ビジネス企画塾(山田企画事務所)

「鎌倉」に関が原・明治維新を見る?


ていない説なども盛り込んであります。歴史をこういう見方も出来るのではと
いう形なので、面白く見てみるというテーマ、間違いなど多々あります。お
許しください。

●小京都「鎌倉」に関が原・明治維新を見る?●
「鎌倉」幕府あと源頼朝の墓100m範内にその遺構は残っている。2つの墓。
毛利家は、大江広元を租とする。大江広元・公文所の初代別当。この人が、守
護・地頭の献策者です。博学者といわれて大江匡房の曾孫。文章道(紀伝道ー
漢文学・史学)の教官を文章博士といいいますが、菅原・大江氏が主流です。
この大江広元の子供。毛利季光(すえみつ)の墓。また島津家は、この鎌倉時
代に九州大隈へ差し向けた御家人を租とします。島津忠久の墓。ここに関が原
・明治維新をみるわけです。登りは細い道なのでご注意。

●小京都「鎌倉」に平泉を見る?・永福寺跡●
奥州合戦により源頼朝に平泉は滅ばされる。がこの平泉にて、藤原秀衡の中尊寺
毛越寺に感動した 源頼朝は鎌倉に同じような寺院を建立。いまに残る二階堂の
地名はこの寺院(中尊寺・大長寿院)に因む。宇治にある平等院風の建物で在
ったといわれています。鎌倉宮の東・テニスコートの近くの空き地。
以上2項は山川出版社「神奈川県の歴史散歩下」より。自分の目で確かめました。

●崇徳上皇の怨霊●
1156年「保元の乱」を、「武者(ムサ)の世」のはじまりといわしめた慈円
(じえん)は藤原氏の人間であり、関白・九条藤原兼実の弟。源頼朝の宗教的
指導者となった。歴史書を著し・1220年に著わした愚管抄にこの言葉があります。

武者の世は、崇徳上皇と後白河天皇の争い「保元の乱」より始まり、その崇徳
上皇の「怨霊」は明治まで尾を引く。現在サッカー神社として名高い「蹴鞠神
社」の京都白峯神社は、明治元年。明治天皇によって建立され、白峯神社は讃
岐・香川県にある。「保元の乱」の後崇徳上皇はここに流される。現在の四国
88箇所巡礼の地である。明治帝は「崇徳」上皇の地鎮のためにこの神社を作っ
たが、鎌倉から江戸までずっと約700年、武者の世が続いたわけである。
1156年保元の乱で明治維新が1868年で。約700年ですね。
京都白峯神社は京都御苑西・今出川通り堀川通りの交差点側。讃岐・香川県の
白峯神社は坂出市です。

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: