天の王朝

天の王朝

カストロが愛した女スパイ7


(前回までのあらすじ)オズワルドが暗殺集団「オペレーション40」の訓練に参加していただけでなく、ケネディ暗殺直前には暗殺集団のメンバーとともにダラスへ向かったと、ロレンツは証言する。委員会のメンバーにとっては、俄かには信じ難い驚愕の事実だ。暗殺集団の背後には本当にCIAがいたのか。ロレンツの言うオズワルドは、ケネディ暗殺犯のオズワルドと同一人物なのか。数々の疑問を抱えながら、委員会の午前の質疑が終わり、休憩に入った。

 休憩後、マリタ・ロレンツによる午後の証言が始まった。焦点はダラスでのロレンツやスタージスの行動だった。本当にオズワルドが彼らに同行したのか。ロレンツらはダラスのモーテルでジャック・ルビーやハワード・ハントに会ったのか。そうした具体的な行動について質問が集中した。

 午後二時四十分、予定の時間を大幅に過ぎてリチャードソン・プレイヤー議長が慌てるように議長席に着き、息を切らせながら発言した。「遅れてすみません。まずいときにいくつかの投票が重なってしまって。フィシアン氏は間もなく現れるでしょう。それでは委員会を始めましょう」

 ロレンツの弁護士クリーガーが冒頭に発言した。「議長。今朝、一つだけ証人が言ったことで間違いがありました。続ける前に証人は間違いを訂正しておきたいと希望しております。速記者に質問をもう一度読ませ、証人に正しく答えさせてもらえませんか?」と問題箇所を示しながら言った。

 議長は「いいでしょう」と答え、速記者に質問を読み返すよう指示した。速記者は質問を読み返した。「(質問:あなたは、武装キューバ人があなたをピストルで脅して、電話ボックスから誘拐しようとしたと申し立てたことはありますか?)」

 議長がロレンツに聞いた。「もし、その答えで説明したいことがあれば、そうして下さい」
 ロレンツは答えた。「はい。それはピストルで脅されたのではありませんでした。撃たれそうになったのです。彼らは実際に私に向かって撃ちました。殺す気はなかったかもしれませんが。当時、私は最初に、現在この委員会にいるゴンザレス刑事に会いました。刑事は今、この委員会の調査員の一人です。彼ならいつその二人のキューバ人の容疑者が逮捕されたか覚えているはずです。というのも、彼がその容疑者を国外追放したのです。彼らは外交官の免除特権で罰せられることもなく、キューバに送還されたのです。ピストルで脅された事件は別の事件です」

 「感謝します。議長」とクリーガーは付け加えた。

 これを受け議長は、マクドナルドに質問を再開するよう促した。「委員が質問を続けることを認める」

▼ベビーシッター
 マクドナルドが中断していた質問を再開した。
「ありがとう、議長。ロレンツさん。この直接の尋問を終えるためには、もう少しあなたに聞いておきたいことがあります。あなたが先に証言した、六三年十一月のダラスへの旅の件に関してですが、あなたはそのとき旅行用荷物をたくさん持って行ったのですか? それとも何も持って行かなかった?」
「着替えだけが入った一泊用の鞄を持って行きました」

 「ほかの人たちはどうでしたか?」
 「はい、彼らは服の着替えが入った航空バッグを持っていました。みんな必要なものをバッグに詰め込みました」

 「フランク・スタージスはどんな種類の服を持って行きましたか?」
 「フランクはいつも予備の服を車のトランクに積んでいました。彼は別々の航空バッグに服を入れていました」

 「どんな種類の服ですか?」
 「車の後ろにはジャケットやいつも黒っぽい色のスーツが入れてありました。タイヤがその上に置かれていました。一度航空バッグを開けたとき、手伝おうとしましたが、彼らは私に手伝わせてくれませんでした」

 「あなたが出発したとき、あなたのベビーシッター、テイラーさんでしたかな、彼女に何と言ったのですか?」
 「ウィリー・メイ・テイラーです」

 「彼女にはどのくらい留守をすると言ったのですか?」
 「二、三日。週末いっぱい。彼女も仕事に戻らなければならないのを知っていましたから」

 「何曜日までに彼女は仕事に戻らなければならなかったのですか?」
 「月曜日です。彼女の仕事はベビーシッターです」

 「あなたはいつ発ったのですか?」
 「発つって?」

 「いつあなたはマイアミを出発したのですか?」
 「正確な日にちは覚えていません」
 ロレンツはマイアミからニューアークへ向かった日にちのことだと思ってこう答えた。

 マクドナルドが念を押した。「ダラスに向けてですよ」
 「ダラスへ、ですか? ダラスへ、であるならば十六日です」

 「十六日」
 「私はてっきり、別の・・・」

 「十六日は何曜日ですか?」
 「多分週末です。週末が始まった頃」

 「土曜日?」
 「はい」

 「だけどあなたのベビーシッターは月曜日には仕事に戻らないと言いましたね?」
 「はい。しかし、もし私の帰りが遅れても、彼女はちゃんと私の娘の面倒をみてくれますから。私の娘は彼女の家で暮らしていました」

 「あなたは先に、マイアミからダラスまで千三百マイルも運転して行ったと言いましたね?」
 「はい」

 「ということは、もしあなたたちが土曜日に出発したのなら、どんなに早くても日曜日の夜にダラスに着いたことになりますね。二日間の強行軍だったわけですから」
 「はい」

 「それにあなたのベビーシッターは月曜日には仕事に戻らなければならなかった」
 「だけど、彼女は月曜日の仕事に私の娘を連れていく必要はありませんでした。彼女には八人の子供がいて、私の娘はいつも彼らと一緒でしたから」

 「ならば、あなたは特に月曜までに戻るつもりはなかったのですか?」
 「分かりません。私は彼女に戻るつもりだと言いました。また私は娘が彼女のところで安全であることも知っていました」

▼ジャック・ルビー
 「ロレンツさん。あなたは、後にジャック・ルビーだと分かる男がモーテルにやって来たと証言しましたね?」
 「はい」
 「正確には何が起きたのですか? ルビーがモーテルに来たときの様子は?」
 「フランクはだれかが来るのを待っていたのです。彼はずっと待っていました。何か秘密でもあるようでした。そのうち、その男がドアをノックしたのです。その男はフランクと話がしたかったのです」

 「それであなたが応対したのですか?」
 「いいえ、違います」
 「そのときあなたはどこにいたのですか?」
 「床にいました」

 「床に、ですか?」
 「床に座っていました」

「床に座って何をしていたのですか?」
 「サンドイッチをつくっていました」

 「そのときだれかがドアをノックした?」
 「はい」

 「だれがドアを開けたのですか?」
 「フランクです」

 「フランクは何と言いましたか?」
 「彼は"ちょっと待て"と言ってからドアを開け、その男が部屋に入って来たのです。混み合っていたので、ずっと中までは入ってきませんでした」
 「その男は何を着ていましたか?」
 「スーツです」

 「何色のスーツですか?」
 「黒っぽい色です。黒とか青とか。彼は白い靴下と黒い靴を履いていました。何故覚えているかというと、私は床に座ってサンドイッチをつくっていましたので、よく見えたのです。私は最初にその男の足下を見て、それから見上げたのです」

 「その男は何と言いましたか? その男は名乗りましたか? だれかに自己紹介しましたか?」
 「いいえ、私には何も」
 「部屋にいただれかにはどうですか?」
 「"やあ、フランク"とその男は言っていました」

 「やあ、フランクですか?」
 「はい」

 「ほかにその男は何と言いましたか?」
 「彼らは外に出ていったので、私には彼らが何を話したか分かりません。彼らは部屋の外に出て行ったのです」

「リー・ハーヴィー・オズワルドとあなたが言っている男は、部屋にいたのですか?」
 「彼は部屋にいました。部屋にやって来たのはオズワルドではありません」

 「もちろん、違います。ルビーが部屋にやって来たときに、オズワルドは部屋にいたのですね?」
 「はい」

 「オズワルドはルビーと何か会話を交わしましたか?」
 「いいえ。その男はフランクに会いに来たのです」

 「あなたはそのとき、その男の名前を知らなかったのですね?」
 「知りませんでした」

 「フランクが部屋に戻ったとき、彼はその男との会話について何か説明しましたか?」
 「いいえ、彼は私たちには何も説明しませんでした」

 「その男、ルビーについて何かもっと会話はありませんでしたか?」
 「いいえ。ただ、フランクには彼は重要な人物だったのです。フランクが彼と話をし、しかも二人だけで話すということが大事だったのです」

▼ジャック・ルビー2
 「ロレンツさん。あなたは自分の手書きの陳述書を先程読み返しましたね?」
 「はい」

 「注意深く見て下さい。十五ページのところに"私は後でフランクに、どこであのマフィアのチンピラと知り合ったのかと訊ねました"と書いていますね?」
 「その通りです」

 「どうしてあなたは、そのルビーという男をマフィアのチンピラであると気付いたのですか?」
 「そう見えましたから」

 「そう見えた?」
 「彼はまさにそう見えたのです」
 ロレンツにはこれ以上の説明は必要ないように思えた。ルビーはまさにチンピラの格好をしていたのだ。それはだれが見ても、間違いようがないことだった。

 「何故ですか?その男ルビーとは会話を交わしていないわけでしょう。それに・・・」
 「会話を交わしていません。私がフランクにそう言ったのです」

 「それは分かっています。でも何故そのような表現を使ったのですか?」
 「それはその男が私に向かって"この女は一体だれだ?"と言ったからです」

 「ルビーが言ったのですか?」
 「はい。だから私は頭にきたのです」

 「フランクは何と言ったのですか?」
 「"彼女に構うな"とその男ルビーに言いました」

 「すみませんが、もう一度言ってもらえませんか」 「フランクは"彼女に構うな。そっとしておけ"と言ったのです」

 「分かりました。それからあなたは続けてこう書いていますね。あなたが"一体何が起きているの? 何のために私たちはここにいるのよ"と言った、と」
 「はい、そう言いました」

 「理解できませんね、ロレンツさん。何故ここにこんなことが書かれているのか。ある男がやって来て、ドアをたたき、フランクを名指しし、フランクと二人で駐車場へと出ていったという事実と、あなたの書いた陳述書の中であなたがルビーをマフィアのチンピラと呼び、何らかの理由であなたが"一体何が起きているの?"と質問したと書いていること。どう考えても、その男が部屋に来たことが、あなたにそのような発言をさせるに至った劇的な変化というのがあったように思えない」
「それは彼の態度から分かったのです。彼の態度、全体の雰囲気です。すべてに秘密性があったのです」

 ロレンツは、ルビーがモーテルを訪れたころから、もっと正確に言えば、ハワード・ハントがモーテルに"活動資金"を持ってきたころから、今回の仕事がだれかの暗殺であると薄々感づいていた。単なる武器庫襲撃ではないことは、その場の秘密性から分かっていたのだ。

▼改竄
 「ロレンツさん。あなただって極秘の作戦にかかわっていたと証言していましたよ」
 「いいえ。私がかかわったのは、銃の運搬です。秘密の作戦はその後の話です」

 「でもピッグズ湾事件の前、六一年にあなたはエバーグレーズで訓練を受けていたといいましたね?」
 「あれは公のものです。それについては、何ら秘密はありませんでした。オペレーション40は秘密でした」

 「言っていることに矛盾がありますよ」
 このマクドナルドの発言はロレンツの癇にさわった。ロレンツが反論しようとしたそのとき、クリーガーがロレンツを制して異議を申し立てた。
「議長。委員が証人の発言が矛盾していると言っていることに反論します。記録をそのまま見ようではありませんか。それについての委員の意見は必要ないはずです」

 議長がこれに答えた。「そうですね。私はマクドナルド委員が陳述書の説明を求めていると解釈しています」

 そこでロレンツは、マクドナルドに向かって説明するように言った。「まず初めに、私はその陳述書を早く書くように言われました。第二に、だれが私の陳述書に書き込みをしたか知りたいものです」

 午前中にロレンツらが見た陳述書には、ロレンツには明らかに見覚えのない書き込みがしてあったのだ。誰かがロレンツの陳述書を事前にチェックしていた。ロレンツの自伝によると、「新たな名前が加えられていたり、ほかの名前が消されたり、細部が削除されたり、変更されたりしていた」という。改竄された部分は、CIAの秘密情報活動とその仲間についてロレンツが記した部分だったというから、CIA関係者が改竄した疑いがある。

マクドナルドは聞いた。「だれがこれを書くように言ったのですか?」
 「機密調査部員のスティーブ・ズカスです。だけど彼は当時、だれにそれを渡していい
か、だれが信頼できるか、分からなかったのです」

 そう陳述書は、ズカスがロレンツに書くよう奨めたのだ。ズカスがCIA調査部員なのかFBIの調査部員なのかわからないが、おそらくケネディ暗殺事件の真相を探っていた一人であろう。ズカスにとってロレンツの証言は衝撃的だった。もしかしたらケネディ暗殺の謎を解く決定的な証言になるかもしれないと、ロレンツに証言を残すようアドバイスしたのだ。

 マクドナルドが続けた。「いいでしょう。十五ページに話を戻しましょう。下の方にあなたはフランクの人選が好きになれなかったと言っています」

 ロレンツはどこの部分のことを言っているのか分からなかったので聞いた。「それはどういう意味ですか?」

 「十五ページの四分の三ほど下に行ったところを見て下さい。"私は同意しましたが、彼には彼の人選が気に入らないと告げました"とあります」
 それはジャック・ルビーやオズワルドが仕事に参加していることを指していた。
 ロレンツは答えた。
「確かに、気に入りませんでした。というのも私が訓練を受けたときの人選とは違っていたからです」

▼再中断
 「いいでしょう。続けさせて下さい。あなたはこうも書いている。"オズィーとルビーは新参者で本当のメンバーではない"と」
 「その通りです」

 「それを説明してくれませんか?」
 「彼らは私が一緒に神と国家のために誓いを立てるような種類の人間ではなかったということです。オズィーはやはり部外者でしたし、ルビーはチンピラに見えました」

 「どうしてオズィーが部外者なのですか? 六三年の話でしょう?」
 「彼がオペレーション40にいたのは紛れもない事実ですが、それでも何故彼がいるかの説明もなく、それが好きになれなかったのです」

 「だけどこれは一九・・・」とマクドナルドが質問をしかけたときに議会の投票を告げるベルがなった。このため議長は、マクドナルドの質問を制して発言した。「委員。申し訳ありませんが、投票時間を告げる二度目のベルが鳴りました。我々は投票のため十分間席を外さねばなりません」

 午後二時五十分、小委員会は再度中断。議長ら議員は投票場へと慌ただしく去っていった。

▼揚げ足取り
 午後三時五分、戻ってきた議長は小委員会を再開した。「委員会を再開する。(マクドナルドに)続けて下さい」

 「ありがとう、議長。ロレンツさん。あなたがスティーブ・ズカスに渡した陳述書の十五ページについて話しているんです」とマクドナルドは確認のために念を押した。
 「はい」とロレンツは相槌を打った。

 「そこではオズワルドとルビーは本当のメンバーではない、と言っていますね。私の質問は、あなたはオズワルドに六一年に会い、それから二年半も経っていたとする今日のあなたの証言と、その陳述書の内容をどう一致させればいいのかということです」
 「そうですね・・・」
 ロレンツはマクドナルドの質問の趣旨を理解したが、何と言えばいいか考えあぐねていた。

 マクドナルドは再度、質問を言い換えながら繰り返した。
「つまり、あなたは十五ページにルビーとオズワルドは新参者で本当のメンバーではないと記述しているのに、少なくともオズワルドは新参者ではなかったではないかと思うんですよ。二年半という月日は、新参のという形容詞を使うには不適切ではありませんか?」
確かに新参とは言えなかったのでロレンツは「本当のメンバーという意味です」と答えた。

 「それだけですか? 何かほかに付け足すことは?」
 「ええ。私はルビーがメンバーだとは思いませんでした。彼にはそれまで会ったことはありませんでした。ちょっと確かではないんですが、それ以前一度だけキューバで彼を見かけたかもしれません。正確には覚えていませんが」

 一九五九年の夏、ラウル・カストロの部隊がハバナ・リヴィエラ・ホテルのカジノ施設を没収している際、没収に抗議していたマフィアの中にルビーがいたようにロレンツには思えたのだ。

 「オズワルドはどうですか? あなたは彼のことも新参者と陳述書に書いていますが」
 「私たちの多くはキューバ人です。皆、それぞれ理由がありました。私にはオズィーが正当な理由を持っているとは思えませんでした。あるいは告げられなかっただけかもしれませんが。だから私は彼が本当のメンバーではないと言ったのです」

 「だけどあなたは今日の証言で、少なくとも五回、隠れ家でオズワルドに会ったと言っているではないですか」
 「だけど、ほかのメンバーはもっとよく知っています」

 「いいでしょう。しかし、五回も会っておいて、新参者と書くとはねぇ」
 「新参、つまり、別の言葉で言えば、私たちが寝袋に寝て寝食を共にしたようには、彼は私たちと一緒に寝たことがない、ということです。彼は私たちと朝から晩まで行動を共にしたわけではないのです。彼は銃の運搬や、あれやこれやにも参加しませんでした」

 「あれやこれやとは何ですか?」
 「ビラを撒いたりです」

 「いいでしょう。陳述書の十四ページにも、"オズィーは新聞を持ってきて、みんながそれを読んだ"と書いてありますね」
 「はい。彼は一度だけ、新聞を持ってきました。それっきりです。買うことは許されませんでしたから。私たちは外出して店に買いに行くことは認められませんでした。彼らは女を連れ込むようなことも認められていませんでした」

▼罠
 「オズワルドとの出会いの中で、彼の片足が不自由だということに気付きましたか?」
 「片足が不自由?」
 「そうです。当時、彼は片足が不自由なようには見えませんでしたか? あなたは、彼の片足がもう片方の足より少しだけ悪いということを覚えていないのですか?」
 「いいえ。思い出す限りではノーです」

 「六三年十一月の後、最後にフランク・スタージスに会ったのはいつのことですか? 彼がダラスであなたを飛行機に乗せたと言いましたね」
 「はい」

 本当は自分でタクシーに乗り、空港まで行ったのだが、ロレンツは面倒くさいのでスタージスに送ってもらったことにした。ロレンツはタクシーで空港に向かう途中、道路沿いに「ようこそ、ケネディ」と書かれた看板が立ち並んでいるのを漠然と車の窓から見ていたのを思い出していた。

 「次にスタージスを見たのはいつですか?」と、ぼんやりと当時のことを思い起こしていたロレンツの耳にマクドナルドの質問が聞こえた。
 我に返ったロレンツが答えた。「デイリーニューズ紙のポール・メスキルと一緒に彼が記事を書いたときです。彼は既にポール・メスキルと一緒に記事を書いていました。そしてその連載を終わろうとしていたんですが、その中で私が関係していないのに、関係しているなどと書いたのです。それは七六年のことでした。私はその直後に西五十七番街のホリデイ・インで彼に会いました」

 これこそがロレンツを共産主義のスパイだと中傷したあの記事だった。あの記事のせいでロレンツは再びマスコミの注目を浴びるようになったのだ。

 マクドナルドは聞いた。「六三年から七六年までの十三年間、彼とは接触していなかったのですか?」
 「はい、一度も。私の担当捜査官が新聞を持ってきて彼のことが書かれているのを知ったのです。そして・・・」

 マクドナルドがロレンツの発言を遮った。「あなたの担当捜査官とはどういう意味ですか?」
 「私は当時、ルイス・ジョン・ユラシッツと結婚していて、そして、スパイ活動をして働いていました」

 「だれのために?」
 「FBIのためです」

 FBIは一九六九年ごろ、ロレンツが情報活動に従事したことがあるという経歴に注目してニューヨークにいた彼女を情報部員として雇ったのだ。そして情報活動がしやすいように同様にFBI特別情報部員だったユラシッツと結婚した。ロレンツにはそのころ既に赤ん坊がお腹の中にいた。男の子でマークと名付けられた。

しかし、そこに至るまでには大波乱があった。ケネディが暗殺された直後、あまりにも事件について多くのことを“知りすぎた”ロレンツは、再び命を脅かされるような陰謀に巻き込まれるのだ。

▼決別と衝撃
ケネディ暗殺事件の前後から、その後にロレンツが送った数奇な人生については、ロレンツの自伝に詳しい。

ダラス郊外のモーテルでジャック・ルビーにあばずれ呼ばわりされたロレンツは、「こんな任務なんて糞食らえよ。家に帰るわ」とスタージスに告げ、帰り支度をした。スタージスは引きとめようとしたが、ロレンツの決意は固かった。幸いなことにロレンツの手元には、“今回の仕事”の手付金の分け前が入った封筒があった。封筒にはいつも、使いきれないほどの大金が入っていることをロレンツは知っていた。家に帰れるだけの資金は十分あった。

1963年11月21日。ケネディが暗殺される一日前、ロレンツはタクシーを拾って空港へ向かった。道路沿いの柱には「ようこそ、ケネディ」のポスターが貼ってあった。もちろん、そのときロレンツは、ケネディのことなどほとんど気に掛けていなかった。娘のモニカに一刻も早く会うことだけを考えていた。

マイアミでモニカをあずかってくれた、かつての乳母ウィリー・メイ・テイラーの家に着いたロレンツは、ダラスでの出来事をテイラーに話した。テイラーはただならぬことがおきつつあることを察知して、すぐにここを離れ、ニュージャージー州フォート・リーにいるロレンツの母親を訪ねるようにアドバイスした。

翌22日、ロレンツは娘とともに飛行機に乗り、ニュージャージーへと向かっていると、副操縦士から突然アナウンスがあった。
「乗客の皆様、大変申し訳ありません。ただ今、合衆国大統領がダラスで狙撃されたため、着陸に遅れが出ると思われます。空港では公務の離陸が優先されるからです」

ロレンツには、雷に打たれたような衝撃が走った。
なんということだろう。彼らの標的はケネディ大統領だったのではないか。恐怖にも似た感情がロレンツの背筋を凍らせた。確証はなかった。状況証拠だけだ。しかし、暗殺集団オペレーション40の実情を知っているロレンツにとっては、それだけで十分であった。

▼葬られた証言
ニュージャージー州の母親のところに身を寄せたロレンツは不安であった。真っ黒で巨大な陰謀が、アメリカ全土を覆っているようであった。いつか晴れ間が見えることがあるのだろうか。オペレーション40の一連の不穏な動きについて、ロレンツはFBIに報告した。その報告書はファイルに収められたものの、CIAの秘密工作に関する情報が含まれていたため、トップ・シークレット扱いされ、そのまま日の目を見ることはなかった。

政府が非合法活動グループを支援して、武器庫襲撃や殺人だけでなく、カストロ暗殺まで企てていたことを公にすることは、何としても避けたいという思惑も働いたのであろう。ロレンツらによる、陰謀説を唱える証言の多くは闇に葬られ、やがてオズワルドの単独犯であったという結論に集約されていった。しかし、真実を少しでも知るものにとっては、オズワルドはただのスケープゴートであったことは明々白々のことであった。

ニュージャージーの家では、ロレンツの母親は不在になることが多かった。母親は国家安全保障局(NSA)の要職に就いていたからだ。第二次世界大戦中から続いている情報活動で忙しかった。母親を頼って、いつまでも居候でいるわけにはいかない。だが、どこに行けばいいのか、どうやって暮していけばいいのか、ロレンツには見当がつかなかった。

そのようなとき、新たな事件が起きた。1964年のある日、移民帰化局の職員二人がロレンツのところにやってきて、アメリカを出るように告げたのだ。ロレンツは驚いた。ロレンツはアメリカのパスポートを持っている、暦としたアメリカ市民のはずである。なぜ、アメリカから出て行かなければならないのか。その二人は、ロレンツのことをナチの父親を持つドイツ人であり、アメリカ市民ではないと言い張った。アメリカ政府にとって、そのような人物が国内にいることは迷惑であるので、出て行けという。

ロレンツを邪魔もの扱いする勢力の嫌がらせであることはすぐにわかった。ベネズエラの元独裁者ヒメネスの愛人であり、司法当局に反抗してヒメネスの強制送還を遅らせたことに対する報復なのか、あるいはCIAの極秘活動を知りすぎたロレンツを疎ましく思う者の策略か。いずれにしてもロレンツは再び陰謀に巻き込まれ、正体不明の不気味な力に振り回されることになる。

▼ベネズエラへ
(前回までのあらすじ)ケネディ暗殺事件直前にスタージスら暗殺集団メンバーとともにダラス入りしたロレンツは、CIAのハワード・ハントと、後にオズワルドを射殺したジャック・ルビーと出会ったと証言するが、委員会のメンバーはその話に懐疑的である。しかしロレンツには、CIAやマフィアが絡む大掛かりな陰謀が当時進行中であったことに疑いはなかった。仲間割れをした末に単身マイアミに戻ったロレンツは、陰謀から逃れるため娘を連れて母親の家に向かう途中、ケネディが暗殺されたことを知る。疑いは戦慄に変わり、ロレンツはFBIに一部始終を報告するが、報告書が日の目を見ることはなかった


ロレンツに無言の圧力が加わった。アメリカ政府は、ロレンツに出て行けという。要求は不当に思えたが、ロレンツにはそれを冷静に分析する余裕はあまりなかった。とにかくモニカを養うため、必死だった。出て行けというのなら、出て行ってやろうではないか。ロレンツは半ば居直って、首都カラカスの刑務所で裁判を待つヒメネスに面会を求めるため、モニカを連れてベネズエラへ向かった。

ロレンツがベネズエラへ向かったことは、アメリカ政府からすぐにベネズエラ政府に伝えられた。空港に着いたロレンツは、スーツケースを取りに行くことも許されないまま、ベネズエラ軍情報部の5人の男に身柄を拘束された。

ロレンツは抗議した。一体ロレンツが何をしたというのか。軍関係者は、尋問のために逮捕したのだとロレンツに告げた。衛兵たちはロレンツのスーツケースを開け、中身を調べていた。取調官はなぜベネズエラへ来たのかとロレンツに聞いた。
ロレンツは言った。「子供の父親に会いに来たのよ」

取調官は「父親とは誰か」と、作り笑いをしながらたずねた。
「この国の前大統領よ」とロレンツは答えた。

女性取調官はロレンツを裸にして身体検査をしようとしたが、ロレンツは断固として拒否した。何も悪いことをしていないのに、そのような屈辱を受ける気はさらさらなかった。

取調官の説明によると、ロレンツがベネズエラに到着する二日前、首都で大量の武器が見つかった。背景にはフィデル・カストロと結びつきのあるグループがいるのではないかとの見方が強く、ロレンツが重要参考人として浮上したのだという。

ロレンツは、ヒメネスに面会に来ただけでテロリストとは関係がないと主張しても、取調官は納得しなかった。ただ、ヒメネスとの面会だけは認めてくれた。

ロレンツとモニカは、首都郊外にある古い城のような刑務所に連れて行かれた。

▼独房1
ロレンツはヒメネスが入れられているとみられる刑務所に到着すると、その刑務所を管理している大尉に会った。そして「テロリストの容疑者」として、長い廊下を歩かされ、独房に入れられた。

独房には窓がなく、通気孔があるだけだった。硬そうな寝台と汚れた水が出る流しがあり、床にはトイレ用の穴がポッカリとあいていた。格子扉越しには、四方を独房で囲まれた中庭が見えた。昔はホテルとして使われていたのだろうか、中庭の真ん中には一本の棕櫚の木と噴水があった。

しばらくすると大尉がやってきて、ロレンツを尋問室へ連れて行った。大尉は投獄されている悪名高い独裁者に、子連れでわざわざベネズエラに会いに来るほど愚かなアメリカ人などいるはずがない、と思っているようだった。ロレンツは大尉に、ヒメネスが娘のモニカのために設定した信託基金を奪われたことや、車にはねられ命を奪われそうになったうえ流産したこと、アメリカを追われているので帰るべき国がないこと、などを説明した。

大尉は疑いを持ちつつも、ロレンツをどのように処遇したらよいのかわからないようだった。ロレンツは、アメリカ大使館と連絡を取るかと聞かれたが、国を負われた人間だから結構だと言って断った。

処遇に困った大尉はとりあえず、ロレンツを独房に戻すことにした。だが、独房に入れられるとき一大事が起きた。モニカを取り上げられてしまったのだ。ロレンツは看守に対して「赤ちゃんを返して」と叫んだ。看守はまったく聞く耳をもたない。そのまま尋問室の方へ連れて行ってしまった。

ロレンツはパニック状態になった。彼らはヒメネスへの見せしめのために、モニカを殺してしまうかもしれない。ロレンツは気が狂ったように叫び続けた。叫び声は金切り声に変わり、ほかの囚人たちも呼応して、「モニカを返せ」の大合唱が始まった。

▼独房2
刑務所中に「赤ん坊を返せ」のコールが響き渡っても、大尉はロレンツにモニカを返そうとしなかった。切羽詰ったロレンツはヒメネスの名を叫んだ。この刑務所のどこかにヒメネスがいて、ロレンツの声を聞きつけるかもしれない。ヒメネスの名前を聞いた途端、囚人たちは静まり返った。

ロレンツが叫び続けると、やがて声が聞こえてきた。
「静かにしろ!」とその声はスペイン語で言った。「静かにするんだ!」
声の主はすぐにわかった。マルコス・ペレス・ヒメネスだ。

「マルコス。どこにいるの」と、ロレンツは聞いた。
「お前の右だ」

声は通気孔から聞こえてきていた。どうやらヒメネスは、ロレンツの独房の隣にいるようだった。隣の独房は、普通の独房と違い、鉄格子の代わりに頑丈な扉が中にいる者や外からの視界をさえぎっていた。いわゆる重警備独房だ。

「なぜ、ここにいるんだ?」とヒメネスは聞いた。
ロレンツは、車でひき殺されそうになったことや流産したことなどをヒメネスに語った。ヒメネスは地団太を踏んだ。そしてロレンツに、ベネズエラにいるのは危ないと告げた。

「では、どうすればいいの?」とロレンツは聞いた。
「スペインに逃れて、私を待て」とヒメネスは言った。ヒメネスはこの国を脱出して、スペインで暮すという計画を持っているようだった。

ヒメネスは、なぜロレンツが赤ん坊を連れてきたのか聞いた。
ロレンツは言った。
「あなたに会うためよ」

そのときだ。看守が「静かにしろ!」とどなった。
だが、ロレンツは負けていない。看守に口汚く怒鳴り返した。ロレンツは再び叫び始めた。「モニカ! モニカ! 私の赤ちゃんよ! 私に返して!」
囚人たちも再び大合唱を始めた。「彼女に赤ん坊を返してやれ!」

ロレンツの頬に涙が伝わった。感情の抑制ができなくなり、過呼吸のせいか胸が苦しくなった。のどがからからで、頭痛もする。何も食べていなかったので、吐き気だけが波のように押し寄せてきた。

▼独房3
ロレンツが、気分が悪くなって黙ったこともあり、刑務所内は静寂に包まれた。すると、遠くの方から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。モニカだ。姿は見えないが、泣き声だけが聞こえる。無事なのだろうか。もどかしさが募る。

ロレンツは痛みに耐えかねて、床に倒れこんだ。体を丸くして、少しでも痛みを和らげようとした。苦しくて仕方がなかった。独房内は暑くて、ジメジメしており、頭痛はますます激しくなった。

モニカの泣き声が聞こえても、何もすることができない。そう考えると、ロレンツは気が狂いそうになった。

そのときだ。大尉が突然、モニカを抱いてロレンツの独房に現われた。モニカにはミルクの入った哺乳瓶とクッキーがあてがわれ、モニカの顔からは笑みがこぼれていた。モニカは床にうずくまってもだえているロレンツを見て、「ママ!」と屈託のない笑顔で声を上げた。

ロレンツは安堵した。神様ありがとう。娘は元気だわ。

大尉がすまなそうに言った。「私も父親だ。心配しなくてもいい」。
モニカが泣いていたのは、大尉の不注意で椅子からころげ落ちたせいだと説明した。ただ看守の仕事をしながら赤ん坊をあやすのは無理だと判断して、モニカを母親に返すことにしたようだった。

独房の扉が開けられ、モニカがロレンツに手渡された。ロレンツは安堵の涙を流した。取り上げられていたスーツケースもロレンツに返された。独房には毛布と枕が運び込まれ、流しも修理された。ただ蛇口をひねっても、汚れた茶色い水しか出てこなかった。飲み水はバケツで運ばれてきた。

▼束の間
暗くなってから、大尉が再びロレンツの独房にやってきた。ロレンツに対しては、依然として監禁する命令が出ていた。だが、赤ん坊連れであることから人道的配慮がなされ、もっと快適な場所に移されることになった。

ロレンツはモニカを抱いて独房から出た。中庭沿いの廊下を歩いてゆくと、ほかの囚人たちがさよならの声をかけてくれた。ヒメネスがいるとみられる独房は、鉄の扉が固く閉ざされており、中をうかがい知ることはできなかった。

刑務所から外に出るとき、ロレンツたちはいきなり、カメラのフラッシュを浴びた。報道関係者たちが待ち構えていたのだ。マスコミにとっては格好のネタであった。独裁者ヒメネスの愛人がわざわざ、アメリカからやって来たのだから。翌朝の各紙一面トップは、ロレンツの記事で埋まっていた。

ロレンツとモニカが案内されたのは、ホテルのスウィートの一室であった。すでに深夜をすぎていた。バルコニーからは、首都カラカスの街並みが眼下に一望できた。隣の部屋には衛兵たちがいたが、バルコニーに出ると、自由が押し寄せてくるのを感じた。

部屋の中にはモニカのためのベビーベッドが用意されていた。すべてがまったく快適だった。運ばれてきた食事を平らげ、眠ろうとすると、下の渓谷からは音楽が聞こえてきた。夜気に混じってブーゲンビリアの香りが漂っていた。寝室には「アンデスへようこそ」というカードがついたバラの花束が届けられていた。おそらく一時的にせよモニカと離れ離れになった精神的苦痛に対して、大尉が謝罪のつもりで贈ってくれたのだと思われた。

そこには平穏で満たされた安らぎがあった。ロレンツはいつしか眠りについた。

束の間の安らぎは朝7時、ドアのノックする音で破られた。

▼尋問
ドアをノックしたのは、士官たちであった。宮殿でロレンツを尋問するのだという。
ロレンツはもっと寝ていたかったが、準備もソコソコに、宮殿に連れて行かれた。

ロレンツはマホガニーの大きなテーブルにつかされた。20人以上の士官たちが出席していた。その雰囲気から、軍や政府の高官に思われた。彼らはロレンツに、ヒメネスとの生活やキューバでの仕事について質問した。ロレンツとモニカは写真と指紋を取られた。

面通しのために何人かの男たちが部屋に通されて、ロレンツをしげしげと見ていた。ロレンツにとっては、知らない顔ばかりだった。

彼らはロレンツのことを二重スパイであると疑っているようだった。カストロが進めた「7月26日運動」のメンバーでありながら、反カストロ組織でも活動している。彼らから見れば、ロレンツの行動を説明できるのは、二重スパイ以外に考えられなかった。

二重スパイでないというなら、なぜカストロの愛人としてキューバに住んでいないのか? ヒメネスとカストロは極めて仲が悪いにもかかわらず、その両方に接近したのはなぜか? 出席者からは厳しい質問が相次いだ。彼らは思った以上にロレンツのことを知っているようだった。

ロレンツはカストロとはもう別れ、今はヒメネスと仲がいいのだと説明しようとした。だが彼らは、ロレンツがカストロの子供を生んでいることも知っていた。ヒメネスとカストロを比べたら、投獄されているヒメネスよりもキューバのカストロを頼るはずだと、彼らは主張した。

彼らからは、ヒメネスについていろいろ聞かされた。ベネズエラのアメリカ企業に金銭を強要していた一方、CIAからはかなり気に入られていたらしかった。彼らはまた、カストロについて根掘り葉掘り聞いてきた。

尋問の間中、モニカはそこら中を走り回り、男たちの膝の上に登ったりした。ようやくトイレができるようになっていたが、宮殿内のトイレの場所が遠かったこともあり、オムツをつけていた。およそ一時間ごとに軍人の一人が、おもちゃのようなものを持ってきてはあやしていた。ロレンツがモニカのオムツを替えるときには、必ず軍人が監視のためについてきた。

ロレンツに対する尋問はこの後、九日間にわたり続いた。

▼無罪放免?
九日間に及ぶ尋問の間、ロレンツの身辺調査も並行して進められた。ロレンツの賢明な弁明もあり、尋問者は、ロレンツがベネズエラに到着する2日前に発見された秘密の武器貯蔵庫に、ロレンツは関与していないと判断したようだった。ただ捜査当局は、その武器貯蔵庫をつくった犯人はカストロのもとで働いていた人物に違いないと疑っていた。ロレンツもその可能性は否定しなかった。

彼らは言った。
「われわれはフィデル(カストロ)とは、一切かかわり合いたくないのだ」
「だったら、彼にそう言えばいいでしょ」とロレンツは答えた。

「君からそう言ってくれないか」と、彼らはロレンツに頼んだ。ロレンツならキューバとの連絡係ができると考えているようだった。しかし、今さら連絡役などになりたくはなかたし、キューバへ再び行くつもりもなかった。
「絶対にいやです」とロレンツは叫ぶように言った。ロレンツも、カストロとはもうかかわるつもりはなかったのだ。「あなたたちはガールフレンドと別れた経験がないの?」と、ロレンツは皮肉を込めて言った。

「では、われわれにどうして欲しいのだ」と彼らは訊いてきた。
「観光客のように扱ってください」とロレンツは答えた。ロレンツは実際に、民俗音楽を聴くなどベネズエラの文化に触れてみたいと願っていた。

彼らの説明によると、ヒメネスは、20年は服役するだろうとのことだった。
「私は待ちます」とロレンツが言うと、彼らの一人が大笑いして言った。
「また別の独裁者が見つかるまでの話だろう」

確かに、ロレンツのこれまでの過去を考えるとそうかもしれなかった。それがおかしくなり、ロレンツも笑った。

ロレンツの疑いは完全に晴れた。「この国を混乱させるような人物に同行したり、武器を携帯したりしません」という内容の誓約書に署名させられた後、自由の身であると告げられた。

だがロレンツには、お金がほとんど残っていなかった。ヒメネスが何軒か家をもっているはずだから、そのうちの一軒に滞在したいとロレンツが希望を述べた。すると彼らは笑いながら言った。「マルコス・ヒメネスは政府から盗みを働いていたのだ。やつの財産はすべて没収されたよ」

「ではどなたが、予備のベッドルームを持っていらっしゃるの?」と、ロレンツは茶目っ気たっぷりに訊いた。
このユーモアはその場にいた全員に受けたようだった。彼らは一応、ロレンツの窮状を理解した。ロレンツはホテルでの滞在を許され、軍指導者たちが街を案内してくれた。大尉と四人の士官と一緒に優雅な夕食もとった。

まる二日間、ロレンツは休み、本を読み、カラカスの街を楽しんで過ごした。このような安らぎの日々が、ずっと続くのではないかと思われた。

その日は午前4時にドアをノックする音で目が覚めた。あと一時間で出発するという。どこか観光地へでも案内してくれるのだろうか。ロレンツはそのとき、後にあのような危険な目に遭おうとは、想像することもできなかった。

▼夢心地
ロレンツとモニカが連れて行かれたのは、飛行場だった。朝早い出発は、マスコミの目を避けるためだと、ロレンツは考えていた。

ロレンツらが四人乗りの双発のセスナに乗り込むと、観光気分でベネズエラを楽しんできてくださいと、見送りにきていた大尉が言った。ロレンツには、その言葉を疑う理由はなかった。尋問は友好裡に終わっていたし、ロレンツの窮状にも理解を示してくれていたからだ。

セスナが飛び立つと、太陽が昇ってきた。素晴らしい光景だった。ヴェルヴェット・グリーンの山々が眼下に広がっていた。川がくねくねと流れ、何もかもが美しかった。

着いた場所は、シウダード・ボリバルというオリノコ川沿いにある最後の文明の地であった。川岸には小さな家が並んでいたが、人里遠く離れた僻地のようなところに思えた。ロレンツたちは、スイスの山小屋を小さくしたような家に連れて行かれた。タイルを敷いた中庭と菜園があった。年配の夫婦がプライベートホテルとして管理しているようだった。

のどかで、どこか孤立したそのホテルが、ロレンツの住みかとなった。ロレンツとモニカを連れてきた男たちは、「すぐに戻る」と言って、帰っていった。ラテンアメリカで「すぐに」と言えば、「3週間から3年」を意味した。

老夫婦はアデラとホセといった。政府から信頼されている人間らしく、ロレンツの使用人兼看守であった。買い物ができるような店はなかったが、必要なものはいつもそろっていた。

ホテルにはペットの犬とペットモンキーがいた。美しい小鳥たちもやってきて、平和そのものだった。ここでは尋問もなく、身の危険にさらされることもなかった。ロレンツには、モニカの世話をすること以外、何もする必要がなかった。

アデラとホセは、ロレンツの話し相手にもなってくれた。ただし、話題はいつもベネズエラの歴史といった無難なものに限られた。外部からはまったく遮断された世界で、テレビもなければ新聞もなく、新刊書もなかった。それでもロレンツは、人生において一番リラックスできたと感じていた。まさに夢心地であった。

3週間が経ったある朝、ホテルの門が開く音がした。そこにはロレンツたちをここに連れてきたパイロットが立っていた。

▼狂気と悪意
これまでの会話から、そのパイロットはヒメネスに対して敵意をもっていることがわかっていた。当然、ロレンツのことも好ましくないと思っていたはずだ。だが自然に囲まれて、すっかりリラックスしていたロレンツは警戒心もなく、中庭にいるパイロットの方へ歩いていった。

パイロットは、再び観光に連れて行くとロレンツに告げた。ロレンツはそれを信じて、荷物をまとめ、モニカとともに飛行機に乗り込んだ。

ロレンツはてっきり、カラカスへ戻るのだと思っていた。ところが飛行機は反対方向に向かう。それをパイロットに言うと、「気にすることはない」との返事が返ってきた。

オリノコ川の支流に沿って、南東に向けて飛行機はひたすら飛んだ。そこには深い緑色のジャングルが広がっていた。

「ベネズエラのインディアン(ラテンアメリカ先住民族のインディオのこと)を見たいか?」と突然、パイロットがロレンツに訊いた。
「別に」と、ロレンツは何か不吉な感じを覚えながら答えた。

その不安は的中した。パイロットはやがて、むちゃくちゃな飛行を始めた。まっすぐ上昇したり、山をかすめたり、危険を感じるような乱暴な操縦であった。モニカは恐怖で泣き叫んでいた。

緑のジャングルの中に、ときどき褐色の斑点が見えた。それがインディオの集落であるという。パイロットは「インディアンを怒らせるのを見たいか?」と意地悪そうに言うと、ロレンツの答えを待たずに、インディオの集落に向けて急降下し、木々の梢をかすめて飛んだ。下では原住民が怯えて、散り散りになって逃げているのが見えた。

ロレンツが「やめて」と叫んでも、パイロットはやめようとしない。インディオは白人が嫌いで、かつてネルソン・ロックフェラーの息子の人類学者マイケルを食ってしまったのだと、ロレンツをわざと脅かした。事実は、人類学者のマイケルが行方不明になったのはニューギニアであった。幸いロレンツは、パイロットがウソを付いていることに気づいていた。

それでもパイロットの脅しは続いた。インディオに友好的な微笑みを浮かべたら、それは自信がないものだとみなされ、殺されるだろう、インディオは白人の女を食うのが大好きで、はねた首を儀式の飾りに使うのだ、などと言い立てた。

パイロットがさらに村の上を低空飛行すると、走り回る裸の原住民が見えた。何人かは吹き矢を持っており、飛行機にめがけて矢を吹いた。飛行機の胴体に二本の矢が当たり、ゴツンと鈍い音を立てた。パイロットは機体を上昇させると、窓を開けて、下の原住民に手を振った。

「俺たちは神だ。あいつらは飛行機を天から来た鳥だと思っている」とパイロットは得意気に言った。そこには、狂気とロレンツに対する悪意がみなぎっていた。

▼置き去り
パイロットは「俺たちはブラジルに近づいている」とロレンツに告げた。残りの燃料を気にしているのか、しきりに燃料計を見つめだした。ロレンツはただ、暗くならないうちにカラカスの方へ向かって欲しいと願っていた。

何かよからぬ陰謀が進行しているようだった。パイロットは地図で何かを探していた。やがて、廃坑になった採鉱キャンプのそばに雑草が生い茂る離着陸場を見つけると、「しっかりつかまっていろよ」と言って、強引に着陸態勢に入った。飛行機はそこら中にぶつかりながら、草地に激しく突っ込んだ。機体は前のめりになって止まった。

パイロットは外に出て、プロペラと翼に絡みついた草を切り落としていた。このようなところから脱出できるのだろうか。ロレンツに不安が募った。

「大きな鳥」が草地に着陸したのを見て、ほとんど裸のヤノマミ・インディアンたちが大勢、飛行機の方へ駆け寄ってきた。男たちは歌を歌い、槍と棍棒を飛行機の中にいるロレンツに突き出した。機内にいると怯えているとみなされるのでよくないと、パイロットはロレンツに言った。

仕方なしにロレンツが機外に出ると、外はすさまじい熱気と湿気に満ちていた。彼らの興味は、ロレンツとモニカに注がれた。その間にパイロットは、機体をチェックしながらエンジンをふかし、機体を半回転させていた。するとそのまま、ロレンツらを残し、さっき着陸したばかりの草の道を戻り始めた。置き去りにされる! ロレンツは言い様のない焦燥感を感じながら、モニカを抱え上げて飛行機の方へ走った。

パイロットはドアからロレンツのバッグを放り投げ、離陸の態勢に入った。ロレンツは声を限りに叫んだ。「やめて! 置き去りにしないで!」

飛行機は空に飛び立った。ロレンツは走り、倒れ、わめいた。空を見上げて、エンジン音が空の彼方で消えてなくなるまで、戻ってくるようにと狂ったように手を振り続けた。
(続く)


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