山ちゃん5963

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26.須磨浦荘



明石高専潮寮にもう三年間(十五歳から十七歳)も過ごした。四年目は十八歳だった。そこで潮寮寮長をやった。寮会報で『諸君は死んでいるのではないか?まだまだもっともっと、諸君にはやる事があるのではないか?』と寮生達にはっぱをかけた。しかしその後、ワシは考えるところがあって潮寮を出た。そして一人で自炊生活を行った。場所は国鉄須磨駅から歩いて一分かからないところにある須磨浦荘一階の三畳の間だ。せまいせまい、しかし人生を模索するには十分であった。炊事流し付き、便所は共同、住所は郵便番号654神戸市須磨区須磨浦通四丁目六の五須磨浦荘だった。前金四万円。家賃は月四千五百円だった。金は父が出してくれた。寛容な父だった。

ちょうどその頃三島由紀夫が割腹自殺した。その報道は明石高専の教室にて聞いた。
三島 割腹 自決をはかる。
昭和四十五年十一月二十五日午前十一時頃東京都新宿区市ヶ谷本村一の陸上自衛隊東部方面総監部に作家三島由紀夫=本名平岡公威(四十五)=の率いる『盾の会』の会員八人が日本刀やあいくちを持って乱入。警備に当たっていた自衛隊員五、六人にけがをさせた上本館二階の総監室にかけ上り益田兼利総監を監禁して『八項目の要求を飲め』と日本刀でおどした。一方同総監室内にもバリケードを築き警備員が入るのを妨害している。警視庁では機動隊を出動させ、警戒に当たっている。駐屯地に突入した際の三島はカーキ色の盾の会の制服で白はち巻きをして興奮ぎみの表情であったという。
警視総監はこれを受け入れなかったため、
午後零時十五分三島は切腹、会員の森田必勝(25)が首をはねた。ついで、森田も会員古賀浩靖(23)の介錯で自決。
三島由紀夫の『檄文』を読み彼の決断が理解できた。

またワシは太宰治も愛読した。津軽。富岳百景。斜陽。人間失格。今でも愛読しとるぞや。また今は三鷹の玉川上水によく行く。
須磨浦で我々が、今後の人生に付いて一緒に考えた仲間は三好(別名 荒谷航海また藤中雄飛)、徹、秀二、隆道いずれも二十歳だった。一方その頃ワシは、演歌の星『藤圭子』が好きだった。『十五、十六、十七と私の人生暗かった。過去はどんなに暗くとも、夢は夜開く』と歌っていた。彼女は宇多田ヒカルの母親だ。ワシの十九歳は自分をとことん見詰め将来(二十歳に向けて)に雄飛する年だった。須磨浦荘の賃貸料はアルバイトして稼いだ。神戸港第三埠頭のウォッチマン、つまり夜の見張り番じゃな。夜はウォッチマン昼は勉強なんじゃぜ。やはり明石高専の学生だからねえ。ウォッチマンのアルバイトは寒い冬のアルバイトだった。ワシは父の重たいコートを着て頑張ったのじゃ。記録によると、昭和四十五年十二月二十八日十七時から翌朝五時まで、十二月二十九日朝八時から十二月三十日朝五時まで働いとるが、なんかめちゃくちゃやっとったんやなあ。学業が終わると人生哲学を学んだ。神戸福原によく行った。深夜映画館でオールナイトだわい。鶴田浩二。藤(今は改名して富司)純子。高倉健。菅原文太。佐藤允。東映やくざ映画はほとんど見とりやーせんかい。須磨浦荘にはたくさんの家族も住んでおった。ワシに人生を教えてくれた人もおった。ワシの朝飯は昨夜の残り物。昼はパン。夜はガスに鍋で飯を炊いた。目玉焼きときゅうりとソーセージそして味噌汁じゃった。それも毎日じゃった。ある時ガスで飯を炊いたまま、須磨浦海岸に一人夕涼みに行った。須磨浦海岸はなかなか風情があったなあ。しかし須磨浦荘に帰ってくると。部屋が煙だらけ。飯が真っ黒け。アルマイト鍋の底が融け始めていた。不幸中の幸い、部屋が火事にならんでよかったわい。火事は気をつけないかんぞや。ワシゃ人生勉強を関西の明石・須磨浦・神戸・福原・加古川・姫路でした。ここからワシゃ羽ばたかねばいけんかったのじゃ。ワシャ自分自身を圧迫し、それをバネに飛躍する手法でこれまで生きてきた。それは、それで正しかったと思うているのじゃ。じゃから今のワシがあるのじゃよ。

この高専生五年の頃ワシには、三つの命題があったのじゃ。1自衛隊2ヤーウエー3女性であった。
1 に関しては三島由紀夫のように、日本を憂い、ワシは自衛隊に入隊すべく、活動したのだわい。日本の為にどうかしてやりたい、まあ青春の余った力を投じる何かを探しておったのだわい。青年の心の病気だわいのう。母の弟坪倉勇次さんは陸上自衛隊員であったから、さっそく教えを請いに行った。仁徳天皇陵の近くに坪倉勇次さんの家はあった。しかし坪倉勇次さんは言った『民間の平和産業に就職した方がいい、そうしなさい、そうしなさいよ。それが一番いいよ。それが一番懸命だよ』そしてワシは説得されてしまった。その後ワシは仁徳天皇陵に出向いた。『うわー、ばかでかい古墳じゃった。親王塚古墳なんて比べ物にならん。日本にはとんでもないものがあるもんじゃのう。』その後、ワシは平和産業の方に方向転換したのだ。三島の考えはもう昔のこととなってしまった。今は嘉孝兄の息子山口貴裕が海上自衛隊に入隊してイラクあたりに行っている模様だ。彼は何を考えて自衛隊に入隊したのか。ワシは何も聞いてはいない。今となってはこの時の坪倉勇次さんの説得はワシに非常にプラスに作用したと考えておる。
2 に関しては『ものみの塔』を研究した。叔父嘉も相当勉強したようにワシものう。しかし二年くらいで先は見えたのじゃよ。これは異国の宗教じゃのう。詰まらん。ワシの求めるものは違うのじゃ。ワシは自分の哲学(大和魂)で生きるのじゃ。自分自身が神である。日本人はすべて八百万の神がおる。ワシは神である。今は妻、が異国のヤーウェーの勉強している。しかし、たいしたものではないわいのう。みればよくわかる。女子供の戯言でしかないのじゃよ。その頃ワシにはワシの哲学(大和魂)が芽生えていたのだった。それ以降はワシは我道を行く。Going My Way じゃよ。わかるかい。
3 に関してはやはり女性は母に勝るものはないというのがワシの女性遍歴の結果である。まあたいした遍歴はないのじゃがねえ。ははは。

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