気分一新、久しぶりに電車&自転車で遠出をすることとした。
有間皇子ゆかりの藤白坂、岩代を訪ね、岩代からは、白浜まで折りたたみ自転車「トレンクル」でサイクリングして来ました。和歌山に宿泊し、ついでに和歌山城や和歌の浦を訪ね、片男波公園の万葉館も見学して来ました。
有間皇子は孝徳天皇の子である。大化改新の後、天皇に即位したのは皇極女帝の弟の軽皇子(孝徳天皇)であったが、政治の実権は中大兄皇子に握られ、孤立する中で、654年10月孝徳帝は病床に臥し、そのまま帰らぬ人となってしまう。天皇位は皇極が重祚(斉明)。有間皇子は天皇の子であるから、皇位継承権ありであるが、中大兄皇子が実権を掌握している政治状況では、むしろそれは生命の危険を意味していたのであろう。
日本書紀の記述によると、そのことを感じていた有間は狂人を装うが、斉明天皇、中大兄皇子らが牟婁の湯(紀の温泉。現、西牟婁郡白浜町湯崎)に出かけて都を留守にしている時に、留守官の蘇我赤兄から謀反をそそのかされ、これに乗せられてしまう。しかし、これは中大兄側の謀略で、その夜のうちに市経 (いちぶ)
にあった有間皇子の屋敷は赤兄の命を受けた役人たちに取り囲まれてしまう。謀反の嫌疑でとらわれた有間は紀の温泉に護送される。中大兄皇子の喚問に対し、有間は罠にかかったことを悟ってか、「天と赤兄と知る。吾、全 (もはら)
知らず。」とのみ答える。そして、都へと帰る有間皇子の一行が藤白の坂にさしかかった時に、丹比小沢連国襲 (たぢひのをざはのむらじくにそ)
に襲われ、有間はくびり殺されてしまう。時に有間19歳。非業の死である。
小生が高校一年の時、古文のA先生(彼女は、生徒からは「おばあちゃん」と呼ばれ、親しまれていた、名物先生であった。)が、授業で、この有間皇子の和歌を感情込めて朗誦され、決まって涙を流されたことが、忘れ難い思い出となっている。この先生の万葉歌の朗誦が強い印象となって、万葉歌に興味を覚えたのであったような気もする。まあ、そんなことで、本日は有間皇子が殺されたという藤白の坂を紹介して置きます。
(藤白神社)
家にあれば 笥 (け)
に盛る飯 (いひ)
を 草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(有間皇子 巻-142)
(有間皇子の墓)
歌碑と墓のある処から坂道は登りになってゆき、やがてきつい坂道となり、「藤白のみ坂」となるが、藤白の坂は、自転車では無理にて、肩にかついで歩いてゆくという「偐家持スタイル」で登り始めたが、前日からの雨のせいか、道は川のようになっていて上の方からどんどん水が流れて来て、まるで沢登りだ。靴が濡れ切ってしまう前に、途中で諦めて引き返すことにした。進む勇気はなくても、引き返す勇気なら、偐家持は持っているのだ。
(藤白坂への道)
(藤白坂)
藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は ぬれにけるかも
(長意吉麻呂 巻9-1675)
藤白の み坂小川と なりぬれば わが靴濡れて 越えかてぬかも(偐家持)
(藤白坂)
(藤白坂からの眺め)
<付録>
藤白神社の境内には「芭蕉翁藤塚」の碑もありました。
(芭蕉翁藤塚)
藤の実は 俳諧にせむ 花の跡 (芭蕉)
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