「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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☆★pental式★☆
Mirror Lover
僕が寝返りを打つと、正面にある彼女の目がゆっくりと開いて僕の顔をとらえた。化粧を全部落とした目は、そのままでも充分魅力的に思えた。彼女はその目でやわらかく僕を眺めている。
「ごめん、起こしてしまったね」
彼女はにわかに口の端に笑みを見せてから小さくかぶりを振った。目を伏せるとまつげの長さがよくわかる。白い頬にわずかに影ができていた。
「あたしも起きてたんです」
黒々とした長い髪が、彼女の肩からこぼれ落ちた。
「静かだ。眠ってるのか起きてるのか、目を閉じてるとわからなくなりそうだった。」
少し深く息を吸った。彼女の髪からシャンプーの香りがした。甘い、女性の香りだった。
僕はベッドから降りて、床に脱ぎっぱなしになっていた浴衣を羽織った。冷蔵庫を開けてみたけれど、既にミネラルウォーターは飲み干してしまっていた。
「飲まないんですか?」
僕が何も取り出さずにそのまま扉を閉めたので、彼女はゆっくりと起き上がってそう言った。彼女の白い肩が、照明のオレンジ色の光に寒そうに照らされていた。ビール類しか残っていないことを言うと、ベッド脇のテーブルにほうじ茶があると言って彼女はそれを淹れてくれた。湯飲みにティーバッグを入れて魔法瓶から湯を注ぐ彼女の肩に、僕は後ろからそっと床に落ちていたもう一枚の浴衣をかけてやった。
「ありがとうございます」
彼女は湯を注ぎながらこちらを振り向いて微笑んだ。
「はい、どうぞ。まだ熱いから気をつけてくださいね」
湯気の立つ温かい湯飲みを彼女に手渡されて、僕はそれを両手で受け取った。ほうじ茶の香ばしい香りが部屋の中に充満し始めていた。
「明日はどこに行こうか」
お茶を一口飲んでそう言うと、彼女は「どこにしようかなぁ」と視線を泳がせた。闇に包まれた空間が、僕に夜が明けないことを祈らせた。
「明日が来なかったらいいのに」
僕は瞬時に自分の口元に手をやった。しかし今そう言ったのは僕ではなくて彼女の方だった。
「あ、変なこと行っちゃってごめんなさい。でも、そう思っちゃって」
彼女は照れ隠しみたいに笑ってから、膝を抱えた。
「どうして?」
「明日がきてしまって、それから帰らなきゃいけなくなって、そうしたらまた離れ離れになっちゃう。一緒にいたいなぁって思ったんです」
僕は彼女の肩を抱き寄せて、黒くて長い髪を撫でた。優しく抱きしめると、浴衣を通して彼女の温もりが伝わってきた。そのまましばらくそうしていた。
「ほんの少し前まで、私はずっとあなたのことを心の中に大切に大切にしまってきたんです。できることなら一緒にいられますようにって。それが現実になるなんて思っても見なかったんです。その願いが叶った時にはホントに夢の中にいるみたいでした。今だってそう。まるで夢の中にいるような気分なんです。」
僕の肩にもたれるようにして彼女はそう言った。
「どうして僕が夢なの?現実じゃないか。」
「だって・・・本当なら絶対に手の届くはずのない相手なんですよ。それなのに思い焦がれてしまって、無理だとわかっていてもずっとずっと想ってきた相手で・・・。それがいきなりこんな風にいっしょにいられるなんて・・・。」
僕は少しだけ笑って、彼女の肩に手をまわした。
「すごい告白だねぇ」
「えっ!?」
彼女の白い頬が微かにピンク色に染まった瞬間を、僕は見逃さなかった。
「僕はそんなに価値のある男じゃないよ。買いかぶりすぎだ。普通なら君の言うとおりこんな関係にはならなかっただろうし、第一年がね。こんなおじさんを相手にするなんて、気違いだと思われてるよ。」
「そういうこと言ってるんじゃなくて・・・」
彼女はくるっと僕の方を向いて、少しの間僕の顔をまじまじと見つめてから「いつどんな立場で出会ったとしても、あたしたちはきっとこうなっているに決まってる」と言った。
あまりにその顔が真剣だったせいで、僕は彼女が泣いてしまいそうな気がした。黙って彼女の顔を胸元に抱き寄せると、彼女は抵抗もせずに僕の体にしがみついてきた。
「帰りたくない」
彼女のくぐもった声が、僕の体にしみこんでいく。
「もう二度と、鏡の中になんか戻らないでください」
彼女は僕の背に回した手で、しっかりと浴衣をつかんでいた。柔らかな彼女の体が、抱きしめれば抱きしめるほど、寒くもないのに震えていることに気付かされた。彼女の黒くて豊かな髪に口づけすると、僕の方が泣いてしまいそうになっていることに始めて気がついた。
僕たちはいつも、お互いを鏡越しに見つめ合っていた。
僕が始めて彼女に出会ったのは一昨年の春だった。彼女は真新しい制服に身を包んで、僕の運転する朝一のバスに乗ってきた。まだ幼い純粋な彼女の雰囲気は、娘のいる僕にとってかわいらしく思えた。
彼女はそれでも、少しずつ変わっていった。高校生というのはそういう変化の時期なのだ。夏になる頃にはいつも一つに結えていただけの髪を、動きのある形に変えた。
けれど僕の中で彼女の印象が一番大きく変わったのは去年の冬だった。その日は朝からずっと雪が降り続いていて、昼になっても全く止む気配はなかった。バスは大幅にダイヤが乱れていて、僕もそんな中彼女がいつも乗ってくる路線を運転していた。その日は日曜日で、大雪ということもあり乗客は全くいなかった。だから、まさか彼女が乗ってくるなどとは思っても見なかった。バス停で傘をさして待っている彼女の姿を見たとたん、僕は驚きで胸が高鳴った。バスに乗ってきた彼女の顔には、いつもしているはずのぶ厚いレンズのはまった眼鏡はなかった。化粧もしているせいで、まるで別人のように綺麗だった。
バスをそのまま走らせながら、僕はたびたび彼女のことをミラー越しに見つめていた。僕はその時自分の中にある感情にまだ気付いてはいなかった。
「メガネ、どうしたの?」
その頃僕と彼女は、ちょこちょこと会話をすることがあった。だからその日も、彼女が降りる時に声をかけた。客がいなかったおかげで、僕は大胆になっていたのかもしれない。
「ちょっと壊れちゃったんです」
ほら、と言いながらカバンの中からケースを取り出して、フレームの歪んでしまったメガネを見せてくれた。
「今から直してもらいに行こうと思って」
「そう。気をつけてね。」
彼女はにっこり笑って、別のバスに乗り込んで行った。娘よりも若い彼女の微笑みに心を揺らしている自分に、僕はその時やっと気がついた。
午後になっても雪はどんどん降り積もって、ついにはとんでもない吹雪になってしまった。
「今出払っているバスが戻ってきたら、今日はもう運行中止だ」
管理課長が本部からの伝達文を持ってやってきた。彼女はまだ戻ってきていなかった。
その後20分遅れで戻ってきたバスに彼女は乗っていた。事務所の隣にある待合室で、彼女は一人イスに座っていた。僕は彼女のことが気になってしかたがなくて、何の考えもなしに待合室へと向かっていた。
「バス止まったけど帰れる?」
彼女は苦笑いしながら「夜まで迎えに来てもらえないんです」と言った。
「じゃあ送ってあげるよ」
どうしてそんな言葉を吐いてしまったのだろうか。僕は知らないうちにそう言っていた。彼女を車に乗せて家まで送り届ける間、僕は体中が熱くてたまらなかった。助手席に彼女が座っているということを意識するとアクセルも上手く踏むことができなくて、何だかもう、娘よりも若い女の子だなんて思えなかった。そんなことはするすると頭の中から抜けていってしまった。彼女を一人の女性として見ている僕がいた。
その後家に帰って眠る間際に床に着いて目を閉じても、彼女のあの微笑みと、変貌ぶりと、甘いシャンプーの香りが忘れられなかった。
その日から僕は彼女を意識し始めた。彼女は毎日バスに乗るので、頻繁に僕のバスにも乗った。そのたびに僕は車内のミラー越しに彼女のことを見つめていた。そのうちにメガネをコンタクトレンズに変えた彼女と、ミラー越しに目と目があうようになった。どんどん少女から女性へ変化していく彼女を、僕は冷静には見ていられなかった。
そしてつい1ヶ月前から、僕の携帯電話のメモリーに彼女の番号が加わり、今ここにこうして2人でいる。僕も彼女もやっと、鏡の中から抜け出すことができたのだ。
翌朝目覚めると、彼女はまだ僕の隣で静かに寝息を立てていた。ブラインドを開けて窓の外を眺めると、向いにある島がかすんで見えた。部屋に据え付けられているデジタル時計を見るとまだ6時半だった。いつもの癖でついつい早く目が覚めてしまう。僕は顔を洗い、ヒゲを剃ってからまたベッドルームに戻った。彼女はやっと目を覚ました様子で、僕に向かって静かに微笑んだ。化粧をしなくても綺麗な目鼻立ちをしていることを、昨日初めて知った。
「おはよう」
「おはようございます」
彼女ははだけた浴衣をベッドの中でもぞもぞと直してから起きてきた。着崩れした襟元からすっと浮き出た鎖骨が見える。彼女がバスルームに入っていってから時計を見るともうすぐ7時だった。外はだいぶ明るくなり始めている。僕はブラインドを下ろすと着替えにとりかかった。彼女はシャワーを浴びているらしくなかなか出てこなかった。ザァザァという音が、何だか耳についてはなれなかった。
僕らがホテルをチェックアウトしたのは9時過ぎだった。2人分の荷物はコインロッカーに押し込んで腕を組んで街を歩き回った。有名な観光地であるこの街はどこに行っても観光客でいっぱいだった。だから時々すれ違う中年女性の集団にじろじろ眺められたりもした。けれど彼女はさほど気にしている風でもなかった。不思議なもので、こうして誰も知っている者のいない街を2人で腕を組んで歩いていると、彼女が僕の娘よりも10歳も若いとか彼女の父親と僕の年が5歳しか違わないとかいうことはすっかり頭の中から忘れ去ることができた。ただただ2人でいられることを楽しんで、普段僕らを隔ててしまうものも強引に押し隠してしまえた。都合が悪くなれば親子だと偽ればよかった。けれどそんなことをする必要はなくて、まるで僕も彼女も普通の恋人同士みたいに幸せだった。
「ねぇ、あれ」
彼女が僕をつついて指差した先にはお土産コーナーがあった。
「何か買うの?ここに来た事、秘密なのに?」
「他の人に買うんじゃなくて、お互いに買って交換しませんか?」
「そうか。思い出?」
「そうです」
彼女はにっこり笑って僕を引っ張って行った。
「じゃあ別々に探すか」
「はい」
僕たちは互いに反対方向にお土産コーナーを回った。食べ物、ハンカチ、携帯ストラップ。いろんなお土産が売れている中で、僕はたった一つ、あるものを惹きつけられるように手に取った。
「すみません、コレください」
レジに持っていって品物を差し出すと、係りの女性が笑顔で対応してくれた。
「プレゼントですね?ラッピングしましょうか?」
「お願いします」
女性は変な顔一つせずに僕の買った品物を丁寧に包んでくれた。僕はそれをコートのポケットに入れてお土産コーナーの入り口に向かった。彼女とそこで待ち合わせる約束をしてある。しかし彼女の姿はまだなかった。僕は振り返って店内を見回した。たくさんの観光客でごった返す店内に、すぐに彼女の白いコートを着た後ろ姿を見つけることができた。やっとレジに向かったところで、さっきの係りの女性に品物を包んでもらっていた。ラッピングされた品物を受け取ると、彼女は人ごみの中を縫うように僕のところにやってきた。
「待たせてごめんなさい」
彼女は僕のコートの袖をぎゅっとつかんでそう言った。さっきの女性は次々とやってくる客たちに同じように笑顔で対応していた。僕たちが店を出て行くことには気付いていない様子だった。
「歩き疲れてない?」
「大丈夫です。・・・でも、少し寒いですね」
「どこかに入ろう。温かいものでも飲もう」
僕は歩きながら辺りを見回した。僕たちの歩いている通りの少し先に、アンティーク調の喫茶店があるのが目に入った。僕は彼女を促してその店の扉を押した。
窓辺の席に座ってコーヒーとミルクティーを注文した。淡いオレンジ色の間接照明が店内を優しく包んでいた。微かに流れている音楽と他の客たちの低めの話し声とが上手い具合に混ざり合って、心地よかった。
「何を買ったの?」
出窓のところに置かれたアンティークの小物を眺めている彼女に尋ねた。彼女は僕に笑顔を見せてから自分のバッグの中を探った。
「コレ。・・・似合うんじゃないかと思って」
彼女はテーブルの上に綺麗に包装された僕へのお土産を出した。それは僕の手のひらにおさまるくらいのものだった。
「開けてもいい?」
彼女は「どうぞ」と言いながら頷いた。テープを慎重に外して、出てきた箱をゆっくりと開けた。中から出てきたのは、水色の勾玉がついたカフスが出てきた。
「水色って集中力アップするって聞いたんで。集中力の必要な仕事じゃないですか」
無邪気に言う彼女が可愛くて仕方なかった。
「ありがとう。大事にするよ」
僕はそれを元通り箱に戻してから袋に入れて、コートのポケットにしまった。ちょうど店員がコーヒーとミルクティーを運んできたところで、僕たちはそれぞれにカップを口に運んだ。
「電車、何時でしたっけ?」
「4時20分だったはずだよ。」
「・・・あと1時間ちょっとですね」
彼女が急に真面目な表情になって窓の外を見つめているので、僕は何も話し掛けられなくなって、コートのポケットに突っ込んだ右手も何も持たないままそこから引っ張り出した。
3時くらいまでそのまま黙って互いに飲み物を口に運び続けた。
帰りたくない
彼女がベッドの中で、僕のすぐ傍で、僕の腕の中で言ったその言葉を、僕自身が今自分の中で反芻している。彼女のやわらかい肌の感触が、まだしっかりと手のひらに残っている。甘い視線や、くすくす笑う声や、僕の腕の中にまるで猫みたいにすっぽりおさまって眠ってしまう顔が次々と蘇ってきた。確かに今僕は帰りたくなくて、彼女を手放したくなくて、鏡の中へ戻りたくなかった。
「そろそろ行こうか」
意に反して、僕は自分の理性の中からその言葉をひねり出した。彼女は静かに頷いて、2人で席を立った。
駅までの道のりを2人でゆっくりと歩いた。寄り添って、手をつないだ。寒くて冷たくなってしまった彼女の手が小さくて、僕はずっと包み込むようにして彼女の手を握っていた。冬の夕暮れは早くて、もう太陽はずいぶんとオレンジ色になってきていた。その光がまぶしくて、彼女も僕もしっかりと目を開けていられなかった。
駅に着くまでの間、僕たちはずっと他愛ない話をし続けた。彼女も僕も次から次へ話題を持ち出して、静かに、それでも隣に互いがいることを確かめ合うようにして喋っていた。
駅前の横断歩道に着いたあたりから、だんだん会話は途切れがちになった。駅の建物自体はそんなに大きくもないのに、途方もない威圧感を放って僕と彼女を黙らせた。
「はい。切符」
駅に着いて、僕は指定席の切符を彼女に差し出した。しかし彼女はポケットに手を突っ込んだままで、それを受け取ろうとはしなかった。
「どうしたの?」
「・・・帰りたくない」
心が揺さぶられた。僕は切符をコートの右ポケットに入れてから彼女を促して近くのイスに座った。
「帰らないと。みんなが心配するよ」
僕の理性がかんで含めるようにそう言った。
「それでも、帰りたくないんです。鏡の中にはもう二度と戻りたくないんです。ずっとこうして、手を握っていたいんです。」
彼女が震えているのが寒いからではないのはよくわかっていた。僕は彼女の左手に、そっと右手を重ねた。彼女の震えが僕の手に直に伝わってくる。
「帰ったって、もう僕たちは鏡の中に戻ったりしないよ。」
少しだけ力を込めて、労わるように彼女の手を握った。それから僕は、そっとポケットから綺麗にラッピングして貰った彼女へのお土産を取り出した。
「開けてみて?」
彼女は一度僕の目を見てからそっと包みを広げていき、そしてケースの蓋を持ち上げた。
「コレ・・・」
彼女の視線が僕の方に急いで向けられた。目と目がぶつかったとき、僕は微笑んでからケースの中のピンク色の勾玉のついた指輪を取った。
「手、かしてごらん」
彼女はためらいがちに右手を差し出したけれど、僕はもう一度彼女に微笑んでから左手をとった。サイズはぴったりで、彼女の色白の手に淡いピンク色が綺麗に浮かび上がった。薬指にはまっている指輪を、彼女は今にも泣き出しそうな顔で見つめていた。
「いいんですか?薬指にはめたりなんかして、いいんですか?」
「いいよ。そのために買ったんだから」
「・・・本当ですか?」
「嘘はつかないよ」
彼女は左手で、そっと僕の右手を握ってくれた。
それから2年経った頃に僕と妻は離婚した。妻にも恋人ができていた。妻から言い出したことだったけれど、お互いに納得のいく離別になった。
そしてさらに3年経って、僕と彼女の間には僕の孫と同い年の息子が生まれた。
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