「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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造船時代
造船所時代の日記です
入社試験は本社で受け、面接も受けた。当たり前と言えば当たり前だが、妙に緊張したのを覚えている。試験の中で、1問海底に着底した船を引き上げるために要する力を出せという問題があった。全く分からない。その部分は殆ど白紙に近かった。でも通った。こうして全国の精鋭が集まった。100人を少し割っていた。いずれ劣らぬ秀才に見えて、卑屈になったものだ。すぐに田舎の造船所の、船殻設計課に配属された。私は、現場を希望したが何故か設計に配属となってしまった。俗に言う、出世なら、親分子分の現場が良さそうだったが、学問的(知的)興奮を得るには設計が良かった。入社後、オリエンテーションなるものを約1ヶ月間受けたが、講師の中には、あまり適役でない人もいて、お座なりになったところもあったが、全てが初めて接することなので興味深く聴いた。
やがて、在社中管理される個人番号が知らされた。個人番号は67029であり、之は入社年度と、成績順を示すのだと専ら噂し合った。
まあ上から1/4ぐらいかと勝手に思ったものだが、真偽のほどは知らない。
設計に配属され、最初に設計しろと言われたのが、貨物船の「クレーン台」だった。強度と、撓みの2点が設計のポイントだった。
前例を参考にしながら、設計の気分を味わって、終わって上司に出すと、上司は、「この円筒は何処で買うのかね」と言われる。確かに円筒にシーム(溶接線がない)、そんなあれやこれやを指摘され、無事第一作は出図出来た。当時担当なるものがいて、全体を把握していた、課長補佐の前段階である。担当がどれほど改正図を書いたか、又私が書いたかは余り覚えていない。
2作目は、貨物船のハッチコーミングで、ハッチカバーとの取り合いや、重量を受ける部分だり、しっかりと締めなければ海水が入るので、しっかりと留めなければならない。そのため色々な部材が付いている。結局私が設計した図面はフレーム番号だけが残るだけの無惨な姿で返された。
只、その時、設計者のサイン欄だけは誰も直さないので、芸能人気取りのサインをいろいろ考えた。せめてもの抵抗であった。
同時入社の友人は、サインを一番下のStaff欄でなく課長補佐(Assistant Chief)の欄にして、当の課長補佐から、一寸之は遠慮してくれないかと言われたとか。友人は、当然課長を補佐しているのだから、課長補佐の欄で良いと思ったのだそうだ。
ようやく社会人1年生が身に付いてきた。「Think big start small」である。入社二年目で、「おーすとらりあ丸」の機関室の設計を受け持った。MOL(大阪商船三井船舶)殿ご発注の精鋭の2軸コンテナ船だ。今も私の背後の壁で、その旋回状態を見せてくれている。OCLの機関室構造も立て続けに設計した。その間にはやはりMOLの貨物船などの修繕船の図面も手掛けた。そして三年、フレッシュマンとして又ソフォモアとして過ごした期間は、それなりに新鮮で楽しいものだった。当時のS部長(後の社長でとても威厳があった)、Y課長、E課長補佐(以下A/Cと言う)、K担当(のち常務→監査役)がおられた。私は、前に紹介したように、そのK担当に教育を受けた。とても優しい人で、頭は切れるし、憧れの人であった。この人に「ホルツアー法」による振動計算をストドラ方程式を用いて計算機で(FORTRAN)処理するプログラム作成の指導を受けた。行列式の計算機化や、色々な手法を学んだ。とても得難い人だと思っている。Y課長は、後に常務をされ、今はリタイヤされている。E課長補佐は、理事のあと転出され(そのころから造船の雲行きが怪しく、S社長も短命だった)そのままISNエンジニアリングの専務になられた後リタイヤされている。
Y課長は、とてもゴルフを良くし、ハンディはシングルであった。サウスポーで、右手の人指しにはこれでもかと言うほど大きなゴルフ蛸が出来ていた。之を女が喜ぶんだ。と数少ない冗談を言われていた。E A/C(当時A/Cは偉かった)は東大での切れ者で、剃刀のような所があり、K 正宗に対しE 村正と言った感じであった。今は亡き九大の先生と、振動問題で、色々論文を書かれていた。少し近寄りがたかった。Kさんの下、少し離れて、N.Kさん、K.K、Y.N、M.S、それと私だった。一年遅れて九大から修士で入ったY.Yさんがいた。(振動問題をを得意とした)N.Kさんは、私が、風邪で寮の部屋で、横になっているとき、バスケットをやらないかと声を掛けてくれた。以後、暫く一緒にプレーをした。K.Kは、私を、部長にさせないプロジェクトの下手人であり、現在も許すことは出来ない。黒幕は現造船学会理事のH.K、更に共謀者というか実行責任者としてのT.A、更に現津山高専のM.WとK.K(之などは、彼宛の年賀状に当てつけがましく九年間の造船設計部長の責を終え云々・・・と書いてきおった、恥知らずである。・・許すことの出来ない四人組だ。この四人については、又触れるかも知れないが、絶対に許すことは出来ない。人一人の人生のチャンスを完全に奪ったからだ。T.Aと、K.Kは、老いぼれた様子であり、後は黒幕の末路を見届けることになる。
3年目(1969年)も前年の仕事を引っ張っていた。
仕事にも慣れた彼は、同期生と一緒に寮から歩いて10分ほどの飲み屋に通いだした。
飲み屋に通いだしたが、元来余りそういうところへ行ったことがない。シティボーイではないのだ。ところが良くしたもので、同期には、三田の色魔慶応、とか都の西北の早稲田とかの仲間がいて、適当に案内してくれる。金は割り勘だが付いていけばいい。宇野駅前の大通り?の築港銀座に(銀座は何処でもある)面した棟割り長屋的な2階にその店はあった。
そこは3姉妹が経営している(本当は真ん中のK.Eは兄弟でなく手伝っているだけと分かったが)店だが、長女は、男勝りというか、何とも男のような太い声で余りセクシーではなかった。末の娘は、一寸可愛い感じだが、幼く映りセクシーと言うよりはキュートな感じだった。
真ん中のK.Eは八重歯があり、ぽっちゃりした肉感と、色っぽい声で、私を魅惑した。
何回か、通い、他愛のない話をして、時間と金を使ったが、私は当時純粋で、少しずつK.Eに惹かれていった。私は、何しろ、工学部時代、東野田の校舎(京橋近く)と千里山の家を往復するばかりで、たまに天満の東洋ショー劇場で、ストリップをかぶり付きで眺めては喜んでいただけなのだから。女性に関しては平均以下の経験だった。とにかく入れ込んでいた、Y.Yには振られるし。多分一穴主義を捨てたのはそのためだったのかも知れない。Y.Yや、登麗君(テレサテン)が言うように、「他に素敵な人がいるから」との言葉で、飽くなき追求を始めたのかも知れない。ある休みの午後、店は休みだったか、とにかく電話をしてみると、K.Eが出て、一人出店の片づけをしているという。「いらっしゃい、お酒はあるわよ」の声に誘われて、階段を上った。カウンター式の店の椅子は、全部裏返して机の上に置かれていた。「一寸降ろすわね」と言って、2,3脚、下に降ろし狭い飲み屋の一角が出来た。暫く雑談し、二人は今日帰ってこなくて、自分は、この店を手伝っているだけで、と問わず語りに話し始めた。休みでもあり当然店には客がいなかったし、色っぽい彼女に、ついむらむらと、若さが頭をもたげてきた。そちらにいては話しづらいといって、カウンターから出てこちら側に来た彼女を、そっと抱きしめるようにすると、「駄目、お店では」という。ではと、思っていると、店の2階即ち3階に寝泊まりするところがあって、そこへ誘った。それから後は、雪崩を打ったように唇を合わせ、当然始めてではなくディープキスをしながら、ベッドに倒れ込んだ。そして衣服を取るのももどかしく、儀礼的にクニリングスをして、情感を高め、彼女も十分に感じて、そこに密に溢れてきた時、コンドームなど持っていないことに気がついて、一瞬ためらったが、K.Eは目で、大丈夫と言い彼を受け入れ、二人一緒に桃源郷に入った。「ほんと、私も好きよ」と言われて、有頂天になった。セックスなんてものは、終わってしまうと男にとっては、気まずいものであるが、ことが済んで、彼女は、散歩しましょうと、私を海沿いにフェリー乗り場まで一緒に歩く事をせがみ、私も従った。彼女は、岡山の伊福町に住んでいて、結構裕福な生活を送っているようであるが、余り詮索好きでない私は、それまでで、終わり、再びの約束をして別れた。
そんなK.Eに未練を残して、過ごした。K.Eの友人が現れ、一緒にドライブする約束になった。
彼女の名前は忘れたが、とにかく「ルナ」という飲み屋の女の子だった。その子を伴って、車を走らせていると交差点で、出会い頭に車がぶつかってきた。その時は頭に来て「何処みとんじゃぃ。免許書もっとるのか!」との剣幕で、全修理を向こうに出させた。(当然だが、相手がやくざでなくて、良かったと後で思った。傷が付いた車を伊福町まで走らせ、K.Eの家に呼びに行かせたが、都合が悪くなったということで、その子と二人で姫路までドライブすることになった。
帰りに、少し奥まった山に入っていき、余り人通りがないところで車を止め、世間話をしているうち高まった気持ちになり彼女に抱きついて、唇を重ねた。少し驚いたようだが、全く抵抗らしいものはなかった。右手が段々と、彼女の下腹部に降りていくと、どうしてもそこだけは嫌とばかりに激しく抵抗した。後にも先にもこんな経験は初めてだった。この女性ともそれきりになってしまった。彼女は、結婚を考えていたらしかったが、こちらの方が、あまり乗り気でないことを知ると、しかたなく引き下がっていった。肉体的接触のあった、3人目の女性である。
そうこうする内に3年が過ぎた。
相前後するが、2年目で、結婚した。K.Eと出会う前である。Y.Yには操を通したことになっている。というのも向こうから私のことを振ったのだから。今回は、従って浮気と言うことに世間ではなる。前妻をどのように見初め、どういう展開になったかは少し時計を巻き戻して話さなければならない。
入社して、バスケットボールに誘われ、当然のことのように入部。再び汗をかき始めることになった。誘ってくれた、N.Kさんは、38年横浜国大卒で、同時に配属先の船殻設計の先輩でもあった。今はリタイヤされて、悠々自適、晴耕雨読の生活かと拝察する。そんな練習と、仕事の単調な生活の中で、ふと目に留まったのが、資材部で、コーラスを良くするという前妻(以下C.Kと言う)だった。ソプラノで、声量があり、とても重宝されていると分かった。それでなくても、快活に庭を横切る姿は、とてもフレッシュに映った。
そんな姿を毎日のように見ていると(昼休みは練習があるらしかった)段々私の心がとらえられていくのだった。
数日の後。恐る恐る声を掛けた。「コンサートにでも行きませんか?」
彼女は、最初警戒感を持った。当然である。そこで又N.Kさんが登場。氏は、コーラスも少しやっておられた。そこで、彼女に、彼は大丈夫だと信任状を与えてくれ、後押しをしてくれたわけだ。そんなことがあって、C.Kとは知り合ったが、その時点では未だY.Yのことを完全に忘れているわけではなく、その後も気持ちは変わらなかった。
知り合って行ったのが岡山での黛じゅんのコンサートである。何とも今考えると汗顔の極みであるが、田舎のこと故洒落た場所はなかった。それでも、ハスキーな「わーすれて欲しいの・・・」を聞くと結構楽しかった。車で、往復したので酒も飲まず、食事だけをしたが、当時の記憶は殆どない。C.Kとは、特に変わったこともなく、その日は別れた。車は、父が、父を会社に送るという条件付きで、学生時代に買ってくれていたものを使った。いすゞのベレットである。当時、羊の“フローリアン”狼の“ベレット”と言われ宣伝されていたものである。私は、期せずして、狼であったわけである。
どちらかというと、フルフラットになる“フローリアン”の方が、狼には向いていると思うのだが、考えすぎであろうか?
このようにして、数回のデートを重ねた。(記憶がはっきりしない)とある休みの日に、近くの海水浴場(瀬戸内海一の海水浴場:渋川ではなく日の出海岸である)ドライブに出かけた。日光が燦々として開放的な気分だった。
車の中で、つい隣のC.Kが愛おしくなり、肩を抱き寄せて、キスをした。別に抵抗する訳ではなく、すんなりと応じたが、歯を合わせたままなかなか舌の侵入を許そうとはしなかった。その内段々と、受け入れ、完全にキスをすることが出来た。その後、C.Kは、結婚のことを口にした。田舎では、キスは即ち結婚なのだそうな。
ええぃ、ままよ、と何となく応じた。従って、彼らの間には、プロポーズの言葉はなかった。そして両親に会うことになり、待ち合わせのレストラン(と言ってもドライブイン)に行くも、なかなか現れない。何のことはない、違う場所と勘違いをしていたようだった。
結局「娘を下さい」とも言わず何となく承諾された格好になり。大阪から両親が挨拶に来た。
結婚式は、大阪吹田の市民会館を借りて、民前結婚を行った。親族だけの三三九度の時も何故かこみ上げる笑いをこらえるのに必死だった。又指輪の交換の儀式は知っていたが、あんなカーテンリングにもならない物をしてもしょうがないと、彼はネクタイピンを貰うことにしC.Kにはリングを贈った。その後は順調に結婚生活を送った。結婚して2年間はKID Freeという事でバースコントロールをした。要するにコンドームを使ったのだ。
感度が悪いのかどうか、セックスそのものには、余り興味が無く、むしろそこに到達するまでの過程を重んじる彼には、それで十分だった。その間は、傍も羨むほどの睦まじさであり、男としての責任を十分に果たしていた。当然若さが手助けしていたことは言を待たない。そのままいく筈が、1年経つか経たない内に、ホステス2人と、各1年、6ヶ月の間浮気していたことになる。それでも、子供を作り、之が計画的に一発必中で、男の子が出来た。結構嬉しかった、病室の前を行ったり来たりしていたのを思い出す。子供が出来てすぐに、バスケットボールの全国青年祭があり東京へ出かけなければならなかった。当時特急寝台瀬戸号に寝台でない車両が付いていてそれに乗っての貧乏旅だった。その車中で、「子供の名前の付け方」の本を首っ引きで名前を考えて、決めた。
そんな風にして、夫婦の仲は、順調であった。(と思う)そして、子供が3才になりかけたとき現れたのがM.Kである。M.Kは、玉野高等学校出身で、C.Kと同窓の後輩に当たる女性だった。「ピーター」と呼ばれ、ボーイッシュな感じで、髪を少し紅く染め、それが不自然でなく似合う女性であった。みんなで、「一発やりたいなぁ」と噂していた人だった。
鳥取の東郷町で梨狩りの帰り、梨園で、「M.Kさん一緒に写真撮ろう!」と言ったら素直に応じて呉れた。その彼女が、休み時間新聞を読んでいる私に向かって「○○さん子供大きゅうなった?」と声を掛けてきたのであった。
その言葉がきっかけを作った。またそれをM.Kも望んでいた。
ピーターこと、M.Kに声を掛けられたのだからたまらない。飛んで火にいる夏の虫だ。早速「うん大きくなったよ、僕に似て、とても可愛いよ」とつないだ。少し雑談をして、帰り際に、「M.Kさん彼氏はいるの?」と聞くと、否と答えた。そんなはずはないが、表向きはそうらしい。「じゃあ、彼氏を紹介して上げよう、宇野駅で待ち合わせよう」と言うことになった。家に帰って、車で、宇野駅に行くと、女友達と二人で、待っていた。相手の女性は、お世辞にも美人ではなく、さっさと帰っていった。そして、M.Kを乗せたベレットは一路岡山方面に向かって滑り出した。30号線を北上し岡山市内の少し手前のドライブインで、夕食を摂った。「本当に恋人はいないの?信じられないなぁ」と言うと、問わず語りに喋り始めた。「ほんとは、居るんだけど、少しも構ってくれないの、もう駄目みたい」と寂しげなことを言う。1級下にM.Kを結構良いというのが居たので、その君(S.N)をどうだというと、余り乗り気がしない風だった。でも「有り難う」と言って食事を終えた。気持ちを聞いて上げたことで、少し気分が晴れたようだった。そのまま帰るのも興無しと考え、「M.Kさん真っ直ぐ帰りたい、それとも少しドライブして帰る?」と聞くと、すぐ「ドライブしましょう」と反応した。私は、そこから金甲山が近いことを知っていたので、すぐハンドルを切った。途中「なぜ貴女のような可愛い人を無視するんだろう、気が知れ無いなぁ」と言うと、少し、笑ったが、本心からの笑いでないことはすぐ分かった。頂上まで行かずに、途中でUターンして車を止めて夜景を見た。
少し黙った瞬間、彼女の方に腕を回して、「M.Kさん!」と抱きすくめて、唇を合わせていった。待っていた訳でもないだろうが、話の成りゆきと、雰囲気、更に彼女の経験から、唐突なこととの反応でなくほとんど自然に近い受け入れ方だった。少し、歯を合わしていたが舌を侵入させていくと、徐々に受け入れるのだった。帰り際に、「怒った?」と聞くと「ううん・・」と首を振り「びっくりした。でも○○さんキスが上手・・」と言ってうつむいた。「又会えるかな?」と言うと、黙って頷いた。
二度目は、閑谷学校までドライブした。学校の奥に記念碑のような物があったのでそこまで歩いていき、人通りが少ないのを見計らって、抱きすくめて、キスをしようとしたら、今度は激しく抵抗して、ほとんど無理矢理キスした感じだった。
その日だったか、あるいはその後だったか記憶がはっきりしないが、豪渓に行った時、川の流れに足を浸けて話し込んだ。帰りに、児島を回わり、何かの拍子で、会う、会わないといった話になり(今や、M.Kだったかどうかもはっきりしない)「会いたくないんだったらこのまま帰るし、そうでなかったら、右に曲がってもう少し話をしよう」と言って、迫ったら、暫くして、「右に行って!」と小さな声で、呟いた。
これで完全に私のものになったなと感じた。三度目には、倉敷の帰りに県道倉敷児島線で途中のモーテルに入った。(私はモーテルは初めてだった。)「洋室ですか、和室ですか」と聞かれたのでどうすると言うと、横で、「洋室」と応えた。だいぶん慣れているなぁと感じた。入ってからも、自発的に、風呂を張り俺に入るように勧めた。
モーテル備え付けのコンドームを使い初めてのセックスをした。それ以降は(四度目から)会うと食事をするのももどかしく又食事はそっちのけで空港線の道路脇のモーテル「たけのこ」へ直行した。数度の密会を経験し、二人ともセックスを待ち望むようになった。ある時は、セックスが終わり、布団の中でゆっくりしている時、ふと時計を見たら、それを目ざとく見つけて、「時計を見ちゃいや!」と言って拗ねるまねをするのだった。モーテルを出て、帰りの車では、しなだれ掛かるように、私の方に頭を持たせ掛けてくるのだった。帰って、洋服の左肩に、M.Kの化粧の残り香があるので焦った。
京都に行った。金曜日、大阪に出張した。その帰りに京都駅で落ち合うことにした。朝、兄の車を借りて行くつもりが、エンコして動かない。仕方無しに、電車で行った。少し遅れて着き、改札口で捜していると、M.Kが走り寄ってきて、「来てくれないのかと思った。」と少し不安そうな気持ちを引きずりながら甘えた。そのまま、M.Kが予約していた、ステーションホテルにチェックインした。レンタカーを借って、保津川の上流方面にドライブをした。帰って、四条方面に夕食をとりに行き、河原町を散策、円山公園からホテルまでを若い頃にかえって、はしゃぎながら帰った。
ホテルでは、二人で一緒に風呂に入り、体を撫であいふざけ合った。M.Kは、フリルのついた、落ち着いたベージュのショーツを着けていた。ゆっくりと指をかけ、引き下ろした。いつものモーテルとは違って、新婚旅行の雰囲気で、興奮した。
最初は、体を舐め回し、おっぱいをまさぐり、自然に手がM.Kの秘部にずり落ちていった。そこは、いつもよりいっそう濡れているように感じた。M.Kも今日はいつもよりいっそう感じているんだなぁ、と思いながら、自然の高まりのままで、挿入を果たした。緩やかなセックスだった。暫く気だるさの中に彼の腕枕にM.Kが目を閉じて、ついさっきの高まりを反芻し、思い出して、かみしめるように目を閉じて穏やかな余韻を楽しんでいた。暫く、その顔を眺めている内に、いっそういとおしいさを感じ、M.Kの体を撫で、おっぱいを揉みしだいているうちに、M.Kが再び濡れてくるのが分かった。体を捩らせて、甘えるような素振りを見せ始めた。唇を重ね、その口を首から、胸へとずらしていくと、M.Kはますます喘ぎに似た声を出し始めた。その声に奮い立たされて、唇を更に体を伝って、おなかから臍、そして秘部の茂みにさしかかった時にM.Kが無意識のうちに体をひねるようにして自分の秘部を舐めやすいようにこちらに向けてきた。その仕草を可愛く思い、M.Kの秘部の唇に自分の唇がふれたときに、M.Kはびくっとするのが分かった。そのまま唇同士でディープキッスをした。M.Kは十分に感じ、ジューシーな蜜は溢れんばかりに唇から滴り落ちた。それを舐め回して高ぶりを感じている内に、自分の舌を、M.Kの穴の奥にぐっと突っ込んだ。M.Kは、「うぅ」と声を漏らした。感じたのが分かった。暫く舌で、M.Kの秘部を舐め回し、穴に舌を突っ込んだりして高め合った。感際まった状態で、勃起した一物にスキンを着けるのももどかしく、挿入作業に掛かった。ペニスの先を入り口に持っていくと、
完全に濡れた秘部は、隆起した一物を自然な形で誘い込むのだった。
完全に体が密着するまで十分に挿入を終わった時、M.Kの顔には喜びと悦楽の表情がうっすらと浮かんで、満足そうに腰をうねらせた。応えるように腰を動かし、ピストン運動を繰り返した。悦楽の表情はますますエスカレートして、腰で激しく応え、両腕を首に回しながら「○○さん好きよ!好きよ!」と喘ぐように言いながらピストン運動を増幅させて、なおも激しく腰を動かした。その状態で暫く動物的な、声ともつかない激しいうめき声をお互いに発しながら高まりを十分に感じ合った。「う、ぅ、ぅ」・・「いぃ、いぃ、い・・・ 」。「ダメだM.Kもう行く」・・「いや!もっと愛して・・もっと深く・・」・・「うぅ、うぅ、・・」
「いぃ、いぃ・・い、い、ぃぃ・・、行く・・・」M.Kは完全に放心状態で行った。ペニスも、「うぅ」の声と共にドクドクと激しく痙攣してほとばしるように白い液体を放出した後にぐったりと果てた。気だるさが体中を襲いM.Kも放心した状態を楽しんでまだ堅い状態のペニスをくわえ込んだままで緩やかな眠りについた。・・・・・・・
疲れをいやす睡眠の中に二人が入って、ふと目を覚ました時に、M.Kが満足した顔で私をのぞき込んで「愛してるぅ」と甘ったるい声を出した。
愛おしくなりしばらくの睡眠で疲れを取り戻したペニスが、又膨らむのを感じた。「M.K!」と言いながら、再び唇を重ね、同時に右の薬指は今済んだばかりで先ほどの湿りが完全に乾ききっていないM.Kの秘部に降りていった。舌を絡み合わせながら秘部の唇を、中指でころがしはじめると、M.Kは今度は誰はばかることのないかのように「あぁ・・あぁ・・いぃわ・・いぃ・・」と応えるのだった。それに連れて右の薬指にはM.Kのジュースが段々と増えていくのが感じられた。又感じているのだなぁと、雰囲気を楽しみながら、指でもてあそんでいると、「いぃ、いぃ、お願い入れて・・・」と哀願するのだった。初めての3回戦をどうしたらいいのか迷ったが、ペニスも行けと言うばかりに高まって指示を出していたので、「M.K!M.K!」と叫びながら3回目を挿入した。少しの恥じらいと大胆な仕草で受け入れたM.Kは、今度は押し殺すような声で無くておおっぴらに「いいわ、いいわ、とてもいぃ、感じる・・、好きよ、好き、愛してる、もっと、もっと・・」と激しく腰を揺するのだった。そして、女の性をまるだしにして、「ぃ、ぃ、ぃ、いく」そのまま朝になった。
女性の尻を追いかけているばかりではない。1970年に結婚、親父の喜寿を祝う。バスケットボールでは川崎製鉄に快勝、中国大会に進出した。中国大会の壁は厚く、IHI呉、協和発酵には全く歯が立たなかった。
同期入社の友人と、津和野秋芳洞をドライブ旅行した。とにかく行き当たりばったりで、旅館などは予約無し、初日は、何処かの校庭(朝起きたらそうだった)で夜を明かし、2日目は、モーテルに車を入れた途端電気を消され、結局野宿に近いことになった。帰りには、相手に運転させたいために「お前の運転は旨い、安心していられる」などと、お互いを誉めあい、何とかして運転させ、その間に休息を取ろうとの作戦をお互いに考えていた。その彼は元の会社で今理事を勤めた。
「部長になれなかった男」としては、複雑な気持ちである。
又その年は多くの外部委員会に出席したが、ベースロードとしては2軸船のコンテナ「おーすとらりあ丸」の設計を忘れることが出来ない。船は通常1軸船だが、左右対称にプロペラを持つ快速コンテナ船である。その、機関室の横断面図のキープランを書いた。更に舵とスターンフレームも設計した。コンテナを載せる以外の重要な部分にタッチしたことになる。少なからず興奮を覚えた。
その間大阪商船三井船舶の修繕船も手がけ、「切られの与三郎」となった、クラックだらけの船のリニューアルにも関係した。未だそのころは、大阪商船三井船舶は、友好関係があり上得意であった。
それがやがて見切りを付けられて、凋落する。
「にゅーじゃーじ丸」は今も壁にパネルとしてこちらを見ている。
船速は忘れたが、後に述べる3軸船よりはやや遅かったのは当然である。ちなみに、親父が関係した戦艦大和は平賀譲が設計した4軸船で、大艦巨砲主義の終演を無念にも飾った、名鑑である。
私は、造船に入って良かったと思い始めた頃である。
凝縮したM.Kとの体験は、仕事の合間でのことだから、当然仕事の内容、バスケットの内容、その他諸々のお付き合いの中の一環であることは言うまでもない。従って、完全に時系列的に書いているわけではない。永井の結婚式があった。日記によると5月30日。当時を振り返る写真も前妻に処分されたか、持って行かれたか手元にはない。記憶では、教会(中島牧師)でのクリスチャンの様式だった。バージンロードを歩く二人は横の席で見ていると、ハンサム且つ美形で、新婦はウェディングドレスがよく似合っていた。彼のの妻である愛子さんは後に喜子さんをもうけるが、一時鬱的状態になられたとか。彼も少し悩んだようであるが、一過性のものであり、私が永井に電話する時は、快活な声で迎えてくれた。(彼はE-mailが出来ない。典型的な偉い人タイプになっている。勧めても余り必要性がないからと、本気にならない)愛子さんが、学生の頃からクリスチャンであったので、教会挙式となったが、無色の永井は、彼女に誘われるままクリスチャンネームを頂いたそうだ。だからといって、世の中変わるわけではないが婦唱夫随で、私に比べれば、安定した生活を送っていた。それも永井の知り合いで、たった一度きりしか合わなかった彼に対してである。その時の牧師さんは子沢山で、5人はいたと思うけれど、神の摂理に忠実に生きておられる様が、その点からも伺い知れる。普通、クリスチャンは知らないけれど学会の人は年賀状とか、初詣などは行かず、それぞれの信条で、「アーメン」を唱えたり「南無妙法連華経」を押し頂いたりすると聞いている。その点中島牧師は少し違ったニュアンスで、庶民に溶け込んでおられるようだ。一介の牧師で終わるとのお気持ちのようで、ヒエラルキーをどうのこうのとは、無縁で過ごされて居るみたいだ。私の場合は無宗教で、それこそ困ったときの神頼みを地でいっている。「鬱病」で困った、死んでしまいたいと思ったときでも、決して洗礼を受けることも学会に入会する事もしなかった。「後で出てくるかも知れないが「学会」へは2人の人から誘われたがきっぱりと断った。聖書は買ったが、洗礼は受けなかった。旧約聖書の「創世記」などは好きである。天孫光臨の「古事記」「日本書紀」などと通じることが多い。でも彼は「南無阿弥陀仏」がルーツなのである。親鸞聖人が「悪人なおもて往生とぐ、いわんや善人おや」といっている。しかしながら宗教には余り関心がないのが実体だ。毛利さんの言を借りるまでもなく「地球は青く」、宇宙から見ると国境線など書かれていないのである。
1971年の正月は元旦に、父母、姉、妻を伴って、上賀茂神社に参拝した。3日には、又京都の円通寺に行った。Y.Yとの思い出の場所でもある。遠くに比叡山を頂く借景庭園は、何時来ても心落ち着くものがある。結婚は1年目を迎えて、夜の勤めも3日に空けず行っていて、至極順調であった。昨年から今年に掛けて、友人知人の結婚式が次から次とあった。各種委員会、講演会、バスケットボール、麻雀etc.とにかく、花であったろう年である。
仕事では、3軸のコンテナ船の設計に掛かり、再びスターンフレーム(船尾骨材)、舵の辺りを設計した。私は、その船尾部のドックにいる写真を持っている。懐かしく、涙の出るような作品だった。
話は飛ぶが、その海上公式試運転(公試という)では、舳先の策を通す孔に顔を覗かせると強烈な風が来た。海上で30ノットとは陸上ほぼ60km/hであるが、障害物がないだけに迫力があった。
あぁ、戦艦大和(二代)、出航の折りは、全速で走ったのだろうか?政策的に27.3ktsで抑えられた大和は、人身御供的に且つ大和ホテルと渾名され、遂にレイテの沖に到達前に米空軍の容赦ない攻撃に敢えなく海の藻屑と化してしまったのだ。無念であったろうし、玉音放送を聞いた親父が、がっくり肩を落としたのは、大和に掛けた青春が、2度と帰ってこない海の底に横たわっているという複雑な気持ちがあったからではないか。
「えるべ丸」は3軸ながら、それよりも速く走ったことになる。今は、「TSL:テクノスーパーライナー」とかが80km/hの正に高速カーゴーが実用化の目処が立ったようだ。物を作ることは楽しく、正に「重厚長大」の時代に育ったものとしては、後の「軽薄短小」はなかなか馴染めず、人のふんどしで相撲を取る、銀行などは、毛嫌いしたものだった。ところが現実には彼らの方が高給をはみ、潰れると言っては税金を投入し、形ばかりの構造改革(リストラで)。裏で、舌を出しているのが手に取るようである。現在のインフラ「IT」なども結局「情報」であり物ではないのだ。唐津一や牧野昇更に飯田庸太郎などが言っているように、製造業は不滅であるべきなのです。
その後渋川海岸で海水浴を楽しんだり、豊島(今不法投棄で全国的に有名になってしまった)に潮干狩りに行き大量で帰ってきたり。そう言えば入社早々舟釣りをして、今では貴重なメバルをしこたま釣り上げ、昼食にしたことがあったけ。
豊穀山丸(ばら積貨物船:Bulk carrier)を自動車運搬船に改造したのもこの年である。
そう言えば課長への昇格試験は、1年遅れでこの年に受けた。何故1年遅れたのか皆目見当が付かない。駄目兆候はこの時からあったのかも知れない。3軸のえるべ丸の進水式では船台がかぶるような海水を一杯に津波のように押し寄せながら、静かに瀬戸内海の洋上へ滑り降りていった。玉野造船所のすぐ前は、三菱金属の直島精錬所があり、進水でやりっ放しをしていると、この島にぶつかってしまう。ブレーキ代わりに、片弦に積んでいた係船用の鎖を海中に投棄し船の行き脚を転換しながら、行き脚を止めるのだ。工作部の連中が、苦労する場面である。船は多くの盤木で支えられ、トリガーで行き脚を止めている。船主の奥さんなどがシャンペンを割ると同時に係員がそのトリガーを外し、滑り出す仕組みだ。又冬場などで、船台に塗ったラードが固まりすぎると、滑らぬ恐れがあり、之も心配の種である。こうして滑り出すと船尾が浮揚する段階で、船首部に非常な力が掛かる。リフトバイスターンだ。之に対応すべく私は構造の補強を行うのだ。
進水後、船内に潜って、船尾浮揚時に船首部に異常な力が掛かり、損傷をしていないか、一応チェックに入る。計算通り、何事もない。もっとも何かあると大変なのだが、理論の正しいことを、密かに喜ぶ、技術者の快感である。東郷町で梨狩りがあり、M.Kと会ったのもここだ。細かいことはその後色付けをするとして、1972年は終わりを遂げた。
豊穀山丸(ばら積貨物船)を、自動車運搬船にするのは、やはり容易ではないことが分かった。
私たち仲間は、バージンズという結社を作り、野球のユニホームを作ったり、玉野弁(なーじゃー族)と標準語の辞書を作ったり、奥津温泉に旅行(ドライブして入湯する)などの活動を行った。
玉野では、「傘に入っていきませんか」は「乗っていかん?」です。之を若い女性から聞くと、「え!乗せてくれるのか」と一度は驚くのです。又、玉野弁は日本一汚い言葉としても有名で、「あのなぁ、うち、昨日天満屋へ行ったんじゃぁ、でーれーえーもん見つけたんじゃ、欲しゅうなったけど、お金がのおて・・・。」と20才そこそこの可愛い娘が話をするのを聞くと、少し寒気がするのは、私一人ではなかった。
「なーじゃー族」に囲まれて、生涯において一番多感で、可能性を秘めた時期を岡山は玉野で過ごした。
今は没交渉の我が2世はこの年誕生した。(前妻との子だ)生まれるとすぐに全国青年祭(バスケットボール)の試合で、東京へ行ったのは前に書いたが、周囲の予想を裏切って、なんと全国大会優勝(優勝戦の相手は、秋田の雄物川役場)してしまった。この時私は選手としてではなく、監督として参加、ベンチでは、的確なアドバイスと共に最後は「ここが正念場だ。ここを乗り切るんだ」と何度も言ったらしい。語りぐさになっている。
凱旋したらげんきんな物で、出るまでは歯牙にも掛けなかった、県の連中が、下へも置かぬもてなし振りに、「之が現実か、何事も勝てば官軍だなぁ」と思った次第。優勝は、全国規模ではそれが最初で最後ある。
この年、印パ戦争があり、パキスタンの全面降伏で終わった。
少し早かったが、バージンズは、奥津に繰り出し、盛大に忘年会を行った。その後、次の船の設計を応援するため年末まで東京に出張した。この出張は、年を挟んで、1972年1月一杯続いた。
1972年正月は一時帰省だったこともあって、夜はやりまくった。そして休み明けの5日、寝台列車瀬戸号で、再び上京した。性能との検討会などが、本社で行われた、社内の構造連絡会議などを交えて、1月末に、玉野に帰った。その時の東京の長は、吉識さんと言って、かの有名な吉識雅夫の子息であった。
彼が後に私を部長昇格試験を受けさせなかった一人になる。
2月にはいると、札幌オリンピックで日の丸飛行隊「笠谷、今野、青地」が金銀銅を独占沸き返った。
結婚2年になり、会社では人も入れ替わった。入ってくる人の歓迎会は良いが、去っていく人の歓送会は、何時も同時に行われ、何とも感情的にしっくりしないものがあった。ニクソンの訪中、又日米共同声明など、およそ政治に疎いものは、世の中に取り残されて、只ひたすらに図面と向き合い、間違いの無いようにと、最新のチェックをしていた。バスケットボール部の活動も、重い腰をやっと上げて、開始し始めた。その間S909(B/C)の進水式、奈良のお水取りの日のハイキング、そして、かの3軸船「えるべ丸」の公式試運転が土佐沖で行われるのに同乗した。5日に及ぶ乗船では、只ひたすらに振動が出ないことを祈った。単軸船でも難しい解析を3軸船ではどうしたものか、半分やけである。
船の起振源はプロペラとエンジンで回転数がほぼ100回/分なので、プロペラのは(ブレードフリクエンシーという)翼数(例えば5翼)を掛けると500cpmが起振振動数であり、エンジンは12気筒とすると掛けて12×100=1200cpmが起振振動数となる。共振を避けるためには、この数値を避けるのだが船体が決まってしまうと、ほぼどうしようもなく、最悪のケースではプロペラの翼数を変えたこともあったらしい。幸い「えるべ丸」は共振することなく、国際ガイドラインを通過した。
船の保証項目は基本的に、
1.スピード 2.裁荷重量の2項目である。マイルポストでの往復で、仕様通りスピードが出るか否かは、性能屋さんを初め、お偉方が尤も注目するところで、スピードが出たとなると、乾杯となる訳である。こうして、その後のS924公試、関西構造委員会、機関室小委員会などをこなして、冬に終わりを告げる。
4月に入って新入生が入ったと聞く。特に感慨も無し。ところが、首の左にピンポン玉の膨らみが・・・、あわやガンかと思い、病院へ行く。良性の脂肪腫とのことで、切開手術。局部麻酔で、執刀医に「先生縫うとき、ガーゼなんか忘れないでくださいね」とか何とか恐怖心を振り払うように戯れ言を言うと、少しむっとされた。月半ばに、今度は陸の王者(色魔):都の西北だったかも知れない、主催のラリー大会があった。ドライバーと、ナビゲーター、それにカリキュレーター3人で、ポイント、ポイントを通過して、タイムを競う。最初、後部座席で、計算していた男が、下を向いていた為に、気分が悪くなり、往生したことを覚えている、結局カリキュレーターの計算ミスで、減点5の6位に留まった。結構、知的で、面白いスポーツであった。
S933の進水式、特別のことがない限り最近の進水式は、船主も来ないし、セレモニーもないので関係者以外は参加しない。ブラスバンドが、設計本館前の道を船台まで行く音で、「あぁ、今日は進水式か」と思うだけ。昔は、酒が出たり、近所の人達が列をなして見に来たらしいが、昔日の感である。4月も終わりに、新入社員の歓迎会があった。
会社での仕事にもだんだん慣れてきた。1年後輩の川島君と早朝、和歌浦に海釣りに出かけ、結局「ゴンズイ」が掛かっただけで、食えなく、とげが刺さると痛い。少しの「キス」だけが収穫だった。
5月の連休は、今年も終わった。家に着いたのは00:00を過ぎていた。
連休明けに昇給の発表があったが平均の110%と、比較的評価は良かった。
そして待ちに待った、S967/8(タンカー)の担当を仰せつかった。(この時は未だ、先輩の助力付きではあったが)とにかく、1船の設計を任されたことになる。彼にとっても一つのエポックである。
設計の傍ら「阪大会」で苫田温泉「乃利武」に遊ぶ。
月曜日には、あの「えるべ丸」が神戸港に入港していると聞く。どうやらチェーンロッカーに損傷があるらしい。チェーンが暴れて、壁をへこましたとか。急遽神戸港に飛んだ。
「えるべ丸」のトラブルの現象は見たものの、どうもチェーンの暴れ方が尋常ではない。そこで、チェーンロッカーのパイプを長くして、鎖が大きく振れないように改正した。
「鬱病が」ひたひたと押し寄せているらしかった。でも私はそのことに気づかず、所内のバスケットボール大会で審判などをしていた。一日の終わりにぐったりとなることが多くなり、会社を休んで回復しようとしたが、無理だった。
例のコンプロ(Construction profiles)がなかなか進まない。6月24日初めて、直属の上司であった、塚本課長補佐に変調を訴えた。それは、えも言われぬ気分で、「鬱」の極みであった。それから約1ヶ月間は日記を書く気力もなく漠然と過ごした。空白である。それでもバスケットは続け、ナカシマプロペラ戦では、絶不調で得点はたった7点。
そしてついに、この月半ば岡大病院に2週間入院をした「鬱病」である。入院までは憔悴しきっていたが、入院とともに、絶対ここを出なければと、日記を書き始め、自分がこれだけ正常だと訴え続けて、教授に異例の短さで退院を許可された。退院後コンプロも出図した。彼本来の仕事である図面のチェック、部下への指示が続いた。退院後、通院するも、看護婦の不手際で、診察受けられず。頭にきた。でも頭にくるぐらいの元気が出たことにはなる訳で捨てたものでない。この時期は、家ではオリンピック、男子バレーが優勝するなどTVに釘付けだった。
車も傷み、車検整備で、何カ所も部品を交換せざるを得なかった。
元三井造船理事のT.K氏が、このころ単独シベリア鉄道で、モスクワに渡った。
9月26日M.Kに茶飲み場で会い、話が始まった。それからは以前に書いたとおりである。
その間に、三田の色魔、J.Hが買ったスカイライン2000GTに試乗させてもらい、快調であった。
閑谷学校以来、音沙汰がなかったM.Kから誘いがあった。豪渓に遊び、最初のようなぎらつきは薄れて、淡々とし、味わい深いキスをした。それから2重生活的になったのか。これが浮気というものか。しかし私の場合、それは瞬間瞬間は本気である。ビフテキが大好きな奴がいて毎日のようにビフテキを食べさせられると、たまにはお茶漬けが食べたいと思うのと同じで、私はお茶漬けを真剣に美味しいと思い食べた。
バスケットボールは残念ながら2位で、中国大会に臨む。中国大会では2回戦で、新日鉄光に敗退した。
仕事では、担当になると、その船のあらゆる情報が集中的にやってくるシステムになっている。よほど大事なことでない限り彼は、返答したり、指示したりできる権限を与えられる。
休みが、目立つようになったM.Kだが、11月16日ドライブで、児島締め切り堤防付近で車の中で、セックスをした。感動的であった。その頃からM.Kは、彼に傾倒し、彼も受け入れた。
バスケットの試合では大荒れで、7分を残し退場してしまった。仲間二人も退場と、散々で、時の1位「教員組合」に一時9点差まで詰め寄ったものの、結局大差で破れた。
M.Kとは、1週間おきに会って、お互いを求め合った。またその事が、お互いの希望でもあった。彼は結婚していて、M.Kは独身である。でもM.Kは、一向構わない風情で、結婚を求める事もない。あるが侭の状態で受け入れてくれる。
船主殿にレターを書いたり、バスケットの納会では、植田監督、高田主将を確認、私は一介の選手に徹して、ゲームを楽しむ事にした。
C.Kとはこの頃から、口喧嘩が多くなってきた。
この頃の仕事は、「材料取りの手引き」を作成する事にあった。船は鋼板で出来ているが、小さな部材を、如何に効率よく決められた鋼板から取るかによって、残材が減り、持ち出すお金が少なくなるのである。その為のマニュアルで、「DIY」をされた方なら容易に理解されると思う。
再び、M.Kと会い、次の京都での逢瀬を約する。
船殻設計課の忘年会は、毎年のような味気なさはなく、時の幹事の機転で、カクテルパーティーなるものに変わり、好評であった。
「Pat Boon in Okayama」をC.Kと聞きに行き、週末はまずまずであった。
仕事は、デリックポスト。いわゆる、クレーンの基部の構造の変更があり、プログラミングを見直ししたりして、忙しかった。
一方、関西構造委員会に出席のため、その資料作りをし、45部持って、相生の石川島播磨(IHI)に出かけた。たくさん質問が出て、たじろいだが、無難に回答することが出来た。
そして12月16日委員会の出席の延長で、M.Kと京都で落ち合った。当初、兄(元)の車を当てにしていたが、動かず、電車で行き、以前に話した様な顛末となった。京都駅に定刻を少し遅れて着いた私に、M.Kは駆け寄ってきて「来てくれないのかと思った・・。」と半分泣きそうな顔をして、コートに突っ込んだ彼の腕の間から、彼女の腕を差し入れて、少し拗ね、少し甘えた仕草をするのだった。レンタカーで、三千院、寂光院、高尾パークウエイなど周り、昼は湯豆腐を食べ、夕食を済ませて、円山公園から京都ステーションホテル迄、手を繋いで帰った。その夜の事は前に書いた通りなので、省略するが、一晩で、3回も出来たのは、余程愛おしかったからに他ならない。
翌日は、M.Kは、妹に会うと言って、京都で別れた。まさか手を繋いで、玉野に帰るわけにも行かず、彼女の気遣いを有り難く思った。
12月20日M.Kは「今度お見合いがあるの、その人のことは何も知らないし、写真だけでは余り気に入らない。でもどうなるか分からない」と言った。翌日M.Kは休んだ。私は気が揉めた。
年末から、早朝ジョギングで、近くの山に登り、朝湯を浴びて、出勤する事になった。合計19日続いたと記憶する。仲間と2人である。朝の空気は清々しかろうと山に登ると、対岸の直島にある三菱精錬所の工場から、もくもくと黒煙が上がっている。昼は衆人の目が煩いので、夜フル操業しているらしい。
1972年も押し迫った。帰玉後、私を待っていたのは、品質管理の作業を如何に進めるかだった。現場と、設計の摺り合わせ会議に出席した。それも定時に終了、M.Kと再び会って食事、京都でのとろける様な話を切なく語った。それは、ひょっとして、M.Kが嫁に行くかも知れぬ故の切なさだった。でもしょうがない、積極的に祝ってあげなければならない立場なのだ。
深山公園で、車を留めて、そんな話をしていると、急に愛おしさがこみ上げ、M.Kもそんな風情だったので、唇を合わせた。それから先は、男女の間、と言うより、通常の私と、M.Kの間の秘め事が待っていた。高ぶりが最高潮になった時、私は何時もの様にスキンを付けようとすると、M.Kは、要らないという風に首を横に振る。なぜと目で聞くと、生理が終わったばかりなので大丈夫という。男の私もその位の知識は持っていたので、その時ばかりは、肌と肌とが、何の隔たりもなく接触して、果てた。
翌日は、掃除と片付け。そして30日早朝、午前5時前に出発大阪へ向かう。30号線を70~80km/h、2号線バイパスを60km/h、播州国道で70~80km/h、神明、阪神国道、名神で、100~120km/hとtotal203kmを3hr05minで、大阪に07:50に到着、流石早朝の道路は空いていた。
この年は、「鬱病」「Charge Engineer」「えるべ丸公試」「M.K」など、話題の多い年だった。
中でも「鬱病」は、死を考えた程深刻で、その後の私に何度も形を変えて襲いかかる前触れであった。
1973年の正月が来た。前日の紅白は、眠くて、途中でダウン、元旦から、早川と会い、珈琲など飲んで、久しぶりに会話し、お互いの無事を讃え合った。
赤軍派の森恒夫が、首つり自殺をする忌まわしい出足の年であった。
正月恒例の百人一首で遊び、かっては姉が一番多く取ったが、最近は、若さがものをいって、私が首位を取ることになった。「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」で始まる札は1枚しかなく、
「村雨の露もまだひぬまきの葉に、霧立ち上る秋の夕暮れ」:寂蓮法師
「住之江の岸による波夜さえや、夢の通い路人目よくらむ」:藤原敏行朝臣
「めぐりあいて見しやそれともわかぬまに、雲かくれにし夜半の月かな」:紫式部
「吹くからに秋の草木のしおるれば、むべ山風を嵐というらん」:文屋康秀
「寂しさに宿を立ち出でてながむれば、いづこも同じ秋の夕暮れ」:良暹法師
「不如帰、鳴きつる方をながむれば、ただ有明の月ぞ残れる」:後徳大寺左大臣
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、割れても末に合わんとぞ思う」:崇徳院
等の歌殆どを今でも諳んじている。元々恋歌が多い百人一首だが、選者の藤原定家が、好き者であった訳ではなく、かの時代はその事が半ば大きな仕事であったのだ。
「足引きの山鳥の尾のしだり尾の、長々し夜を一人かも寝ん」:柿本人麻呂
とか、いまは亡くなった登麗君(テレサテン)も、「あんた抱かれた~いよ、あんた会いたいよ・・・」と切なく歌う如く、女も、右大将道綱母は、
「なげけつつ一人寝る夜の明くる間は、如何に久しきものとかわ知る」
「みかきもり衛士の炊く火の夜は燃えて、昼は消えつつ物をこそ思え」:大中臣能宣朝臣
等、激しい恋歌がいとも平然と歌い継がれている。
別紙に続きます。
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