はんぶんのやさしさ

はんぶんのやさしさ

3. 太陽が帰らない



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 目を覚ますとそこは暗闇だった。部屋に光は差し込んでおらず、夜なのは間違いなかった。それなのに僕を目覚めさせたのは呼び鈴の音で、ああ、こいつはきっと非常識な人間なんだろうなとぼんやりした頭で思った。長時間寝ていたからか頭痛が酷い。それでも応じないわけにはいかないため渋々立ち上がる。私服のまま寝ていたため、そのままの格好で目をこすりつつ玄関へ向かう。板一枚隔てた向こう側の人間に「待ってね」と声をかけながら鍵を開け、ドアを開けてやると川澄楓が立っていた。
「寝てました? 寝てましたよね。すいません。そうじゃなければ電話に出ますよね」
 そう言って頭を下げる楓は、なぜか中学校の制服を着ていた。どうしてこんな時間に僕を訪ねるのか、制服を着ているのか、寝ぼけた頭で考えたけれど全くわからなかった。世の中はわからないことで一杯だ。
「気にしなくていいよ。しかしこんな時間に女の子一人でくるなんて普通じゃないね。何かあったの?」
 僕が何も考えずに言うと、分かってはいたが信じられねえなこいつ世間知らずもいいところだ非社会人めといった表情で楓は「やっぱりなあ」と一人で頷いた。
「知らないんですね、一昨日から起こっている事。大騒ぎになっているんですが、耳に入りませんでした?」
「入りませんでした。だってここ、テレビも新聞もないし」
「待って、その前に」楓が右手を上げて僕を制する。「……先生、何日くらい寝てました? あ、ちなみに今日は二十六日です」
「なら、四日と二十三時間」
「風呂に入った方がいいですよ」
 女の子に顔をしかめながらそういうことを言われて拒むほど自分本位な人間ではない。楓には居間で待機してもらい、風呂で五日分の汚れを落とし、髭を剃る。二時間くらいして居間に戻ると、楓は前転の練習をしていた。広くて何も無い部屋を見るとしたくなるのだろうか。楓は一回転した後、立ち上がりかけてやっぱり仰向けに倒れ、そのまま短い手足を伸ばして大の字になり、恨めしげに僕を見上げてきた。
「暇すぎて密室殺人のトリックを考えてしまいました。遅いです」
「悪いね、綺麗好きなんだ。――それ、どういう方法?」
「風呂に爆弾を投げ込んでドアを閉めるんです」
「なるほど、確かに風呂のドアなら外からでも閉められる。密室の完成だ。二時間分の価値はあったなおめでとう」
 楓は諦めたように溜息をついて体を起こし、正座を崩したような形になって肩をすくめた。
「鼻をつまんで用件を話してから風呂に入れて爆弾を投げ込むべきでした。さて本題です。先生、現在の時刻を言ってみてください」
 その場合爆弾を投げ込む必要は無いよなと思いながら、時計に目を向けて答える。「三時だね」
「それが午後の三時だということは、知ってましたか?」
 僕は視線を今度は窓の方に向けた。
「でも、真っ暗だね」暗闇が広がっていた。
「ええ。真っ暗です」
 そこまで言うと、楓は「そういうことです」と勝手に結論に入った。まあ、確かにどういうことかは分かる。しかし分かることイコール納得することかと言われると、存外そうでもない。そこから得られる結論は、かけらほどの常識を有してさえいれば即座に否定したくなるようなものだからだ。
 楓は淡々と述べる。
「一昨日から、太陽が昇らなくなりました。朝も夜も無い生活をしている先生は気づいてないと思いますが、世の中はそれなりに混乱しています。困り果てています。原因はよく分っていないそうです。推測ばかりが飛び交っています」
 まだ目が覚めていない僕を騙す為の嘘だとしても少々幼稚すぎるし、そもそも夜中に人の家を訪問するほど楓は非常識でない。他人から奪った飯でもいただきますは言う人間なのだ。制服を着ているのは、部活からの帰りだとすれば頷ける。するとあまり信じられないが、楓の言っていることは真実なのだろう。
 楓はさらに述べる。
「子供はおおはしゃぎで、大人もおおはしゃぎです。頭がおかしくなる人が増えて、人類全体のテンションがハイになっています。私の学校も雰囲気がおかしいです。そして何より、ここ二日で闇に乗じての犯罪が爆発的に増加しました。他人事じゃありません。つい昨日もここから一キロも離れていない地点で殺人事件がおきました。未解決です。先生、くれぐれも強盗と強 姦には気をつけてください」
 楓の言葉から察するに、犯人はどうやらゲイのようだ。「気をつけるよ」と二度頷くと、用が済んだのか楓は立ち上がって「じゃ、お邪魔しました」と頭を下げた。その拍子に顎の辺りまでの癖の無い黒髪が揺れる。きっと楓は、僕を心配したのもあるが、この件を知らない人間に最初に教える役目につきたかったのだろう。理由はどうあれ、知らずにいれば混乱を免れないところだった。感謝すべきだろう。
「なんか危なそうだし、家まで送ろうか?」
 無視して帰っていった。まあ、数メートルの距離を歩く間に殺されることは滅多にないだろうし、心配はいらなそうだ。それで殺されるようならもうそれはそういう運命だったと受け入れるしか無い。
 一人になった後で、突如生命の危険を感じるほどの空腹に襲われた。お腹と背中が入れ替わる勢いだった。考えてみれば十五食分も食べていないのだ。このままでは殺人犯に殺されずともいつか寝ている間に餓死してしまうので、何か対策を練らねばと思った。冷蔵庫の食材を片端から鍋に放り込みながらしばらく頭を捻ったが、五日近く寝ていたせいか脳が上手く働いてくれない。脳細胞が沢山死んでいるのだろう。食後、外の混乱具合を見るついでに外を散歩して思考を巡らせ、頭に刺激を与えることにしよう。
 食事が出来るまでの短い間、楓が話してくれたことについても考えた。殺人。正直、終わらない夜のことよりも、そっちの方が僕の頭には引っかかっていた。ここから一キロも離れていない場所で殺人事件があって、さらに犯人が捕まっていないらしい。もう少し詳しく事情を聞いておくべきだった。大きなほうの事件は現実離れしすぎていて気にならないが、小さな方の事件はかえって身近に感じる。特に、障害者の僕としては。
 大体二食分の量を腹にかきこむと、靴を履いて玄関を出た。改めて確認するまでも無く、屋外は真っ暗だった。歩いていると全く明かりの無い場所にもさしかかる。なるほど犯罪が急増する理由も分からなくも無い。こういうネオン等の目立った明かりの無い田舎なら尚更だ。殺人までいかなくても、痴漢や悪戯の類はこれでずいぶんとやりやすくなったことだろう。そこら辺の電柱の影に隠れただけでも十分存在に気づかれない。周囲に明かりの無い場所では、キスできる距離まで近寄らないと顔が分からないくらいだ。――そういえば、暗いところと明るいところで合コンを行うのでは、前者の方が上手くいく確立が高いらしい。人がまだ明かりを手にしていなかった頃の名残で、暗いと身を守るために興奮するとかなんとか。理屈抜きにしても暗いところだとテンションはあがる。ならばここ二日の間に、大量のカップルが形成されたのではないか。楓はどうなのか。後で聞いてみよう。
 ふと前方から声がかかる。
「あら、こんにちは」
 目を凝らすと、知り合いのおばさんが両手に袋を持って会釈していた。挨拶を返し、立ち止まって世間話をする。
「さっき目を覚ましたところです。寝ている間にすごいことになっていますね。言われなきゃ永遠に起きないところでした」
「そうなのよ。あなたも起きた途端これじゃあ驚いたでしょうね。買い物するにも真っ暗で不安だわ、近くで殺人があったらしいのよ。一体何が原因でこんなことになったんでしょうね。――どんどん寒くなってるし、もしかしたら地球の滅亡が近いのかも。今のうちにぱあっと散財しようかしら」
 両手を広げて彼女は言う。なんだかハイテンションだ。なるほど、これが楓の言う。最後の一言なんかは実に典型的な例だ。
「悪いことなんてありませんよ。地球温暖化と寒冷化、これでバランスが取れます。どんと晴れです」
「前向きなのね。見習いたいわ」
「頭が悪いだけです。それに、最悪でも地球が滅びるだけですよ」
 五分くらいそんな世間話らしくない世間話を交わした後、「じゃあ」と別れた。彼女の持つ買い物袋の中には大量の缶詰が入っていた。あれが一般人の反応らしい。備えあれば憂い無しとは言うが、地球が滅びた場合のみはどうしようもないだろうに。
 秋風と言うには少し冷たすぎる風。長い間太陽が出ていないせいか、彼女の言うように異常なほど寒かった。薄手のシャツジャケットを着ていたが、コートでもよいくらいだ。――考えるだけ無駄だろうが、一体どういう原理で朝が来なくなったのだろう。先ほどから何人かとすれ違って会釈を交わしているし、今が本来なら昼の時間帯であるという楓の言葉は嘘でないのは明白だ。考えられるのは、地球の自転が止まったとか、回転軸が変わったとか、地球より大きな星が太陽の間に現れたとか。いずれもまともではない。何より事態自体がまともでないのだが。
 そんな感じに思考を次から次へと移していると、公園に着いた。一応街頭は点いていて、遊具で遊べるくらいには明るい。だからといって子供が遊んでいるわけではなかった。
 ベンチに腰掛ける。しばらく呆然と遊具を眺めていた。昼の公園は子供の集う場所というイメージがあるのに対し、夜の公園というのはなんだか物騒だったりいかがわしかったりするイメージがある。というか、語頭に「夜の」をつけたらその時点でいかがわしくなる気もする。たとえば現状。社会人は夜のお仕事へ、学生は夜のお勉強、幼児は夜のお遊び。この言葉をどうとるかは本人の育ちによって変わってくると思う。どうでもいい。ところで僕は耳が悪くない。勘も鈍くない。背後に誰か、もしくは何かがいる。極力物音を立てないようにしているのは分かるが、砂の上を足音を立てずに歩くのは至難の業だ。この距離では隠しきれない。
 そういえば楓が外は物騒だと言っていた。まさか、とは思う。家から出て三十分もしないうちに面倒事に巻き込まれるなんて、運が良すぎる。それにおばさんとすれ違ってまだ間もないのだ。しかしベンチに座るときは後ろからという趣味を持つ人はあまり多くないだろうし、背後から人に近づく利点といったら気づかれないことと姿を見られないことで、そういう利点を求める人に良いことをしようとしている者はあまりいないと思う。他に唯一考えられるのは知り合いが驚かせようとしているパターンだが、僕はそういうタイプの友人をあまり持っていない。
 うん、これはまずい。
 咄嗟に立ち上がって振り返ると、僕と同年代の男が虚をつかれたような表情でこちらを見ていた。その手に持っているものが何かを認識した瞬間、不覚にも数秒間にわたって僕は思考を停止してしまい、その間に彼は僕との距離を縮め、気づくと互いの顔が認識できるほどに接近されていた。――もしあのまま座っていたら、あの斧で頭を割られていたのだろうか。いや、勿論今から割られる可能性だって大いに有りうるけれども。しかしどうして僕なんだ。僕に何か恨みでもあるのか。無いだろう。無いのだとしたら、どうして殺す必要があるのか。地球が終わるかもしれないからといって自棄になったり八つ当たりしないでくれ。ああくそ、なんで僕は公園なんかに長居してしまったんだ。いかがわしいって自分で言っていたじゃないか。
 男は中々行動に出ない。人を殺そうとしているわりにはやけに冷静に見える。慣れているのかもしれない。しかし恐れているようにも見えた。なんにせよ行動に出られないと、こちらも対応に困る。いっそ奇声を発しながら斬りかかってくれば、僕も奇声を発しながら全力で逃走するのだが。しかし位置関係から言って、それが上手くいく確立は低い。極めつけに僕は百メートルも全力疾走できない障害者なので、途中で追いつかれてしまうだろう。最良のパターンは彼が斧を捨て奇声を発しながら逃亡を図ることだが、そんな虫の良い話は無い。
 いつ襲い掛かられても対応できるよう低い姿勢で構える。足の震えを軽減させる意味もあった。睨み合いが続く。男がぴくりと動いた。
「……もしかして、萩原?」
 男は言う。やけに親しみのこもった口調で。
 困惑しつつも肯定の意を示すと、男は斧を下ろして「え、なんで荻原がここに? おかしいな」と歩み寄ってくる。
 薄明かりに照らされたその顔は、言われてみれば見覚えがある気もした。
「俺だよ、分かる? 谷藤だ。偶然だなあ。元気にしてた?」


 帰宅する際、楓のところに寄った。呼び鈴を押すとすぐさまドアが開き、「あれ? 先生だ」と楓が顔を出した。制服は脱いで普段着に着替えていた。勿体無い。楓が出てきたと言うことは、相変わらず親の帰りは遅いらしい。懐かれている側と言え、僕としては楓の親とは顔をあわせたくないので、そういう意味では有難い。
「楓の言うことは嘘じゃなかったよ。本当に夜だったね。ならば彼氏は出来たかい?」
「出来ません。しかしこの時間に先生の方からくるなんて普通じゃないですね。何かあったんですか?」
「相当普通じゃないことがね。この数十分の間に一大サスペンスを繰り広げてきたんだ。誰かに話したくてたまらないんだけれど、穴を掘れそうな場所が無いんだ。聞いてくれるかい?」
 楓は玄関を出、つかつかと僕の借家に向かって歩き始めた。長くなりそうだと判断したらしい。楓いわく、僕の部屋の方がくつろいで話を聞けるそうだ。楓は僕のことを聖人かなにかと勘違いしているのだろうか。隣人とは言えいささか無防備すぎる。今度注意してやろう。
 コーヒーメーカーにフィルターと粉をセットしながら話しかける。
「しかし参ったね。太陽が昇らないとなると、植物は光合成が出来なくなる。すると酸素が足りなくなる。酸素が無くなったら大概の生物はアウトだ。楓、人類のために三十秒ほど息を止めて酸素の節約に励むんだ」
「…………」
「ざっと考えただけでも気流や海流、降水量にも大きな乱れが生じるはずだ。テレビを見ていないから分からないけれど、意外と地球は深刻な状況にあるんじゃないかな。楓が錯乱したり暴走したりしないから事の重大さが分からなかったよ。大口開けて白目を剥いた状態で僕の家に来てくれれば分かりやすかったんだけれどね。もう呼吸していいよ」
「だから、自棄になっている人も多いんですよ。実際に錯乱暴走している人は沢山います。ネットでは滅亡説が流布されて波紋を呼んでいるようです。マスコミも不安を煽るだけ煽って、正しい情報は伝えません。自殺者だって少なくないんです。先生みたいな外部と断絶された環境にいた方がいいんでしょうね、こういうときは。――話したいことって、こういうことですか?」
「勿論違う。心の準備をさせているのさ」
 スイッチを入れ、コーヒーカップを二つ用意する。
「さっき、散歩してきたんだ。公園まで行ってきた」
 楓の前に腰を下ろし、本題に入った。
「殺人事件があったって話してくれたよね」
「はい。三人死にました。斧で頭を割られて」
「……三人とまでは聞いていなかったな。手っ取り早く言うと、僕もさっき割られそうになった。しかし通報はしないということで和解して、五分くらい世間話をした。犯人は黒髪のベリーショートで綺麗目な服装をしていたね、僕と同じくらいの背の男だった。名前は谷藤」
「ちょっと待ってください、あれこれ省略しすぎです」楓が遮る。
「想像で補ってくれ。それで本当なら殺されるところだったんだが、面白いことに、僕の顔を見た途端に彼は斧を下げてね。どうしてだと思う?」
「皆目見当がつきません。斧が重かったからじゃないですか?」
 その時、呼び鈴が鳴った。楓の親が帰ってきたのかと思いドアを開けると、ああ、やっぱり開けなければ良かった。今からでも閉めようかな。怒るかな。
 心臓が止まるかと思った。油断しすぎだろう、僕。
 しばし無言で向き合った末、僕の方から口を開いた。
「よくここがわかったね。心底驚いたよ」
「つけてきたんだ。あの後で、やっぱり荻原と話がしたいと思って」
 黒髪のベリーショート。噂をすれば、とはよく言ったものだ。三人殺して四人目と和解した連続殺人犯がそこにいた。テーラードジャケットにタイを合わせた爽やかな服装。こうして見ると小奇麗な大学生にしか見えない。右手の斧が無ければの話だが。
「もう通報しちゃったかな?」
「してないし、これからする気も無い。して欲しいなら今からでもするよ。それとも君がするかい?」
「いや結構。荻原のことだからあまり心配していなかったけれどね」
 微笑。口の端をあげてやるその笑い方は、半分僕のことを信用していないような表情にも見える。悪いことは何もしていないので、(本来ならば通報しないことが悪いことなのだが)毅然とした態度を崩さないように励む。まさか再度顔をあわせることになるとは思わなかった。通報の有無を確かめにきたのだろうか。
「お邪魔してもいいかな? あまり人に姿を見られたくないんだ」
「悪いね。今、中学生の女の子とすごいいちゃいちゃしているところなんだ。人の入れる空気じゃないから、また今度にしよう」
「安心してくれ、なんなら斧は荻原が預かってもいい。本当にただ話をしにきただけなんだ」
 谷藤は斧を置き、両手をあげて大袈裟にふった。他に凶器を隠し持っている可能性もあったが、それならば拒もうが拒むまいが結果は一緒なので、結局中に通してやる。念のため斧は預かっておいた。入ってきた谷藤を見て楓は不思議そうな顔をし、僕の右手の斧を見て混乱を深め、状況がつかめないといった風に首をかしげた。
「楓、僕から呼んでおいてなんだけれど席をはずしてくれないか? 友達がわざわざ訪ねてきたんだ」
「あ、帰らなくてもいいよ。俺の用はすぐ済む。邪魔して悪いね」本人が答える前に谷藤が言う。本人は代わりに「どうも」と頭を下げる。気遣いなのか、目撃者を逃がしたくないかは判別しにくい。気遣いであることを願おう。
 丁度コーヒーが出来たようだったので、時間稼ぎに出すことにした。砂糖を入れるだのミルクがどうだのという会話を交わしながら、今後の方針を考える。本人がそう言っていても、本当に話をしにきただけとはとてもではないが思えない。良くて口止め。悪くて口止め。ただし後者は一生喋れなくするパターン。
「どうしてこの部屋はこんなに暗くて何も無いんだい?」
 谷藤が天井と床を交互に指差して訊いてくる。
「長い間蛍光灯を取り替えていないんだ、我慢してくれ。何も無いのは、趣味だ。前転してもいい」
「しないよ。さて、話っていうのは言うまでも無く人殺しの件でね」
「ふうん。懺悔でもしにきたのかい?」
「懺悔みたいなものかな。言い訳とも言うかもね。とにかく、誰か信用できる相手に真相を話しておきたかったんだ。荻原と会えて嬉しいよ」
 そう言って谷藤はコーヒーを啜った。隣で楓が「先生、本名は荻原って言うんですか?」と小声で聞いてくる。そんなことよりいくらでも聞くことがあるだろうに。面倒なので「まあね」とだけ答えると、「似合わないですね」と言われた。僕もそう思う。
「その子は生徒なのかい? 荻原先生。かわいいね」
 突然谷藤が訊いてくる。「先生」という呼び名に反応したらしい。僕はしばし考えて、
「夏目漱石の『こころ』では先生でない人が先生と呼ばれていただろう、それと同じだ。教師をしているわけじゃない。ちなみにこの場合の先生っていうのは略語でね」
 分かりやすそうで全く理解させる気の無い説明をすると、谷藤も曖昧に頷き、この話題が無意味だと悟ったようで、話題を切り替えた。というか、本題に入った。ちなみに真面目に説明したところで理解してもらえる自信は無い。
「さて。まずは殺人の動機から話すのが妥当なところかな。俺は今までに三人を殺して、それは新聞やテレビでは無差別殺人と言われているけれど、実のところそうではないんだ。関連性を見いだせなくて勝手に無差別に仕立て上げているが、彼らにはれっきとした繋がりがある。俺にはきちんとした動機がある。それを誰かに知って欲しくて」
「そいつは初耳だ。なにか恨みでも?」
 谷藤は無言で肯定した。言われてみれば無差別でなく動機のある殺人をするのに恨みが無い筈が無いか。無駄なことを聞いた。
 谷藤は続ける。他人の事を話すような、平坦な口調で。
「そして今日、四人目を公園に呼び出して殺して、それで全てが終わるはずだったんだ。復讐が終わったら俺は自首するつもりだった。いずれは捕まるだろうし、そうしなければ俺も彼らと同列の人間になるしね。ところがいざ呼び出して公園に行ったら、そこにいたのは四人目の彼でなく、どういうわけか荻原だった」
 そして、正確には荻原でもない。僕は心の中で呟く。
「そうか。なるほどね。まあ谷藤が意味も無く人殺しなんてするわけがないよな」
 カップの中身を飲み終え、机に置く。
 白々しい台詞を言ってみたものの、さて、どうしたものか。実を言うと僕の名前は荻原ではない。目の前にいる彼の下の名前も分からない。信用に値する人物かどうかも分からない。話を聞く限りは、悪い人なのは確かだが根っから悪い人ではなさそうという印象を受けたが、実際はどうなのか。
「しかし、あそこにいたのが僕でよかったな。他の人間だったらさぞかし説得に困っただろう」
「困るというか、説得できなかっただろうね。そのときは口封じせざるを得なかったかもしれない。不幸中の幸いだよ、出来るなら関係者以外は殺したくなかったんだ」
 脇の下を冷たい汗が滑って行った。出来るなら、ね。
 この殺人鬼は僕のことを知り合いと勘違いしているらしい。おかげで口封じとやらをされずに済んでいるが、もし正体が知られたらどうなることだろう。今のところは本当に気のいい男にしか見えないが、そういうのに限って豹変する場合も多い。こうなった以上このまま荻原のふりをして通すしかないが、もし楓が余計なことを言ったり、僕が答えられないような質問、話題を振られたときは即座に怪しまれる。記憶喪失というべたな言い訳も存在するが、信じてもらえる可能性は低い。
「それで、その怨恨の中身はどういうものなんだ? 『彼らと同列の人間になる』というのは、彼らも人殺しだって事を意味するよな」
「ご明察。友達が間接的に殺されてね。その原因が彼らにあるんだ。世間はあれを自殺と読んだけれど、立派な殺人さ」
 明かりを点けられるのもまずい。薄暗いから勘違いが生じている可能性だって低くは無い。あっさり谷藤を部屋に通したのは、玄関にあまり長居したくなかったからだ。僕の家は唯一玄関のみは明るく、顔を観察される恐れがあった。
「弔い合戦か。死んだ人のためにしてやれることなんてないとも思うけれどね」
 意見の相違を示してやる。機嫌を損なうのも駄目だが、話を盛り上がらせ滞在期間を延ばすこともない。適度につまらないトークにしなければならないのだ。「こいつと話す価値は無い」と思われるのがベストだ。
 反論を待っていると、谷藤はもっともそうに頷いて、
「その通りさ。これは俺個人の恨みだよ。多分天国の友人は悲しんでいるんじゃないかな。知ったことではないけれど」
 話を合わされてしまった。割と柔軟な思想の持ち主らしい、人殺しの割には。
 出来るならば楓にこのことを伝えたいが、メールも筆談も駄目だ。携帯を弄った時点で通報と勘違いされるだろうし、傍に筆記物もない。適当に会話して満足させ、早めに退散してもらうしかなさそうだという結論に至った。幸いなのは、荻原と僕は顔や声だけでなく性格までもが相似しているらしいこと。地を出して会話をしても全く怪しまれない。そこまで自分に似た人間が存在するとなると、一度お目にかかりたいものだ。この状況を切り抜けられたらの話だけれども。
 ふと思いつき、聞いてみる。
「ところで、斧にこだわる理由は?」
 これは知的好奇心から来る質問で、事実気になっていることだった。復讐目的の殺人なら、成就させるために万全を期して挑む必要がある。毎回同じ凶器など使ったら、徐々にやりにくくなるだろう。三人の殺人を同一犯と見せることに、何か意味があるのだろうか。趣味か?
「ううん……そうだな、なんて言うんだろう。意味なんて無い。いや、殺しやすさ、かな?」
 なぜか谷藤は目を逸らし、曖昧に濁した。趣味を知られたくないのか、それとも他に理由があるのか。いずれにせよあまり具体的に語りたくは無いらしい。なにか話してくれれば食いついて反論してやれるのに。別の観点から攻めてみることにした。
「僕が公園にいたのも凄まじい偶然だが、一方でどうして公園に呼び出した人はこなかったんだろうな。もしかしたら君の犯行に気付いているんじゃないのか? そうでなくとも警戒されているとか」
 暗に「早めに殺しに行った方がいいぞ」と促す。四人目には悪いが、こちらとしては一刻も早く家から殺人犯を追い出したい。ここには楓だっているのだ。
 谷藤は顎に手を当てて、険しい顔をした。今の発言が効いたらしい。疑うような目付きで思考する。
「それも有りうるね。俺名義で呼び出したわけじゃないんだけれど、一番恨んでいるのは俺だろうから、疑われてもおかしくない。関係者が自分以外殺されているわけだから、過敏にもなるだろうしさ。本人だけは知っているからね、彼らが殺された理由を。そうなると面倒だな」
「そうか。これからどうするつもりなんだ?」
「考えているところだよ。警戒されているなら、こちらも慎重に行くべきだからね」
「なら僕なんかと話している暇があるのか?」畳み掛けるように言ってみたが、この発言は少し露骨過ぎたかもしれないと後悔した。谷藤の反応を窺う。
「時間は惜しくないよ。急いてしくじるのが一番嫌だしね。それに、友人と話すのは立派に意味のある行為だ」
 そう言ってコーヒーを啜る。さして気に留めていない様子だった。安堵して溜息を漏らしそうになる。
「それとも、俺が部屋にいるのがそんなに嫌?」
 ――ああ、時間差でくるか。
 思わず体を動かしてしまう。牽制された気分になる。それは勿論そうだけれども、「いや、そんなことはないさ」そう言うしかないだろう。一応友人設定なのだ。どの程度の仲だったかは知らないが。
「安心して、最初に言ったように長居する気は無いよ。確かに殺人鬼と一緒にいていい気分になる人がいる筈無いか」谷藤は僕の態度を見て苦笑した。良い方向に勘違いしてくれているらしい。いや、それもフェイクか? 段々分からなくなってきた。
「ところで」笑うのをやめて、突然谷藤が人差し指を立てる。
「ああ」
「トイレを借りてもいいかな?」
 声を細めて言う。それはもう、願ったりだ。「玄関の傍のドアだよ」と指差すと、谷藤は「悪いね」と立ち上がった。彼がトイレに入ったのを音で確認すると、急いで部屋の隅で不貞寝している楓にかけよる。何回か呼びかけると、楓は五秒ほどして「なんでしょうか」と長い睫毛をこすりながら上体を少し起こした。こっそり耳打ちしようと楓の耳に顔を近づけたところで、扉が開いた。体をびくっとさせ、不自然な体勢のまま僕らは固まる。
 トイレにしては、早すぎる。二人だけになったときどんな行動をとるか試したのだろうか。だとしたら僕らは見事に思惑通りの行動をとったことになる。やはりフェイクだったのか? とすると、自分の浅はかさに拍手を贈りたくなる。
「いやあ、二人は本当に仲がいいんだね」
 谷藤が困ったように笑いながら元の場所に座る。薄暗くて上手く表情が読めない。口調からは、猜疑心や疑念は伝わってこない。僕の考えすぎ、だろうか。
「……まあね。急にみみたぶを噛んでみたくなったんだ」
 楓が両手で耳を押さえる。本気にしてしまったらしい。
「正直に言うと、何を話していたんだい?」
「今の人、変な人だよねーって悪口を言っていたんだ」
「はは、あまりにもその通り過ぎて反論しようが無いね」
 笑って流してはいるが、今の質問からして、谷藤は今の行為をよしとは思っていないのだろう。せめて一言、楓に「何も言うな」とでも伝えられれば良かったのだが、一歩遅かった。これから彼の目はますます厳しくなる。
 谷藤が「さて」と切り出す。僕は息を呑む。
「そろそろ俺は帰るよ」
「ああそうか。え?」
「帰るよ。邪魔したね」
 思わず耳を疑った。これから時間をかけて、徐々に追い詰められると踏んでいたのだが。谷藤は本当に何も気付いていなくて、僕が通報しないと信じることにしたのだろうか。そこまで人が良くて頭が悪い奴なのだろうか。いや、トイレに細工でもしたのかもしれない。それとも一旦帰ることで油断を誘うつもりか。
「やらなければいけないことが沢山あるからね。初めから長居する気も無かったし。荻原と話せて本当に良かった。話を聞いてくれてありがとう」
「いいや、こちらこそ。久しぶりに話せて楽しかったよ」
「気持ち悪いことを言うね。荻原らしくない。本物かい?」
 ――大丈夫、これは冗談だ。「そうでなかったら誰だというんだ?」僕は茶化すように笑った。谷藤もつられるようにして目を細めた。
「冗談だよ。じゃあ」
 僕から斧を受け取ると谷藤は立ち上がり、しばらくしてドアが閉まる音が聞こえた。「あれ先生の所有物じゃなかったんですね」と楓がつぶやく。
 あっさり帰ってしまった。ひとまず胸をなでおろしたが、どうも腑に落ちない。数学の難問が簡単に解けてしまったような気分で、かえって不安になる。なにか勘違いをしているのではないか。実はまだ何かあるのではないか。しかし谷藤は現に帰ってしまっていて、僕らの身の安全はその後も続き、彼は僕らの前に二度と姿を見せなかった。


 ここまでの話だけ聞くと、ただの盛り上がりに欠ける話だと思う人もいるだろう。だが実を言うとここからがメインの話になる。奇妙な事件には大抵後日談が存在するものだ。谷藤が出て行ったその日から一週間ほどして(そのうち三日は寝ていたが)、僕はようやくあの時感じた違和感の正体に気付いた。谷藤の言動に不可解な点を感じたのだ。そこで、楓に頼んでここ二週間分の新聞を全て持ってきてもらった。
「焼き芋でもするんですか? 確かに寒いですけれど」
 両手を白い吐息で暖めながら楓が言う。ここ数日で気温は著しく下がり、既に真冬並の寒さにまで達していた。道行く人は秋とは思えないような厚着で懐中電灯を手にしている。救いは、海が蒸発しないために雪が降らないことだ。
「いいや、発作的に新聞が読みたくなったんだ。自分たちの関わった事件について知りたいと野次馬根性がね。夜の件についてどう報じているのかも知りたい。楓、君が教養ある人間だということは既知の事実だが、新聞は読むのかい?」
「読めません。大きすぎるんです、あのデザインは。記事を厳選して半分のサイズにすべきです」
 確かに、中学二年生の中でも背が低い部類に入る楓には、新聞を読むという行為は少々苦痛なのかもしれない。そういえば以前はハードカバーについても同じようなことを言及していた。この分だと電車のつり革についても同じようなことを考えているのだろう。アメリカに行ったら苦労しそうだ。
 僕が疑問に思ったのは、結局彼が最後まで、僕が困るような話題をふらなかったことだ。それこそ相手が誰でもいいような態度をとっていた。僕としてはその方が都合が良かったためにあっさりと受け入れていたが、よくよく考えると不自然すぎる。やはり谷藤は、最初から気付いていたのではなかろうか。そしてもしそうだとしたら、さらに無数の疑惑が生じる。
 楓は寒いからと毛布をまとい、僕が読み終わった新聞のテレビ欄や四コマを見て時間を潰していた。「先生は普段、どうやって暇をつぶしているんですか?」などとぼやいていた。しばらくして、僕は捜していた内容の記事を発見した。それを見て、ようやく頭に残っていたわだかまりが解消された。上機嫌になった僕は楓の頭を五回くらい撫でた後、頭の整理をしながらコーヒーを淹れた。
「楓、シャーロックホームズごっこをしよう。わかるかい?」
「話してみたまえワトスン君」
「君がワトスンだよ。――さてワトスン君。仮に谷藤が、僕が偽者であると途中で気付いていたとしよう。というか気付いていたんだ。さて、だとしたらなぜ谷藤はその時点で僕を殺さなかったのだろう」
 楓には既に僕が荻原でなく、あちらの勘違いだったということは話してあった。僕の質問に、楓は目を右にやって考えた後、こう言った。
「気付かれていたとしたら……そうですね。気に入られたんじゃないですか? それか、必死に嘘をつく姿が滑稽で面白かったとか」
「なるほどね。では、これを見てくれ」
 二枚の新聞を見せる。記事を交互に読んだ楓は、眉を寄せ、「つまり、互いに嘘をついていたということですか?」とコメントした。中々理解力がある。
 片方の新聞には例の連続殺人犯が逮捕されたという記事が載っていて、そこにあった犯人の顔立ちは、僕らが会った男とは全くの別物だった。爽やかな大学生とは程遠い、見た目からして異常な性癖を持っていそうな中年の男性。勿論冤罪という可能性も有るが、僕としては先程頭に浮かんだ仮説の方を推したい。
 谷藤は斧を持っていて、そのため僕は彼のことを連続殺人犯だと思ったわけだが、仮にそれがそう思わせるために所持していたものだとしたら。話は大きく変わってくる。それまでの三人のものと同一の犯行に見せかけるため、谷藤は斧という凶器を選択したのだ。
 もう片方の新聞、逮捕の記事より少し前の日付になるそれには「四人目の犠牲者」という見出しが存在した。その犠牲者の顔というのが――もしこれを楓が見ていたら即座に僕の部屋までかけつけただろう――僕に瓜二つの顔をした人物で、当然名前は荻原だった。四人目と称されるくらいだから、斧で殺されている。一度会っておきたかったのだが、死んでしまっては仕方が無い。
 さて以上のことが分かれば、自分が犯人だったときの気持ちを想像するだけで自然と結論が出てくる。谷藤は最初から荻原一人を殺す気でいた。公園に何らかの手段を用いて荻原を誘導した(この呼び出したという点においては嘘をついていないのだろう)谷藤は、公園にそれらしき姿を見つけると背後から気付かれぬよう近づいて斬りつけようとした。が、直前で気付かれた。この時点で谷藤は、この状態では荻原を確実に殺すことは出来ないと判断したのだと思う。もしかしたら荻原は、相当身体能力に優れた人間だったのかもしれない。もしくは谷藤自身が非力だったのか。
 ここで谷藤は、相手を安心させるために途方も無い嘘を考えた。『自分はこれまで三人を殺してきた無差別殺人犯だが、友達となると話は別だ。殺すわけには行かないから、君も黙っていてくれないか』。そういう話をする。本当は一人だって殺したことが無いのに、三人を殺した無差別殺人犯と思わせることで、かえって安心感を与えることが出来るからだ。自分一人を確実に殺しに来た友人より、無差別に三人を殺した友人の方が安全に感じてしまう。
 標的を一旦解放すると、谷藤は尾行を開始する。警戒が完全に解けるまで――つまり家につくまでは襲わない。この行動から、やはり荻原はそれほどまでに殺しにくい人間だったのだと想像できる。それに加え、谷藤が用心深くて決断力が無い人間だったというのもあるだろう。
 無論、携帯を取り出して警察に連絡するような真似をしたら、即座に殺しにかかるつもりではいたのだろう。しかしそうはせず、標的は自宅に到着する。このとき谷藤は、既にかなりの至近距離にいたはずだ。鍵を開けているところ辺りを襲うつもりでいたのだろうが、なぜか標的は家に着いた途端呼び鈴を押し、そして中から人が出てきた。そう、僕は途中で楓の家に寄っていたのだ。これは谷藤にとっては不都合だっただろう。今荻原を殺そうとすると、息の根を止めなければいけない人間が一人増える。いや、中にはさらに家族がいるのかもしれない。一人を襲えばもう一人が叫ぶだろう。彼はそこでも躊躇してしまった。
 僕らが家に入ると、いよいよ決断力の無い彼も決断せざるを得なくなった。早目に殺しておかなかったのを後悔したことだろう。仮に自分が彼を殺す前に通報されてしまったら、一人分の殺人未遂の他に三人分の殺人の罪まで着せられてしまうのだ。それに人を呼んだというわけは十中八九自分と会ったことを話すつもりなのだろうし、たとえ荻原が通報しなくても女の方が通報してしまえばアウトだ。次々と脳裏に浮かぶ想像に耐え切れなくなった谷藤は、いよいよなりふり構わなくなった。生憎玄関の鍵は閉まっていたから、呼び鈴を押して出てきたところを有無を言わせず斧で殺害するしか方法が無い。万が一女の方が出てきたら、そっちも殺そう。そんなことを考えていたのだろう。もしあの時楓が応じていたらと思うと、ぞっとする。
 ところがここで谷藤はようやく間違いに気付く。玄関の明かりに照らされたそいつの顔は、似てはいるものの荻原のものではなかった。谷藤は計画の破綻を知る。
 しかし彼は諦めず、悪足掻きに出た。せめて本物の荻原を殺すまでの時間稼ぎをすることにしたのだ。僕らを口無しの死人にするという手もあったが、元々荻原以外の人間を殺すのは出来るだけ避ける気でいたのだろう。そのため生み出した苦肉の策が、「四人殺したら自首するつもりなんだ」の発言だ。勘違いしたふりを続けたまま僕らと接し、荻原荻原と連呼して僕を荻原にならざるを得なくさせ、会話の中でいい人オーラを振りまいて同情を引いた。そして僕らは同情して通報をしなかった(というか、半分では無関心だったというのもあるのだけれど)。早く帰るのも当然だろう、彼としては目的さえ果たせば話すことなど何も無いのだ。話す内容が最小限だったのも、僕にぼろを出させないために違いない。
 多少のずれはあるとして、真相は大体こんなものだろう。動機ばかりは本人に聞いてみないことには分からないが、知ったところでどうしようもない。とにかく結果として彼は通報を免れ、その後荻原の殺害にも成功、四人目の殺害の罪を連続殺人犯に着せることにすら成功した。
「短い間によくそんな嘘を思いついたものですね。おまけにハイリスクローリターン。あの人の気が知れません。どうします? 今から通報しますか?」
 楓が横から言う。僕も最初はそう考えたが、
「多分、とっくに海外に逃げているんじゃないかな。飛行機があればの話だけれど。あれほどの強運の持ち主だ、ここまで上手くいってしまったら逃げ切ってみたくなるだろう。なにより警察への説明が面倒だ。彼らも忙しいだろうし、推測の話を長時間に渡って聞かせるのも可哀想だろう」
 そう言って新聞を投げ出した。僕の頭には罪悪感とか良心の呵責とか、そういう言葉の一切が存在しない。あのとき僕らが谷藤の殺人を阻止することは、確かに出来なかったわけでもない。しかし、そもそも殺そうなんて考える奴がいなければ誰も死なないのだ。僕らは微塵も悪くない。騙されたのは悔しいが、騙すのと騙されないのでは断然後者の方が難しいので仕方が無い。一週間で気付いただけ大したものだ。頭のわだかまりが解けて幸せだ。
 ところが楓は今回の件を気にしているらしい。新聞を見てからどこか放心しているように見える。殺されるところだった、という方も大分響いたらしい。自分に関係の無いことに心を悩まされるのは可哀想なので、ここで僕が何か気分転換の方法を考えてやろうと思う。
 ふとした思い付きで、僕は手を叩いて言った。
「よし楓、料理を教えてあげよう」
「いいです。独学で上手くなります」
 即断された。男に料理を教わるのは自尊心が許さないらしい。料理だけは上手く教える自信があったのだが。ならばと僕は腕を組み、中学生の女の子が大口開けて白目を剥いて喜びそうなことを考え、楓が意外と風流な趣味を持っていることを考慮して、「じゃあ、温泉に行こう」と提案した。
「真面目に言っているんですか?」
 楓が目を見開く。ここ一週間で一番驚いたような表情だった。
「最近寒いだろう? 家の風呂だと湯船から出て体を洗っている間に風邪を引いてしまうんだ。楓は僕と温泉が嫌いかい?」
「そんなことはありませんが、料理を教える代わりに温泉っていう発想が理解できません。そして先生と温泉をひとくくりにしないでください」
「似たようなものだよ。あたたかく楓を包み込むって意味ではね。――ああ、勿論冗談だ。脳に障害がある人の言うことを真に受けないでくれ」
「私じゃなかったら『キモい!』って五回くらい言って逃げ出しているところですよ」
「目の前にいるのが楓でよかったよ」
 七回くらい言われた。僕は中学生相手に何をしているのだろう。そろそろ自重しないとそういう趣味の人間だと思われてしまう。
 ダウンジャケットに着替え、楓も外に出る支度をするよう促した。戸惑いつつもそれなりに嬉しいようで、声の調子が上がっている。発案者の僕も、こんなに簡単に承諾を得られるとは思っていなかった。案外押しに弱い性格なのかもしれない。ますます注意を促さなければならないと思った。
 楓が自宅に戻って着替えている間、玄関の外で待機していた僕はふと空を見上げ、ようやく日の光が恋しくなってきていたことに気が付いた。太陽光というのは、予想以上に僕らに対して安心感を与えていたらしい。いい加減、そろそろ戻ってこないだろうか。太陽。

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