造船時代その5


造船所時代の日記(5)です
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ホテルに帰っても、本国とのやり取りをせねばならず、外に出歩くことも出来ないまま、辛い待ち時間を過ごさねばならなかった。そんな繰り返しで、2~3日が経った。その間に、オスロ近郊の公園や博物館を訪れ、バイキングの乗った船の実物を見た。勿論木造であったが、竜骨(船底中心にある、船の背骨に当たる部分:Keelという)が反り上がり、前部には、海の女神ネプチューンの像が付けてあった。流石造船国である。私が持っているバイキング像は、カークダグラスと、トニーカーチスのそれであり、新天地を求めて南下し、英国初めヨーロッパに驚異をもたらした、Norwegianの先祖である。4日目ぐらいに、NVを訪れたら、なかなか進捗していない。中間結果を見せて貰って、考え方を協議し、私は自分の主張をした。Mr.Kunudsenの仮定と、モデル化に若干の不満があったからだ。そして、「We want to get a early decision」と言うが、Dr.Carl.Carlsenが来て、「Mr.○○、今ここで、結論を出すとしたらそれは大雑把な結論で、例えば、必要板厚35mmだと仮定しても50mmを要求せざるを得ない、それで良ければ、Approvalをを出しても良いが、経済的に考えたらもっとソフィスティケイテッドな解析が必要だ」と言われた。船級協会としては尤もなことで、私は引き下がらざるを得なかった。その時初めて”sophisticated”なる言葉を覚えた。(その言葉について、Dr.Carl.Carlsenに意味を尋ねたものだ)彼らも、必死で、解析してくれた。私は中間報告を本国(玉野)に送った。玉野からは、未だ待てる、しっかりした、経済性を追求した結論を引き出すようにとの指示が来て、君に判断は任せる、NVと協力して、早急な結論に走らぬようにとあった。
そんなやり取りの中、Mr.Kunudsenの出した結論についてディスカッションして、更に実際的な結論を得べく、計算のやり直しをお願いした。10日目になろうとした時最終計算が出来上がり、結果は私にも満足出来るものであったので、用意していた、図面に一部朱記訂正の上、“Approval”の判子とサインを貰った。私は、Dr.Carl.Carlsen とMr.Kunudsenと彼らスタッフの協力に深甚の感謝の気持ちを伝え、その承認図面を押し頂く様にNV本部を後にした。Dr.Carl.CarlsenもMr.Kunudsenも笑顔であった。「Mr.○○はTough Negotiatorだったよ」と言ってくれた。
ホテルに帰り、その旨玉野の伝え、工事の再開を依頼した。

決まったからには早急に帰らなければならない。玉野からは、三井物産の出張所があるはずだから、其処を尋ねて帰国の段取りをして貰うようにとのことだった。遊んで帰れとは言わない。尤も私にも玉野に待つSSDBが気になり、それどころではなかった。狭い町、何とかして、物産の出張所を探し当て、挨拶もそこそこに、帰りの切符の手配をお願いした。快く引き受けてくれ、今までの経緯を話すと、「ご苦労さんでした。」と言ってくれた。帰りは、ロンドン経由の便が手配され、私はチケットを手にした。だんだん住み慣れてきたブリストル・ホテルをチェックアウトする時には、馴染みになっていた、ホテルマン達が、又来て下さいと愛敬を振りまいた。私は2度と来ないであろうノルウェーの地を踏みしめ機上の人となった。ロンドン、ヒースロー空港は、雑然としていた。英語の案内も私には流暢すぎて完全には理解出来ない。雰囲気で、トランジットゲートに向かい、成田行きの機に乗り込んだ。
成田に着き、やっと安心したが、国内線で、伊丹まで移動し、それから電車で、玉野に帰り着いた。
やっと帰った。大任を果たせたとの思いが、身体全体を襲った。
翌日、会社に出た私は、オスロからの回答に基づいて、仕事を再開した。

その後アンカーを格納すべく深く抉られた、コラムのリセスが、本船上に搭載されると、私には万感の思いがよぎった。アンカーも確実に装着出来、一瞬初めからその様に設計されていたのだと言わんばかりに、自然に見えた。
公式試運転時に見せた、巨大クレーンの起伏は、勇壮なものであり、之が何処で使われるのか皆目見当もつかず、外国の人間は、桁外れだなぁと感心しきりであった。私は、その設計に携われたことに感謝した。

1985年4月4日、起工してから1985年12月20日引き渡しを完了するまで、わずか8ヶ月余ではあったが、慈しみを覚えながら、玉野の係留岸壁から、タグボートの力を借りつつ、8ノット余の速度で、目的地に向かって旅立っていった。
私たちは、何時も再び見ることのない船や、リグを造る。何処で活躍しているのか、どの航路を行き来しているのか、皆目知らない。そんな意味では造船屋は因果な商売である。人間だったら、嫁に行ってもたまには里帰りもあるだろう、橋梁工事ならその場所に行けば又会える。しかし船にはそれがない。

私は、K.T.と再び逢った。笠岡の近くの天文台がある遙照山にドライブした。その時、『K』のペンダントをあげた。とても喜んでくれた。それ以来K.T.は『K』を首から離すことはなくなった。K.T.が嫁に行くと決まるまでは・・・。
遙照山は、日本でも数少ない、星の見える天文台で、周りの街の光が、比較的邪魔をしないことで知られている。そこに行くまでにバスの停留所の名前に「山の上」というのがあって、お互い顔を見合わせて、笑った。
遙照山の頂上から見ると笠岡の町並みが広がっている。それ程多くはないが、天文台を訪れる人達はいる。K.T.は「今度もアルトに乗ってくれなかった」とわざとふくれ面をして見せた。軽四だから狭すぎるし、遠出には向かない。帰り道で唐突に、「K.T.が欲しい」と言って、迫った。K.T.はそれが何を意味しているのか、またどういうことか半信半疑であった。仕方ない。20才になるかならない田舎の女の娘だ。私には可愛くて仕方がない。つい言わせてしまった。児島のモーテル横で口説き落とした。躊躇っていたので、「こんな所を人に見られたらかえって良くないよ」と言うと、コックリと頷いた。そしてモーテルの門をくぐった。(そこは丁度M.Sと最初に入ったモーテルだった。)洋室で、お風呂に入るように言ったが聞かなかった。その時は洋服を脱がせるのも上半身だけで、キスするのとおっぱいをまさぐる事ぐらいで、それ以上のことはしなかった。矢張り恥ずかしいという気持ちがあり、急にはついてこられない様だった。私は、明日がある、明日があると言い聞かせて自分を押さえた。

K.T.との関係は、ここまで来ているのだと言うことを、K.T.に印象づけたことだけは確かだった。2回目のデートだった。1回目の時、K.T.は親しい友人に歳の離れた私と倉敷国際ホテルで、食事したことを話していた様で、その女友達の私を見る目が変わっていた。普段つんとしているその女友達が、私に笑顔と会釈をする様になっていた。認めている。

その後、モーテルを出て、少し暗くなり始めたので、我々のスイートスポットととなる、児島の山の中で、車を道路から少し入り込んだ所に引き入れてエンジンを切った。
何故K.T.が欲しかったかと言うことを話し、可愛く食べてしまいたいと告白。K.T.はじっと黙って聞いていた。少し気分が盛り上がったところで、K.T.の方を向き、右手を覆いかぶせるように肩を抱いてゆっくりと唇を重ねていった。
当然、予期していたこともあり、今度は素直に許し舌も受け入れる余裕を見せた。気の高まるままに、激しいキスを繰り返しながら、手はブラウスの上からブラジャーのホックを指先で探り当て右指だけでホックをはずすことに成功した。ブラジャーのはずれるのが判ったK.T.は、少し驚いた様子だったが亦キスの中に気持ちをのめり込ませて行いた。
可愛いおっぱいがブラウスの下で、ブラジャーのガード無しであることを考えるとゾクゾクして、今度はブラウスのボタンをはずしにかかった。これにはK.T.も抵抗のふりを見せ、はずすことを止めさせるのではなく、はずした端からはめていくことを繰り返した。しかしだんだんはずすスピードの方が早くなりついに全部はずれてしまい、小さいが、体の割にふっくらした、可愛いいおっぱいが目の前に露になった。「恥ずかしい!」と言って、隠すわけでなく、顔を覆ってしまった。「恥ずかしくなんか無いよ、とっても可愛いおっぱいだよ」と言っておっぱいにキスするために顔を胸に埋めた。とても柔らかく心地よくむしゃぶりついた。
K.T.はおっぱいに弱いらしくだんだん上気して声もうわずり「イケン」「イケン」と連発しながらも止めさせようとはせず喘ぎ声を出し始めるのだった。
そのうちに何も言わなくなり、感じていることが判ったので、空いている手をだんだんと腰の方におろしていった。そしてスカートの下から手を侵入させようとすると少し入ったところで、びくっと身体が反応し、手で阻止しようとする仕草に出た。かまわず、どんどん振り払っていくと、観念しているのかだんだん抵抗する力も弱まり、ついにはパンティーまで手が届いた。パンティー越しにK.T.の大切なところをまさぐると、じっとりと潤んでいることが確認できるほど指に潤いが伝わってきた。感じているだと思いながら、パンティー越しの潤いを楽しみ、次第にパンティーのゴムに手をかけずらしに掛かった。体の力が抜け、感じているために抵抗力の無くなっていたK.T.はこれから起ころうとすることを本能的に察知してなされるがままに、口では「イケン」「イケン」を連発し、時には助けるように腰を浮かしながらおろす作業を手助けした。ブルーのとても品の良いちっちゃなパンティーだった。
可愛いパンティーがずりおろされて、細身の裸身が私の前にさらけ出された。しばらく指で感触を楽しみながら、再び大切なところに手を伸ばすと、もうこれ以上潤えないという位に秘部はぐっしょりと濡れていた。濡れた指を鼻に持っていくと、恥ずかしそうに「嗅ぐのはやめて!」と言った。
指での感触に我慢が出来なくなったので、くわえていたおっぱいから、口を離し一気にスカートを振り払い、そのままK.T.の大切なところに唇を持っていった。濡れていたジューシーなそこは完全に支配下にあり、流れるような密を一滴も残すまいと、舌でぬぐい取り、味わいながら飲み込んでいった。K.T.は完全に失神状態だったが、感じていることだけは、体の動きから伝わってきた。

枯れることのない泉のようにわき出る蜜を味わいながら、しかも指と唇でK.T.の全てをまさぐり普段は、スカートの中で、誰も見ることの出来ない、おそらく今まで外の誰もが目にしたことのない部分を、私の舌と唇で全て舐め回した。
K.T.は、すっかり上気し、感じてぐったりとなった体をシートにもたせかけて眠るようになっていた。こちらも感じてきたので、K.T.の手を、股間の方に導いた。少し躊躇していたが、割合素直に手を伸ばしてきた。ファスナーをはずさせると、「恥ずかしい!」と言って手を引っ込めそうになるので、「何が恥ずかしいの」「K.T.のだってこんなに濡れて待っていたようなんだよ、ぼくのだって待って居るんだ、ほらK.T.に触って欲しくてこんなに大きくなって居るんだよ、可愛い子にだけこんなに大きく成るんだよ、触って鎮めてくれないとぼくの方が恥ずかしいよ」
と言うと、おずおずと作業を開始してファスナーを緩め、股間から一物を取り出して握った。「さあ動かして」と言ってピストン運動をせがんだ。やったことがないので戸惑っているようだったが段々に慣れて、こちらも気持ちが高ぶってきた。際どくなったところで、「K.T.、舐めて!」と言った。最初なにを言っているのか判らないようだったが「早く」と目線で示すと、すぐに判って、躊躇しないで顔を股間に埋めていった。その時の雰囲気と、自分の高まりと、こちらの要求の自然さとが完全に躊躇を取り外してしまったかの様に行為は自然に行われた。
手を動かしながら、口で先を舐められたので完全にいい気持ちになり「気持ちいいよ」を連発する有り様だった。これに気をよくして、K.T.は一生懸命に舐めてくれた。段々気が高まり、「行く!」と言うと、判ったのか、小さく頷いた。
我慢できなくなって、「ウ!」と言うのと同時に、どく、どくとザーメンの吹き出すのが判った。K.T.は動きを止めて、吹き出るザーメンを漏らすまいと口を大きく膨らませて受けとめた。M.Sの時と違って、飲み込むことはしなかった。教えれば飲み込んだんだろうが、それはなるに任せた。
いき終わって、ふっーと息をつくと、K.T.は、口一杯に含んだザーメンを、手にしたティッシュで、ぬぐい取るのだった。
ティッシュを車の窓の外へ捨てながら、折しも夏の宵に、蛙が鳴いていたので、「蛙の赤ちゃんがたくさん出来るわね。」と、くったくなく笑うのだった。そして、脱ぎ捨てられた、パンティーを腰を浮かしながら身につけようとして、「いや!あっちを向いてて」と、手でこちらの目を覆うふりをするのだった。
3回目のデートでは、K.T.の家の近くの海岸で、車を止め、話し込んだ、K.T.の生い立ち、私の生い立ち、歳の離れていること、今までに愛した女性、K.T.は之が初めての体験、仕事のこと、・・・何でもかんでも話し続けた。気がついたら夜は白々と明け、徹夜していることにようやく気がついた。
その時は、キスを交わしたぐらいで、話しに夢中になっていた。
しばらくはそんな日々が続いた。

ふと私は、自分の免許証を見た。それは、私が大学1年の終わりに取った昭和39年のものだった。その当時は、普通免許におまけで、自動2輪がついてきた。私は、この免許を、行使したくなった。何のことはない合法的に与えられた、免許の行使だ。
私は、1985年4月6日、カワサキのEN400を購入した。二輪車に乗ったことはなく、最初おぼつかなくて不安定であった。

それが、私を死の間際まで誘う序章でもあった。
私は幾度と無く転んだ。あわや川に突っ込む寸前まで行ったこともある。そのたびに壊れた二輪車の修理を繰り返した。
幸い自分の怪我は大したことはなかった。2週間経ち、適当に慣れたところで、単身で、千葉へのツーリングを敢行した。と言うのには訳があった。K.T.が、例の女友達と、横浜方面に旅行をすると言うのだ。K.T.の宿泊先を聞き、私は単車でその後を追う形となった。どれほどの入れ込みようかが分かる。

K.T.達に先行して千葉に向けEN400を走らせた。山陽自動車道から、1号線を暫く走り、阪神高速から名神、東名を走った。バイク仲間は面白く、すれ違いざまに、クラッチを持つ手(左)を胸の横で交叉しV字マークを送って、挨拶を交わす。それが礼儀らしかった。最初面はゆかったが、その挨拶を自然に出来る様になっていた。
5月の連休の最初K.T.は、横浜に投宿した。連絡を取り、束の間の逢瀬を楽しんだ。次は東京近く、その2日間のために、東京まで単車を飛ばしてきた。その後は、K.T.の自由に任せ、私は、単車好きの千葉の友人宅に泊めて貰うべく電話を掛けた。快く受け入れてくれて、市原(後に私も千葉に転勤する)の友人の社宅を訪れた。友人は私より若い、私が歳の割に異常な行動をしているだけだ。どうも感性が狂っているのか。
翌日、友人は、私も知っている共通の友人に声を掛け3人でツーリングをしようという。どうせ帰り道、それではと、彼の奥さんに礼を言い、大湧谷目指して、ツーリングを始めた。
東名を、大井松田で高速を降り、強羅、硫黄の臭い一杯の大湧谷、芦ノ湖を一周した。適当なところで、互いに東に帰るのと、西に帰るので別れ、共に御殿場ICから反対方向に散った。
それから帰りの一人旅は、やや寂しいものだったが、東名を口笛を吹きながら帰るのは、とても清々しく、そのままいつまでも走っていたい様な気分だった。EN400もよく走った。

帰って、暫くF573を続けた。前後するが、未だ正式には引き渡していなかった。峠を越しているので、余り私の出番はない。次の設計のことを考える方が、忙しい。千葉から帰って、2週間後、今度は日本のエーゲ海と言われる、近場の牛窓にツーリングした。私が若いころ、職場の連中と、向かいの島に渡り、サザエやアワビ、魚などをたらふく食べたことがある。
やはり多島海、直ぐ近くに小豆島の西のはずれ、土庄町が見える。24の瞳の島だ。西は塩飽諸島、東は、小豆島から、播磨灘へ、瀬戸内海は、余りにも穏やかである。
バイクに取り憑かれた私は、2週間後に、単身出雲大社に向かった。M.KやM.Sと通った奥津渓谷を越え、鳥取の倉吉から国道9号線を西下、出雲に入った。荘厳な切り妻造りは、今も厳かな風情であり、切り妻の先端が縦だか横だかとにかくお伊勢さんのそれとは違うと誰かが言っていたのを思い出した。
そのころには、バイク好きの人が、会社内にいることが分かり、私は行動を共にすることもあった。そんな夏の日、何でもないところで、転倒した。別段怪我はなかったが、何かの予兆であった。それから1ヶ月後、又転倒、スピードが出ていな状態での立ち転びは単車の重量が重いだけに一旦転びかけたら逆らうことは出来ない。逆らうと骨折しかねない。

来るべき時が来た。C.Kが、辛抱堪らず、K.T.を呼び出し、詰問した様だった。K.T.は、親子ほども離れた、女性から、鋭く詰め寄られ、震えてしまった。私にはC.K.に2つの不満があった。言っても聞かないことであり、且つ、もう一つは、余りの思いやりの無さであった。既に話したと思うので、殊更に繰り返さない。私は、直接K.T.を詰問したことをなじった。決定的な時が来ようとしていた。
C.K.は離婚も出来ず、戸惑っていた。別れる前提で、別居することになった。金を惜しむC.K.に私は自分が出て行くのだからと丁度新築の2Kのアパートを見つけ移り住んだ。その間幾度もK.T.と逢った。逢う度に歳を忘れ、K.T.に溺れた。K.T.も応じてくれた。K.T.とも来るべき時が来るのは私には先刻分かっていても、それを止めることは出来なかった。20才も若い娘に本気で惚れてしまった。
そんな中、ある日、単車を降りて、アルトの中で話している内、つまらぬことで、言い争いになった。私は、年甲斐もなく憤慨して、側の単車に乗り、交通量一杯の道路の路肩を、フルスロットに近いスピードですり抜けK.T.から遠ざかろうとした。スピードメータが上がり切らぬところに左への脇道があり、其処へ急に軽トラックが左折してきた。急ブレーキを掛けたが間に合わず、私はEN400もろとも横転した。遅れて気が付いた軽トラックの運転手は急ブレーキを踏み、その車輪が5cmも離れていない横転した私の目の前で止まった。

九死に一生とはこの事かと思ったが、相当な打撲と、共にEN400は相当な傷を負ってしまった。私も悪かったが、その時本気で死んでも良いと考えていたし、ちゃんとした革ジャンと革のズボンを履いていたために誰かの手を借りると歩ける程度の怪我で済んだ。

今にして思えば、ひと思いに車輪が頭を踏みつけていたら楽だったろうにと考えることがある。黒い犬が来て、死を考え、適当な枝振りの木を探して彷徨した時以来2度目の死への直面だった。(ここで、重大な書き落としをしていたかも知れないことを思い出した:母が、もと兄により、大阪から投げ捨てられる様に玉野にやってきた時のことだ。見直して、まとめる時に書こう。黒い犬が来た時だったから。)
K.T.は慌てて、アルトで私の後を追った様だが、軽四と雖も単車の様に路側帯は走れない。混雑をすり抜け、私のところに到着するのに相当無理をしたらしい。K.T.が到着した時には運転手が、私を抱き起こし「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか」と言ったので、「救急車を呼ぶまでもない」と制止し、「単車の弁償をしてくれ」と言っていた。運転手はそれで済むならと、何か安堵した表情を浮かべた。「どうもすいません」を連発し、運転手は去っていった。K.T.は、自分のためにこんなことになったと、自責の念にかられた様で、甲斐甲斐しく私を介抱し、アルトに乗せた。そして、私の新しいアパートまで送りとどけた。さっき言い合ったことなど芥子粒の様に吹き飛んでいた。暫くアパートで、私を介抱した後、案外元気なのを確認し、帰っていった。そんなことがあってもK.T.は私に付いてきてくれた。

ある日F573関係の残務を整理している時、私の席に書類を届ける振りをして、K.T.が「今日行くもん!」と言った。
最初何を言っているのか判らなかったが、すぐ、アパートに来てくれるのだと判った。自発的にそう言ってくれるのは初めてだったので、嬉しくて、それからの仕事は、能率が倍加した。K.T.は、先に帰って、夕食の支度をして待っていてくれた。合い鍵を渡してあったので、私は少しゆっくり帰ったが、自分の部屋の鍵を開ける時に今日ほど興奮したことはなかった。鍵を開けるとそこには、K.T.が待っていた。戸を後ろ手に閉めるのももどかしく、抱きしめて深いキスをした。彼女も嬉しそうで、「お風呂も沸かしてあるのよ」と言った。「K.T.!一緒に入ろう」と言うと、少し躊躇ったが「えぇ」と言って素直に従った。
小さい湯船に一緒に入ると、ほんの少しの隙しかなく、密着しなければならなかった。体に手を回し、抱えるようにすると、只でさえ軽い体は、湯船の中でいっそう軽く感じた。胸をまさぐり、大切な部位に指が触れると、少し身体を捩ったがされるが侭に触らせた。指は、湯船のさらさらした中にねっとりした、K.T.の愛液をしっかりと感じ、それは、K.T.が既に興奮していることを示していた。
後ろ抱えにして、ペニスの先にK.T.の大切な部位を持ってきたが、入り口に少し入れただけで、壊れそうだったので、奥まで侵入することはしなかった。洗い場で、K.T.のおっぱいや、大切な部位を洗ってあげている内に私は高まってきて、「K.T.、舐めて」と言って、ペニスを突き出した。何時ものようにK.T.がペニスを舐めている間中、大切な部位と、おっぱいを交互に愛撫して、お互いに高まるのを分かち合った。
そして「いく!」と言うと、K.T.は、ピストン運動を激しくし、助けた。
「う!」と言って、果てた。どくどくと、流しに白い液がこぼれた。
「気持ち良かった?」と、K.T.が聞き、頷くと、良かった、と言う素振りを見せた。
秘め事は、終わり、食事をした。K.T.の手作りの料理は、嫁入り前にも拘わらず、大した腕だった。
私は、とても旨く感じた。そして、其処にK.T.が居る。しかも自らの意志で・・・。
もう思い残すことはないとさえ思った、今のしがらみを払拭し、K.T.を自分のものにするには歳が離れすぎている。外国ならいざ知らず。ここは日本だ。

C.K.は、やがて男を作り、調停に出る様言い出した。男が出来るまでは、弱かったが、男が出来てからは、一転強気で、「調停の場では、決してよりを戻す様なことは言わないで欲しい」と念を押した。女は凄いと、この時、思った。調停所へは、今の監査役の奥さんが駆けつけ、思い止まる様説得して下さったが、無駄であった。調停とは名ばかり、調停員は、早く判子を押せと言わんばかりに私を攻めたてた。1985年7月13日離婚は、成立した。申し立て者は、私にされた。こうして1970年2月6日、私25才、C.K.23才で結婚してから、15年の結婚生活に終止符を打った。
幕切れはあっさりしたものだ。子供は2人共C.K.が親権者となった。以来私は子供に1度も会ったことがないし、初めから子供など居なかったと考えようと心に決めた。5才の腕白坊主と、、3才の目に入れても良い位愛らしい娘の残影だけを残して。今まで、敢えて、子供のことや、C.Kのことを書かなかったが、まとめの時に、色々なエピソードを付け加えるつもりでいる。何はともあれ、C.K.は惚れた女だったことに違いはなく、何処かでボタンを掛け間違って、きっとボタンの多い服だったのだろうこんな結果になってしまった。
それからのK.T.はより積極的に私と接触し、私との抱擁を、喜んでくれた。引っ越ししたせいもあり、離婚したせいもあり、私たちはより大胆に、アパートの一室での逢瀬を楽しんだ。
私には上級職への試験が待っていた。「経営基本管理」「財務管理」「労務管理」「販売管理」とおよそ技術屋の私には、初めてのことばかりであったが、取り敢えず一生懸命勉強した。「マズローの5段階欲求説」など、この時学んだ。その間もK.T.とは逢わない日がない位頻繁に逢った。そのたびに愛おしさが増し、喉から手が出るほどにK.T.が欲しかった。しかし考えてみれば、Y.Yの時もC.Kの時も、まして、M.K、M.Sの時もプロポーズはしなかった。私はプロポーズする度胸がないのか、単なる照れ屋なのか分からないが、それまで、「結婚してくれ」の一言は言ったことがない。最初に、この一言が言えていたら、人生は、全く変わっていたかも知れない。大人しくY.Yと一緒に、共白髪であったかも知れない。その言葉がK.T.にはとても言えなかった。環境を恐れた。年令差を恐れた。本当に愛くるしく、言葉、仕草、全てが私を和ませた。

昇格試験の筆記は通り、面接を受けた。門外漢が門外漢に質問するのだから、その態度を見るだけだ。やがて合格の知らせが届いた。私は課長に昇格した。
K.T.はその夜、とても喜んでくれて、アパートに来て、一生懸命料理を作ってくれた。今までの結婚生活にはなかった新鮮さが其処にあり、私を慕ってくれている。私の要求を、一度も拒否したことがない。私によって、女を開眼したと言ってもいい。
その内、尊敬する現監査役が、東京への転勤が決まった。「○○君、俺も東京だよ」とそっと、後ろの席から教えてくれた。私にはショックだった。私を理解し、色々手ほどきしてくれた、上司が、目の前から去ろうとしている。私にもそれまで、東京本社への転勤の話しがあった。私は東京が嫌いだった。人間味が無く、競争が激しく、人が多く、空気が汚い。でも俗に出世をするならそれに乗る方が良かったのだろう。でも私は、玉野が好きだった、瀬戸内海が好きだった。緑と、海、爽やかな自然。私自身故郷がなかったので、其処に故郷を見たのかも知れない。とにかく転勤を断り続けた。現監査役は、千葉の人で、東京への転勤は、苦になっていない様だったし、当然出世される方と思っていたので、寂しいながらも、送別会では、お祝いを言った。それから、リグの合間に一般商船S1228の海上公試があった。私は、それに乗船する様に言われ、何時も通り、振動計測を行った。力仕事は、若い人がし、私は、幹部食堂で、1本のビール付きの食事が出来る身の上になっていた。
そうした2ヶ月の後、構造設計室長として、大石さんが赴任された。

大石室長着任の後、氷海リグの脆性破壊の研究など昔を思い出しながら復習した。K.T.は『K』のペンダントを一時も離さない。可愛い胸元にきらきら光り眩しかった。突然の事故で、壊れたEN400に代わって、私は性懲りもなくKawasaki VZ750を購入した。400CCでも持て余していたのに、敢えて、ナナハンに挑戦した。空冷2気筒のエンジン音は、耳に心地よく、体に響いた。どうせ生きていても仕方ないとの厭世観もあり、今度はこいつと心中だと思った。
早速、真新しいVZ750を駆って、大阪に出かけた。初めての感触は、私を興奮させた。いつもの道を通り、大阪に着き、永井の家に泊めて貰って空虚さを紛らわした。
帰りは、風を切り走るには少し寒かったが、いつもの様に、エンジン音は、心臓に刺激を与え、爽快である。
帰って、K.T.と初デートの倉敷国際ホテルのレストランに行った。何を食べたのだろう、K.T.の所作だけを見ていた。とにかく今は楽しい。又K.T.も楽しんで呉れている。空虚さと、欠如感が、ない交ぜになった不安定な感じだった。
そんなある日Henry Goodrichの居室ドア周りにクラックが発生したとの知らせが入った。本船は、既に引き渡した後だが、それなりの解析を行う必要がある。送られてきた写真をもとに、原因究明に奔走した。写真は内装をはぎ、鋼製の地肌にうっすらとコーナー部のクラックが映し出されていた。現地に飛ぶこともなく取り敢えず、コーナー部の補強を提示し修理を依頼するファックスを送った。何とかそれでけりは付いた。

そんな中にも、K.T.が会社から帰ると、その後を車で、別の山越ルートから先回りし、K.T.の降りるバス停の陰に車を止め、バスが着くのを待った。そして、K.T.が、現れると。車のライトをパッシングして、それに合わせるかの様にK.T.は車に乗り込み、近くの児島市役所の広大な駐車場で、二人だけの空間を確保、語り、愛し合った。之はほぼ日常の行動となった。ある時など、K.T.はカメラを取り出して、自分たちがキスをし抱擁しているところを写真に撮りたいという。自動シャッターが降りるまで、自然にキスを交わした。その写真は金属の箱に入れ、今はもう手放した、玉野の家の地中に埋めた。
私が、倉敷ジムで、バスケットボールの試合に出ると聞き、アルトで、応援に駆けつけた。といってもみんなからは見えない位置での観戦だった。幸い、活躍出来た。年令が、年令だけに、往年の鋭さはないが、テクニックで何とかカバーした。
その帰りも、皆には「一寸用事が・・・」と言って、K.T.との逢瀬を楽しんだ。K.T.は「○○さん、凄い、15点も得点するなんて」と驚きと、茶目っ気で、又ぺろりと舌を出した。その言葉が終わるか終わらないかの時にその可愛く、高慢な唇を、私の唇が覆った。

殆どそんな毎日の中、「御巣鷹山の事故」は犠牲者を出した。誰かの苦しみや、痛みは、必ずしも、自分のものではなく乖離したものなのだと痛切に感じた。犠牲にあわれた人の苦しみは、癒えることはないであろう。後の「沈まぬ太陽」で、自分に似た境遇の人が、オーバーラップして、頭に浮かんだ、後に書く。「黒い犬」で入院中のことだった。私は一体何を考えていたのだろう。K.T.にプロポーズ出来ないことは分かっている。嫌、分からなければ駄目なんだ。K.T.が幸せになるのは、別の道なんだ。それは、私と歩く道ではない何処かにある。何時もそう考えると、私は、K.T.を、いじめ抜く様に愛し、狂った。K.T.は、そんな私の心の葛藤を、見抜けぬ侭、又私以外を考えることもなく、素直に、愛情に応えた。私が激しく、悩み、それに連れ激しく求めることをK.T.は、単純にK.T.への愛情の高まりだと判断して、それに見合った様に応えを返して来る。私には、K.T.の若さが羨ましかった。K.T.の一途さが嬉しかった。此処が、外国なら、一も二もなくプロポーズしていただろう。でもしがらみの多い日本、そんな倫理感が通用するはずはなかった。誰かが言ったことは本当だった。M.Kの時もM.Sの時も私は結婚していた。今は、独り身だ。資格はあるが、躊躇が勝った。

SSDB以来リグの話しが遠のいていた頃、次のリグ(正確にはリグでなく、半没水タイプの洋上ホテル:フローテル)を受注した。建造方針会議が、2日にわたり東京で行われた。今回は、石油掘削船ではないが、構造的には、ほぼ似た形状で、デッキの上には石油掘削洋の装置の替わりに、豪華な居住設備を載せる。
之は、石油掘削リグで働くオイルマン達の寝泊まりするためのもので、北海で稼働するリグに近接して、行動を共にする。要は、海上から陸地まで、遠いので、一々陸上から通えないということもあってのサポート船である。その代わり、内装設備は充実して振動、波の揺れなどに対して十分な配慮が為されている。
「POLYCONFIDENCE」が船名である。船主はラスムッセン。船級は、私の得意なNV。上甲板の長さ=84.2m、上甲板の幅=66.2m、上甲板迄の深さ=35.3m、没水部のポンツーン長さ=97.5m、幅=16.6mで800人を収容出来、スラスター8基、クレーンは、100t1基と50t2基である。その上に肝心の5層からなる居住設備とヘリポートを有する。更に20m~30mの高さになる訳だ。居住内部は、一般の日本船(リベリア船籍)に比べて格違いによい。室内家具や調度品は全て本国ノルウェーからの品だ。
ホテルだから、構造も、気を遣い、振動などで、安眠を妨げない様に綿密な計算と対策が行われた。
エンジンは持たないものの、発電用ジェネレーターが8基もあり、船内の動力源になっていた。この振動源が、如何なる悪戯をするかは、非常に難しい問題だった。
この船以降、海洋構造物が、ぱったりと止まってしまうなどとは、トップも私も知る由もなかった。アラブの石油事情(OPEC)が、私の失職への序章になろうとは、考えもしなかった。元々私は、考えていた。
海がある限り、大量の輸送手段は、航空機では賄いきれず、絶対的に船は必要だと思っていた。その読みは当たっているが、労働集約的な産業。性能がほぼ同じであれば、資本主義の世の中、安きに流れるのは世の常である。船は、前にも書いたが、載荷量と、速度が出れば、それで基本的には良い。船価の安い韓国へ流れるのも理の当然である。このところ、韓国も給与が上がり、段々と競争力を失ってくる。更に中国や、インドネシアでの建造が進むだろう。イギリス、ノルウェー、アメリカなど先進国は、その点で、過去の栄光を捨てなければならなくなった。学生の頃の私は、其処まで読み切れなかった。でも、今でもNaval Architechtの端くれとして、造船に携わってこられたことを、誇りに思っている。

そんな中、依然K.T.との間は、最高の状態を保った。殆ど毎日の様に逢い、抱擁し、キスをし・・・。バレンタインデーには、手作りのチョコレートも呉れた。その年の寒い頃のある休みの日K.T.は、アパートにやってきた。甲斐甲斐しく、奥さんのまねをした。私は、昼下がりにも拘わらず、それ以上表現しようがない位に愛情を込めて抱いた。K.T.の洋服は、するすると、脱ぎ落ち、私の前には下着姿のK.T.だけになった。私はその下着姿が、とてもキュートで、可愛く見え、そのままで、再び深い抱擁に入った。そうして、しばらくの時間が経った。私は、もうどうにも堪らなくなり、K.T.を促し、先ずブラジャーをはずし、小さくて格好に良いおっぱいを愛でながら、唇を押し当てた。いつもの様にふくよかな感触が伝わってきた。そして私の手は、下の方に延び、ブルーのちっちゃなパンティーに手を掛けて、優しくずり降ろした。K.T.は、既に酔い、為すがままに身を委ねた。

K.T.との最初のセックスに日頃の感覚とは違った、身も震えんばかりの興奮と感動を覚えた。雰囲気に圧倒されたかの様に、一言も言葉を発しなかった。私は、念入りに、又優しく愛撫を繰り返し、ただでさえも壊れそうなK.T.をより一層の注意を払って扱った。
二人が十分に高まったところで、既にK.T.は、ほんのりと上気していた。感極まって、「僕ばかりが興奮している様で、恥ずかしい。K.T.も何とか言って」。
K.T.は、小さな声で、「もう駄目、ぃ・れ・て!」。
そのまま、K.T.の中に侵入しようとした。K.T.は「ぅ!」と小さな吐息を漏らした。少し痛かったのかと思い、一層慎重に挿入した。入り口のつぼみは堅かったが、中は、以外に広かった。重なり合うほど、密着して、一体になりたいと思った。K.T.も同じ仕草で又、歓喜が襲ってくるのをじっとこらえる様に見えた。「K.T.さぁ、見て、僕たちは完全に一体になっているよ。こんなに深く」というと、顔を少し上げ、繋がっている部分を見つめて、納得したのか微笑んで、また自分の中に戻っていった。
「K.T.!」「K.T.!」と呼ぶとK.T.も応えるように腰を浮かせて動かし始めた。そのまま数分の時が経ち、K.T.と私は完全に他の世界に入っていった。
「気持ちいぃ!」
と聞こえないくらいの小さな声でK.T.はつぶやいた。
「愛しているよK.T.」と言うと、うつろな目で、
「K.T.も愛してる!」と返事をするのだった。優しいが、激しい愛撫が終わり、K.T.の中で果てて、二人とも気怠さの中でゆっくりと抱擁し合い、事後のキスを緩やかに楽しんだ。しばらくの間余韻を楽しんで、K.T.は我に帰り、ほてるような顔で恥ずかしそうに目を伏せるのだった。過去何度と無く経験してきたヘビーなペッティングだけでは得られない何ともいえない快感と満足感が私を包み込み、K.T.の表情からもそれ迄に無い充実感を感じた。

情事の後片づけをしていたK.T.は、処女の証である、破瓜を白いシーツの上に発見してあわてて、風呂場にシーツを持ち込みながら、手で赤い印をもみ洗いするのだった。それを見ながら、「ああ、これでK.T.は私のものになったのだ」と、満足感が体中に広がるのを感じるのだった。

F576は順調に設計された。彼もGulf Canada以来4隻目の本格セミサブだったので、余り困難を感じることはなかった。ただ、北海仕様、材料の選定だけは、大変だった。更に、溶接による靱性の問題。また、低温脆性に対する配慮から、溶接部をグラインダーで丸く仕上げ、其処に1円玉を当てそれがピッタリと沿うまで、入念に仕上げすることを要求され、別途、溶接施工要領を出図することになった。ポンツーンの設計は、余り、違わなかったが、コラムの設計からは、本腰を入れなければならない。少しでも疑念が湧くと、NVのローカルサーべーヤーと協議するが、規則と言っても細部まで規定している訳でなく、勢い本国に直接尋ねることになる。ポンツーンとコラム、コラムと上甲板、ブレーシングとコラム、および上甲板の格点部などの設計では、本国に頼らざるを得ない。
通常、レターは原稿を書き、船業(業務)が翻訳して顧客に出すのが常だが、それでは間に合わないので、私は直接英文のファックスを書き、K.T.にオスロまで打電して貰った。その為、帰りが少し遅くなることはあったが、K.T.は嫌な顔ひとつせず、頑張ってくれた。オスロには、Mr.Knudsenがいる。私からのファックスに対しては、プライオリティNO.1で応えてくれた。

オスロとは7時間の時差がある。夕方5時に打電した時は、向こうは10時である。Mr.Knudsenはその日に検討をし、翌日私が出社した時には返事が返っているのが常だった。

Mr.Knudsenのお陰で、殆どスムースに仕事を運ぶことが出来た。打電した、ファックスとその回答の数は、数え切れない枚数になっていた。
船が出来上がっていく過程、冷や汗を流すこと、歓喜に打ち震える瞬間、どれも之も興奮することばかりだ。船は(リグも)総合芸術である。一人で出来る訳ではない。しかし、船殻構造は私と私のスタッフがやったことだけは確かで、図面が出来上がるたびに嬉しさがこみ上げた。そうして、多量の改正図面も発行された。
K.T.も傍で暖かくサポートしてくれる。私は幸せだった。

F573の仕事の合間には殆どの時間をK.T.のために使ったし、K.T.のことだけを考えていた。素晴らしい快晴の日、K.T.を伴って、大阪にドライブがてら買い物に行った。
今までの京都と違って、何故大阪なのか、私の気持ちは京都でなく、大阪の街を見せたい気分になっていた。何故京都でないのか、自分の育った街だからか、不思議だが分からない。
カローラでドライブして大阪の街に着き、阪急百貨店回りや、南の心斎橋の方面を散策した。
大丸百貨店(当時)で、K.T.に似合う真っ赤な洋服を見つけて買った。試着するとお人形の様にとても可愛かった。以後時々会社に着て来たが、お尻がぷりっと見えてとてもセクシーだった。他人に取られそうで、初めてやきもち的な感情を抱いた。K.T.は遠慮したが、どうしても着せたかった。
『K』のペンダントと、真っ赤な洋服と同時に装ってくるK.T.は、私の心を常に揺すぶった。
帰り道、中国縦貫道に入る前に、「K.T.泊まって帰ろう」といってK.T.の家にことわりの電話をさせたら、戻ってきて「今大阪にいるけど、これから帰るから」と言ったという。激しい失望が私を襲い、そのまま怒って猛スピードで玉野まで飛ばした。パトカーか白バイがいたら完全に免許取消のスピードだった。K.T.は車の隅で小さくなり、震えていた。
玉野に着く頃は、薄暗くなっていて、怒りもおさまっていた。何故怒ったのかも忘れていた。そのまま、スウィートスポットに車を止め「今日は残念だったね」と言って肩に手を回すと「恐かった・・・」と抱きついてきた。「ごめんね」と、優しく唇を吸い、いつものように胸に触れた。K.T.は、今日泊まらなかったことで、私が気を悪くしていると思ったのか、自分から舌を巻き付かせて、積極的にキスを返してきた。そして手がスカートの下に入る時も、いつもより大胆に脚を広げて待っていた。何と言っても、好きなんだ。可愛さがこみ上げてきて、いつも通り車の中でパンティーをずらせ指でK.T.そのものを愛撫した。既に濡れていた・・。ブラウスを脱がせ、可愛いおっぱいの既に少し堅くとがった乳首を舌で転がしていくうちにK.T.は、安心感からか、しとど濡れいつもの様に「イケン・イケン」を繰り返し恍惚の中に落ち込んでいった。そして十分に潤った、可愛いながら、十分に茂った茂みの中に顔を埋めて、今日泊まって十分に愛する予定だった、K.T.そのものに舌の先を細くして突っ込み又周囲の陰唇を舐め回し最高潮に達していった。
例によってK.T.はそのヘビーなペッティングだけで行ってしまいぐったりとなった。おもむろに陰唇から放した唇で、K.T.の唇を優しく包み込んで目を覚まさせるようにゆっくりとキスをすると、うっすらと目を開けて柔らかく微笑んだ。
「K.T.良かった?こんどは僕を行かせて」と言うと、K.T.は躊躇無く私の股間に顔を埋めて取り出したペニスを精いっぱい大きく開けた口で頬張り、既に二人の間で十分理解し合った心地よいリズムのピストン運動でペニスをさすり始めた。暫くして気が高まり「K.T.!行く・・」と言うとK.T.は細かく軽い動きで快感を更に高めるようにリズミカルに優しくピストン運動を続けた・・・。「う・ぅ」とザーメンがほとばしり出て快感が一気に噴出したとき、K.T.は今度はそのザーメンを一滴も残すまいと出る前から吸い出すように頬をすぼめて吸い取った。
終わった後、自分の股間が露になっていることも忘れ、少しぐったりしたペニスを優しくいたわりながら「良かった?K.T.ちゃんも行っちゃった」とぺろりと舌を出した。
とろける気持ちで、K.T.を家まで送り、大阪へのドライブは終わった。二日に明けず、最高でも4日間ペースで、こんな関係は続いた。時々会社の連中とゴルフに出かけるぐらいで、全てがK.T.中心に廻っていた。F573のNVによるオーディットが始まった。しっかりと書類は整備され、完全にコントロールされ、下流工程に渡っているかなど、数項目にわたる、オーディットに、詳細設計、線図、工作図、原図を主唱する私の責任は大きかった。書類に不備がないよう、各部署に指示、リハーサルを行って、難局を乗り切った。(現ISOのようなものだ)

NVに依るオーディットも無事クリアーし、F573も建造段階に入った頃、S1336(PCC)自動車運搬船が入ってきた。残念ながら、リグの引き合いが暫く無く、私は一般商船に復帰、手慣れた自動車運搬船を手がけることになった。同型船の如く、設計のポイントは絞られていた。
ただ時間との戦いだけで、目新しいことはほとんど無かった。特に日本船主の場合は、殊更、問題点はなく、又船級もNK(日本海事協会)と、組み合わせとしては、問題は殆ど起こらない。無事に進水式を終え、艤装岸壁に繋がれたS1336は3ヶ月の入念な化粧に入った。この時点では、我々構造設計室の仕事は、済んだことになっており、次の船の設計を進めることになった。
次は、S1334、一般貨物船だ。之も、順調な設計であり、ただ、狭隘な箇所での補強材の寸法を、如何にするかで、多少の検討が要った。
えるべ丸やおーすとらりあ丸の様な3軸、2軸船ではないので、簡単ではあるが、やはり舵と、スタンフレーム(船尾骨材)は、誰でも任せられるものではない。
私も何隻かの舵を手掛けたし、船尾骨材も設計した。世の中良くしたもので、それを得意とする、職人肌の人材がいる。その人は、器用な手つきで、これらの仕事を、他人の70%ぐらいの早さでこなす。私は、それを受け取り、形式的なチェックを行う。非の打ちようがないが、要所は確認しておかねばならない。
舵の内部は、狭隘であること、迷路の様になっていることで、滅多に現場でも入っていかないが、マンホールの大きさの限界は、Φ350で人間が入るのに問題はないかとの話しで、実際に潜ってみることになった。スタンフレームの入り口は、エンジンルームの最後端シャフトが通るその下に400×600のマンホールが開いている。そこから、懐中電灯と、腰にひもを付け、名札を壁に掛け進入する。懐中電灯は当たり前だが、腰のひもは、帰りに間違わないようにとの準備だ。更に名札を壁に掛けるのは、タンク内に入っているのを気づかず、マンホールを閉じてしまわれないためだ。暗くて窮屈で、とても嫌な、仕事だ。しかし、職人は、全てこの様な狭いところでも仕事をしている。入ってみて初めて分かるのだが、とても息苦しく、閉所恐怖症であれば絶対に我慢が出来ないであろう。
正に「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」とは良くいったものだ。思えば若い頃、私は舵の設計で一度失敗したことがあった。舵はストックと呼ばれる長刀状の鍛造品により操舵機からのトルクで、回転する。ハードオーバーtoハードオーバーで70度の回転が出来ることになっている。ストックが、廻っても船体に当たらない様に、船体の開口を決める。
ストックには勿論機械との取り合いだから、切削のための削り代が設けられている。この削り代が結構大きくて、最終段階でないと削らない。私は図面の出来上がり通りの寸法で、船体の開口を決めた。即ち削り代を計算に入れなかった。
たまたまその船の出来が悪く、削り代が、均一ではなく、偏ってしまった。このため、艤装岸壁でのステアリングテストで、片側に35度振れる前にストックが船体に当たってしまったのだ。小舟を出して、その箇所を検査したが、船体を切り開口を広くする以外になかった。現場に迷惑を掛けた一例だ。
当時現場の人間からよく言われた。「設計は、改正、改正と簡単に言う、そちらは消しゴムと鉛筆で済むだろうが、現場はそうはいかない。もう少しちゃんとして貰わなくては困る。」今でも頭にこびり付いて離れない。設計としても、もとより、改正をすることが本意ではない、船主の要求、船級協会の要求、ミス色々な原因がある。ミスで、迷惑を掛けることは、はなはだ心苦しい。チェックする側の落ち度と、設計者のポテンシャルの問題だ。それは全て、私の責任になる。しかし、現場も狡いところがあって、水密隔壁に誤って孔をあけた時には、密かに孔を埋め、裏表にグラインダーを掛けて、澄ましていることもある事は前にも述べた通りだ。





続きます。

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