よろず屋の猫

『緋色の迷宮』 トーマス・H・クック

近所に住む8歳の少女が自宅から行方不明になり、ベビーシッターをしていた自分・エリックの息子・キースが疑われる。
また自分の兄・ウォーレンもそう言う性向を持っているのではと疑いを持ち始める。
人生において重要なのは家族であり、それを自分は持っていると確固たる自身を持っていたエリックは、やがて不安と猜疑心に取り付かれ、不幸へと進んでいく。


エリックによる一人称の中に、エリックを“おまえ”と呼ぶ語り部の三人称が挟まれる構成。

これはもうミステリーと言うよりも現代文学のカテゴリーなのではないかと。
帯には“驚愕のラスト”とあるけれど、読んでいる内に見当がついてしまって、驚くほどのことはない。
クックは読者のそんな見当を更に上回ったどんでん返しを最期に用意していた作家なのだけれど、『緋色の迷宮』にはそれはない。
ミステリーを期待して読むと、余り面白みはないかも知れない。

エリックは家族こそが人生において最も必要なものと思い、また現在、自分はそれを手にしていると思っていた。
けれどそれは決して自分で築き上げたものではなかった。
最初の自転車のエピソードがそれを象徴していると思う。
また事あるごとに「(キースは)ティーンエージャーなんだから。」と言うが、それで理解している振りをして、逃げているに他ならない。
なのでほころびが出来ると、どんどん加速度を上げて、自分が信じていたものが崩壊していくし、さらに最悪の状況を呼び込む。

自分はキースを“愛しているけれど好きではない”、これはキースが自分の期待通りの子供ではなかったと言う事なんですが、と言う気持ちを受け入れた時、エリックとキースの間で心が通い合う。

なんですが、また戻っちゃうんですよ、このエリックと言うお父さんは。
自分では行動しない人に。
それはウォーレンに対して取ってしまった行動が前にあったから、それ故に早急に動くことを自分に戒めているからで理由が通ると作者は書きたいんでしょうが、事は自分の息子の幼女誘拐の嫌疑を晴らせるかどうかの問題なのでね、普通なら必死になるところだと思うんですが。
そう言う点が“単純で悲しいもの”をひたすら狙って書かれている気がしてどうもしっくり来ません。

英米文学には“父親と息子”を扱ったものが多いのですが、私が読んだ限りでは息子側から書かれた物が目立つ中、これは父親からの視点で書かれています。
その違いを差し引いても、“父親と息子”物として上出来とも思えません。
家族を扱ったものとしては、依然読んだ『追憶のスモールタウン』 http://madamon.blog54.fc2.com/blog-entry-124.html#more の方がずっと良いと私は思います。
なんと言うか、登場人物たちに愛おしさを覚え、それが読んでいるうちに哀しみの気持ちを沸き起こさせるのです。
『緋色の迷宮』にはそれがありません。

クックと言うと、記憶四部作と言われる『死の記憶』『夏草の記憶』『緋色の記憶』『夜の記憶』と『心の砕ける音』が有名ですが、以降出たものはちょっと感じが変わっていました。
この『緋色の迷宮』も四部作、『心・・・』と似たような感じでありながら、どこか違う、物足りないと私は思いました。


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