Henry Goodrichは地切りされた。1700トンある上部構造はふっと数センチ横へ揺れた。私はほっとした、重心の計算は間違っていなかった。でも強度の方は・・・。吊り上がりゆっくりと4本のコラムの上に落ち着くまで、固唾をのんで、見守った。3000トン吊りクレーン船はじれったいほどゆっくりと、スリングを撒きながら、上甲板構造物を徐々に高くつり上げていった。あちこちで笛の音や、大声で叫ぶ声が聞こえた。やっと、所定の高さまで、吊り上げると、今度は、クレーン船は、岸壁を離れ、ドックの方に向うくべくタグボートに押されて、向きを90°回転した。私の頭の中には、必死に検討した補強図面がくっきりと浮かんできた。あの点は、ドアがあって、仕方なく塞いでいたとか、あの点は、補強のため板厚を増して対応したとか、構造物の吊り点だけでなく全体の強度はどうだったかとか、走馬燈の様に計算結果と図面が私の頭の中で渦巻いた。
M.Sが居なくなり、寂しくなった、情熱を私は精一杯仕事にぶつけた。 そうこうしている内に、クレーン船は一旦取り払われて、海水が入ったドックの入り口にさしかかり、静かにドックの中へと侵入、所定の位置に止まりスリングを下ろし始めた。海上クレーン船で吊られる側と、ドック内のコラムの上で待ち受ける、下ろされる側はお互いにハンディートーキーで連絡しあい、そのポジションを決めて、4本コラムの上に落ち着いた。(とび職の、華の出番である)とにもかくにも、セットされたのを見て、私は、ほっと安堵の息をついた。それから始まるであろう、完成に向けての作業を思いながら、ドックを後にし、一旦設計室に帰った。「どうだった?」と同僚が声を掛ける。「ああ、うまくいった様だ」と私は、言葉少なに返事した。もっと高ぶっていても良いはずなのに、不思議な感情に支配されていた。 Henry Goodrichの構造は、2本の潜水するポンツーンという浮体構造(この中にジェネレーター等が入っている)と、4本のコラムと、上甲板構造。それに、それらが、バラバラにならない様に互いにたすきがけするブレーシング構造とで成っており、その上に、掘削のためのパイプを載せる、パイプラック、更にそれを繋ぎ合わせる、作業台構造、そして、高い櫓である。遠洋に出るために交通手段であるヘリポートも用意されている。大概、ヘリポートは、端の方に取り付けられるため、構造屋泣かせである。補強がやりにくいからだ。更に、レスキューボート、船側遠く排出ガスを燃焼させる装置、様々な機械を積んだ工場である。 掘削パイプの先端はダイヤモンドを埋め込んだカッターが回転する様になっており、それらを海底まで届かせるために作業台部では、1本十数メートルのパイプを繋がなくてはならない。それらは、艤装の仕事であり、実際には掘削の時にアメリカ映画に出てくる赤い円筒服を着たオイルマン達が繋いでいく。1隻数百億円~300億円のリグは、1回油田を当てるとペイ出来るけれど、当てなければ、大きな損失となる、ハイリスク・ハイリターンの代表である。海の男が、リグにかける意気込みが感じられ身が引き締まる。油田を掘り当てると、油が噴き出し危険であるため、泥(マッド)を使いブローアウトを止めるブローアウトプリベンターが取り付けられている。しかし、私のチームは、有能な人が多く、これら難問を次々解決していった。 更に掘り当てた石油資源の品質を検査するための装置が、積まれていた。この装置は、世界中で、シュランベルジャーだけしかできなく、私たちは、全くその内容を知ることは出来ず、ブラックボックスであった。
SSDBの設計は、終焉を迎えそうになった。でもその時重大なことを船主から要求された。係船用のフェアリーダーがコラムから飛び出ているのがまずいという。もう工作に掛かっており、現場には即ストップが掛けられた。それをやり直すのは、物理的には、可能だが、お金の問題と、納期との関係をキープしてとのことだ。金は払われるという。後は納期だ。設計変更が私を待ち受けた。殆ど徹夜に近い業務が要求された。私を初めスタッフは、一生懸命頑張った。しかし、過大な荷重の掛かるコラムの下部にリセスを造る訳だから、それだけでも大変だ。そこには応力集中もあり、並の板厚では、間に合わない。私は、善後策を協議に、急遽神戸のNVに出向いた。色々協議をして、NVの連中も、本国とのやり取りをしてくれたが、如何せん出先ではそれ以上は進展しない。 私の上司は、私にオスロ行きを命じた。「なるべく早く構造を決定し、決まるまでは帰るな」そして、「飛行機に乗る時、君は、Full Faire Passengerだから堂々と行ってこい」だった。最後の意味はその時分からなかったが飛行機に乗って、やっと分かった。私にとって、業務での海外出張はそれが初めてだった。当時、未だ洋行気分の名残があり、壮行会的なことが小規模で行われた。「大変だなぁ、納期も掛かっているし、造船所の威信に拘わるね」などと、半ば強迫観念を植え付けられる出張になった。 海外へはそれまでは、兄が、違う造船会社で、シンガポールの駐在所長をしていて、そこに行ったことがある位で、余り縁がなかった。商船時代も、振動計測で、ペルシャ湾を往復するとか、オーストラリアのWWF(Water side Workers Federation:オーストラリアの海員組合)への交渉、台湾への出張、カナダへの船主交渉、・・・そのたびにパスポートにビザの判子はつくものの、実際には、立ち消えになったりで、今回が本当に初めてだった。 私は、出張は10日と踏んで、身支度をノルウェーの気候に合わせて準備した。荷物はさほど大きなものにはならず。ビジネスマンらしい出で立ちとなった。正門からバスで出発する時、数人に混じって、K.T.も見送ってくれた。成田までは通常の出張で、成田で1泊しアラスカ・アンカレッジ周りのコペンハーゲン経由オスロ行きとなった。成田で、飛行機に乗った時、ビジネスクラスだった。当時は、ヨーロッパへの直行便はなかった。 正規料金を払っている「Full Fare Passenger」の意味が分かった。ゆったりとしたシートだが、気持ちは、とても窓外を眺める余裕など無く、頭は、如何にノルウェーでの交渉を短時間に有利に進めるかと言うことばかり考えていた。アラスカまでは、比較的短い飛行時間だった。もちろん北へ向かう飛行機は国内でもなく、出張とはいいながら何かしら心が躍る気分だ。機内は、まだ日本人が多く、とても外国への旅だとは感じさせなかった。 アンカレッジについて飛行機を乗り換えるために空港内の免税店を回る時間があった。 無聊で店を冷やかして歩く内に、貴金属店で『K』という文字のペンダントが目に付いた。私はそれに目を留め、K.T.の頭文字であり、自分の頭文字でもあるそのペンダントを買った。トランジットの制限時間が来たので、コペンハーゲン行きの搭乗口に向かった。待つこと数十分やがて搭乗が始まった。今度は大圏航路で、ヨーロッパまで行く。日付変更線こそ横切らないが、長時間の空の旅になりそうだ。私は、ビジネスクラスのシートに深々と腰を下ろした。
朝、再びコペンハーゲンにトランジットで、降り立った。 結構寒い。 朝早かったから、空港内売店も殆どシャッターがおり、木目調の床のこじんまりした空港は、歩き回るにしても、何も見るところはなかった。機内での朝食を済ませていたので、ただ次のオスロ行きを待つだけだ。 今までは地球を半周する必要があり、大型の飛行機だったが、今度は近所の都市(オスロ)へ飛ぶだけだ。 やがて、ローカルの飛行機が、プロペラを回しながら、ゲートに近づいた。黄色っぽい飛行体に青色の横線が入っていた。定員も100名までいかないのではないだろうか。デンマーク国の領土上空を暫く飛び、スカラゲック海峡とカデガット海峡の合流した線上のフライトになる。私は、周りを見渡した。外人ばかりである。ふとその時「そうじゃない、ここでは俺が外人なのだ」と納得した。デンマーク語か、ノルウェー語を喋っていたのであろう、私には内容が分からなかった。その内スカンジナビヤ山脈が見え、スカンジナビヤ半島の入り江奥深く、オスロの市街が見えてきた。幸い、案内の中には英語のアナウンスもあったので、どんな状態なのかは知ることが出来た。私の気持ちがどうあれ、オスロ空港に無事着陸した。私は、飛行機に乗る度、飛行機事故の殆どが、離着陸に集中していること、を知っていたので、いつものように着陸態勢に入って、高度を落とすと、この時点で失速すると生存確率は○○%といった具合に考えていた。無事プロペラ機は、オスロ空港にランディングした。 オスロに降り立つと、流石にひんやりしたが、日中故、差ほどの冷え込みではなかった。私を迎える者はなく、アポイントを取ってあったので、直ぐその足で、NV本部に向かった。気持ちを落ち着かせる意味もあって、タクシードライバーに英語で話しかけた。通じた。「I came here on business I’m a Naval architect and would like to come to NV head office」「Are you Japanese?」「Yes.」運転手は、大学を卒業していたが、いい職がないので、今はタクシーを転がしているという。ノルウェーは、結構そういう高学歴の人が、タクシーを動かしていることが多いと言っていた。NVは造船家のメッカ、誰も知らない者はいない。運転手に行き先を言うと、直ぐ承知して、連れて行ってくれた。流石バイキングの国である。英国に次いで、造船家のステータスは高い。運転手は私に最後「Thank you sir」と言ってくれた。日本ではとても考えられない局面だった。 NV本部は総ガラス張りの綺麗な建物だった。日本の様にごみごみした感じはなく、建物は広い敷地に毅然と建っていた。玄関を抜け、階上に上がり、日本から来たことを告げ、Mr.Kunudsenに面会を求めた。SSDBの担当者である。Mr.Kunudsenは笑顔で出てきて、「Welcome Mr○○,but the appointment is tomorrow I think.」と言った。1日間違っていた。長旅と、早く解決をと思う心が、災いした。Mr.Kunudsenに非礼を詫び、明日出直してくることを約束し、ホテル・ブリストルに向かった。 ホテルに入って、感心したのは、冬の国ならではの設備で、館全体が心地よい暖かさに包まれていた。壮麗なホテルで、歴史を感じさせる5つ星のホテルだった。私は旅装を解き、くつろいだ。旅の疲れと、気疲れで、ほんの少し仮眠を取った。私が事前に国内で接していたノルウェー人と本国の人間はそっくり同じだった。紳士で、優しく、気遣いがあり、英語圏でないので、英語が分かりやすい。それが一番助かったかも知れない。Kings Englishだ。とは言っても夕食に一人で出かけ、欲しいものを注文したいが、町のレストランでは、勝手が違った。しかし、その晩の食事には何とかありつけた。