「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
造船時代その7
造船所時代の日記(7)です
私とは交わりの薄かった湯本課長の送別会が会社の本クラブであった。東京へ行く。私が断り続けた東京へ。東京からは金綱課長が、最近のTLP(Tension leg platform)の動向について話すべく来玉した。太いケーブルテンドンを用いて、海底に固定し作業をする石油掘削リグとは違った、作業用甲板である。私はそれに関わることはなかった。土曜日、年度考課のため、大石室長の部屋で、商船担当の課長と、摺り合わせを行った。
翌日の日曜日、腐った珈琲を飲んで、嘔吐、熱を出して、寝込んでしまった。一瞬、一人は辛いと思った。
週半ばから週末一杯東京へ出張した。S1344の船主要求板厚について、本社と、AB横浜(関内)の意見を聞き、調整するためだ。住友金属との会議を夜の9:30位まで本社で行った。今手掛けている、アルミ船の材料について、分からないことが多すぎるからもあったからだ。
帰り、再び、ABに立ち寄り、最終確認を行って、S1344の所要板厚の決定にこぎ着けた。
土曜日、この所、出勤することが多くなったが、現監査役が部長として来られていて、しばし話した。現在は艦船の営業をしておられるとか、畑違いではあったが、偉くなるには通るべき道なのかも知れない。
私には、関係ないことの様に思えた。
船主の監督として様々な人が、玉野にやってきた。長刀状のラダーストックについての話しが主だった。私が技術的な説明をした。
また、アルミ船である漁業取締船の着水(進水に相当するもの)、予行、公試と、たて続けにあった。
翌土曜日も相変わらず出勤。日曜日には、池田氏の見舞いにお邪魔した。大分良くなられた様だが、矢張り右手が自由にならない。他の話しもあり4時間程居て、辞去した。
K.T.はバレンタインデーに、義理チョコを呉れたが、逢うことについては、頑なに拒否した。之で終わりかと思った。
S1336/7の船主Mr.Ole Christiansenが来玉し、”Steel structure bracket beam and others”について、Discussionを午後一杯掛けて行った。
土曜日には、息子と、娘がやってきた。私は風邪を引いていたので、何もしてやることは出来なかった。
会社では、少し、仕事減少と出向に関して動揺が始まっていて、活性化イベントが計画される一方、若い人が辞めていった。その内の一人が、K.T.に失恋したM君で、折角Gマークがはずれたのに勿体ないことだと思ったが、辞めていく方が、正常な心の持ち主であったかも知れない。考えてみれば、そこで、ずっと勤めても、俗に出世とは縁がない。他の道があるなら、それも良かろうと、帰って羨ましくもあった。もう一人は、千葉への転勤を命じられて、退職を決めた。退職組と、千葉転勤組と合同での歓送会が玉クラブで行われた。複雑な気持ちの歓送会であった。
S1336(自動車運搬船)の第1回海上公式試運転が3日間に渡り行われた。それに先立ち、その船には、固定バラスト(セメント)の注入が行われていた。トップヘビーになり、喫水が取れないために動揺、復元性に問題があって、予め船を沈ませておかなければならないからだ。この種の船には、良くある問題であった。
またしてもNV船級のMr.Jensenと船主のコメントについて、話し合った。Mr.Jensenは、色々な船が日本で建造されているので、本国からわざわざ、来日し各造船所を回っているという。私は「Dr.Carl CarlsenとMr.Kunudsenは元気か」と聞くと、「元気でやっている。Mr.Kunudsenはリグがめっきり減ったので、力を落としているよ」と応えた。
明けた月曜日、K.T.は逢ってくれた。そして、昔の様に抱擁をして、互いに上気した。少し落ち着いてからK.T.は「之からは、余り・・・」と最後は声にならなかった。私も何を言わんとするかは分かっていたし、それ以上傷つきたくもなかったので、会話は途切れたまま、何時も送る、K.T.の家の近くまで送って別れた。
S1337(S1336の姉妹船)が進水すると同時にS1336の命名式(Eternal Ace)が行われた。そして、金曜日から日曜日の3日間掛けて、S1336の第2回海上公試が行われた。蒼年会では、互いの部署での専門的な内容を紹介し合った。彼は、リグの構造計算を有限要素法(FEM)で行った事例を取り上げ、みんなの前で、プレゼンテーションを行った。
帰り、K.T.と逢ったが、前回の言葉が引っかかり、ただ話すだけで、その時はいつもになく、K.T.の身体に触れることが出来なかった。K.T.に逢っている間、そんな日は初めてだった。K.T.を狂おしく思い、毎日の様に「死」という言葉を書き、口にした。私には、この呪縛から逃れるためには、「死」しか考えられなかった。「死・死・死・・・・」甘美にも聞こえるこの言葉を私は、それから毎日の様に引きずって生きていかなければならなかった。
昨年から、引き続き考え悩んだ「死」も結局勇気が無くて果たせない。誰も助けては呉れない。そんな中、辛うじて、息をしていた。
F576の海上公試が始まった。最初は振動を対象に行われた。ホテルバージの一番の要だ。私も心配で、当然乗船した。3150kw8基のジェネレーターはフル稼働された。更に、方向調整用のスラスター2400kw、8基も同時に運転された。過酷な状態での起震力に耐えて、振動が、船室に伝わらない様になっていなければならない。
POLY CONFIDENCEは大人しかった。許容値内の振動応答しか計測されず私はひとまず安堵した。そして、之が最後の海洋構造物かと、一人寂しく、目が潤んできた。
その週の土日は、何処に出かける力もなく、終日家でごろごろしていた。一人で居ると、ろくな事を考えない。K.T.との別れ、仕事の行き詰まり、更に黒い犬の来訪、死、思考が悪循環に陥る。
次の週、K.T.は、逢ってくれた。フィーリングも今までと同じ優しいタッチで、私の求めに応じて、半ば積極的にキスをしかけてきて、それからは、自然なままに、K.T.はとろけていった。私は、どのK.T.が本物か分からなくなるほどだった。K.T.は妖艶になってくる。疲れた男には、キュートで妖艶な、K.T.は最早届かぬ人になってしまったとしか思えない。
今現在のK.T.はボランティアだ。そう思うことにした。
S1336も完成図書が出来上がり、やがて引き渡されていった。私は、もう会うこともないであろう、自動車運搬船としては、優雅な船型を見送った。
F576の振動結果の公式報告を終え、本格的アルミ船の建造が盛りとなった。最早、之までかとの思いだった。
土曜日は、課員全体の考課表を、商船担当課長と摺り合わせた。日曜日、故障で、ドックインしていたVZ750を駆って、鞆の浦にツーリングに出かけた。途中のハイウェイで、バイク進入禁止の道に気づかず、走っている所を、巡邏中の警官にとがめられた。全く気が付かず迂闊だったことを認めたら、警官も、気を付けて帰りなさいと、見逃してくれた。パトカーが走り去るのを見て反転しようとして、ハンドルを切ったら、久しく乗っていなかったことも手伝って、立ち転びをしてしまった。如何に軽いとはいえ、人間一人の力では、一旦転げ始めた車体を支えきることが出来ず転倒、ブレーキに多少の損傷を与えてしまった。そのまま何とか、玉野のバイク屋に持ち込み、また修理して貰った。その時バイク屋に、これは車検が切れていますよと云われ、初めて、その事に気が付いた。踏んだり蹴ったりである。
K.T.のこと、仕事のこと、その他諸々のことを考える余り、VZ750の車検までは気が付かなかった。ほぼ1ヶ月経っていた。
K.T.はこの頃から、その頸に『K』を付けなくなっていた。やむを得ないが、とても寂しいことだった。
最後の海上公試が紀伊水道で行われる。私と、私と共に苦労を重ねてきたS.K氏が乗船すべく、由良に向け出発した。由良には修繕用ドックがあり、そこからサンパンが出るという。1日目は波が荒く、サンパンが揺れて危険なので乗船は見合わされた。ようやく出張2日目の夕刻乗船し、早速船主に振動の件を含めて説明した。説明後、部屋に戻ってから急に歯痛に悩まされ、下船するまで傷みは止まらなかった。重要な局面は過ぎたので、3日間、乗船の後サンパンで下船の便がある迄待って、日曜日に下船した。
サンパンから振り返ると、かくも巨大なフローテルを作ったものだと、設計時に苦労した箇所に自然に目が行き、又、全体の偉容に我ながら驚きと感嘆の声が出そうになるのを押さえた。
帰って、会社の関係する病院の歯医者に2日間通った。本社からは、TF2007(Zapata)とTF2008(Mearsk)の船が舞い込んできた。
この時、2台目のパソコン98LTを購入した。結局殆ど使い物にはならない代物だった。1台目は、シャープのMZ7000で、テープで、Basicを動かすものだった。それに比べると、少しはましだったが、ワープロソフトも「テラ3世」というもので、今日のワードや一太郎は未だ出ていなかった。
歯痛2日目は年休を取り休養した。心労が重なってのものだった。バイク屋にブレーキの損傷修理代5万円を払いVZ750は生き返った。
何を持って生きているのか、私にはもう分からない。仕事も、管理職になって、実践の技術からは遠ざかった感がある。部下の人達の出向、転籍の説得、手配など彼にとっては面白くないことが続いた。
F576のその後4日間の運転には、私は乗らなかった。やがて、去っていく一人の年配者と、若い技師が乗船した。土曜日に造船所の艤装岸壁沖からF576から降りてサンパンで帰る二人を迎えに出た私は、改めて、フローテルの偉容をぼんやりと眺めた。乗船の二人から、何事も無く海上公式試運転は終わった事を知らされホッと安堵の息をついた。
バスケットボールの春期岡山県優勝大会リーグ戦が始まった。滑り出しは順調だった。チームは私とその仲間が岡山県では、ある一定の実力を持つチームに仕上げていた。私は、見るより自分でやる方が好きだった。20点は稼いでいた全盛期に比べ、欠員を補うために出る試合は、思う様にいかず、昔の様に身体が動かないことを感じ始めていた。
K.T.は弁当を運んでくれたかと思うと、私の誘いを完全に断ったり、帰り際に待っていると素直に応じて、いつもの様に愛し合ったりと云った、ちぐはぐな関係が続いた。その週のNHKでF576の雄姿がテレビに映し出された。「これに関係したのだよ、この部分に苦労したのだよ」という相手が居ないまま、テレビ放映は数分で終わった。
最後にNVに振動の説明を行った。徐々に終焉を迎える。
内外共に不景気の波が襲い、造船所も沈滞するムードの中、活性化イベントが計画され、彼ら蒼年会は率先して、模範となるべく会合を重ねた。イベントは一応の成功を収めた。反省会でも評価は良かったが、如何せん気持ちと市場(パイ)の関係は、比例しない。相変わらず腹の減った(受注出来ない)状態であり、期限付とはいえ、千葉に転勤する、玉野雇いの人間を宇野駅まで送ることも必要だった。
私は技術者としての仕事が殆ど枯渇した中、活性化を叫ぶ、周りになにやら白々しいものを感じた。
K.T.は土日を挟んで、沖縄に行くといって、出かけた。
そして、K.T.が帰ってきたその日、K.T.は私に今まででも最高級の接し方で、私を受け入れ、お互いに愛しあった。何がK.T.を動かしているのか分からない。彼は目の前のK.T.の身体に溺れた。激しい抱擁とキスの嵐に「イケン・イケン・・・」といつものようにK.T.も応じた。そして、私のため買ってきたと、泡盛を差し出した。それからもクールであったり、一転して優しかったりの変化は大きかった。K.T.の可愛いく、つんとしたバストは未だ私の侵入を許した。
仕事では、S1356(自動車運搬船)の工程会議、資材打ち合わせと、リグ以外では、未だ少しながら仕事はあった。私は先任の課長を差し置いて、商船の方に戻っても部下をリードした。
その間にもNVのMr.Yensenが来玉、損傷、居住区の振動、傾斜梯子等多方面に渡って、ミーティングを行った。大石室長は、社外の活動に専念し、社内での仕事は、全く私に任せ、その報告を聞くに止まった。
そんな中、珍しく、永井が電話してきて、いつもの様に「元気でっか」と陣中見舞いを呉れた。
丁度その日、牧師夫妻から紹介があって、一晩、いや途中で帰った、彼女から電話があり、「先日は失礼しました。なんだか軽率な行動をしてしまった様で。私は、これからも、東京で、小さなお店をやっていきます」とのことだった。私は、とても不思議な感覚に取り付かれ、何となくうら悲しい、人生の一幕を感じていた。私が、あの晩彼女を抱いていたとしても、双方が幸せになっていたかどうかは非常に疑わしかった。あれで良かったのだと心に言い聞かせた。
漁業取締船などのアルミ船は、順調に建造されたが、みんなを食わせるには、パイは小さすぎた。工作図の、白木、小埜上、三谷といった連中には、2年間の日野自動車への出向を指示することになった。白木はそれを嫌い会社から去った。そんな中F576は名実共に、艤装岸壁を離れ、操業の途についた。多くのタグボートに引かれて、巨大な船体が、小さくなっていく様は、募る感情が一気に込み上げ、由良沖で、サンパンから振り返った時の感情とラップして、嗚呼終わったと私は感じた。
その日は土曜日で出社の必要はなかったが、見送った。
そんな中、原図のベテラン片山氏が亡くなり、急いで、通夜に出かけ、翌日は喪服に着替え、葬儀に参列した。失う寂しさが2倍になった。
それから暫くして、早めに帰った、K.T.を追って、再び私は二人だけの時間を持つことが出来た。二人になると、時折不快感を見せることがあるが、殆どは、私の云うなりに身を任せ、むしろ楽しんでいるかの様な風情で、感極まった声をあげる。私の手が何処に触れようともK.T.は一切構わない、身体を開く、それでいて普通の日はクールである。女心の複雑さを私は解し得なかった。
関係者によるF576の打ち上げ会があった。プロジェクトマネージャーと同様私も慰労された。しかし本当に頑張ったのは、私のスタッフ達だった。私は、ねぎらいの言葉をスタッフに掛けた。それぞれの部分で、スタッフは素晴らしい仕事をした、私は指揮者であった。楽器を奏でたのはスタッフである。
K.T.は6月4日24歳になった。もう既に4年強の関係が続いている。K.T.は可愛さ、初々しさの娘から美しい女性になっていた。
私は、千葉から来た安延君と共に、四国の工業技術院へ行った。イエロー‐ケーキと呼ばれるウラン鉱石の粗精錬で、大部分の不純物を除いた酸化ウラン70~80%含有の黄色い粉末の関係の仕事を持ち込めないかとの意図だった。精製酸化ウランの原料のウラン酸ナトリウムまたはウラン酸アンモニウムは貴重な資源として、当時から研究されていた。造船屋が、全くの関係がないかの様だが、掘削、採集のためのリグ絡みである、何とかしたい気持ちで一杯だった。
S1356建造方針会議と本社からの引き継ぎ、ホーバークラフトの接合工事(ジャンボイング)、漁業取締船の確認運転等々、雑多な仕事が振ってきた。
私は、ヤードのプラクティス、最近の船舶の損傷状況等を話し合うため、本社に出張した。辻堂の兄の家に泊めて貰った。翌土曜日東京で店を開いていると言っていた、彼女と会った。以外に元気そうで、安心した。女性は、一人ででも生きられるが、私はとてもだめだと感じた。息切れがしそうだった。
東京駅の大丸で、K.T.にハンカチを買って、帰った。
漁業取締船の予行運転と、公試運転に乗船した。小さい船なので、日比沖での運転だったが、矢張り大きく揺れた。私が手掛けてきた船の中では、最も小さい船だった。息苦しかった。
下船した日にK.T.と逢った。涙が出るほど、楽しい一時であった。日頃になく、K.T.は積極的で、どんどんと先にせがむ様に私に迫った。二人は思いっきり愛し合った。二人にしか分からない、二人だけの時間は、容赦なく過ぎていった。上気したK.T.は、うつろな目で「好きよ!」と言った。
私は耳を疑った。一日おいてその次の日も、我々は同じように燃えた。そして次の日IBMの彼から電話があったことを告げられた。その内容がどうだったのかは、およそ想像がついた。敢えて聞こうとは思わなかったし、K.T.も口に出さなかった。
事故のあった、吉田号は、入念な、やり直しの結果、引き渡された。私を、部長にさせなかった、原因のクレーン船は、何事も無かったかの如く、艤装岸壁を離れていった。それを待っていたかの如く、大石室長は本社に転勤となった。室内の課長達と、池田屋で寂しく歓送会を行った。
大いなる後ろ盾を失って、窮地に立った。その中にもS1336と同型(姉妹)船のS1337も海上公試を終え難なく引き渡された。2番船はとかく問題がない。S1353の進水、各人に対する昇格の通知。S1334の進水。目先が変わる。しかし進水時期には、我々設計の仕事は殆ど終わっており、特段に問題となることはない。
玉野研究所の研究発表会があった。よもや其処に私が関係するとはその時露ほども考えていなかった。
私には分からない難しい研究をしていることだけは分かった。しかし商売のシーズになりそうなものは、余り見あたらなかった。結局研究のための研究の様な気がした。その中でも地中埋設物のディテクターは、その後若干の売り上げに貢献した様だ。その中には、他社と同じ発想の燃料電池や氷蓄熱といったものも含まれていた。
神戸商船大学練習船の引き継ぎが行われた。又日本海事協会の支部長が、来部され、NKの現状などについて話があった。
K.T.は、相変わらず魅力を振りまいている。私にだけそう見えるのか、恋する女が誰でも見せるフェロモンのせいなのか、とにかく輝いていた。私は、又そんなK.T.を欲しいと思った。K.T.は、お稽古、輪くぐり(地方行事で藁で作った輪をくぐると、無病でいられるという祭り)を振り切って、私と行動を共にしてくれた。「うまく行ってるの?」・・「うん」呟いた。会話は、それ以上は続かなかった。私は「今日は僕のものだ」とK.T.を抱きすくめ、キスをした。K.T.もいつもながら、私の云うなりに長年の愛情交換を、当然のこととして受け止め、深い快楽の淵に落ちていった。何時もそうだが、上気して、我を失ったK.T.は、とても愛おしく、昔の可愛らしさをそのまま維持していた。「今日は、とても楽しかったよ、稽古を止めさせてご免ね」「いいの、逢いたかったから」
その週は、K.T.は、終始柔らかな表情をしていた。
沖君は、インドネシアへの技術協力でPALへと出かけていった。江見君の2代目である。
又2名の出向者を内示した。云われる方も、段々四囲の事情を知り、観念している様だ。土曜日、他の先任課長と3人で、これらの問題についての打ち合わせと意思の疎通を図った。
その晩は、腐った豆腐を食べてしまい、土日とも苦しんだ。外は雨で、塞ぐ気持ちをなお一層しおれさせた。
夏季実習生が来た。徳島県の漁業取締船の契約が出来た。関西構造地区部会が大阪堂島(阪大工業会館)であった。色々ある中、池田氏の復帰が決まった。良くリハビリに耐えたものだ。これからも頑張ってやるといいながら、不自由な右手を使い、図面を書いていた。
S1337は引き渡され、いよいよ少なくなった仕事に、大御所田中氏と、大原氏が、去っていった。
転勤を言い渡されていた、中峰君が、これも家の都合で、会社を辞めた。このあたりは、兼業農家が多く、人手が無くなるのは、死活問題となる。そんなことで、悩んだ末の決断だったようだ。
K.T.は、今まで外していた『K』のネックレスを再び身につけてきた。如何なる心境の変化であったのか定かではない。ただ聞けば、H.W.君と連絡が取れなかったという。「IBMは忙しいんだよ」といってK.T.を慰めた。
久し振りに仲間とゴルフの練習に行ったが、心は晴れなかった。
大阪商船三井船舶の計画中である客船を受注すべく客船見直し会議が開かれた。設計時数、現場工数、工程などについて突っ込んだ検討が行われ、見積もりを本社でまとめ直すことになった。
K.T.を待ち伏せしたが今度は、稽古を優先させた。
夏休みに入り、先任課長らと4人で岡山の奥、グレート岡山CCへゴルフに出かけた。成績は何時も通り余り芳しくはなかった。
翌日から、K.T.は静岡のH.W.君の下へと出かけた。同じ日私は、豊島へ仲間3人とテントを持ち、海水浴兼潮干狩りに出かけた。アサリを持ち帰っても誰も料理をする者がいない、私は、収穫したアサリ全てを、仲間にあげた。ぐったりした土曜日になった。
これまで、千葉転勤者は14名に達していた。日曜日、意味もなく出社した。自分は一体何をやっているのだろう、人に嫌われることばかりをやっている。いや、やらされている。そんな思いで一杯だった。
AI(人工知能)の研究が発足したとの話で、聴講した。エキスパートシステムは、一見素晴らしそうに見えたが、未だ時期尚早の感があった。LISPやProlog等のソフトが出ていたが、簡単な認識しか出来ず、実用までは未だしの感があった。
静岡から帰ったK.T.は、当初頑なだったが、週末には私にH.W.君のことを打ち明ける様になった。一方私にに対する気遣いも忘れなかった。迷っている訳でなく、道は決まっているが、一時でも私に対して「愛している」といった言葉を重く感じている様だった。
K.T.と別れた夜遅く、早川の妹(K.H.)から電話があった。何故電話番号を知っているのだろうか。K.H.は既に結婚して子供が2人いると聞いていた。「○○さん、こんな夜中にご免なさい。主人が浮気して、どうしていいのか・・・。」涙声であった。私は自分自身の所業を思い出し、二の句が継げなかった。その場はK.H.の愚痴を聞くに止まった。
翌8日から夏休み、VZ750での一人ツーリングを計画した、といっても急に思いついた。今田氏はYamahaのバイク500ccを買ったばかりだったので、声を掛けなかった。というより何故か一人になりたかった。午前中は出勤し、午後のスタートとなった。大阪の姉の家は、中継点にもってこいだ。又甘えた。K.H.に会った。昨日の愚痴の繰り返しだった。それが次なる伏線になろうとは、私は考えつかなかった。
早川はコマツに転職し小松にいた。翌日、名神から米原JCTを北上し、加賀ICで左に降りれば東尋坊だ。自殺の名所、飛び込んだら死体が上がらない所と聞いていた。いっそVZ750と心中しようかと頭をよぎった。しかしそのまま北上、あたりは、北国の風情が漂っていた。大阪から僅か200km足らずで、こんなにも空気が変わることに驚きながら、VZ750に跨って、ハーフヘルメットのゴーグルの隙間から冷たい空気を胸一杯に吸った。
ここは越前の国、内裏の京都を越えて遙かな国なのだ。
越前、越中、越後と、越の国は、新潟の北部まで続く。
小松空港近くの片山津ICで高速を降り、指示されていた通りの道を辿り、早川宅に着いた。大阪から220kmの旅程だ。案外近く、お昼には着いてしまった。
小松市は、周りに、片山津温泉、山代温泉、粟津温泉など多数の湯が噴出している観光の街と基地の街だ。早川と奥さんの関係は、高校時代のバスケットボールの先輩、後輩に当たり、それが縁で二人は結婚していた。綺麗な且つ心の優しい人だ。勿論私もよく知っていて、時には先輩面してしごいたこともあったのを思い出した。取り敢えず、早川と、早川の奥さんに挨拶を済ませると、その足で、金沢に向かった。一人兼六園をさまよい、日本三大名園の最後の一つに来たなと思った。既に、岡山後楽園へは地元で何回となく行っていたし、水戸の偕楽園にも行ったことがあった。
夏の兼六園は、冬のそれと違って、風情が、今一歩という所だった。金沢城趾をキャンパスとする、金沢大学も散策して、頃合いを見計らって、小松に帰り早川宅に泊めて貰った。奥さんと3人での話しは、矢張りバスケットボールのことだった。「○○さんは随分もてて、私たちのつけいる隙がなかったわ」と暗にY.Yのことを話題にし、私は、Y.Y以外には目もくれていなかったことを既に知っていた。その晩は遅くまで、飲み且つ話した。
翌朝早く、早川の家を出発した私は、小松ICから入って、砺波ICで降り、チューリップの綺麗な公園にしばし時を忘れた。高岡市から氷見市を通りR160を北上、富山湾に囲まれてもなお波の荒い日本海を右手に見て、七尾市から田鶴浜町に着いた。
早川の奥さんの知り合いである、田鶴浜の旅館に投宿し、歓待を受けた。「岡山から!随分遠い所をおいでなさった」と女主人は、少し驚いた様だった。「なに、高速道路があるから大したことはないですよ」と私は言った。事実、500kmの行程は、私にはさほど苦痛ではなくなっていた。
田鶴浜を基地にした。3日目は、穴水まで出かけた。穴水までは、R249をほんの一走り、七尾西湾、北湾を右に見て走る。海沿いの道はとても気分がいい。穴水町迄は30km足らずだ。穴水には景勝の地、由比が丘があり、此処に来迎寺がある。814年に嵯峨天皇の勅願で創建された真言宗の寺で、花弁が500枚で毎年30枚ずつ増えるという不思議な菊桜(県天然記念物)で有名な所だ。平安時代の宝物や室町時代の庭園も見て回った。
由比が丘を散策し、田鶴浜にとって返した。田鶴浜から南に少し下りると、七尾市に行く途中左手に能登島が見える。入り口には、歓迎和倉温泉と書かれた看板が目立つ。有料の能登島大橋は上下に起伏のある一寸変わった橋だった。今は北部に斜張橋も出来ているという。能登島大橋を渡り、能登島をぐるっと一回りした。途中の「のとじま水族館」は、取り立てて大きなものでなく、よそでも見られるイルカショーなどをやっていた。
夕日も西に傾きかけた頃、田鶴浜に帰投した。その日は、少量の酒に呑まれ、ぐっすりと寝た。4日目の朝、食事を済ませて、8:10田鶴浜を再び出発、昨日と同じ能登半島の南側を走り関の浜から、宇出津を通り、恋路海岸を経て珠洲市迄足を運んだ。ここらでは、輪島市に次ぐ大きな街だ。珠洲ビーチホテルにて休憩、露天風呂に入った。その日は、田鶴浜に帰り、泊まった。
5日目は、一気に北上、輪島に着いた。有名な朝市は既に終わっていた。輪島川を渡り東へ走った。途中曽々木海岸で、一人、海水浴を楽しんだ。如何せん日本海の海は、夏と雖も荒い。しかし汗を流して気持ちよかったが、後身体がべと付くのには往生した。そのまま走り、道は狭くなったが、禄剛崎迄足を延ばした。ひぐらしが鳴く奥能登のゆきどまりとして知られる狼煙町のずんぐりとしたしかし小綺麗な禄剛崎の灯台から、海岸に打ち寄せられる波を見ながら、この感慨を分かち合える人が居たらもっと楽しいだろうにと一人感慨に耽った。
それからは、昨日の珠洲市を通り、一直線に能登半島の外周を全て回って能登有料道路を通り羽咋市の千里浜に遊んだ。内灘町からごみごみした道を走って、北陸自動車道路にたどり着き、小松ICから再び早川の家にお世話になった。強行軍だった。
6日目の朝は、7時前に起き、朝食をご馳走になり、7:40に別れを告げ、早川宅を後にした。北陸自動車道路を、加賀ICで下りて、ローカル道路を、東尋坊に向かった。いっそうVZ750毎飛び込みたい心境ではあったが、矢張り怖かった。そのまま越前海岸国定公園を右に見て、VZ750は越前岬を過ぎ、有料道路から、敦賀ICに入り、京都で下り、国際会議場へ足を運び休憩した。
M.Sは今頃どうしているだろうかと、その時の様子が、脳裏をかすめた。背の高いスラッとした可愛い娘だったけれど、私が発した一言で痛く心を傷つけたのではなかったか。でも今は、きっと良いお母さんになっているだろう。今は、良い時の想い出しか浮かんで来ない。Y.Yとは、何度も来たことのある場所だ、此処は京都だ、その思いで、比叡山の山並みを遠く目で追った。豊中の姉の家に着いたのは夕方6時頃だった。未だ日はあった。
7日目の朝も7:30には姉の家を出て、永井の住む能勢町に向かった。奥さんも歓迎してくれ、私が一人(独身)で居るのを気遣った。私に何くれと無く気を遣って、女性を紹介してくれた、中島牧師も近所から駆けつけてくれた。
昼飯をご馳走になり、そのまま彼の住処を辞去した。疲れがたまっていたのか、古市近くで、言いしれぬ眠気に襲われ、VZ750を路端に止め、しばし仮眠を取った。玉原の自宅に帰ったのは、夕方6時45分。7日間のツーリングも終わった。
合計走行距離1833kmであった。ガソリン85リットル、21.7km/リットル。日数の割に距離は短かったが、能登を征服した気分であった。息子が来て、夕食を共にした。
翌朝は洗濯をし、息子とはボーリングをしたり、渋川から鷲羽山に行き遊んだ。
休み明け、鳥取の漁業取締船の見学に行った。相変わらず人事の話。
K.T.は、何となく元気が無く、この休みに何かあったのか気になった。いつもの場所で、肩を引き寄せ、バストを吸った。その日は、女性の特別な日とかで、上半身の愛撫に止まったが、K.T.はそれだけでも気を失うほどだった。「何時も悪い人なんだから」と別にとがめる風もなく言う。
週末、初めて、東大本郷での船体構造委員会関東地区部会に出席した。関東は、本社の管轄、滅多に行く機会がない。
K.H.から電話で、自分たち夫婦のことを兄に話したという。どうにも抜き差しならぬ様になってしまっているらしい。
タンカーを改造し船首部で一転係留し、油を貯蔵するTurret MooringのSOFECが入ってきた。これも海洋構造物の一つだ。アルミの漁業取締船ばかりやっていた私には、一服の清涼剤であった。
週末は、2パーティーで、グレート岡山にゴルフに出かけた。その中には、後に、私を部長にさせなかった、人物2人が含まれていた。100を切ることは到底出来なかった。
土曜日にK.H.から2回電話があり、是非会いたいという。日曜日姫路で落ち合った。K.H.は車で来ていた。私は、VZ750を駐車場に止め、K.H.の車の助手席に座った。
K.H.は悲愴な顔をして、私の同意を得るか得ないかの内に近くのモーテルに入っていった。K.H.は満たされない毎日を私にぶつけ、私を自分の中に誘った。「○○さん、私ずっと前から、結婚する前から貴方が好きだった。でもY.Yさんがいたので・・・」
私もそれはうすうす感じていたが、友達の妹という考えがあり、子供だという気持ちが強く、とても愛情の対象としては考えていなかった。そのK.H.が自ら求めて私の前に身を委ねているとは。熟した女の色香を感じた。久し振りのセックスに、熟れた女の身体はもだえた。
K.T.とは違った感情が湧いた。以後2日に明けず電話が鳴った。一方K.T.とは、小康状態を保っていた。
SOFECの船主Mr.Turner、Mr.JhonsonとMr.Abuhamadが来日し執務に就いた。Progressive会議などが行われた。最早唯一の技術の交渉だ。私はそれを喜んだ。
SOFECの連中と、鳴滝で、会食した。玉野市の奥まった静かな所にある、料亭といっても良い所だった。
週末、娘が来て泊まった。日曜日は、娘をバイクに乗せて、紀伊国屋まで、飛ばした。倉敷に回り、スカートと、コートを買った。娘は無邪気に喜んだ。
相変わらずK.H.からは逢いたいとの電話が掛かるが、K.T.とは段々に疎遠になっていく。しかし細々と、連絡は続き時に好転することがある。K.T.が深残業をした日に逢った。久し振りに渋川海岸をドライブした。夜風が少し冷たくなっていた。K.T.は、相変わらず、逢うと、優しさで接してくれる。
次の日私は久し振りに会社を休みK.H.と須磨で落ち合い、モーテルで燃えた。K.H.は、これまでの思いの丈を私にぶつけてくる、私は応えた。一回目のパッションが過ぎ、しばしの気だるさを楽しんだ後、ベッドの上で、再び私たちは燃え上がった。
彼女はずっと前から私を慕っていて、皮肉にも人妻になってからその思いを遂げたのだった。
K.H.との情事(女の場合は不倫、男が同じ事をしたら浮気といわれるが、私の場合は、一人になっていたので、K.H.だけが不倫と言うことになる)の帰りに、玉野近くの庄内で、VZ750毎転倒してしまった。幸い草むらに突っ込んだので、クッションになり、私も、マシンも無傷だった。それにしてもよく転ぶ。バイクは、低速では、かえって安定が悪い。その夜、K.H.は電話で、「嬉しかった、とても楽しかった」を繰り返した。
翌日K.T.は又深残業をした。雨が降っていた。私は送っていった。父親が迎えに出ているというので、いつもと違いK.T.の家に上る道の手前で車を止め見送った。次の日も又残業、私は例の市役所で、K.T.を可愛がった。K.T.も又、待っていたかの様に、腕を巻き付け、胸から下腹部に至るまで、私の行為を素直に受け入れ、自分から望んで其処にいるという動作、仕草は、私をいやがうえにも燃え上がらせるに十分だった。
この小悪魔は、大人を翻弄している。でもK.T.も昔会ったK.T.ではなく大人になっている。どうしたことだろう。私は益々K.T.のことが分からなくなってきた。
土曜日、甥の結婚式があった。私は9人姉妹の末弟故、第二姉の子供とは僅かしか歳が離れていない。昔から、姉は、「○○を見習いなさい、勉強をちゃんとするのですよ」と言っていたものだ。私はそんな、息子達に「絶対おじさんとは言うな。お兄さんといわなければ、話しをしてやらないぞ」と言ってきた。
2番目の息子が、サンシャインプリンスホテルで挙式する。東京まで出かけ、臨席した。独身の私は多少気が引け、心なしか小さくなっていた。土曜日は東京に泊まり、姉と姉の連れ合いと、陽気に飲んだ。日曜日、玉野に帰ってくるなり、K.H.から電話があった。又逢いたいと・・・。
S1353の海上公試が行われた。その日は娘の14歳の誕生日だった。娘は、その土曜日彼の家にやってきた。その晩は泊まり、日曜日に、天満屋で、誕生祝いのバッグを買った。随分大きくなっていた。
次の週は、前半のK.T.は、どことなく白々しく冷たかった。そんな態度には慣れてきた私だが、矢張りどことなく寂しかった。しかし週末に、K.T.は友人と4人で勝浦に行くと言って、金曜日には、私に逢い、我々はいつもの様に愛しあった。
月曜日にK.H.から電話があった通り土曜日K.H.は枚方からやって来た。「子供のことは気になるけれど、貴方の傍が良い」と言ってきかなかった。朝から夕方まで、二人はベッドを離れることはなかった。夕方5時にK.H.は、満足した様に帰っていった。
仕事は相変わらず、魅力に欠けるものの連続だった。S1353の引き渡し、SOFEC船主との打ち合わせ。
ボスのMr.Turnerは「Mr.○○はゴルフをするのか?」と聞かれ、「まぁすこし」と応えたら、Mr.Turnerは机の引き出しからタイトリストのゴルフボール3個詰めを2個私に渡し、「これで良い成績を出してくれ」と言った。気の良い親父だった。
K.T.は水、木と私と一緒に過ごした。K.T.はバストだけでいってしまうほど敏感だが、木曜日は下腹部までも私の自由にさせ、「やっぱり、○○が好き。私、どうして良いか分からない」戸惑いで、私を喜ばせた。
カローラは、段々だだをこね出し、騙し騙し乗らなければならなかった。車を修理に出し週末は久し振りに家でごろごろして過ごした。
翌週は、K.T.の帰りを車で送った。コンビニで弁当を買い、車内で食べた。殆ど軽くキスをしただけで、話し込み、何時もとは違った、妙な落ち着きがあった。
雰囲気はとても良く、K.T.を改めて愛おしいと感じた。私の時計が急に調子がおかしくなったのを聞いて、K.T.は自分の時計を貸してくれた。まさか女物をする訳にはいかず、借りた時計はポケットにしまい、何時とはなく時間を見るでもなくポケットから取り出して眺めた。その週も、又K.T.と逢い、狂おしく求めた。K.T.も、十分に応えてくれた。以前の様に「イケン、イケン・・・」を連発しながら陶酔し、身体は、完全に私の自由に任せた。
私は、その恍惚としたK.T.を、思いっきり、それこそ、日頃の欲求不満のはけ口をぶつける様に、吸い、触り、揉み、抱いた。
金曜日は、K.H.からも電話があり、正に、雄と雌の話を交わしてしまった。「貴方が欲しい。」「僕も同じだ」家に居たたまれない様子だった。私も、電話の度に、K.H.との甘美な、時を思い起こし、又逢いたいと思った。
その同じ日に彼はK.T.と逢った。昨日の今日で、疲れていたのか、その日も話だけで終わった。「本当に○○さんのこと好きなの、でも、・・・」言いたいことは分かっていた。それ以上は、なにも言わさない様に唇で、K.T.の唇を覆った。
土曜日にカローラは帰ってきた。VZ750もドックから同時に帰ってきた。一人、VZ750をK.T.が居る児島方面に転がしていた。
永井から電話「よぉ元気にしてまっか」、元気な訳がないのを知っての慰問の電話だ。「まぁ、何とかな」と応えるのが精一杯だ。時々気を遣って電話をくれる。親友とは有り難いと思った。
その週は、バスケットボールカーニバルや、運動会があった。K.T.には静岡から電話があったらしく、先週と違い全く冷ややかな対応しかなかった。どうして、こんなにコロコロ、変わることが出来るのだろう。私は、不思議に思った。
出向していた、二名が復職した。慰労会を行い、2次会で、不覚にも酔いつぶれ、家に着いたら、タクシーであった。
K.H.が土曜日に来て泊まった。K.H.とは、肉と肉との関係で繋がっていた。熟れた女のすざましさは、私を常に圧倒し、昔思いを寄せていたという分を今発散させるかの様に、私の喜ぶことは全て積極的に行った。
K.T.のその週は、冷たいものだった。僅かに金曜日に私と共に大阪で買った赤い服を着て出社していた。しかしお稽古事が、3つもあると言って、いよいよ結婚が近いことを匂わせた。
日曜日は息子の誕生日だった。二人で、CDと、ジーンズを買いに出かけた。
その晩、珍しくK.T.から電話があり、「冷たくしてご免なさい。気になって土曜日も電話したのよ」と言った。そして、「もうどうして良いのか自分でも分からない、○○さんは好きだけど、・・・」「良いんだよ、何も言わなくっても、無理することはない、僕は自然に消えていくから」と若いK.T.を困らせることはないと、言い聞かせた。
そして次の週も私は、一度送り、一度バストに触れただけだった。
土曜日に設計部長杯のゴルフコンペが、玉野ゴルフクラブで催され、予想通り19位に終わった。どうもバスケットボールならいざ知らず、小さいボールには向いていない。パチンコも行かないし、と変なところで納得した。
K.H.から電話があった。話は乱れた。
Yamaha 500を買った今田氏から電話があった。「大分慣れたので、明日「くろねこ」と帝釈峡へツーリングに行くので付き合って欲しい」とのこと。二つ返事でOKした。
明日を考え早めにベッドに入った。
朝の集合8:00に灘崎の「くろねこ」のたまり場に出かけた。女性を含む十数人が集まっていた。今田氏も来ていた。一斉に軍団は帝釈峡へと向かった。吉備路を通り、高梁から西に向かい、途中狭い道だが岡山と広島の県境を越えて、目指す帝釈峡に着いた。女性ライダーが途中で、はぐれるというハプニングがあったが、目的地には全員元気な顔があった。
帝釈峡は、日本5大名峡の一つで、国定公園であり、比婆郡東城町、神石郡神石町そして神石郡油木町にまたがり南北約20Kmにわたる大峡谷である。この地方に発達しているカルスト台地が帝釈川によって侵食されてできた峡谷で、世界三大峡の一つとしても知られる。日本一の天然橋といわれる雄橋は、永年の渓水侵食によって作られた長さ90m、幅18m、厚さ24m、高さ40mの雄大なものだった。地質学上も世界に誇りうるものらしく、北米のロックブリッジ、スイスのプレヒシュと並び世界の三大奇橋の一つに数えられているそうである。 2kmほど下流の国の天然記念物である雌橋まで歩いた。白雲洞に代表される鍾乳洞、急流の断魚渓、岩柱、滝などの奇勝奇岩が目を和ませてくれる。大正13年、帝釈川をせきとめて造った神竜湖の水面には紅葉の色が鮮やかに映じ、断崖絶壁からは、船遊びの様子が一幅の絵を思わせる。上帝釈、永明寺から神竜湖乗船場までの約4kmはハイキングコースになっており、岩山に生えている原生林が見事に紅葉し、あたり一面が紅に染まっていた。秋の遊歩道は、紅のトンネルとなっていた。
最近8,000~10,000年前の遺跡は発掘されたそうである。
自然との一時を満喫し、バイク軍団は一路帰途についた。バイクに乗っている間は一切余分な事は考えない。ただひたすら風を切るのみである。
その夜は久し振りにワインを飲んで寝た。
K.T.とは週末に軽い接触を続け、私の存在の断片が、未だ残っていることを確認する程度に続いた。
K.H.から何度と無く電話があった。K.H.は既に離婚を決めている様でもあった。
週末には、今田氏と六甲山に出かけた。六甲は、私が小さい時に何回か行った山だ。それでも冬山登山の練習時には、六甲でさえ遭難者がでるという。我々は、普通の道路を、山頂まで上がり、山頂を縦走して、牧場などを回った。今田氏は、とても慎重な運転をする人であった。ヨーロピアンスタイルに似た、クラシックなバイクだった。
私は既に43歳になっていた。誰も気が付かない、ひとりぼっちの誕生日は矢張り寂しい。週明けは休みを取り、終日一人で寂しく酒を食らった。「生き甲斐とは何か」を考えながら。
それからの2週間は、ひとりぼっちに追い打ちを掛ける様にK.Tは冷たかった。「ええい、侭よ」とばかり半分自棄になって過ごした。土曜日、設計部長達と2パーティを組み玉野ゴルフクラブでラウンド。面白くも何ともなかった。日曜日はK.H.と姫路で落ち合い、モーテルで過ごした。我々二人とも自暴自棄になっていた。と言うより私は少なくともそうであった。K.H.は私との逢瀬で、何か救われるものを感じていた様で、私は、その事がいじらしかった。自分と同じ身の上の人間が、此処にもいると考えると、自分のことはさておき憐憫の情が湧いてきた。
私のVZ750はそんな時も一緒だった。
師走に入った矢先、我々は例年通り忘年会を持った。忘れもしない、又一別館での旧部長を交えての忘年会だった。あの、吉田号事件で、非人間的な発言をした男だ。
宴もたけなわになった頃、座が動き、その男が、私の前に現れ、ビール瓶を構え「色々あったが、吉田号では苦労したな」と普通の挨拶のつもりのようだった。
私はさほど酔ってはいなかったが、「吉田号」の名前が、私の潜在嫌悪感に火を付けた。S.M君が辞めて行かざるを得なかったこと、徹夜の明け暮れ、帰れと言っておきながら、翌日昨日の結果はどうだとの督促、堪えていた憤りが一気に吹き出した。
私は、
「貴方の様な、非人間的な人の下では働きたくない!」
と激しい口調で言った。傍にいた、3年先輩に当たる男K.Kが駆け寄って、「○○君、部長の前だ、止めなさい」と慌てた風だった。
私は「部長の前だからこそ言うのです。これが、他でこそこそ言うと、卑怯になります」私はその事がどう進展するかは薄々分かっていた。元部長は、殆ど声を失って、次の席へと移っていった。
私は本当にそう思っていた。止めに入ったK.Kも同じ孔のむじなであることは後で分かった。
サラリーマンの生き方としては、許される言動ではなかった。しかし、深い怨念にも似た気持ちが私をそう言わざるを得ない心境にさせていた。
翌日K.T.はその事に触れ「どうしたの、あんな事言っちゃ、もう○○さんお
終いになっちゃうよ」とひどく同情してくれた。「S.M君も可愛そうだったし。それに誰の責任という訳じゃないんだ。その為に組織として我々は動いているんだから」そして「たまたまあの時グループの責任者になったばかりだったけど、一旦なったら、責任はその長が取るべきなんだよ」・・・
難しい話しはどうでも良かった。私のサラリーマン人生、いや、人間としての人生も終わりかと感じた。その夜、K.T.は哀れみからか、絶えて久しかった身体を私に預け、私の思うままに応え、愛してくれた。それは、私に対する憐憫の情であろうと感じながら、それでも私自身よりどころのない気持ちを激しくK.T.に求めた。
私は、完全に狂っていた。K.H.が土曜日に来て泊まった。翌日の昼K.H.が帰るまで、私はK.H.を離さなかったし、K.H.もむしゃぶりついた。忘年会の余韻が残っていたので、激しいセックスだった。
師走も迫った頃SOFEC(1点係留油備蓄船)のさよならパーティが鳴滝であった。営業と、実質的プロマネである私と、数人の関係者だけのささやかなものだった。ゴルフボールを私にくれた、Mr.Jhonson,Mr.Turnerがいた。そんな会には珍しく2次会で、築港へと流れた。もう来る機会もないであろう日本の田舎を見ようと、ノルウェー人船主2人は、田舎の夜を楽しんだ様だ。翌日夜SOFECは艤装岸壁を離れて、由良のドックへ向かった。
週末は今田氏と閑谷学校へ、ツーリングした。M.Kと2回目にデートした場所だ。
此処は、岡山藩主池田光政が寛文6年(1666)に庶民教育のために創設した学校であり、今の私立校で、誰でも入校することが出来た様だ。765mもの石塀に囲まれ、備前焼の屋根瓦を使用している講堂・聖廟等は300年余りたった今も堂々たる姿を見せている。重みがある。秋の楷や紅葉には既に遅かったがM.Kと二人の時よりは若干心に余裕があった。隣接して閑谷神社や茶室黄葉亭にも回ったが、此処で、激しくM.Kを求めたのだと、思い出深かった。
日曜日、K.H.は又やってきた。大阪から、殆ど毎週来ている。可愛そうだと思いながら、私自身の境遇を忘れることは出来なかった。二人はセックスすることで、互いの傷をなめあっている様な、正に獣的な関係だった。
仕事納めの日もK.T.はクールだった。既に2人は終わっていた。
年末に息子と、娘がやってきて一緒に大阪へ行き、その足でとんぼ返りした。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
楽天写真館
10 日 ( Monday ) の日記 しっか…
(2026-08-10 06:53:50)
ひとりごと
9日夜よかったよかった10
(2026-08-09 16:39:06)
政治について
こんなクズをテレビに出演させたテレ…
(2026-08-09 19:45:23)
© Rakuten Group, Inc.
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Design
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: