果敢な「野村利三郎」の死に様について敵艦、「甲鉄艦」奪取作戦豪雨のごとく降り続く敵弾の中、アボルタージュ!甲賀源吾の怒号が飛んだ。Abordage!アボルタージュ!アボルタージュ!繰り返し連発される。敵弾を真正面から受けつつ、甲賀はその位置から一歩も立ち去ることなく、ひたすら兵を叱咤激励。宮古湾海戦と甲賀源吾:特集頁宮古海戦の夢:思わず、泣けた!思いやりの嘘!夢の中、誰かの祈り「野村利三郎の活躍」TOP<幕末玄関<人物名から追跡<(現在頁)No.1<No.2・・・_
2012.08.05
石川忠恕&説夢録について,箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.7,一聯隊箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.7初めから読む:No.1<前頁から読む:No.6(一聯隊と三上超順「館城攻防血戦」)<異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索>石川忠恕こと、石川證平の思想と以外なレイアウトについては、上記No.1からご覧下さい。現在頁は「石川忠恕&説夢録」について、補足編。(■No.6前頁:一聯隊と三上超順「館城攻防血戦」、■No.7現在頁:石川忠恕こと、石川證平&「説夢録」)■石川忠恕(石川證平)とは名前石川證平はいまだ謎多き男のまま石川證平、類似名類似表記:石川禮平、号:「忠恕」については下側行解説生没不明。但し、死亡は謹慎中。皆と同様謹慎寺を移動させられていることから、死亡は後半の弘前最勝院と言われているが期日不明。◇彼の遺稿「説夢録」は謹慎中書いたと序章で語っていることと、この原稿が鉄五郎の手によって明治2年(1869)10月、石川本人の要望どおり、横浜の三河屋幸三郎宅に届けられたことから、原稿完了は9月位で、死亡も手渡して間もなく説が有力。石川證平の箱館戦争時に於ける役職と勤務◇江差役所調役 、◇一聯隊の輜重任務。輜重とは、「輜」=ほろぐるま:在隊名は「一聯隊」になるが、これは、元から同一ブレーンだったわけでなく、蝦夷の再編成にて、この隊配下となる。当初、一聯隊加入時は、輜重掛だったが、江差では、江差役所調役という要職に就任。◇官軍側の収容賊名簿「蓮華寺賊名前」には「海軍方七ノ間」になっているが海軍関係無。◇謹慎、◇出身藩、◇箱館戦争に突入した原因他◇謹慎:青森蓮華寺→弘前最勝院◇蝦夷へ到来した際、乗船していた船:長鯨艦◇藩:三河吉田藩。但し幕臣説も有り。その場合なんらかの養子縁組他経緯はハテナ?◇石川證平が箱館戦争に突入した原因江戸の彰義隊に参加。直接参戦していた様子。それが発端で蝦夷地になだれこむ運命。人物について以外なレイアウト=考察材料<江差に建てた犠牲者の鎮魂「塔婆」と洋式祭礼の実行>▼松前との戦闘が落着して、榎本軍が蝦夷を掌握した後、鎮魂碑を立てた。二つ立てた。一つは榎本軍であるこの隊「一聯隊関係」の初期犠牲者7名用。もう一つは松前側の死亡者の為。江差中の寺院僧侶を集め、江差観音堂にて大供養をなせりとある。「読経中、松前の為にも、全員が整列して祈った。」このフレーズが印象的。(この様子はNo.3)「説夢録」に於ける「忠恕」の名に思想考察■「忠恕」は号と解すか、その著「説夢録」に於ける一種ペンネーム「恕」とは、心を広くして、包容して許す意を含みます。◇実際、石川證平の行動や思考視点に着目してを読むと、戦に不向き!と感じる程、優しい心の人物。味方に限らず敵も哀れみ、外国の人物に対しても心から博愛主義。当時の日本、開国派ですら内心植民地の恐怖。しかし、彼は、許しの心、慈愛の心。◇この件について考察は、No.4。但し、部分的に拾い読みすると、唐突すぎて、ピンとこないと思います。前後の流れを把握するとわかりやすいと思いますからNo.1からお読み頂く事をおすすめします。石川證平の思想的印象&特徴■上記のとおり「恕」の文字にまさに現れる他典型的一般侍と少々異なる習性。<博愛、許す心=恕す心、慈愛の心、洋学もしくは学者的要素>◇蝦夷の未来、殖産興業、農学他、建設的に期待していた様子。つまり当該知識者。◇洋学に優れた「石井梅太郎(間諜発覚にて敵に斬首された犠牲者)」について、長い文章を添えているところを見ると、彼と親しかった可能性有り。また洋学知識者を讃えることから、本人にも当該確率高い。江差調役就任もそれを示唆。◇アレクサンドル・シーボルトの件も長く書いている事から、面識有確率有。◇上記二点からすると、漠然と蘭学、医学(元祖シーボルト)などに関係だろうと予測がつくが、ここから先の情報は皆無。◇この人物、かなり毛色が異なることから、藩を掘るより、洋学所にヒントが落ちてるかもしれないと私的に考え中。■石川忠恕(石川證平)「説夢録」とは箱館戦争で榎本軍が降伏した後、一聯隊の石川證平(江差役所調役)が著わした。その際、著名を「忠恕」としている。どうやら謹慎中死亡の様子にて遺稿。※序文から:鉄五郎との出会い考察「四寺に分散して、同志数人と校合せり」・・とある。これは仲間と会える状態示唆。身分が異なる他寺の謹慎者にも接点が得られる。「夢説録」が無事刊行される迄【関連人物】【1】鉄五郎(博徒)【2】の三河屋幸三郎に手渡したのは明治2年(1869)10月「夢説録」を横浜まで運んでくれた者:博徒鉄五郎博徒鉄五郎と石川證平(忠恕)のめぐり合いが判然としないが、2説有り。【1】鉄五郎は無宿浮浪の博徒にて、なんらかの伝を持って謹慎中の石川に接触【2】鉄五郎も箱館戦争参戦者の一人で捕縛謹慎。身分が低い者は、皆より早期釈放される。10月に横浜到着してることから、9月頃釈放されたか?【2】三河屋幸三郎<人物について下行>【1】の博徒鉄五郎から原稿を受け取ってくれた者。受け取りは上記=明治2年(1869)10月。時期的に危険の為永らく公表せず保存。尚、この人物は明治22年死亡。本姓は浅岡。【3】浅岡岩太郎手渡したのは明治27年浅岡岩太郎は、【2】の三河屋幸三郎の倅。明治27年、福地桜痴を訪問して原稿を手渡す。この年は、父の7周忌&箱館戦争27年目。【4】福地桜痴「説夢録」を公表福地桜痴(元幕臣通詞)は、現況出版&文筆家として活躍中の人物。(生没:天保12/3/23(1841)~明治39(1906)1/4)福地によって、翌年明治28年、「説夢録」が公表される。巻末資料として「函館戦争義士人名録」。他資料と同様若干の流布本も出ているが少ないのが特徴。【1】~【4】の人物関連網考察:石川忠恕と、三河屋幸三郎と、鉄五郎(博徒)人間ネット網考察石川忠恕(=張本人)石川忠恕は江戸の彰義隊で参戦または関与人物。三河屋幸三郎文政6(1823)~明治22.5.5(1889) 本名は浅岡。通称「三幸」この人物については、澤太郎佐衛門が伝を残す。「三河屋幸三郎の伝」江戸神田に飾職問屋経営。屋号が「三河屋」。横浜にも支店を持っている。【1】の博徒鉄五郎が出没したのは横浜支店。この人物は、彰義隊を支援活動。部下を走らせ応援させている。発端は、或事件以来、幕府の信頼を得て重宝されて、徳川報恩派。【或事件以来の縁】江戸高輪東禅寺の英国大使館、水戸浪士襲撃事件の時、偶然側に居り、浪士を捕らえる手柄。彰義隊が惨敗した後も、官軍の目を盗み屍を千住円通寺に埋葬。【この人物の気になる家柄血統】父は罪(金利違反・高利)に問われ有罪となり遠島。その為、幸三郎は罪人の子として八丈島生れ。因みに偶然か否か、屋号「三河屋」。石川證平は「三河吉田藩」。鉄五郎(博徒)参戦降伏捕縛の一人でないかと思われるが詳細不明。この人物については語られていない。しかし、【1】鉄五郎枠ご参照。戊辰戦争時の雑兵の中、彰義隊騒ぎの時、親分の命令で手伝っていた博徒も居れば、職に飢え日銭の為幕府の徴募に参加した末端兵も居る。幕府は人材不足で、博徒なども抱え調練して、彼らも立派な砲兵能力を有する迄成長。一般に匹夫、雑兵と表記されて身元不明扱いの犠牲者の多くは、農民も居るが主に彼らが多い。トラブルも起こし、行いで品位を落とすなど問題有りながら勇敢に戦った。官軍の板垣退助がぼやいている。「幕軍の屍を見ると、どれもこれも背中がモンモン。屍の大半はこれだ。幕軍も大分窮地の証拠だな。」必死の原稿保持みんなの連携プレイ【1】の博徒鉄五郎:見つかると斬首。油紙に包んで雨露を避け、命を捨てる覚悟で肌身離さず抱えて運び、届ける。【2】の三河屋幸三郎:見つかると斬首。時来たりて安全な時代に至る迄家の蔵下奥深く大切に保存。自分は死亡するが、子に遺言。その為、子の【3】の浅岡岩太郎が明治27年、ついに【4】の福地桜痴へ。箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)特集,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録SERIESTOP<楽天犬猫ペットのお得スクープ<幕末玄関<【祈りとサーベルNo.1<・・<No.7(現在頁)】
2012.08.03
一聯隊と三上超順_館城攻防血戦,箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.6,館城とは?地元の期待と城喪失の怨恨,石川證平(忠恕)と説夢録箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.6異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16■一聯隊と三上超順「館城攻防血戦」■No.6現在頁:一聯隊と三上超順「館城攻防血戦」、■No.7次頁:石川忠恕こと、石川證平&「説夢録」初めから読む:No.1<前頁から読む:No.5石川忠恕こと、石川證平の思想と以外なレイアウトについては、上記No.1からご覧下さい。現在頁は補足編。まずは、一聯隊の活躍の内、初期段階にスポットしてご案内。<詳しくは:一聯隊初期戦闘表(1868年11月同隊の死傷)><活躍メンバー名前概略>堀覚之助(軍監)、黒沢正介(差図役)、横田豊三郎、伊那誠一郎、為貝金八郎(差図役頭取)、越智一朔(貫木抜き取り皆を招く手柄)、横田豊三郎(差図役改役)、杉山敬次郎(差図役)、渡辺左忠(差図役並)、山田友吉(兵士小頭)、相馬助次郎(差図役並)他<死亡>■【稲倉石間諜による犠牲】11/11:石井梅(楳)太郎(軍目付)、(今回SERIES内石井スポットは主にNo.4<No.5):稲倉石関門:僧と民2名を道案内に加え4人で間諜。松前に捕縛され全員斬首される。■【稲倉石付近敵の狙撃犠牲】11/12:高木正次郎(指図役頭取)被弾死亡。兵1名。■【館城攻略血戦中犠牲者】兵1~2名。<怪我>為貝金八郎(差図役頭取)、横田豊三郎(差図役改役)、伊那誠一郎(教導役)、他に兵4人この内、一聯隊が、勝ったとはいえ、舌を巻いたのが、なんといっても館城攻め(11/15)の時、一人大暴れで猛奮戦して、城を枕に死んだ怪僧「三上超順」。彼らは瀕死の重傷者を出して、三上が憎いが、死ぬまで戦った姿には、敵ながらあっぱれ。複雑な思いだった。三上を葬ってあげた。▼このイメージは三上ではありませんが、雰囲気はこーゆータイプの勇猛果敢な大男。しかも侍ならずや、直前までお坊さん!左手にまな板だか、鍋の蓋だか持って、右手だけで刀振り回し戦う。猛烈に強い。蝦夷に今弁慶再来か!!ってところ。▼■この大男「三上超順」に悪戦苦闘しつつ、一聯隊は、皆が団結。越智一朔が匍匐前進で、門戸の下から、館城へ潜入。貫木を外し門を開く。次いで、伊那誠一郎が飛び込む。敵の中、大男の怪僧が、阿修羅のごとく暴れ狂う。伊那誠一郎が襲い掛かるが逆にやられて重症。ピンチ。伊那誠一郎を救う為、横田が、勇敢に飛びかかったが、生憎、地面は雪にて滑って転倒。巨大な男、三上が馬乗り。大男の下敷きでは、まるで一匹の虫。押し潰されて動けない。首を斯かれる寸前。危機一髪。(確か、発端ピストル寒気で故障不発)堀覚之助と、黒沢正介が一緒に、大男三上に襲いかかり、辛うじて横田豊三郎を救った。▼三上の強さは半端でなかった。これだけ人数居ても、横田、伊那他重傷者多発。タイミングが狂えば、何人殺されたか知れない。■上記「三上超順」事件の他にも「館城」奪取時の同隊奮闘の様子(敵の死:18人)杉山敬次郎(差図役)が敵と二対一で戦う。助っ人に渡辺左忠(差図役並)が一人を銃殺。残る一人も渡辺が斬り殺す。山田友吉(兵士小頭)が銃剣(サーベル)で、二人を刺殺。相馬助次郎(差図役並)も一人を斬り殺す。■三上超順勇戦談に埋もれてる17人の松前藩士達三上が有名すぎて、話にも出てこないが、実は他17人死亡。偉い人達は、藩主を守って青森に行ってしまった。取り残された下の者が、こうして犠牲死。下っ端は、いつの世も。実は、三上とてTOPじゃない。館城責任者最高幹部は「松井屯」。松井は青森へ。■館城について、城を枕に討ち死した三上超順の気持ち館城について:館城(江差の民、悲願の築城この城は、できたばかり。なんと明治生まれの最新城です。どうにか完成したのは、この僅か40日前!です。できた途端に焼き落とされた「涙城」!民も必死で協力して、僅か約一ヶ月で強烈ピッチで完成させた。特殊な技術(上記リンク先)を使っています。即ち、築城仕上げとは、榎本軍が蝦夷上陸して、箱館方面で戦の真っ只中の話!病床の藩主を担いで連れ入れ、入城してもらったはいいが、榎本到来で、すぐ熊石から脱出。計算してみると、藩主がこの城に居たのは僅か10日程度。【なんの為にこの城を造ったのか!どうしてくれる!三上の気持ちが解る。】この城、設計図も焼けてしまったようだ。惜しい。図が無いから、今日再現図の絵画を誰も描けない。新しすぎて、特徴を記憶する翁話も皆無。設計も三上自らと伝わるが、なんせ燃えて消えた!この口惜しさは怨恨に。■佐久間悌二:敵との握手、■箱館戦後処理の様子一望表■松前江差方面:戦後処理の様子と悲惨「一望おまとめ表」■また、こんな裏事情も。完成の際、民は既に上陸している榎本軍が恐怖。ところが、駆り出されて、完成祝いの祭りを強いられた。戦の最中、蝦夷のド寒い中、震えながら、祭りの踊り!!こればかりは、皆さん迷惑。大分滅入ったようですが、さりとて、この地に城を迎えるは、古来よりの皆の夢だった(※)。蝦夷拠点が松前でなくて、江差に!皆の期待は絶大。それだというのに、▼忽ち落城。影も形も消えうせた!詳細は真下リンクへ。館城(江差の民、悲願の築城(※)蝦夷の昔。Vol.2松前、国獲り興亡物語昔、政権は12個の城ならずや館に分離状態で存在。興亡の積み重ね。実は江差方面にも館があった。最終、松前が全権掌握。こちらの方面にしてみると、昔の怨恨有り。初に政権を奪取ならずや、過去の栄光を取り戻すニュアンス有り。松前が全権掌握に至った訳は真下バナー。ずっと昔「コシャマインの乱」発端。▼三上超順の気持ち蝦夷の為なれば、僧籍を捨てて、環俗して戦った男、三上は、新派の「正義士派」に参加。これは、松前の左幕派重臣を全員皆殺しにして、新規革命を目論んだチーム。かなり過激で問題があり、後で立て直し。(詳細、真下バナー)しかし、「革命」の為、三上は仏を裏切ってまでも環俗して参加。非常に三上も哀れです。なぜなれば、「正義士派」の幹部は、松井屯、鈴木織太郎、 下国東七郎:三羽烏。館城の最高責任者とは、松井屯です。偉い人は藩主に従い青森へ。鈴木は蝦夷で戦い怪我で途中からリタイヤ(結果は哀れですが)。いずれにせよ、三上はTOPの座じゃないのですから、逃げてもいいのに、ここまで犠牲的に粘り倒した姿は悲壮。TOP<幕末玄関<No.1<・・<No.5<No.6(現在頁)<No.7NEXT:(準備中)石川忠恕こと、石川證平&「説夢録」文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.08.03
箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.5,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録,TOP<幕末玄関<人物名から追跡<幕軍&松前えとせとらSERIESの目次箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.5異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16彼に於ける「信じたいが故」の「優しさに由来する優しい嘘」!初めから読む:No.1<前頁から読む:No.4★オブラートな優しい嘘!?ところが、結びの形が以外です。なんて惨忍!武士の風上にもおけぬ!といった非難でないのです。前述のとおり、これは彼が作った嘘!とは言いません。きっと、そんな形で、どっからともなく、聞き知ったが故に書いた事と思います。▼<彼の文章意訳>この報告を聞くなり、松前の藩主は「武道不覚!」と大層怒り、上記4名を斬首した当該藩士を厳しく叱った。「道連れの民を許すべくの願いなれば、武士道なれば、許してやるのが誠の武士でござらぬか!不届き者め!武道不覚にて、以降、御目通り禁止を申し付けるぞ!!」 ・・藩主は、当該藩士を、以降、御目通り禁止の処遇に下したそうで御座る。▼との意味が書かれております。これには苦笑いたしつつ、涙!実のところ、松前の藩主は、この頃、持病が悪化して超重症。横臥したままに、ふりまわされている状態。報告を聞くのも、YESと答えるも横臥のまま。青森に到着早々、ついに息を引き取ってしまったほどの重症。とても藩士の前で、大怒号できるような状態ではありません。これは多分、誰かによるオブラートな嘘!です。嘘だけど、優しいが故の優しい嘘!必要以上に人を悲しめないための優しさが滲み出た嘘。藩主様ともなれば、たとえ敵とて、立派なお人柄に違いない・・・信じたいが故の誰かのオブラート。松前の殿様が、藩士の躾不十分で、こんなことになったのでない!あくまで、ごく一部の拙い者だったにちがいない・・・。信じたいのでしょう。・・・<藩主の超重症はもちろん隠蔽されてますから、この段階誰も知らない!>そして、もう一つ感じる。「御目通り禁止」程度の処分に収まっているあたりも手加減&特徴的。どんなに憎い者とて、酷い罰を受けたとか、斬首されたとか、そーゆー惨忍行為には無縁の結び。信じたかったんだろうな。信じて恕す為に忘れたかったんだろうな・・・。彼は謹慎中に死亡ですが、長く生きてたら、もっと可愛そうだったかもしれません。官軍資料の中、石井を間抜け扱いで笑いものにしてる描写さえあります。世の中、清い人ばっかりじゃないこの現実・・・見ずに死んで、その点だけは幸いだっただろうか?難しいが。可愛そうな石井達の魂に、きっと、そう呼びかけてあげたんだろうな・・・。「石井君よ、安らかに眠れよ。藩主様はね、やっぱり立派なお人だよ。武道不覚の藩士をきつく叱ったそうだよ。辛かったね。だけど安らかに眠れよ。」屍を拾い上げてやれなかった石井の為に、空の墓、塔婆の前、呼びかける石川の姿が目に浮かぶ。彼は石井と親しかったかもしれない。石井とは、上記リンク先にも書いてありますが、平たくは、シーボルト娘「阿蘭陀お稲」と腹違いの子と言ったほうが手っ取り早いのですが、アレキサンドル・シーボルトの従兄弟であると、彼は記載。アレキサンドル(アレクサンドル)の写真見たことあるんですが、なかなか二枚目のお兄さん。悲しげな目をした見るからに知的な美青年でありましたが・・アーネスト・サトウとも交流有りにて、残念ながら戊辰時は、どちらかといえば敵。アレキサンドルに係る注釈は、さて、この文章を世に送り出した、福地桜痴の筆ではないかと初め読み流していましたが、どうやらそうではない様子。石井梅太郎は同じ博学多識といえど、洋学に長けていた事、とても惜しんでいます。ことによると、石井梅太郎と石川證平の共通ヒントが、アレキサンドルに落ちているかもしれません。以上、彼に感じた意外なレイアウト。「説夢録」の原稿を書き上げて、苦肉の策でどうにか、博徒鉄五郎という男に、この原稿を頼み手渡すなり、なぜか、忽ち命を落とした男。それが、「石川忠恕」こと、一聯隊の「石川證平」。鉄五郎が死ぬ気で、この原稿を守り抜いてくれたが故、今日「説夢録」がある。(後述)謹慎中に尽きて天昇した男、石川證平が、文章上に残した名前、「石川忠恕」の「恕」の文字が悲しい。江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」前述(数ページ前)のとおり、一聯隊とは、結局寄せ集め異種混合体の隊として、江差を守備していますが、基本のメンバーは、どうやら、刀でなく、サーベルを使います。サーベルといえば、ブリュネが持ってるアレを連想してしまうわけで、思わず、フェンシングのポーズまで脳裏に浮かびますが・・・どうやら、皆のサーベルとは「銃剣」のようです。どこかの描写で、ふと思い出すなれば、一部の上官に関しては、「サーベルを縦横に振り翳して」の描写もありましたから、西洋風の剣を使いこなす者も居るには居るようですが、隊士達は、どうやら「銃剣」であります。後から、この隊に合流した石川忠恕こと、石川證平は、はたして「サーベル」を貰い受けたかどうかは存じませんが、ふと、その姿を想像してしまいます。右手ににサーベル。左手は胸に。吹き荒れる江差のタバ風。丘に、一人立ち尽くして、祈る彼の姿。二つの異なる魂の為に。双方の魂に、分け隔てなく、永久の安らぎを与え賜え。彼が建てた二つの鎮魂「塔婆」は、今は、どこに行った!! 鴎よ、教えてくれ!!魂に安らぎを与え、血腥い戦を早く終わらせて、夢と可能性多大なこの地、江差。ここに、農耕、漁業、殖産興業を発展させて豊かな実りを。彼の夢だったのだ。だが、夢破れて・・・。崩れるから、だから夢。 石川證平は、名を「石川忠恕」と著に改め、「忠」と「恕」に、思いをこめて、著わした。その名がまさしく、「説夢録」だった。祈りは「祈り」でしかない。夢など「所詮夢」!!語らった遊撃隊の佐久間悌二も、蝦夷に戦死した。一聯隊の塔婆はどこに?夢は夢だから、夢には、何ひとつ残らない。▼■一聯隊と三上超順■石川忠恕こと、石川證平TOP<幕末玄関<<No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)<No.6▲真上NEXTボタン・・TOP<■わくわくドキドキ!<■ペットが主流、■飼い主さん主流文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.08.02
箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.4,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録,箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.4異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索石川證平(石川忠恕)に漂う特殊な色彩初めから読む:No.1<前頁から読む:No.3ここで、前述の物語風の流れから少々脱線にて恐縮ながら、現代に於いても謎だらけの男、石川證平(石川忠恕)について、少しばかり漂う特殊な色彩について。以下、この枠内は、専門家が語った新発見ではなくて、あくまで私が彼の著「説夢録」に感じた事を書きます。気のせいかもしれませんが、彼には少し漂っています。まずは、敵の冥福も心から祈っている様子。まあ、これについては、武士の情けなれば、彼に限らず、あっぱれな敵将の散華には、他の者も同様に弔いを為してあげる場合も少なくないですから、この事象ひとつだけでは、私も臭覚が利きませんでした。しかしながら、文章全体総体的に実に優しいのです。生々しさを避けて、味方の手柄は語れど、誇示はなく、また味方を散々に苦しめた憎い敵将なれば、本来、味方の者を哀れむほどに、敵が憎いのは誰しも同じ。必然的に文章には、敵=悪者としての描写が現れて当然です。人間ですから・・。ところが、彼の場合、不思議とそれがありません。よくもこんなに優しい人が、頑張って戦争に参加したもんだな!状態でありますが、つまるところ教育でしょう。武士の教育。徳川報恩。主の為なれば臣は命を捧げる。主の徳川を裏切る薩長は、ミカドを口実に表面上、立てて正当化してるだけで、つまるところ下克上ではないか!・・・不義は許さぬ!まあ、こんなところでしょうか。大慌てで城に家宝を置き去りに逃げ出した松前のことも、寧ろ相手の立場を尊重した形で繕って書いています。ニュアンスはこんなかんじ。「急なことで余程、狼狽なされたのでしょう・・。」大切に扱って、これを信頼できる豪民に手渡し、松前に預けさせた旨が詳しく書いてあります。他の資料にも、同一内容表記は幾つかありますが、彼の描写の場合、いかに高貴な品物であったかを細かく書いてあります。例えば家宝の刀ですが、今日では、あれこれ言われており真偽様々ですが、「武田信玄」に貰った刀という話。その為、普通は家宝の刀程度ですまされている率が高いにもかかわらず、しっかと「武田信玄」の旨記載されてるあたりも、彼が、松前藩主に示した尊厳でありましょう。平たく言えば、憎いと感じる場面はおさえて悪口風にならぬように描写して、憎い敵の失態を普通なれば鬼の首を取ったがごとく書くところ、なぜかそれは黙示か、同情の形。また、終焉時、怖さあまって逃げ出した者が居るわけですが、それを卑怯者と罵ることはもちろんありません。そして、今回の特集内では、本題ズレる為、詳細は割愛しますが、箱館戦争に於ける最も惨忍なシーンがいくつか存在しますが、それについては不思議と表記を回避してるがごとく。大勢が死んだ悲惨よりも、たとえ少人数とて、手酷い惨忍処置には、人なれば皆、腸が煮え繰り返って普通ですが、そのあたりは存在しません。また、もうひとつは博愛の精神。この頃、日本人は誰しも諸外国に対して植民地の恐怖。幕軍側は攘夷に狂う薩長土の無差別殺人事件に散々泣かされて、幕府の財布まで其の都度泣かされ、立場上露骨ではありませんが、内心は「植民地の恐怖」。外国人さんを警戒しています。ましてや、戊辰時は、英国の薩長加担が丸見えで、一方幕府側はフランスですから、必然的に幕軍メンバーには、英国は敵の意識が皆にあります。ところが、石川證平は、心から外国人さんの不幸にも心からお悔やみしているのが数箇所わかります。一つ目は、箱館の露西亜館内で起きた惨劇。曲者と誤り、上官を救おうとした兵が撃った男は、別の上官。この兵は悔いて服毒自殺。それを、石川は心から悲しんでいます。そして、もう一件は英国。箱館戦争時、皆は、寧ろ英国憎し!ながら、最終、蟠竜による朝陽豪沈の時、薩摩を助けようと出てきた英国船。皆は、それみたことか、やっぱり英国は正体見せたな!なのですが、その時、彼らを救おうとした二人の英国人が犠牲になったと聞いて、これまた、石川は心配しています。(これは、勘ぐると、もしやアレクサンドルを心配してるのでは?アレクサンドルに実は面識あったのでは・・・とも思える節でありますが・・・。彼が乗船している可能性有りと石川が考えても不思議でないからです。アレクサンドルとは、次頁に記載しますが、薩英戦の時、英国艦に確かに乗船しています。)尚、この英国船には、この人物▼も乗っていました。ユージン、ビクター、デュ、メリック(ユースデンの甥子=英国艦パール号軍医いずれにせよ、石川は外国人に対しても、同じように博愛の精神を見せています。なんとなく、彼が一種ペンネームのごとく名乗った文章上の第二の名、「忠恕」の「恕」が臭います。「恕」とは、心を広く包容して許す意を含みます。これは幸い、論語にある文字ですから、使い易いのですが、ずっと昔の人物を遡り見比べてみると、切支丹に絡む、或いは多少噛んでいる人物の名に、ちょろちょろ出てきています。許しの神、慈愛の心など、禁教下で、まさか語れませんが、幸い、「恕」の文字列なれば問題回避できるわけです。無論、彼の経歴や家についても、今日判明してることは、実にほんの一握りにすぎませんから、上記推論がはたして夢か現か、さっぱり確証はありませんが・・・。ところが、一箇所だけ、余程、そんな彼とて憎らしく感じたのだろうなと感じる場面があります。▼彼に於ける「信じたいが故」の「優しさに由来する優しい嘘」!これは、本音、余程憎かったのでしょう。「救おうとした人を恕さなかった人」が、人として、とても信じ難く、憎かったのだろうなと、感じますね。余程頑張って押さえたらしく、「優しい嘘」らしきに化けていますが・・・。たとえ事実とて、事実と思いたくないってこと・・・世の中ありますよね。そんな時、「否、本当はこうだったらしいよ。」「こうだったんじゃないかい?」なんて、つまるところ同情から出た嘘と知りつつ、それに心休まる事ってないですか??以下内容は、彼自身が心安らかに保つ為の自主的嘘なのか、周囲の人物が思いやりで言ってくれた優しい嘘を信じたいが故に信じて書いたのやら、真偽は定かでありませんが、いずれにせよ、一箇所、結果=嘘!の場面が存在します。私がもしも箱館戦争参戦本人なれば、上の枠内に書いた「惨忍シーン」が最も頭に来ると思うのですが、彼の視点はどうやら異なります。一番憎かった・・・というよりも、一番悲しかったと彼が感じた点だったかもしれません。それは、稲倉石関門(明治1.11.12)石井梅太郎(一聯隊)事件。・・・名前(他に「石井操太郎」他表記の類似名:(梅は「楳」とも、「操」とも))当日一聯隊は、舘城攻略&熊石進軍中。稲倉石関門とは大変山深い位置で、積雪深く。その上、松前はこの道を敵に通過させまいと、大木やら岩やらで塞いでいる。ここで、石井梅太郎は、地元民二人と僧一人に同行頂いて、地元民に変装。町の様子を事前視察。運悪く捕らえられた。その際、さらに悲劇。懐に隠し持っていたピストルをうっかり落とし、見破られ、前述3名と共に斬首されてしまう。武士らしく、「己の命は惜しくないが、民の命だけは・・」願い叶わず・・・。事件は上記のとおりですが、これは、石川忠恕こと、石川證平は、余程憎かったのでしょう。状況描写よりも、「その心」に関する文章が比較的長く書かれています。「自己を犠牲にして、必死で皆を救おうとした人の心を解せず、慈愛の心を持って、罪無き民を恕すをできなかった心狭い人!」・・・とばかり本音は怒っているのが伝わってきます。人として、とても信じ難く、悲しくて仕方なかったのでしょう。戦争ですから、民だか、実は兵だか見分けつかないから、処分してしまう!率のほうが、高い訳ですが、きっと石川が松前の立場なれば、彼なら間違いなく民を許し放してやったのでしょうね。この人物、戦争に全然向いてない・・。当に「恕」の人。可愛そうなシーンは他にも沢山あるのですが、この一件になぜか力が入っている理由を考察。他事象と異なる点はひとつ。犠牲者が、皆を救おうとした人だったこと。願いを無視して民まで一緒に殺したこと。 優しさに由来する「オブラートな嘘」!?TOP<幕末玄関<No.1<No.2<No.3<(現在頁)No.4<▲上のNEXTボタン:No.5<・・文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.08.02
箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.3,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録,箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.3異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16或冬晴れの日、一聯隊、二種の異なる魂に祈りを初めから読む:No.1<前頁から読む:No.2ここに、石川證平(石川忠恕)が説夢録に書き残した或文節。恰も現のごとく、鮮やにその光景が、浮かび上がってくる。それは、一種悪寒にも近い。震える思いだ。或冬晴れの日、蝦夷の江差海岸。断崖絶壁。荒れ狂う北海の海。大地は銀の雪。断髪隊士達の髪は、蝦夷の強風に掻き乱されて、凍結した寒気が頬に吹き付ける。一聯隊の士官及び全兵卒は、姿勢を但し、まんじりともせず、一列に整列している。読経中、兵は整列して、銃を地に垂直に立てた形で小脇に携え、西洋式の敬礼を為す。江差中の寺院僧侶を集め、江差観音堂にて大供養をなせり。当日、尺角の塔婆二本作りたる。一つは、我らこの地にて戦死した者の為なり。されど、もう一本は、松前藩の戦死者の為になり。祭式は、西洋の戦死者を弔うの礼に倣い、厳粛なる葬儀形態で行われた。士官兵卒全て整列、銃を携え、背筋を伸ばし直立不動。「倣えっ!」「整列っ!」「黙祷っ!」てきぱきと、士官の掛け声。皆がそれにピシャリと倣い従う。その都度、軍隊特有のあの動作の音が、ビシッ!と響く。軍隊の指示語は訓練で殆ど把握している兵達も、中には「黙祷っ!」の指示語だけは、瞬時に理解できず多少戸惑う者もあれど、士官達が皆目を瞑り、祈りを為していることに気付くなり、若手はすぐに見習い、直ちに動作を真似た。黙祷の後、再び、士官の勇ましい指示命令の掛け声。「よ~しっ!黙祷~っ、終われっ!隊列、右向け、右い~っへ!前へぇ~っ、倣えっ!よ~しっ!直れっ!前へぇ~っ、進めっ!」軍隊が足並み揃え、雪原の雪を踏みしめ、海に臨む断崖の坂道を降りて行く。よく訓練された兵の動作は実に見事だ。ザッ、ザッ、ザッ、特有の足音が響く。その姿を上官の石川證平は、目で見送った。そして彼は、改めてもう一度、一人祈りを捧げた。それは、二つの異なる魂の為に。今度は、先刻の黙祷とは異なる形で、一人祈りを捧げた。二つの異なる魂の為に。双方の魂に、分け隔てなく、永久の安らぎを与え賜え。息も凍る真冬の江差海岸。鴎飛ぶ。沖には、両翼を広げた巨大な一羽の鴎が嗤う。それは、沖に浮かぶ島。まさにその名のとおり、巨大な鴎の形をした「鴎島」だった。小雪交じりの突風が斜めに吹き付けてきた。弔いの間だけは不思議と冬晴れだった。しかし、この地において、お空の神様はきまぐれ。忽ち吹雪に化けた。石川證平は、恨めし気に、沖の「鴎島」を見つめた。皆の夢と希望の象徴、軍艦開陽を呑み込んで海底に沈めた「鴎島」を見つめた。あの日、突如吹き荒れた嵐は何だったのだろう。あの時、不思議と大地に嵐は来なかった。襲い来た突風波浪は、あくまで海上だけだった。恰も直撃したがごとく。地の民は言う。お稲荷さんの祟りだと。そして、こうも言う。一匹の狐の仕業だと。漁夫に化けて暗礁に誘い込んだ狐は、開陽が乗り上げるなり、海に飛び込み、「鴎島」に上陸。ぶるぶるっと身震いして水気を吹っ飛ばして、ニタリと嘲笑う。戯れて、器用にアッカンベー!と舌まで突き出して見せてくれたとか。そして、煙に化けて、ドロンと姿を消した・・・と。あらかじめ雇っておいた水先案内の漁夫は誘拐されて行方不明。当日現れた漁船の男は偽者だったとか。(箱館戦争の伝説的実話コーナー)石川證平は、己に言い聞かせ、唇噛んでいた。すべて、戯言。下らぬ民の噂・・・。・・・またしても始まった。この地特有のタバ風。、畝ね繰り返して巻きつける。乱れた断髪が顔面に覆いかぶさって視界が塞がれる。目玉を狙い撃ちして小雪が突き刺さる。一体、ここは、なんちゅうところじゃ。その上、この地のウミネコは不思議な声で鳴くものだ。生まれ育った三河吉田のウミネコの声と全く異なる。岸壁に突き上げる白い波飛沫。黒々とした北海の荒波は奇岩に巻き付けて、捻れて無数の渦を醸し出す。この色は尋常じゃない。群青の領域を遥か超えている。真っ黒な蝦夷の荒波。飛沫だけが妙に白く不気味に見えてくる。石川は、もう一度、気をとりなし、一人祈った。僧達も引上げて、今は、一人佇む。誰にも懸念は不要だった。双方の魂に、永久の安らぎを与え賜え。TOP<幕末玄関<<No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4<・・■松前江差方面:戦後処理の様子と悲惨「一望おまとめ表」■ブラックリストに挙がり、自刃&首犠牲の生じた小さい藩と代官所等、左幕ムードの譜代等■人物名から追跡<幕軍&松前えとせとらSERIESの目次■巨匠達悲劇と懊悩、■幕末昂じてはひふへほ!(明治以降引き摺った戊辰の影)文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.08.02
箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.2,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録,箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.2異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16石川證平が、江差の地に架けた夢「夢の説諭」初めから読む:No.1佐久間悌二:敵との握手石川は、同じくこの江差守備配属となった佐久間悌二(遊撃隊_陸軍奉行添役)から、話を聞かされた。佐久間は、松前の生き残りを船で送り返してやる時に、戦場での再会を誓って、握手をしたという。なんとニヒルな男だろうか。石川は、酒を片手に、そんな佐久間の肩をポンと叩いて笑った。佐久間悌二:敵との握手海岸の船付き場、青森へ落ちて行く松前藩士を見送った佐久間悌二。彼は、ニヒルな笑みを浮かべ、去ってゆく松前藩士に握手を求めた。「再び、この蝦夷地が戦場となる時、戦場でもう一度お会いしましょう。」握手は本物だった。誰しも、人を殺したくない。雄者として、あくまで男らしく本物の握手。しかし、冷静な佐久間は一目瞭然見破っていた。彼らは、恭順を装い、必ず隊を再編成して襲い掛かってくることだろうと。しかし、これは、彼ら松前を老獪戦術として皮肉ったのではない。寧ろ、自嘲している。戦争なんて、夢みたいな綺麗事が成り立つわけはない。彼は知っていた。・・・人種の異なる榎本の判断基準!・・配下に従う己に自嘲。・・・石川證平(忠恕)は、佐久間の語りに頷き、酒を注いでやった。「それは、さておき、佐久間殿、まずは一献。」・・そして、こう言った。「佐久間殿、我等の死闘は、まだ、これからでござるのう。」二人は黙って酌を酌み交わしていた。江差の真冬。寒風が骨身に突き刺さる。熱燗が五臓六腑に沁み込んだ。暫しの沈黙の後、石川證平がポツリと呟いた。「佐久間殿、この地は、絶望の鄙の地ではござらぬ。安定さえすれば、捨てたものではありませぬ。」ここから先、彼が喋り出した話は別世界。まるで夢。佐久間はぽかんと口を開いていた。「佐久間殿、鰊漁で潤うこの地の海産資源は、無限の宝庫じゃ。それに、地質も優れておるぞ。百姓の中には、招かれてこの地に来た優れた灌漑技術者(※【1】)もおるのじゃ。我も驚いたぞね。それだけじゃないぞ。銀、鉛、鉄、石炭が採れる山も有るそうじゃ。山ん中、用心深く見ればのう、桑の樹木も自生種が有ったぞえ。安定させた後はのう、絹の生産に尽力して、異国に輸出するのじゃ。・・・なに、どってことないさ。箱館の峠下方面には、優秀な技術者がおるのじゃ。八王子千人同心蝦夷移住隊の連中さ。あいつらの内、官軍に靡いた連中もおるがのう、もともと徳川畑の連中じゃ。我が隊、箱館の兵にも数名(※【2】)おるらしいわ。なんでも、自ら志願してやってきたらしいぞ。語ればきりがない程じゃ。なには、ともあれ、この地とはのう、佐久間殿や、開拓と殖産興業に、実に適した地でござる。」※【1】技術者とは:井越勝右衛門)、※【2】:■秋山幸太郎、平山金十郎他、八王子千人同心蝦夷移住隊、■平山金十郎佐久間は、ポカンと口を開いたまま閉じれない。この男は計り知れない。石川という男、皆と視点が異なる。今度は、佐久間が、笑って言った。「さようか。貴殿が言うなれば誠じゃろうのう。されど、我には、まるで夢の説諭じゃ!頭が空回りするぞえ!・・未来は、貴殿にお任せじゃ。この鄙の地も、捨てたもんじゃないのう。少しばかり、気が軽くなったぞえ。・・たとえ、夢でも有り難いこっちゃ。」盃を口に運んだ佐久間の視線には、再び鋭い光がさしていた。水面下のゲリラは、増殖するばかり。それは、榎本の理想に沿って、地に放してやった連中。藩主に従い青森行きを選択しなかった者程、実は怪しい。恰もおとなしく、帰農を希望して、「己は、百姓になります。」と語った者程、大嘘つきのツワモノ。彼らは地下に潜り、不穏な動きを諮る。またしても海鳴りが聞こえてきた。さて、ここに、石川證平(石川忠恕)が説夢録に書き残した或文節。恰も現のごとく、鮮やにその光景が、浮かび上がってくる。それは、一種悪寒にも近い。震える思いだ。隔絶の地、江差守備の「一聯隊」の宿命No.1<No.2(現在頁)<No.3<・・TOP<幕末玄関<幕軍&松前えとせとらSERIESの目次<・・<現在の頁Vol.16<Vol.17・・・現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16TOP<■わくわくドキドキ!★
2012.08.01
箱館戦争の裏庭_江差の冬_祈りとサーベル(銃剣)No.1,江差で越冬_苦渋の一聯隊,石川證平(忠恕)と説夢録,TOP<幕末玄関<人物名から追跡<幕軍&松前えとせとらSERIESの目次■巨匠達悲劇と懊悩、■幕末昂じてはひふへほ!(明治以降引き摺った戊辰の影)箱館戦争の裏庭:江差の冬「祈りとサーベル(銃剣)」_No.1異色の存在「 石川證平(忠恕)」と 「説夢録」より、彼のレイアウト模索現在特集の関連資料頁(一聯隊の活躍)=幕軍&松前えとせとらVol.16今日に偉大なる文献「説夢録」を残してくれた男、石川證平(忠恕)。それだというのに、彼はいまだ謎のベールに包まれたままに、その全容は明かされていない。ついつい、史実の流れに夢中になるあまり、見落としてしまう「人物像と思想」について。「説夢録」については後述しますが、実に読みやすく優れた文章。しかし、読んでみて、ひとつ、皆と異なる特徴が気になります。この人物は、折角偉大な文献を残してくれたのに、残念!謹慎中に死亡してしまいますが、文章には随分「思いやり」が滲み出てます。敵味方隔てなく、弔いの心の厚さ、それに加えて、地質や資源の確認を怠ることなく、蝦夷の未来に夢を馳せていた特別な知識者としての視野が印象的です。無論、この文章が実際世に出現にするにあたっては、編集の帝王、福地桜痴の手にかかっていますから、注釈部分等は、福地の加筆はあるのですが、箱館戦争当時の当事者石川の各行動から、本人に、あきらかにその姿勢があったことが読み取れます。今回特集は史実の羅列と異なる角度から、彼のレイアウトを追ってみます。江差で越冬、苦渋の一聯隊の素顔箱館戦争の裏庭明治元年(1868)、この10月蝦夷上陸した榎本武挙軍は、松前と大決戦の暁、無事鎮圧。政権樹立。11月朔日、豪勢な祝賀。21発の祝砲が天に轟く。紅白の餅が民に撒き与えられ、人々は歓喜。真っ赤な制服、額兵隊がブラスバンドに大変身。人々は初めて聴くメロディーに酔いしれた。隔絶の地、江差守備の「真冬の一献、熱燗」しかし、ここは鄙の地。一聯隊の宿命は、江差守備。箱館の地から遥か隔絶。海底には、開陽の怨恨が沈んでいる。天の悪戯か、あの泣く子も黙る軍艦開陽は、海の藻屑。榎本軍の象徴、開陽は、やがて哀れ、魚達の巣窟になることだろう。暗夜に灯を失するが如く茫然たり・・・とは、・・つい最近のハプニング。されど、五稜郭のある箱館の街は、大層なお祭り騒ぎだったという。その一方、江差守備の隊員達は凍てついた真冬の海風に煽りたてられながら、苦笑するしかない。恨めしや!と海底から、時折、開陽の亡霊が啜り泣く。海鳴りに混じって、気のせいか泣き声に聞こえてくるから不思議だ。ふり返って見れば、原因はおそらくウミネコだろう。この地のウミネコは不思議な声で鳴く。その上、畝ね繰り返すこの地特有のタバ風。 その豪風に混じって、恰も人の泣き声に化して聞こえくるから気色悪い。隊士達は、つくづく鄙を噛み締めて堪えていた。さりとて、江差奉行所漕ぎ出しとはいえ、ひとまず、江差奉行には「松岡四郎次郎(一聯隊隊長)」が就任。この隊には、石川證平(忠恕)という一人の男が居る。彼は特異。実は三河吉田藩藩士。石川は、江差役所調役の役職を授かった。彼は江戸の彰義隊に参加しており、逃げ延びて今日に至る。少数派の生き残りは、度々の変遷を遂げ、彼に限らず、各隊の配下に散っている。石川は、同じくこの江差守備配属となった佐久間悌二(遊撃隊_陸軍奉行添役)から、或話を聞かされて知っていた。彼曰くに、榎本とは、「我等と異なる人種」なのだと言う。事の次第を聞くなり、二人は顔を見合わせ苦笑した。そんな話は、言うまでに及ばない。脳で判断する男と、かたや、血みどろで地を這い摺り回り、戦う現場の指揮官は、いわば異次元の人。それはそれで、あれはあれ。二人は笑った。佐久間悌二:敵との握手No.1(現在頁)<No.2<・・TOP<幕末玄関<幕軍&松前えとせとらSERIESの目次TOP<■ペットが主流、■飼い主さん主流文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.08.01
箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」,不屈の男!蝦夷の平山金十郎No.3,清水谷公考暗殺クーデター,平山金十郎,馬場政昭 箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」不屈の男、蝦夷の「平山金十郎」_No.3関連項目【幕軍&松前えとせとら:Vo.3】■村人同士の敵味方:同じ村の中、二分した彼らの宿命。「官軍支持派」と「徳川報恩派」■新政府側から見る彼らとは:「八王子千人同心蝦夷移住隊の者」の扱い&差別視。■「蝦夷の地、逆クーデターへの流れ&関連」の行■箱館戦争勃発時の「七重、峠下近郊在住_八王子千人同心蝦夷移住隊」総体■平山金十郎と、榎本武揚の出会いについて■平山金十郎を優遇した男:「中島三郎助」■ほとぼりがおさまって、明治の世、再び蝦夷に戻ってきた平山金十郎の姿と別名。■官軍側に徴集されて官軍として散華した同じ八王子千人同心蝦夷移住隊の者について・・(秋山幸太郎、斉藤順三郎他)蝦夷在住の「平山金十郎」について初めから読む(No.1)<前頁から読む(No.2)<注:名前のトリックについて>箱館戦争時、榎本加担であり、降伏せずに逃亡潜伏の経緯であることから、名前のトリックが複雑でややっこしいですが・・。その上、それ以前の江戸時代に於いて、この家系は、優秀な剣術や学問を継承する都合上、歴代養子が多い為、もとから複雑。いろんな苗字出てきます。<前頁の項目>【1】平山家について:ざっくりと【2】平山金十郎(蝦夷在住の幕末~明治世代の人物側の金十郎【3】平山家について:追記 ■【4】:平山金十郎こと、かつての「清水啓作」について、先祖ルーツの「清水家」とは・■この清水家とは・・?について:江戸在住時代:彼の父「清水恒光」&親族◇「清水恒光」:天保14年12月13日死亡。墓は小梅村常泉寺。◇居住地:江戸数寄町屋敷。◇父の職業:魚問屋。しかしながら、職業とはまた別に、「清水恒光」は、「北辺の守り&海防」に係る知識を学んでいる。このことから、平山行蔵の門弟と考えられる。◇「平山金十郎(蝦夷で箱館戦争参戦した側の世代)」本人について■【5】名前:◇清水金十郎啓作(敬作と書かれた資料も)→【一回目の改名】清水金十郎啓作→【二回目の改名】「平山金十郎」▽<明治の名前:榎本軍に参加応援しつつ、無事蝦夷脱走して生き延びた後の名前について> →【明治の名前】石川岩次郎→(落ち着いてから再び元の姓「平山」へ:平山岩次郎石川岩次郎 =石川半七(武蔵国葛飾郡小梅村平民の二男)として明治10年5月8日付、確かに農業試験場に、その名前有り。農業試験場とは、上記文章内にも書きましたが、七飯。石川半七とは、もう少し調べたいと考えています。イコールではなくて、実は十代後半の大きい子供(養子)か?出仕の際、戊辰の傷がある親本人が、倅の名を天辺に出して、自分は隠居のごとく「厄介」の一人として、書面上、表出しを避けて登録している人居ます。石川の姓について箱館戦争に於いて榎本加担、しかも降伏謹慎のルートを経ず、逃亡潜伏であることから、発覚すると危ない。斬首される時期を経ても、正式書面や就職には相当問題が懸念される身。石川は妻側の姓。養子婿入りの形を使ったか。妻は養母:石川タツの長女テツ。但し、上記のとおり、年月を経て、最終的には、姓が平山に戻る。戸主:平山岩次郎。石川家について追記厚田村に逃げた下母沢寛の先祖といえば彰義隊ですが、この石川家とは、下母沢寛の母の実家側家系でもある。一族に視野を広げると、三岸好太郎(画家で有名な)家の妹が嫁いでいる。【妻について追記】■【6】生没:(生年は、上記の昔の七飯農業試験場在職資料から確認しました。)天保10(1839)年1月27日生まれとある。武蔵国小梅村生まれ。明治34(1901)年死亡。この時、彼は、書面上、小梅村平民の扱いとなってる。 (幕末かつて峠下在住事実は抹消の意)■【7】明治の活躍:蝦夷脱出後、ほとぼりさめて、蝦夷に再び戻った時は、石川岩次郎夫妻として、エドウィンダンが指導する七重村の農業試験場に入る。一介の農民を装い、ここでは、しっかと西洋風の新技術&農学を学ぶ為に、夫婦で住み込む。■【8】平山姓に戻してからの平山岩次郎(=かつて箱館戦争時の平山金十郎と同一人物)ほとぼりがさめてから、平山に戻す。思い出の峠下に戻り、塾の先生(※)になる。道場も開く。師弟教育に捧げ、この地にて明治34年(1901)死亡。※:初めて先生になったのではない。箱館戦争以前、博学な彼は、村で教育者の立場だった。■【9】箱館戦争時:中島三郎助が、平山金十郎に好感を示した理由推察平山金十郎は、自己紹介で、先祖と「朝比奈家」の縁を語っている。榎本達にはあんまり見えない話だが、49歳にもなる中島は、皆と異なり、そのあたりを詳しい。その上、中島にとって、「朝比奈家」に縁がある者を粗末にするわけはない。そこで、「伊藤源左衛門」の記憶話に「中島隊」が登場する由縁と思われる。実は、隠し名に「庄蔵」もあるのだが、この名前なれば、中島の記録にも、ちょろちょろ登場している。(この話、頭こんがらがるので、別件特集でご案内します。)小彰義隊に平山金十郎(差図役下役)尚、上記の「伊藤源左衛門」の記憶話から、平山金十郎は、榎本軍入隊は明確だが、中島三郎の隊にその名は無く、どこに入ったのか探したところ、途上に於いて、小彰義隊にその名を見出すことができた。原因として、中島三郎隊とは、そもそも蝦夷到着早々から存在した一個の正式隊ではない。主従関係&浦賀ブレーンとして固まっていたにせよ、額兵隊や、彰義隊のように、一個の完全な軍組織としてではない。あくまで最終段階に中島中心に生じた一団体。その為、彼は、隊の配属分類として、この隊「小彰義隊」所属下に組まれたのかもしれない。また、もうひとつ考えられるのは、英式歩兵術を習得していることから、下指揮官能力保持者として、ピックアップ配属の可能性も少しある。【妻について追記】:ご子孫さん、あらかじめ御免なさい!!平山金十郎は、箱館戦争初期、中島三郎助に頼んで、一回、数日休みを貰って、自分の家がある峠下に帰らせてもらっている。村を戦禍に焼かれた旨、それは聞いて知っているが、家族が心配だった。行ってみると、案の定、誰一人居ない。絶望の境地。(ここまでは知っているが、この後の様子については、調べる術が無い!)▼即ち、この頃の妻は、箱館戦争のおかげで消息不明。しかしながら、どこかで存命情報を得られたのだろうか?無事、上手に逃れて、再び再会できたのだろうか? ▼石川さんの家とは、当初の妻の家なのだろうか?それとも夫婦は戦争で、行き別れになったままに、あらためて石川家の娘と再婚したのか?歴史話としては、実に些細な事にすぎませんが、もしも、再び再会できた暁だったとしたら、それは史実より何よりも尊い。人事でも過去でも嬉しい。・・・・が!何ひとつ、そのあたりは不明。今回の特集元編「箱館戦争時:八王子千人同心蝦夷移住隊の悲劇」<No.1<No.2<No.3(現在頁)サイトTOP(トップは犬猫サイト!)<幕末玄関<人物名から検索
2012.07.30
箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」,不屈の男!蝦夷の平山金十郎No.2,清水谷公考暗殺クーデター,平山金十郎,馬場政昭 箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」不屈の男、蝦夷の「平山金十郎」_No.2今回の特集直系のNo.3へリンク入れてあります。▼関連項目■村人同士の敵味方:同じ村の中、二分した彼らの宿命。「官軍支持派」と「徳川報恩派」■新政府側から見る彼らとは:「八王子千人同心蝦夷移住隊の者」の扱い&差別視。■「蝦夷の地、逆クーデターへの流れ&関連」の行■箱館戦争勃発時の「七重、峠下近郊在住_八王子千人同心蝦夷移住隊」総体■平山金十郎と、榎本武揚の出会いについて■平山金十郎を優遇した男:「中島三郎助」■ほとぼりがおさまって、明治の世、再び蝦夷に戻ってきた平山金十郎の姿と別名。■官軍側に徴集されて官軍として散華した同じ八王子千人同心蝦夷移住隊の者について・・(秋山幸太郎、斉藤順三郎他)蝦夷在住の「平山金十郎」について前頁から読む(No.1)この人物の頼もしいところは、とにかく捕まらない!逃げ切るところです。並の業ではない。捕まれば斬首。それを突破。逃げ切りました!明治の世、名前を「岩次郎」ということにして、七飯勧業試験場に夫婦で住み込み、ごく平凡な小作人を装い、ここで、エドウィンダンという外国の技術者から、最新の農業技術を学習。やがて、峠下に戻り、塾を始め、平山先生として慕われる。そして戊辰の戦友、馬場政昭にも再会。峠下に永眠。幾度も名を変えて苦労の人生。いっそ蝦夷へ戻らぬほうが安全だったわけですが、あえて戻ってきたのは、やはり、この地を愛していたからなのでしょう。彼らがゼロの原点から開墾したこの地の為に。この地の子供達に教育を。大柄で不屈で、あたかもスーパーマンのような男でありますが、その志には、なかなか泣けてきます。<初めに:名前のトリックについて>箱館戦争時、榎本加担であり、降伏せずに逃亡潜伏の経緯であることから、名前のトリックが複雑でややっこしいですが・・。その上、それ以前の江戸時代に於いて、この家系は、優秀な剣術や学問を継承する都合上、歴代養子が多い為、もとから複雑。いろんな苗字出てきます。【1】平山家について:ざっくりと平山行蔵(蝦夷の三蔵:間宮林蔵、近藤重蔵、平山行蔵のひとり)の子孫。そのまたルーツは、服部半蔵でおなじみ伊賀忍者に源泉を発するとのこと。平山行蔵氏は「北辺の守り、開墾の精神」を説き、その次世代が夢を実現。蝦夷入植。そのさらなる次世代が、箱館戦争時に榎本軍に入隊した「平山金十郎」。この家は歴代養子が多い為、祖父、父、孫と書けないが、考え方としては、祖父から三世代。尚、この名前「金十郎」とは、この張本人世代の前にも存在する為、要注意。【2】平山金十郎(蝦夷在住の幕末~明治世代の人物側の金十郎):概略(もう一人居るので注)<下側&次頁にさらに各項目有り>平山金十郎:(天保10(1839)年1月27日~明治34(1901))◆蝦夷で「栗本鋤雲」の塾で学び博学多識。・・(栗本の塾生として、平山鋭次郎、三田喜六、清水啓作他の名有り。この内、並河は彼の養父。)◆幕府崩壊後、箱館の地は、早期に新政府に恭順しているが、不満として、「清水谷暗殺クーデター」組に参加。発覚して逃走潜伏。◆箱館戦争時、榎本軍が蝦夷に到着すると、榎本軍に飛び込み、応援参戦。隠し名に「庄蔵」もある。◆榎本軍終焉時、官軍に捕縛されることなく、みごと蝦夷脱走。逃げ切り存命。◆名を変えて、ほとぼりがおさまった頃、蝦夷へ戻り、七飯のエドウィンダンが指導する農業試験場に勤務。これは、一介の農民として、別人になりすまし、参戦の過去は隠蔽。この時の名前は「石川岩次郎」。◆さらに安全が確認された頃、再び名前を平山に戻し、「平山岩次郎」として生きる。思い出の地、峠下に戻り、道場&塾を開き、村の子供達に教育の道を歩み、この地にて明治34年(1901)死亡。尚、ひとつ注目すべき特徴。これは、「馬場民則(平山の同士:馬場(真太郎)政昭の弟)」の回想による。馬場民則は、元治元年(1864)11月、平山鋭次郎(平山金十郎の養父)に学を学び、英式歩兵操練を平山金十郎からを学んだと言う。ここで解ることは、平山金十郎は、江戸在住時代の極めて若い頃に、英式歩兵術を習得していることになる。■平山金十郎【3】平山家について:追記【注】同じ名前が先祖にも居るのでご注意箱館戦争時、榎本軍に参加参戦した人物(今回の特集本題の張本人)も、平山金十郎と名乗っていることから、ややっこしいが、下記【A】は二代前の別世代。蝦夷で頑張った平山金十郎【C】は、誇り高い先祖の名「金十郎」を再び名乗った形。この家系は優れた者を養子に取り、継がせる為、以下、複雑に養子が続くが、考え方としては、祖父世代から孫世代と考えると解りやすい。▼■【A】:平山行蔵(1829年死亡の人物):幕臣(伊賀組同心の為、薄給だが剣術道場経営:豪剣家として有名)宝暦9(1759)~文政11(1829)12/14 。享年70歳。墓:東京四谷愛住町の永昌寺。(=この人物も:平山金十郎行蔵とも名乗る)は「北辺の守り、開墾の精神」を説いた人物。<この人物にはエピソード有り:後日別編にてご案内します。>▼■【B】:(蝦夷第一世代=平山鋭次郎)上記平山行蔵の次世代人物が、平山金十郎の養父。並河鋭次郎という。彼は平山家に養子IN。養父「平山行蔵」の志を引き継ぎ、皆を率いて、蝦夷に入植。即ち、並河鋭次郎は平山鋭次郎と改名するが、文久2(1862)年に死亡している。▼■【C】:(蝦夷第二世代=平山金十郎:(1839年生まれの人物))平山金十郎の元の名前は、「清水啓作」。血筋の上では、上記の平山鋭次郎の従兄弟であり、勉学や武術の上では、弟子である。また、別途、「栗本鋤雲」にも学んでおり実に優秀。そこで、平山鋭次郎の婿養子となり、平山家を継いで、その時名前を「平山金十郎」に改めた。その経緯は、清水金十郎啓作と初め名乗って、平山金十郎と改名している。【4】平山金十郎こと、かつての「清水啓作」について、先祖ルーツの「清水家」とは?No.1<No.2(現在頁)<No.3サイトTOP(トップは犬猫サイト!)<幕末玄関<人物名から検索<幕軍&松前えとせとらの目次★文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.07.30
箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」,不屈の男!蝦夷の平山金十郎No.1,清水谷公考暗殺クーデター,平山金十郎,馬場政昭 サイトTOP(トップは犬猫サイト!)<幕末玄関<人物名から検索<幕軍&松前えとせとらの目次箱館戦争突入直前、「八王子千人同心蝦夷移住隊に振り被った運命の竜巻」不屈の男、蝦夷の「平山金十郎」_No.1今回の特集直系のNo.3へリンク入れてあります。▼いきなりですが、現在頁は、こちらの特集▼のリンク補足編です。蝦夷の地、逆クーデターへの流れ&関連明治元年(1868)は、おなじみ明治維新。箱館戦争は、榎本軍が10月に蝦夷上陸にて火蓋が切られるわけですが、蝦夷内で、どんでん返しは、もっと前から発生していました。蝦夷在住の「徳川応援派」にとって、榎本達の到着は、あまりも遅すぎたのです。松前藩内では、新派が、左幕派の重臣達を皆殺ししてしまいます。榎本が来た頃、松前は、完全に官軍支持派「正議士」と名乗る新派が手綱を握っています。その為、榎本到着と同時に、箱館戦争勃発!(「左幕派重臣達皆殺し事件」については別特集につき、現在頁の下側にバナー添付します。)それもそのはず、明治元年(1868)4月、蝦夷には、新政府「清水谷公考」が上陸。蝦夷のラスト奉行、杉浦誠は、きっちり恭順。血を流さず、官軍に綺麗に業務引継ぎを成し遂げます。とはいえ、あっちもこっちも、どんでん返し。杉浦の命に従い、蝦夷地の役人は、そのまま官軍の指揮下に入るわけですが、それを拒み、辞表を叩きつける者有り、しぶしぶ従うが、いざ従事してみると、頭に来てキレて反乱を起こし、入牢させられる者・・・といった具合で役人達も渦の中、二分します。時代の流れに屈して靡くべきか、徳川報恩に命を捧げるか、究極の選択。どっちに転んでも、存命確実の法則は無い。派遣されてる上官達は江戸に帰れるわけですが、下っ端は蝦夷に取り残される。ドタバタが続きます。蝦夷の地、逆クーデター・・・不発!失敗に没した「清水谷公考」暗殺計画民の底力!徳川報恩派のアンダーザグラウンドも、動いた!到来した新政府「清水谷公考」を暗殺すべく、密かに談義を交わす者がいた。代表的なメンバーは、◆花輪五郎、◆馬場政昭、◆平山金十郎等。彼らは、奉行杉浦の決断に、不満退職を叩いた元地役人、及び、八王子千人同心蝦夷移住隊の家系が主。今回は、この内、八王子千人同心蝦夷移住隊にスポットして書きます。八王子千人同心といえば、ご存知の土方歳三と同じルーツ。蝦夷に住む彼らとは、「迫り来る世界の脅威」に対応すべく『北辺の守り』を合言葉に、幕末、二度に渡って移住してきた者達。彼らは武術心得があります。その上、いざとなったら手には、刀のかわりに鍬や鋤を持ち替えて、自ら開墾の精神。極寒に加えて、この蝦夷地は不毛の地が多い。彼らは散々泣かされました。地質が根本的に異なる。おまけに気温が低い。日照時間が短い。当たり前に育つような野菜さえ失敗。次から次と子供が死んでゆく。にもかかわらず、八王子千人同心蝦夷移住隊の多くは、徳川報恩の姿勢に狂いを生じません。総体数で言えば、時代の波に身を任せ、静かに新政府に屈する者が多いわけですが、やはり、教育であり思想であり。心の中には先祖代々「徳川報恩」の精神。そこで、ついに、上記、◆花輪五郎、◆馬場政昭、◆平山金十郎達はクーデター計画を。結果は不発のままに、垂れ込まれて、未遂に沈下されてしまいますが。花輪は自刃。しかし、なんと、馬場と、平山は逃げ切り潜伏。榎本到着と同時に、彼らは、榎本軍に入隊して、共に箱館戦争を官軍と戦います。馬場政昭は、箱館戦争の終焉、榎本軍降伏と同時に捕縛され謹慎。やがて釈放されて明治を生きます。ところが、平山は、一枚上手。この人物の凄いところは、とことん逃げ切るところです。降伏せずに、またしても逃げ切り潜伏。ありとあらゆる困難を乗り越えて、やがて、明治の世、思い出の地、蝦夷の峠下に戻り、この地に骨を埋めます。蝦夷在住の平山金十郎について:MORENo.1(現在頁)<No.2<No.3【現在特集のNEXT】:蝦夷在住の平山金十郎について【参考側の頁寄り道ガイド】八王子千人同心蝦夷移住隊の宿命関連項目【幕軍&松前えとせとら:Vo.3】■村人同士の敵味方:同じ村の中、二分した彼らの宿命。「官軍支持派」と「徳川報恩派」■新政府側から見る彼らとは:「八王子千人同心蝦夷移住隊の者」の扱い&差別視。■「蝦夷の地、逆クーデターへの流れ&関連」の行■箱館戦争勃発時の「七重、峠下近郊在住_八王子千人同心蝦夷移住隊」総体■平山金十郎と、榎本武揚の出会いについて■平山金十郎を優遇した男:「中島三郎助」■ほとぼりがおさまって、明治の世、再び蝦夷に戻ってきた平山金十郎の姿と別名。■官軍側に徴集されて官軍として散華した同じ八王子千人同心蝦夷移住隊の者について・・(秋山幸太郎、斉藤順三郎他)<松前クーデター:左幕派家老暗殺事件の話も>▼_文章解説(c)by rankten_@piyo、
2012.07.30
箱館戦争の落とし前,家臣の犠牲首,箱館三殿の家臣犠牲,備中松山「板倉勝静」の犠牲親子No.4,箱館戦争,板倉勝静の体内に宿るご先祖さんの血!「◎◎の改革!」,松平定信,8代将軍徳川吉宗,幕末戊辰備中松山「板倉勝静」の犠牲親子_No.4板倉勝静の体内に宿るご先祖さんの血!「◎◎の改革!!」切腹の家老「高田亘」と、新撰組に編入されていた16歳の少年「高田錠之助」【No.1~No.3】結局、「犠牲切腹家老」が存在していた!現在シリーズでは、板倉勝静の犠牲親子について、&箱館戦争三殿族とその家臣についてご案内しています。(このシリーズ初めから読む<前の頁:No.3から読む)現在頁は、補足頁。・・板倉勝静の体内に宿るご先祖さんの血!「◎◎の改革!!」について。どうして、ここまで板倉勝静が頑張ったか?について。直因は、もちろん幕末時点に於ける彼の当該セクション・・・ですが、もう一つの原因は、体内に宿る「ご先祖さんの血」!ご先祖さんを振り返るなれば、二人の「大革命のヒーロー」が!!略して言うなれば、このとおり。▼<改革ファミリーの血:大改革のヒーロー>板倉勝の祖父は「松平定信(寛政の改革:陸奥白河藩第3代藩主)」。板倉勝の祖父「松平定信」にとっての「さらなる祖父」は=徳川吉宗(享保の改革:8代将軍)▼かつて、板倉勝静の祖父「松平定信」はこう言った。皆の者、屈することなかれ。この一大飢饉を乗り切れ!民を救済するのじゃ!藩政を立て直せ!国を救え!寛政の改革(1787~1793)で、世紀に名を轟かす松平定信が語った。「其の方々、会津の田中三郎兵衛(※)に笑われることなかれ!」(※)田中三郎兵衛=田中玄宰のこと松平定信は、 寛政の改革実行に踏み切るにあたって、臣(白河藩家老達)に対して、上記の台詞を語った。 ▼■「松平定信」の寛政の改革と、「会津の田中玄宰」の動き:おまとめ表【三大飢饉と、三大改革:関連事象MEMO付】板倉勝静も頑張ったのだ!ご先祖さんに負けてはならぬ!国を救わねば!松平の血が国を救わねば!・・・ところが、運命とは、皮肉!・・・頑張った板倉勝静だったのだが、蝦夷も夢物語。脆くも崩れ去る。悲しきかな、(´O`):史実に「×慶応の改革!!」なんて浮上せずに、徳川は消え去った!箱館戦争参戦の三殿と犠牲家臣について現在シリーズ本文TOP概要【1】桑名(松平定敬)24人+追いかけ約20人=約44人、【2】唐津(小笠原長行)23~24人:(一人後から自力で追いかけ合流【3】備中松山(板倉勝静)17人(仙台乗船時加入の新撰組)+側近+その他=17人位(前頁):【1】桑名(松平定敬)、【2】唐津(小笠原長行)、【3】備中松山(板倉勝静)各チーム共に、仙台で乗船する時、側近数名以外の家来は、新撰組に組み込まれ乗船。但し、それ以外に自力で、別途船を雇い遅れ個別に殿を追って蝦夷到来家来も有り。備中松山(板倉勝静)のご先祖さんの血=革命の血一望略型MEMO■「松平定信」の寛政の改革と、「会津の田中玄宰」の動き:おまとめ表【三大飢饉と、三大改革:関連事象MEMO付】徳川吉宗(8代将軍)の代から、板倉勝静の代へ一望【1】徳川吉宗(8代将軍) 「享保の改革」【順次続柄】▼吉宗は、下枠【3】:「松平定信」の祖父【2】徳川宗武吉宗の二男御三卿田安家初代当主【3】松平定信「寛政の改革(1787~1793 )」徳川宗武の七男江戸生まれ。■天明7年(1787)幕府老中首座。寛政の改革実行 。■宝暦8年12月27日(1759)~文政12年5月13日(1829)。■養父:松平定邦(陸奥白河藩の第2代藩主) 。■その為、定信は、上記の定邦の婿養子として陸奥白河藩に入る。そこで、定信は、陸奥白河藩第3代藩主となる。【4】松平定永松平定信の長男陸奥白河藩主(=(国替後)伊勢桑名藩初代藩主となる。)陸奥白河藩生まれ。父「定信」を継ぎ、陸奥白河藩第4代藩主となる。 ↓ (国替え命を受け移封) ↓ 伊勢桑名藩初代藩主 となる。【5】板倉勝静「◎◎の改革」は無念為らず!松平定永の8男↑ゆえに、板倉勝静は桑名で生まれる 。文政6年(1823)1月4~ 生まれは桑名。備中松山藩へ婿養子IN。↓ 備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の婿養子となり、 嘉永2年(1849年)、家督を継いで第7代藩主。 ▲箱館戦争迄頑張るが敗北。板倉勝静の祖父は「松平定信(寛政の改革:陸奥白河藩第3代藩主)」。板倉勝静の祖父「松平定信」にとっての「さらなる祖父」は=徳川吉宗(享保の改革:8代将軍)故に、言うなれば、板倉勝静の血は「救世主、大改革のヒーロー」の血・・・だったのだが!!結果は、ご存知明治維新!幕末_WITH_LOVE玄関<人物名から追跡<現在シリーズ本文TOP◆箱館戦争絡み系のシリーズは、比較的こちらの玄関に集中しています。▼・・・・幕末玄関(その2)TOP(サイトTOPは犬猫サイト)<幕末玄関<No.1<No.2<No.3<(現在頁)No.4★
2012.07.26
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