よろず屋の猫

『蛇行する川のほとり』 恩田陸


『六番目の小夜子』は好きです。
でもどうにも私個人の好みとは相容れない作品もあります。

ですが、この作品は好きです。

高校生の毬子は、美術部の先輩・香澄から夏休みのお盆過ぎの一週間、香澄の家で同じく先輩の芳野と三人で合宿をしないかと誘われる。
野外音楽堂で行われる演劇部の舞台背景作成の為だった。
憧れの先輩からの誘いに喜ぶ毬子に、友人の真魚子は、あの二人は二人だけで完結している、そこに毬子を入れるのは何か企ててるから、「気を付けなさいよ。」と忠告する。

香澄に近付くなと警告する鋭角的な印象を持つ、香澄の従兄弟の月彦。
女の子よりも綺麗な暁臣。
この二人が加わって、5人の夏の日々が始まる。

香澄の家は“船着場のある家”とよばれ、かつて哀しい事件があったのだった。

第一部は毬子、第二部は芳野、第三部はそれまで直接関係してこなかった真魚子、そして短い終章が香澄の一人称で語られる。





その昔少女だった私は熱心な少女マンガの読者でした。
この小説はその頃の少女マンガの香りがします。

本物の少女、正しい少女。
あるいは何者にも侵されない美しい少女。
聡明で才能溢れる少女。

彼女達は決して“自分が何者かも知らないうちに摘み取られて腐っていく少女”ではない。
感受性を鈍らせていない少女達です。

あの頃のマンガにはこう言う少女達が存在していました。
大島弓子は短編で“級友達が噂話を始めるといつの間にか一人静かに教室からいなくなっている少女”を描いたし、内田善美の読みきりの中には澄んだ瞳に豊かな感受性を宿す少女達が登場してました。

この小説には確かに“謎”があります。
そして少女達はその謎をめぐって、心を動かされ、駆け引きをします。

けれど私がこの物語の中で強く印象に残ったのは、紛れもなく少女達自身でした。
短い夏の、一瞬だからこそ魅力的な少女達。
いつか通り過ぎて、失っていることに気がつく輝き。
そんなものが夏の強い日差し、そしてやがて感じる秋の気配の中で語られています。

思うに、今、こんな少女が描ける少女マンガ家がどれ位いるでしょうか。
私はカッコ良い男の子と恋愛するマンガももちろん大好きです。
結局それが王道だとも思ってます。
でも例えばかつて一冊買った月刊誌の中に必ず一人二人いた少女達を、今見かけることは出来ません。

私にとってこの小説は、かつて親しんだマンガの中の少女達へのレクイエムのような作品でもありました。


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