「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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造船時代その10
造船所時代の日記(10)です
極限作業ロボットは工業技術院の大型プロジェクトで、既に完成段階に入っており、後2年で、実証実験を行う予定になっていた。ロボットには、防災と、原子力と海洋があり、その海洋ロボットをやっていることを聞いた。海洋ロボットでは、移動システムと、石油掘削の櫓に吸い付き格点部を検査する固着システムと、全体を統括するトータルシステムとに別れていた。固着システムの担当と、移動システムの担当の仲が極めて悪く、彼はその調整に腐心した。
内容的には、自動制御と、油圧装置、コンピューターグラフィックなどで、とても私の分かるものではない。
大井前所長、三宅前開発部長、早川課長が去ることになり、串の友で送別会を行った。その日、事業副本部長と、新機械研究部長から正式に極ロボの引き継ぎを言い渡された。新所長からも、技術的なことより人間関係を巧くコントロールすることを求められた。
機械研究部の在籍は僅かの期間だった。
私は、自動制御なるものを初めて、耳にし、且つあらゆる専門語の乱発に、一時カルチャーショックを受けた。それなりに理解して、自分では出来なくても、彼らの話に乗っていけるようにと、必死になった。
その間にも、人事考課の表が回ってきて、評価をしなければならない。判らない人間が、判った人間を評価するほど難しいことはない。また今年からは、課長職も、自己申告の書類を提出することになった。段々と面倒くさくなる。
燃料電池関係の講演会があり、私も聴講した。鉄屋で育った人間にとって、化学分野である燃料電池の講義は、全く分からないものであったが、燃料としては、火力、水力、原子力の他にも燃料電池という概念があることが判っただけでも刺激になった。全てカルチャーショックの連続であった。
その年の工業技術院の大型プロジェクト(極限作業ロボット)に対する会計検査が行われるというので、いままで慣れている前任者の課長の助けを借り、検査対象書類を、揃えた。それ専門にやってきた、事務方の人間が、手際よく書類の準備を始めた。
工技院の会計課からは、事務官が訪れ、1日中掛かってトータルシステム、移動システム、固着システムの各々について監査が行われた。
移動は、理論的な、プログラミングが主だが、固着の場合は、油圧装置等、物が関係するために、監査も念入りに行われた。
海洋ロボットの実用化に関する対応がそろそろ話題になってきた。
美空ひばりが死んだ日、私達は2パーティーを組んで、玉研として初のゴルフに出かけた。名実?共に玉研の人間になってしまった。
管理に関する勉強を再び始めた。人事考課、昇格対象者の決定。なかなか教科書通りにはいかないが、少しでも、理にかなった評価をするために、評価基準を客観的に眺めた。
機械研の発足会と新人歓迎会が又一別館で行われ、旧所属がそうだったこともあって、私にも声が掛かった。上司が寄付して、行われるこの種の会合は、玉研独特の風習だった。
物1つ作るにも工場がないので、全て外注となる。通信関連の多い中、油圧装置についてもメーカーの人間に対して面通しを行った。ロボットの手足となるアームは、巨大な油圧マニュピレーターだった。
実験室で、実験を行うときは、危険がないように人払いをして、陸上での作動確認を行う。
この時制御を誤って、5mはある、1本の足が急に大きく振り上がり、天井を突き破るという事故があった。然し、特設の部屋だったので、簡易仕切を壊しただけで、大事には至らなかった。
社長が、来所して、装置を見るというので、辺りを小綺麗に掃除した。
前任の課長からは、本社の元締めをしている担当部長は、逆らう人間には厳しく、過去自分を含めて3人更迭されたとの話も伝わってきた。
その後も、副社長、技師長、副事業本部長などが、引きも切らず、やってきた。これら偉い人は最後に必ず、極ロボを見学していき、その応対に私は、大わらわだった。そのころ、アウトラインの説明は、同じ事のオウム返しのように、私はすることが出来た。
RX7も1年目を迎え、点検整備に出しオイル交換などを行った。終末は、買い物と、打ちっ放しの練習で、同じ事の繰り返しであった。
玉研のボーリング大会が行われた。パチンコや、ゴルフに比べて、ボールが大きな分少しはましだったが、所詮好きなスポーツではなかった。
M.K.と一緒にゴルフのバッグを買い、土日で、打ちっ放しをいやと言うほどやったが、腕は上がらない。
渋川海岸は海開きが行われた。
私のもとに来客があると事務の女性が言ってきた。応接コーナーに出てみると、何とそこには、私が中学から大学を卒業する間住んでいた、千里山の隣人だった。
大阪で、機械部品を作る会社を経営しているのはいまも変わらないらしい。親父さんの方は、既に会長になり、私と同級生が社長の名刺を差し出した。そこには、岡山営業所長なる人物も同伴していた。
「懐かしいですね、その後お変わり有りませんか」と当たり障りのない挨拶を交わした。
実は、私には、両親の死や、離婚、再婚と激動の時を過ごし、何遍も死の淵に立っていたが、そんなことを言うわけにもいかず。適当に受け答えした。
彼らは、研究所が必要とする、試作品などの注文を受け、製作納入し、量産化につながれば、潤うという寸法だった。
私の仕事は、機械と、情報の両部門にまたがっていたために、その両方のミーティングに出席をした。
ロボットは推力減水の問題がクローズアップされ、同様の問題を受け持っていた川崎重工のスタッフと数度のすり合わせを行った。
久しぶりに、娘から会社に電話があり、元気でやっていると言って電話を切った。M.K.は子供と会うのをいやがることを知っていたので、連絡は殆どしない状態であった。
近所に田井マウンテンゴルフがあり、細い山道を登っていくと、山のてっぺんから打ち下ろす打ちっ放しのスタンドがあり、又、その尾根を利用した、短い殆どショートアイアンだけを対象にした、ミニコースがあった。早朝そこへいくと、朝霧が掛かって気持ちがいい。
私は、時々そこへ通った。
今年度昇格者の小論文を研究所長に提出、それを情報研究部長が、チェックし、それぞれの手元に返却され、一部手直しを指示されていた。
上級職に課せられた、給与5%カットは、ようやく解除された。上級職(課長職)以上になると、否応なく会社の言うままに給料カットが行われる。今回は、5%で少なかったが、前には10%で長期間続いたことがあった。上級職は、悲哀の中間管理職である。組合員でもなく、会社側ではペイペイである。
家では、姉の土地の雑草問題で、近所からの刈り取りの要求が、激しくなった。私は、姉の了解を取り、シルバー人材センターへ、草刈りの依頼をした。
トータルシステムのアニメーション表示装置が搬入された。マスターコンソールの中で、擬似的アームを動かし、これを運転して、このアニメーションを見ながら、海中内走行、と固着の作業をコントロールする。
M.K.は自分の買い物用にとスズキのアルトを買った。K.T.が持っていた機種よりは、新しくなっていた、M.K.はスターレットを持っていたが、私と一緒に生活をするようになり、売却してしまっていた。スターレットもずいぶん古くなっていたので、惜しくはなかった。然し、やはり、RX7はパワーステアリングが無く、駐車場での据え切りなども出来ないし、町中を走るには、不経済すぎた。
カーポートもそれに従って、大きくし、床をコンクリートで、張りつめた。
家は段々と改良され、エアコンを1階と2階に取り付けた。
玉野総踊り大会(盆踊り)があったが、研究所の若い人は、冷めていて参加しない。
NHKから、極ロボの取材に来た。私はテレビに出るには、あまりに物を知らなさすぎたので、前任者にインタービューに応えてもらった。
30分以上のインタビューは、5分程度に凝縮されて、後日放映された。会社での仕事は、名目上の長であり、実質的にはそれぞれの担当者が、それぞれのやり方で、仕事を進めていった。
私は殆ど、人事管理を行うだけの存在だった。配置転換をして欲しいと思っても、行くところはない。既に造船を追われた身で、母体の造船も景気が良くない。
このままの位置で、我慢するしかない。
私の知らない会社の、私の知らないことをしゃべる人間が入れ替わり立ち替わり訪れた。
この夏休みは、再婚前と違って、家のことを色々手伝い、どこへも出かけなかった。
渋川海岸に行っても、M.K.は日焼けを嫌って泳ごうとしない。
唯一出かけた、新岡山ゴルフカントリーでも、100を切ることは出来なかった。
その週の終わり、二姉の子供の結婚式があるという招待状が舞い込んだ。
私にとっては、甥であるが、決しておじさんとは呼ばせなかった。
何しろ、二姉とは年が離れているので、叔父甥と言っても年齢は近い。M.K.のお披露目、紹介を兼ねて二人が呼ばれた。
早朝5時前、二人を乗せたRX7は玉原ニュータウンの自宅を出発、いつも通りブルーハイウエイから山陽自動車道を経て、名神高速道路に入り、8時前には大津SAに着いて給油をし、朝食と休憩をとった。
又2時間ほど走って、名神は、やがて東名に変わり、しばらく走って、上郷SAで休憩・給油した。上郷からは、3時間走りっぱなしで、海老名で昼食の休憩を取った後は一直線で、市ヶ谷のホテルに入った。二姉の連れ合いが、海上自衛隊であったため、市ヶ谷のホテルも格安で泊まることが出来た。
三男の結婚式は、浜松町の郵便貯金会館で行われた。綺麗な可愛いお嫁さんだ。ウエディングドレスがよく似合っていた。私の時もそうだったんだろう、結婚式の花嫁は、美しいと相場が決まっている。
結婚式には、姉妹全員が揃っていた。我々二人を紹介するのにも良い機会だと二姉は考えてくれた様だ。M.K.を一通り紹介し終わった頃、M.K.の兄二人が会場に姿を見せた。
私とその義兄達は、面識がなかった。M.K.は、私を引き合わせるために兄たちを会場に呼んでいた。彼は二人に対して、数分間喋って、また元のホールへと引き返した。その晩もホテルに帰り、2泊目を過ごした。
翌日は、市ヶ谷のホテルを7時に出て、首都高速から、中央高速を利用して帰ろうと言うことになった。中央高速に入った頃、俄に空が曇り、あっと思うまもなく土砂降りの雨になった。M.K.が運転していたが、ワイパーを最速で回しても、前が全く見えない。命がけのドライブが、暫く続いたが、その内青空が見えてきた。談合坂SAでは雨はすっかり上がっていた。駒ヶ岳SAで少し休憩を取って、名神の名塩で、再び休み、玉原ニュータウンの我が家に戻ったのは、夕方6時だった。久し振りに1510kmのロングドライブになった。
ロボットは事業化の打ち合わせに入った。又、玉研の技報に載せるべく、若い研究者に執筆を頼んだ。
移動を担当している内原君は、その後徳島大学の教員になって出て行ったが、とにかくみんなから嫌われていた。完全なる虐めである。しかし内原君の方にもそうさせる何かがあった。
玉研長からは彼に単独で、ヒアリングせよとの指示があった。聞いてみると、謂われのない言いがかりを付けられたり、ことごとく反対されたりと口をついて出てくる。
之で、一つの纏まった仕事が出来るのかと私は暗澹たる気持ちになった。
何処の世界でも、何時の時代でも、お互い生理的に合わない者はいる。それを覆い隠し、目をつぶって仕事をしなければならない時だってある。
内原君も、固着の連中も互いにそれはなかった。
土曜日の設長杯(昔の職場)で又玉野クラブに行った。一体何回此処でプレーしただろうか、一向にコースを理解しないし、よしんば理解しても、ボールが思う様に飛ばない。
グロスは目も当てられないが、大波賞を貰った。
翌日の日曜日、ロボット関係のスタッフの家を家庭訪問した。固着の連中は、一人独身であり、又、一人は岡山に住んでいると言うことで、家庭訪問からは外した。
皆例外なく田舎の大きな家に住んでいた。此処では、私はよそ者だった。
M.K.は1週間里帰りをした。
昇格で、他のスタッフは全員合格ラインにあったらしいが、内原君は、すれすれで危ないので、私に推薦文を書く様に依頼された。私は、気に入らぬところは極力無視し、内原君の優れた点を数点上げ、昇格に値することを書き綴った。
休みには家の周りのことや、ゴルフも打ちっ放しをした。どうしてこんなに下手なんだろう。元々レッスンプロについてのものではなく、全くの素人が、我流でやっていることだから、悪い癖はなかなか直らない。
それでも時々芯で捕らえたドライーバーが、真っ直ぐ飛ぶ時の爽快さは何とも言えない。
選挙のシーズンになった。会社は選挙一色であった。仕事も仕事だが、田舎にある企業としては何としても企業選挙は避けられない。
あれほど、姉の土地の草刈り問題で、急先鋒だった、K.K.が姉の土地を講演会事務所に貸せと言う。全く勝手なものだ。草が生えていると言っては、皆に押されて苦情を言うが、一旦事があると平気で手の平を返す。
K.K.はそんな男だ。人当たりは良さそうで、結局私を部長にさせなかったプロジェクトチームの下手人の一人である。
私は、K.K.のことを今でも恨んでいる。
庭の植木を移動したり、模様替えに努めた。又M.K.と打ちっ放しに行き、そのころ親しくなった上手な藤原さんに教えて貰ったが、なかなか巧くはならない。
夕方から風邪を引き、ふーふーいった。それでも何とか持ちこたえて、翌日からの仕事に出かけた。
ロボットの水中走行性能の打ち合わせで、昭島研究所を訪れ、問題点を討論した。ロボットは、本体の寸法が、3.2m×2.7m×2.7mの殆ど立方体に近く、ずんぐりむっくりしていたので、安定性に気を遣った。
私は、健康診断を受けると、必ず、引っかかる項目があった。肝機能、痛風、糖尿値だ。これらは平均を遙かに上回る。その時は気になるが、直ぐに忘れてしまう。
かねての昇格受験者は、内原君を含め無事全員昇格した。一段落である。それにしても私は、自分には関係なくなった、昇格の言葉を聞いて、悔しい思いをした。
ロボット展があり、マスターコンソールを1週間ほど貸し出した。
移動システムの打ち合わせで、川崎重工の連中と、東京で会った。彼らは総勢6名のスタッフが来ていた。ロボットに注力する姿勢が我が社とは違うと感じながら、打ち合わせを続けた。
そんな中、元リグを一緒にやっていた、先輩の佐藤さんから、仕事についての打診があり、リグの仕事がやりたければ、考えるという内容だった。私は一も二もなく復帰が出来ることを願った。それは、しかし、そう簡単に進むものではなかった。
永井から電話で、ご母堂が亡くなったと聞いた。肝っ玉母さんの様な人で、終戦時にご主人を亡くされ、女手一つで、兄弟二人を大学、それも京大と関学にいかせた偉大な人の終焉だった。
マスターコンソールが入った。正面に五個のモニターが付き脇には、ロボットを操縦する、腕が出ていた。その日から運転のトレーニングが行われた。操作員には、反射神経の良い若い人が選ばれた。
子供達に久し振りに会った。取り敢えずは元気にやっている様なので、安心した。子供達は、一様に連絡がない、もっと会いたいと言って私を困らせた。私は、もう会うことはしないでおこうと思っていた。会っても何の良いことも出てこない。返って、未練が増すばかりで、お互い不幸だと考えていた。
そんなある日、先輩から、リグのプロジェクトがあるとの話が舞い込んだ。東京での仕事だった。
私は何を思ったのか、東京という点と、極ロボの区切りが悪いとの理由で、断ってしまった。後になって、馬鹿げたことをしたものだと思ったが、プロジェクト故に、極ロボと同じように期限が来れば(プロジェクトが終われば)どうなるかの保証もない。悩んだ末の結論が、それだった。
運命なのだと言い聞かせた。
日曜日に年一回の備前焼祭りがあった。
備前焼は、備前市伊部あたりが中心で毎年、良い焼き物がやすく手にはいる。素朴な中にも奥の深さを秘めた、焼き物は、好みの違いはあるが、私の場合は好きな方だった。備前焼は壊れにくく、そして昔の2級酒を1級酒と同じ味にするほど、水をおいしくさせる力を持っているという。
これは遠赤外線によるものと、何処かの雑誌に書いてあった。備前焼にはおよそ1000年の歴史がある。上薬や釉薬を使わないので、土が命である。それだけに土にはこだわる。
伊部の田の底にあるヒヨセという土に近くの長船町で取れる黒土を混ぜて、1年から3年ほど雨・風にさらし寝かせるという。
人間国宝の藤原啓や藤原雄の作品は高くて買えないが、結構良い掘り出し物があるので、好きな人はしこたま買って帰る。
私も、親戚にと、この間結婚した、若いカップルに買って送った。
会社は、仕事もさることながら、会社が推薦出馬した、市長選挙で、全社挙げての取り組みになっていた。女の子は、街頭宣伝にかり出されるし、立会演説会への強制的な参加。ビラ配りなど。どちらが本業かは分からなくなるほどだった。
その結果、543票の差で辛うじて、会社擁立の候補者は地元の名士を押さえて、当選した。悪辣なやり方に、反発も大きかった。
病院で何時も引っかかるアイテムについて、再度検査をして、結果を聞くと、何と、基準値内に下がっているではないか。問題のγGPTは38と基準値すれすれであった。
何処でどうなるのか知らないけれど、異常と言われるより、平均値の中に入っている方が気分が良い。
週末の飲み会では早速、一杯飲んだ。
玉野市には、旧国道30号線が走っている。それが手狭というわけではないが、フェリーに乗って、四国に渡る大型トラックが通ると危険なので、バイパスが造られた。トラックの、フェリー待ちもあって、小さな商店街は迷惑していた。聞けば国道30号線は、高松が終点らしく、従って、海の上も国道30号線になると聞いた。
バイパスは、山から海面まで下りる落差が急な所に作られる関係から、わざわざ円形にループして傾斜角を緩くして作ってある。その麓に、ループ橋という打ちっ放し練習場がある。
私は週末にはそか、児島の打ちっ放しに行くのが、恒例になっていた。
玉研のゴルフコンペ(研友会)にも参加した。瀬戸大橋ゴルフクラブという新しいゴルフ場だった。其処は、フェアウエーが極端に狭く、鞍型のコースになっていたので、少しコースを外すと、直ぐOBになってしまう。コース脇の池には、真新しいボールが幾つも入っている。キャディーは、コースを外すと慣れたもので、ボールを探しに行った帰りには、5つ位余計に拾ってくる。コースからは、瀬戸内海は、ほんの2ホールしか見えない、全く魅力のないコースだった。それでも名前は瀬戸内海・・となっていた。
前に社長が、此処でプレーして、3ホール目に頭に来て、怒って帰ったという話が伝わっていた。
私はそのホールで、又大波賞を取った。練習の成果はなかなか出ない。
会社の運動会があり、私はバスケットボールのドリブルリレーに参加した。
運動会もかつての様な盛況さはなく、私も老いを感じたし、昔懐かしい顔ぶれも段々と減っていた。
私は自分がコウモリの様な気がした、半分は未だ構造設計室に身分がある様な気がして、その席に行くと歓待してくれる。片一方は、玉研だ。こちらの方が馴染みが薄い。仕方ないことだった。
月曜日、本社で、S63年度の研究成果発表会が行われた。本社の部長が発表するので、聴講に行った。社長や専務ら上層部が集まる中に入っての聴講は、息苦しいものだった。又見づらいOHPが有り、説明も小さい声で、聞きづらかったが、しかし全体の研究が分かる良い機会であった。
上層部もどうせ内容は分からないのだから、結論はどうなのだを知りたかったようだ。
JR対策室の課長から、雪害の資料を依頼された。今更何をと思いながら、それでも、大型ファイル4冊になっていた成果品を送った。
中小企業診断士の勉強をしようと、通信教育の資料を申し込んだ迄は良かったが、私の悪い癖で、衝動的にそう言うことを思いつくと直ぐ行動に走る。結局届いた資料は、全く開かずになくなってしまった。
結構なお金をどぶに捨てたことになる。
昔の職場の連中と会社を休んで、ゴルフに出かけた。新岡山カントリークラブは何度か訪れた所だ。
1ラウンドハーフを回って結局50を切れない。下手の横好きとは良く言ったものだ。
久し振りに板野氏から電話があった。何とか格好を付けている様子を知り、安心してくれた。
研究所で、大先輩が辞めることになり、餞別をした。この人は東大出の俊才でありながら、同じく課長までしかなれなかった人だが、頭は抜群に良く、数学・物理では、おそらく会社内でも右に出る者はいなかったであろう。
企業では頭が良いだけでは、駄目なんだ、会社という所はそんなところなんだと、我が事のように、哀れを感じた。東大出、それは私には考えられない存在であった。
年賀状も書き終わり、新しくステレオを買い、仕事もそれなりに進み、その年は暮れていった。
M.K.と再婚して1年が経った。
元旦が来た。児島にある由加山に行く。正式には瑜伽大権現蓮台寺という。神仏混合である。
M.Kは、初めて子供が欲しいと言った。私は年令を考え躊躇したが、最後のチャンスと、心に決めなければならなかった。今年が最後のチャンスかも知れない。私は心に決めた。
重大な決断だった。権現さんに祈願した。
正月休みにも前の職場の仲間と高松カントリーに出かけた。最下位だった。
M.K.の実家に行った。倉敷の奥、総社市である。家は古かったが大きくゆったりしていた。
何はともあれ、風呂は五右衛門風呂であった。私が最初の結婚で、2回目に移り住んだ家でも五右衛門風呂であったことを思い出した。
あの時は、早朝自分で屋外の風呂に薪を入れて沸かして、沸き上がるまでに近くの山まで走り、帰って、風呂に入りそれから会社に出かけたものだった。
あの頃は、仕事上では、燃えていた。今よりもっと元気があった。今はロボットを、自分がロボットのようにやらされている。それが実情だった。
五右衛門風呂でゆっくりして、少しゆったりした気分で、田舎の大きな部屋、無駄の多い空間を何故か落ち着いた気持ちで眺めた。
帰りにはM.K.の親戚の喫茶店で昼をご馳走になり、そのまま倉敷のゴルフ練習場で、M.K.と二人で、5箱打った。天気は雨模様で、倉敷の洋服を取りに行きM.K.の靴を買い、そのままぐったりと疲れた身体で帰ってきた。
息子は岡大農学部に推薦入学で入ったとの話が伝わってきた。
川重神戸にバリベックプロペラを見学に行った。之は海洋ロボットの推進装置になるもので、ロボットの左右と後部に合計3ヶ取り付けられるようになっている。
バリアブルベクトルプロペラを省略してこう呼ばれるように、方向と推力を自由に変えることが出来るように設計されている。
2月1日付で、昇格者が発表されていた。最早私には、関係ないことになってしまった。
動かなくなっていた固着脚が動くようになって、皆喜んでいた。こうして、極ロボは、徐々にではあるが、進展していき、只私はそれを淡々と見守るだけの無味乾燥な生活が続いた。
M.K.とのことを考えると、頑張らなくてはならないが、そう思えばそう思うほど、身体はついてこなくなる。
しびれを切らしてM.K.が不機嫌になることも両三度ではなかった。
極限作業ロボットの見かけの管理者になったのは、やはり前任者が、スタッフの総スカンを食ったからで、その内容は、スタッフが我が儘で、どうにも手が付けられないことが原因であるとのことが、段々と分かってきた。
そんな中で、私は、何処までやれるのか。何処まで飾り物でいられるのかを考え背筋が寒くなった。
要素技術のワーキンググループの打ち合わせで、東京へ出張した。東京タワーの向かいの機械振興会館にロボットの組合は置かれていた。帰りに増上寺におり、そこで、自分の将来のことなどを、祈った。
増上寺は、浄土宗の七大本山の一つで三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称である。開山は酉誉聖聡という人で、江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営された。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八檀林(だんりん)の筆頭として興隆した。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなった。近くの戦災によって徳川家の将軍やその一族の御廟(ごびょう)は焼失したそうだ。焼失をのがれた三門(さんもん)・経蔵(きょうぞう)・御成門(おなりもん)などを含む境内(けいだい)は、昭和49年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備され現在も少しずつ手を加えられている。
増上寺の近くに将来の転職先があろうとは、その時知る由もなかった。
帰り、M.K.は宇野駅まで迎えに来てくれていた。気疲れがひどく、10時前には寝て、5時頃目が覚める。色々なことが走馬燈のように頭を回る。私にとっては悪い兆候だ。之はサバイバルなのだと言い聞かせた、でもリバイバルはあるのだろうか。
M.K.の家で枝振りのいいキンモクセイを貰いM.K.の友人の軽トラックを借りて、玉原に持ち帰り植樹した。雨の中の作業は、とても大変で、M.K.はその事で腹を立て、寝るまで機嫌が治らなかった。
モッコク、ヒイラギ、ヒバなどを買い少しずつ庭も綺麗になっていった。
大石さんが退院後電話をくれた。レアメタルの件は仕切り直しだと、お上の言うことを待っていたらどうにもならないという。今窓際にいるが、君は玉野に未練があるのか、是非東京でやれ、出てきたら電話しろと言うことだった。
バスケットボールも、最近は声が掛かるが、何時も断って、不参加になり、遠ざかっていった。
再びロボット実用化ワーキンググループの会議が東京であり、その帰りに大阪の姉の家に押しかけた。新幹線の新大阪駅でM.Kと待ち合わせ、豊中の姉の家に着いたのは夕方だった。
翌日は、3人で、その時開かれていた花博へ出かけ、遅くまで遊んだ。姉は怖がったが、立ち乗りジェットコースターや観覧車、命の塔など、童心に返って乗った。数個のパビリオンにも入ったが、大阪吹田での万国博の時のような勢いは感じられなかった。
その日も姉の家に泊めて貰い翌日は、京都のバスツアーに出かけた。
南禅寺の金地院は金地院崇伝というお坊さんが、徳川家康を称えるために小堀遠州に依頼して作らせた庭と言われている。権力者を称える庭らしく、その名の通り、左に亀島、右に鶴島を配し、神仙蓬莱のめでたいめでたい庭となっている。『石川や、浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種は尽きまじ』と石川五右衛門が、大見得を切った南大門は、威容を誇っていた。
更に青連院は皇族が代々住職を務めた天台宗の寺院で、別名「粟田御所」とも呼ばれた。
寺宝の絵画・不動明王二童子像は国宝で体が青いことから「青不動」といわれている。書院前の池泉回遊式庭園と北にある霧島の庭は、名園として名高い。
更に、Y.Yと必死に登った、醍醐寺は貞観年間(859~877)理源(りげん)大師聖宝(しょうぼう)により創建。醍醐山全域を寺域とする広大な古刹で、山上は上醍醐、山麓は下醍醐と呼ばれている。上醍醐には如意輪堂(にょいりんどう)〔重文〕・薬師堂〔重文〕・開山堂〔重文〕・清滝宮(せいりょうぐう)〔国宝〕など、下醍醐には総門・三宝院(さんぽういん)・仁王門・金堂〔国宝〕・五重塔〔国宝〕・大講堂・宝聚院(ほうじゅいん)〔霊宝館〕などをはじめとする古建築の貴重な伽藍が多数点在する。中でも、天暦5年(951)に建立された京都最古の建物である五重塔〔国宝〕や、三宝院表書院〔国宝〕前にある秀吉が花見の宴のために自ら設計したという池泉庭園〔名勝〕は贅を尽くしたものである。
白沙村荘は銀閣寺の参道沿いにある。大正5年(1916)に建てた日本画家故橋本関雪の邸宅。1万?の敷地をもつ閑寂な邸宅内には、如意ヶ岳を借景にした池泉回遊式庭園がある。趣の異なる5つの部分にわかれているところなどが興味深い。他には茶席の問魚亭、存古楼(画室)、憩寂庵、国東塔などがある。また庭園奥にあるギャラリーには中国・ギリシャ・インドなどの美術品をはじめ、関雪が使用した筆やスケッチなどが展示されている。
最後に勧修寺を訪れた。昌泰3年(900)醍醐天皇が祈願所として創建。代々法親皇が入寺し、勧修寺門跡として知られる。書院〔重文〕は江戸初期の書院造りの典型。襖絵は土佐光起の作。庭園は氷池と呼ばれる池泉庭園で、中心の“氷室(ひむろ)の池”は京都でも屈指の古池。スイレンの名所としても知られている。他には徳川光圀寄進の“勧修寺型燈籠”や樹齢約750年の名木ハイビャクシンなども有名。ガイドは、慣れた口調で、案内を続けた。
観光バスによる、名所周りは、せわしないし、弁当も余り美味しいものではないが、簡単に京都を知る上では、ある種便利なものであった。
次の日は、二人で、再び京都見物に出かけた。今度は私がよく知っている散歩道を通った。
銀閣寺から哲学の小道を通り、永観堂を見て、平安神宮に寄った。暫く時間を潰した後、河原町三条から四条におり、橋のたもとの漬物屋で、京の柴漬けなどを買った。
新大阪で、食事をし、土産を買って、姉の家に戻った。
翌日は、三宮に出て、ジパング通りを歩いた。路上に出された店にふと足を止め、色紙と、額を買った。三宮は、簡単に済ませて、そのまま岡山まで、ローカル線でコトコト帰った。
宇野駅からは、バスで帰宅。何時も車で回っていると、電車やバスでの動きは、全てのことがスローモーに思えて、又それも良いものかと一人感じた。
来年、年が明けたら3月末で、内原君が、徳島大学講師に転出するという。
国税局の監査があり、対応したり、特殊機器部の連中とのやり取りがあり、彼らの若手がロボット操縦すると言うことで、マスターコンソールを玉原から下の特殊機器部に降ろした。
又固着脚の油圧制御部分に水が入り、大騒ぎの末にやっと水抜きが出来、帰宅したのは夜遅かった。
週末はM.K.の実家に泊まり、総社のミニコースにM.K.と遊んだ。キリンビール工場でのビール祭りがあり、無料を良いことに生ビール3杯を飲み、いい気分になった。同期入社の家族も楽しそうに工場内を歩いていた。
その足で、東京へ出張、実用化ワーキンググループの理事会と連絡委員会に出た。
ロボットは、小型水槽での、固着脚の性能テストが行われた。
次の日、推進調整会議が行われ、特殊機器部の連中との摺り合わせを行いその流れで、懇親会を行った。
更に1日おいてロボット海洋部会が伊豆で行われることになり、私が出張した。朝7時に宇野を出て、熱海から伊東に入りそこからバスで、初島台にある研修所での会議だった。
さて出張したものの、専門家の集まりだし、会議の内容は、半分も分からない。懇親会に出ても、語りかける共通の話題は表層的になってしまう。少しも楽しくはなかった。
翌朝雨が降った、ゴルフ組(実は之が楽しみだったようだが)は、少しがっかりしていたが、雨の中出て行った。私のゴルフは、何回も書いたように、ゴルフでない、棒振りである。8時前にはそそくさと帰途についた。新幹線で浜松を過ぎる頃にはようやく晴れ間が見え始めた。
スタッフ連中は、それぞれのペースで、調整を行っていた。私はそれを月報に纏めて、フロッピーで、管理部門に渡す仕事をする。
統括のマスターコンソールに入れ込むコンピューターが納入された。早速機能テストが行われた。
固着脚の調整で、メーカーに行ったスタッフは、午前1時頃まで掛かって調整を行ったとの報告があった。
そもそも通産省工業技術院委託の極限作業ロボット技術研究組合員は20社を数え、これら参加会社が、海底石油生産支援ロボット(海洋ロボット)、実用原子力発電施設作業ロボット(原子力ロボット)、石油生産施設防災ロボット(防災ロボット)の3つのロボットを、試作し、将来の実用化に備えるものであった。これらプロジェクトは既に1983年に基盤技術から始められ、1990年(今年)総合評価を受ける、実証実験を受ける大枠が決まっている。このうち防災ロボットは概念設計までと計画の変更が為されていた。
原子力ロボットは、重さ700kgほどで、4足歩行の馬型をしたロボットで、人間が作業出来ない放射線の中で、機器・装置の点検・補修作業を運転員・作業員に替わって行い、安全性・信頼性の確保の一端をになう目的で製作される。
其処には技術の粋が集められ、触覚センサー、マニュピュレーター、腕と脚用のアクチュエター等多くの要素技術が結集された。ロボットがスパナを使ってのナット締め、指によるナット回し、ドアを開ける作業、障害の跨ぎ越えなど多くの難題があった。
我々が担当した海洋ロボットでは、海上支援船から降ろした中継基地を発進した、ロボットが、目的の石油プラットフォームにたどり着き、その格点部の溶接の検査補修をするものである。走行には、前に述べた、バリベックップロペラを使い、自分の位置同定は、海底に置かれた、トランスポンダからの信号を頼りにして走行する。固着脚は、表面にフジツボなど、不純物がついていても吸引可能なように先端にスポンジ状のものとゴム製の吸盤を有している。
固着の足はロボット下部に2本、作業用の腕(マニュピュレーター)は上部に二本、目に替わる立体視TVを備えていた。
防災ロボットは、2本の腕を持ち6脚6輪ハイブリッド移動機構を持つ、火災現場での炎の中消火活動に当たるロボットとして、概念設計が行われた。炎の環境下でもその先のものを見分ける、高速スキャナの画像処理技術が取り入れられた。
固着のグループでは、私も含めて試験動作が巧く行ったのを契機に、一時的な祝賀会に出かけた。そのまま、2次会へ行き午前様になってしまった。
ポスト極ロボの話がそろそろ出始めた。
夏のボ-ナスの査定で、内原君は、D評価だと文句を言ってきた。通常の評価はA、B、C1、C2、C3,D,Eの7段階になっている。余程のことがない限りA.Eは付かない。昇格直前はBかC1。昇格後はC3が相場だ。所詮公平を期すと行っても、判断基準が明確でない。
内原君は昇格直後であり、又本人は知らないが、昇格を危ぶまれ、私が特別に推薦文を書いたこともあり、評価が替わったのかと、一瞬身構えた。内容を聞き計算してみると、C3の間違いであることが判明した。
昇格直後と言うことで、説明をしたが、自分はもっと出来ると反論してきて、説得に時間が掛かった。
自信過剰もいい所であるし、私が推薦文を書いて昇格したことなど知らない。そんな所が、皆から嫌われる元凶かと想像した。
板野さんから電話があった、定期的に様子をうかがってくれる。私は、会社での仕事の面白くないことや、スタッフのちぐはぐさ、家庭でのしっくり来ない様子などを打ち明けた。
ポスト極ロボの話が行われた日、M.Kの母が泊まりに来た。目が悪く、緑内障であるとか、体は元気なのだが、不自由だと言っていた。
日曜日に父の17回忌の法事を執り行うことになった。と言っても四姉以外は来なかった。
土曜日は一日掛けて部屋を掃除し、姉を宇野駅に向かえ瀬戸大橋を渡るドライブをして、パーキングエリアで食事をして帰った。姉は、私が好きなシーバスリーガルと、M.K.用にとシャネルNo19を土産に持ってきた。
日曜日10時からの法事は寂しいものだった。坊主の説教を1時間ほど聞き、終わってそれぞれ姉を岡山駅まで送って帰った。
ロボットは相変わらず淡々と過ぎていく。会議、会議の連続である。見学者は引きも切らない。又、各種講演会が引きも切らず。本気で勉強するのなら、実に良い環境だと思った。船を造っている間はそうはいかなかった。日常の雑務に追われて、講演会をゆっくり聞く暇など無かったからだ。
金曜日の午前中NEDOによる実地検査があり、調査役と主査の二人が来所した。検査は案に相違して簡単であった。午前中に検査を終わって、検査官共々、瀬戸大橋を渡り、与島に見学に連れて行った。与島で観光船に乗った検査官は、至極ご満悦で、帰っていった。
休みは、児島での買い物と、打ちっ放し、いつものパターンだ。
ポスト極ロボでは、草刈りロボットやナース支援ロボットなどの話がでたが、結局線香花火で終わる。極ロボは、大型プロジェクト組合員の会社には、ロボットの専門会社もある。小人数で、やっている、限られた中から新しいシーズが出てくるわけはない。私は冷めてみていた。
海洋ロボットを、大型水槽に移す必要が出てくる。このため、深田サルベージや五洋建設の担当者と打ち合わせをした。深田サルベージは、私が、リグをやっている時代に、コラムや、上部構造を吊り上げるのによく摺り合わせを行った会社だ。また、私をこんな立場に追いやった、吉田号を保有する会社でもある。感慨が深かった。
移動グループの内原君は、完全に私を軽視し、物事の切実感が欠如している。
本社の部長もそれを知り、ロボット組合の理事に相談、盆休み明けに何らかの手を打つことになった。
ポスト極ロボについてのフリートーキングが行われたが、大した成果もなく、先行きの不安が増すだけだった。
瀬戸大橋カントリークラブに、極ロボ関係のスタッフと出かけ1ラウンド半を回ったが、最後に足が吊り惨めな思いをした。
夏休みは、ゴルフ以外は、牛窓のホテルリマー二を訪れ食事をして、竹久夢二の生家を見た。
岡山ブルーライン邑久ICから車で約3分のところにあるこの生家は、瓦葺きの上にわらぶきの屋根を被せた庄屋風の建物だった。
竹久夢二は大正ロマンを代表する、漂泊と叙情の画家詩人であり、彼の描く作風はどことなく頼りなげで、しかも凛としている柔らかい感動を人に与えてくれる。美しい山河に囲まれた生家で夢二は生まれ、16歳まで過ごしたという。茅葺きの家は生前のままに保存されていた。素描、版画などの作品が展示され、入口には有島生馬の筆による「竹久夢二ここに生る」の碑がある。
帰りに児島干拓地の中にある、横樋地蔵に参った。
休み明け、実用化ワーキンググループが東京で行われた。私は出張するものの、仕事は私のところを素通りして過ぎてゆく。やるせない気持ちが募った。常に蚊帳の外で、実務はこなされていく、正に傀儡とはこの事かと思い知らされた。帰りの新幹線でパーカーのボールペンを落としたことに気づいたことが、私にはより一層ショックだった。
この間、父の法事の時に言っていた、二姉の胆石の手術日が決まったという。手術の承諾書に肉親のサインがいるという。承諾書が私の下に送られてきた、書類に目を通すでもなく、機械的にサインと判子を押した。
私は自分が胆石で入院切開手術をした時のことを思い出した。
初めは、盲腸だと、会社所属の病院で診断され、それに基づいて、手術され掛けた。どうも様子がおかしいので、倉敷の総合病院に出かけてCTスキャンを掛けて貰った所、何と、ウズラの卵大の石が詰まっているとのことだった。
それ以来医者は信用がならないと言うことが身に付いた。姉の手術は、1ヶ月後だという。胆石は、盲腸に継いで、簡単な手術と聞いていたので、さしたる心配もしていなかった。
とはいうものの、自分の体にメスを入れる時は、その時が最初だったこともあり、腹をまっぷたつに切ると言われ、おびえて、どうしようもなく不安であったことを思い出す。
私は、肉体的には、さほど不便を囲うことはなかったが、精神面での弱さが気になった。何でも自分の責任と考え込む癖があった。ぼちぼち歩いていけばいいものを、せっかちに問題提起されると、即座に答えなければならないと焦ってしまう。そこで、自分を追いつめて、どうしようもなく落ち込んでしまう。いつものパターンがそうだった。
従って、ノーオブリゲーションで、自由に仕事が出来ることを私は望んだ。
ロボットのトータルシステムに関して、情報交換をかね、昭島研究所に担当者全員で出張した。その晩は親睦会で、昭島の連中と一緒に交歓した。
再び、部課長以上でポスト極ロボの話が行われた。結果は、何も目新しいことはなかった。
その日、姉の手術が近いとのことで、M.K.は大阪に付き添いのためで掛けた。M.K.は口ではきついことを言うが、土壇場では優しい。その日は、M.K.の誕生日でもあった。
手術の日は、一姉も泊まりに来たようだ。M.K.は、その後も付き添い、結局1週間詰めた。
ロボットは、内原君の、協調性の無さが目立った。相当個性的な集団だが、之では、チームとしての仕事は出来ない。彼らはそれをしたことがないので、自分を殺すことはしないし出来ない。
外は台風の影響で、風が強く、雨が横殴りに降っている。翌日は台風の全盛だ、まるで私の所属する極限作業ロボットのグループのようだ。やるせない気持ちで、早く終わって欲しいこと、又終わった後のポスト極ロボは一体どうなるのだろうと考えざるを得ない。
私は就職したのであって、就社したのではないのにと思わざるを得なかった。
土日月の3連休を掛けて、姉の退院の手伝いかたがた、奈良へ行くことにした。途中一寸戻って、六甲山へ登り、神戸の町を眺めた。以前にVZ750で来たコースを走った。土産物店で、貯金箱形式になった、おじいさんとおばあさんの人形を買った。おじいさんは頭が禿げているし、おばあさんはエプロンを掛けて優しそうである。どちらも両親のにこやかな時に似ていた。
厚生年金病院は福島駅の近くで、姉は退院すると言うことで、入院時の荷物を纏めて、車での出入りは、返って事故の元であると考え、車は、病院に置き、電車で帰った。
翌朝、厚生年金病院へ車を取りに行き、そのまま、奈良へ向かった。
奈良では、東大寺、二月堂、興福寺、春日大社そして、最後に新薬師寺に行った。
東大寺は今は、世界遺産にも登録されている、大仏様のお住まいである。
若草山山麓に位置する日本を代表する名刹として名高い。聖武天皇の発願により造営され、天平勝宝4年(752)堂内に安置された廬舎那(るしゃな)仏(大仏)の開眼供養が行われた。華厳宗大本山、総国分寺としての格式を誇った。南都焼打ちにより堂宇の多くを焼失したが、鎌倉時代に俊乗房重源上人の全国勧進で再建された。現存する堂宇は元禄の頃再建されたものが今に伝わっている。
ここに下部をくり抜いた柱があり、その孔を通ると無病息災でいられるというので潜ったが、かなり窮屈な所で、肥満児は無病でいられないことが実証された感じがした。
二月堂は、東大寺から歩いても少しの場所だ。お水取りで知られる修二会は火と水の祭典である。最初、三笠山のふもとにあった金鐘寺が、天平13年(741年)現在の場所に移って大和国分寺となり、さらに、良弁の活躍で境内に東大寺が設けられた。
天平12年(740年)、聖武天皇は、河内(柏原市)の知識寺に立ち寄り、そこに安置されていた毘盧舎那仏と出会い、東大寺大仏の建立を思い立ったとされる。
天平15年(743年)、滋賀の紫香楽宮で「大仏造立の詔」を発し、翌年大仏鋳造の工事が開始されたが、天平17年(745年)工事を中止した。
天平18年(746年)、大仏の造立工事が再開され、3年間に8度の改鋳を繰り返した後、天平勝宝元年(749年)10月に大仏は完成した。これが有名な奈良の大仏で、大仏を安置してある大仏殿は世界最大の木造建築である。東大寺には、大仏殿・法華堂などの国宝、重文の二月堂などの建築物を始め、国宝の仏像も数多くあり、文化財の一大宝庫となっている。
正倉院は、以前は東大寺の宝庫であったが、今は宮内庁の所管になっている。
752年に始められたとされ、以来、一度も途絶えることなしに続いている。私が行った9月はそんな話が聞けるぐらいで、穏やかな二月堂にその様な活気が毎年訪れる、日本の文化を誇りに思った。
興福寺は、これも世界遺産に登録されており、天智天皇の治世に藤原鎌足の菩提をとむらう為創建された。
平城遷都により現在地に移り藤原氏の氏寺として栄えたが、治承4年(1180)の南都焼打ち以降衰退していった。現存する建物は鎌倉時代の建築である北円堂、三重塔〔いずれも国宝〕以外は室町時代より後のものである。
国宝である五重塔は、光明皇后の発願により天平2年(730)に建立された。しかし、その後6度も焼失し、現在の塔は応永33年(1426)に再建されたもの。がっしりとしたつくりで、天平時代の面影を残している。塔の高さは約51mもある。
また、国宝三重の塔は、興福寺境内南西に建っている。鎌倉時代初期のものといわれる。高さは約18mで、五重塔と比べるとずっと小柄だが、繊細な美しさが感じられる。
北円堂も国宝で八角型をなし、現存する興福寺の建物群の中で最も古く、鎌倉時代初期のものである。本尊は弥勒菩薩、木像坐像で運慶の作。堂内には同じ運慶作の無著・世親2体の菩薩立像が安置されている。
興福寺東金堂も国宝で、度重なる焼失の後に建てられた現存の建物は応永22年(1415)に再建されたもの。五重塔と国宝館の間にあり、本尊は薬師如来。脇侍仏と共に重要文化財に指定されている。
興福寺国宝館も国宝で食堂と細殿を模した2棟から成っている。収蔵品に国宝・重文が多く、代表的な収蔵物は旧山田寺仏頭、八部衆立像、天灯鬼・竜灯鬼立像、2体の金剛力士像などがある。
あとは、興福寺中金堂、興福寺南円堂、等の重要文化財が、その一帯に散在している。
次に出向いた春日大社は、ここも世界遺産にも登録されており、和銅3年(710)藤原氏の氏社として創建され、平安後期には官社となったため朝廷の崇敬も厚く栄えた。
本殿を囲む朱塗の回廊が春日山麓の緑の木立に映え、軒に下がる釣燈篭や桧皮葺の社殿などが典雅な趣をかもし出している。境内には本社や若宮神社の神宝を収蔵する宝物館、万葉集に詠まれた草木を植えた萬葉植物園などがある。参道の両脇には石燈篭が林立し、万燈籠(節分と8/14・15)の夜には境内の約2000もの石燈篭と約1000の釣燈篭全てが一斉に点火される。そんなことは知らない、計画性のない私は、そのころ来たらさぞかし賑やかだろうなと考えた。
でも一度、京都の祇園祭に出かけた私は、こんな雑踏で何が楽しいのかと思うほどの混みように、嫌気がさしたことがあった。何しろ四条通を反対側にわたるだけで、川の流れに流される如く、50mぐらいは流されてしまったことを思い出した。
最後に訪れた薬師寺は、ほんの少ししか時間が無く、閉館時間がきたので追い立てられるように外に出て、パンフレットだけと、外観を見て往時をしのんだ。聖武天皇の眼病の回復を願って光明皇后が建立したと伝えられている。天平建築の本堂〔国宝〕内に本尊木造薬師如来坐像〔国宝〕・塑像十二神将立像を安置している。萩の名所としても有名だそうである。
私の場合は、奈良は殆ど来たことが無く、平城京以降の平安京に興味を持っていた。奈良はさびた感じ、乾いた感じを覚え、京都は、少し華やかさを持った潤いを感じた。
大阪から帰った時は、さすがに疲れていた。今までになく安全運転で、車を走らせた。
今までの私は、追い越しできるときは、一気に追い越し、猛スピードで、前の車を追い、又追い越すという、緊迫した運転に終始し、おそらく、何処かにねずみ取りがあれば、必ず引っかかるであろう危険な運転をしていた。従って、シフト付の車にしか、私は乗らなかった。
追い抜く際のシフトダウンによるエンジンの急激な回転数アップの音に心地よい快感と、RX7のゼロヨン加速の良さに私は、酔うことが多かった。
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