「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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造船時代その11
造船所時代の日記(11)です
ドイツ統一のニュースと、ベルリンの壁を壊す、ドイツ人達の姿がTVで流れてくるのを、ぼんやりと眺めていた。
内原君は完全に私を無視し、自分勝手な行動に出ている。どうせ、徳島大へ転出するから、もう用はないと言う訳か。私にはその気持ちが読めなかったしそんな心境になれる内原君を、不思議な人種と感じた。
ロボットの海洋部会が、群馬県で行われた。金曜日の朝から、ゴルフをして、夕方から会議を2時間それから懇親会をしてというスケジュールだ。私はゴルフには出ないので金曜日朝、玉野を発った。
新治村のホテルコープシャトウ猿ヶ京で行われた海洋部会は、形式的なものだった。
それが終わり、土日を掛けて、スタッフ二人と能登島へ行った。スタッフの一人が、車で来ていたのでそれに便乗した。能登島で泊まり、翌日早く輪島の朝市に出かけた。前にVZ750で来た時は、朝市までは見なかったので、一通り、通りを冷やかしながら歩いた。
その夜までの玉野帰還は、結構疲れた。
今年も備前焼祭りの季節が訪れた。水盤などに55000円をつぎ込んだ。備前焼の良さは、素朴さにある。私のぐい飲みも備前焼が多い。私は、各所のぐい飲みを集めたセットを持っていた。益子、有田、久谷、色々あったが、有田の高坏と、備前の単純な形のぐい飲みを好んで使った。
東大出の課長で会社を去った数学者は、会社の嘱託となり、もう10回も会社で特別講演を行っている。皆難しい標題である。10回目の講演は「ニューラルネットワーク内のカオス」であった。
神経細胞の中の混沌とでも言うのか、何の目的で何に使われるのか、私如き人間の知る由もなかった。
景気が悪いにも拘わらず、人材が集まらないということで、リクルートの為に各母校を訪問することになった。
私は先輩課長(その先輩も部長になり損ねていた)と一緒に、阪大へと出張した。
その先輩は、機械出身、私は造船であったが、二人は、情報や応用物理、精密工学などの各教授に面会を求めた。一口に教授と言っても、産業界に顔の利く教授と、学究肌の教授では、部屋の大きさや待遇が全く違う。狭い部屋で、やっている教授もいれば、最上階に近い部屋で、広々と応接する教授もいた。そんな中にも私は、世の中の不条理を感じないではいられなかった。
そんな折り、岡山大学から極ロボを見学に24名がやってきた。
移動システムのCPUが度々落ちた。私の対応に業を煮やした本社部長は、直接外注先のMSRの所長に掛け合った。RAMの絶縁が悪く、新しいものと交換した。部長は、電気出身である、造船出身の私に分かろう筈がない。都合のよい時だけ使って、問題が起こると、矢面に立たされる。私は何時も損な役回りをさせられた。
ポスト極ロボでは内々に玉野研究所長から話があった。どうにも、適当なプロジェクトは見あたらない。それが結論だった。私は、現在の東京在住部長と、玉野研究所の技師長との間で話しあって貰うべく、両者にそれぞれ電話連絡をした。
しかし、誰一人真面目に考えている人間がいないことを知っただけだった。自分もどうなるか分からない時に、残った組織の連中のことなど考えられないというのが本音だろう。
車について、私は今まで、走るパフォーマンスばかりを追求してきたが、私は、もう走ることに必死になることより、家庭的で、乗り心地の良い車をということで、現在のRX7を下取りに出して、追い金を払いトヨタのカリーナEDを購入することにした。日産の方が若干下取り価格は高かったが、その時欲しい車が日産にはなかった。
そんな中、私は46歳になっていた。Y.Yから電話が掛かってきた。Y.Yには転属のことは知らせていない。昔の職場から研究所の電話を聞き、追いかけて電話してくれた。悩みを打ち明けてもどうしようもない。彼女は、相変わらず元気そうだった。「研究部ですって?一体何を研究しているの?」と言われても、応えようが無く「ロボットだよ、でも僕は、内容は分からないんだ」と半ば自嘲的に応えた。
それでも彼女は、「いつかお会いしたいですね、お元気そうで何よりです。とにかく、お誕生日おめでとう」と言って電話は切れた。
つき合いを止めてから早20年以上も経つが、Y.Yは覚えていてくれた。
休みに何とはなしに出勤することが多くなった。家と研究所までは、2kmも無いくらいであり、目と鼻の先であった。
カリーナEDが納車され、早速M.K.の親戚の家に出かけた。玉島から児島を通り、M.K.の靴を買って帰った。
専門家に任せてロボットのビデオを撮り始めた。色々な角度から、我々はその道の専門家らしく、技術のポイントを教えると、よく分かるように、カメラアングルを決め、手際よく撮影していた。
そしてプレス発表を行い実証試験に入った。一般公開が、午前と午後2回に分けて行われた。
実証試験水槽は、建造ドックの中に作られた、長さ50m幅25m高さ20m程の鋼製プールの中に、模擬的ジャッキリグの脚が設置されていた。練習に練習を重ねた、特機部の若手が、頭に視覚用のゴーグルを付け、疑似アームを介して、巧みにロボットを操縦した。
プールの真ん中には、両側にわたれるように回廊が付けてある。その上に立つと、ロボットが発進する所、旋回する所、又固着作業に掛かるところがよく分かった。
プールの隅で、固着作業に入るロボットは、脚を2本ゆっくりとせり出し、リグの脚に近づけ、やがて、吸引するかのように自分自身を櫓に固定させる。
固定させたら、今度は、上部の疑似アームを前に出して、作業箱から、機器を取り出し、櫓の格点部を超音波探傷するべく、細かい作業にはいる。それが終わると、一連の作業が終わることになる。みんな、それぞれの作業を、担当分野別に必死に目で追っていた。
バリベックプロペラ、固着脚、マニュピュレーター、監視用カメラ、作業用カメラ、それらを操作するマスターコンソール、操作員、全てが、巧く行った。
翌日の各社新聞は、このロボットの成功を、報じていた。セレモニーは終わった。
ロボットの実証試験の成功も束の間の喜びでしかなかった。みんなが、疲れて、休みを取っている間、福山のマーメードゴルフに出かけた。
その年は、慌ただしい中に終わりを告げた。
新しい年は、やって来た。今年も由加山へ、お参りに行った。祈ることは同じだ。今年は、之までに比べて、どうか、新しい仕事がありますようにが加わった。
原子力ロボットの実証実験も行われた、それを見るために、我々は鶴見まで出張した。最先端ロボットが、4足歩行ながら、着実に、障害物を越え、進む様は、素晴らしかった。しかし本心は、もう少し進んだものを期待していたので、少し予想外でもあった。
帰ると直ぐM.K.が入院することになった。子宮筋腫である。倉敷中央病院で、私がCTスキャンを依頼した所だ。
ニュースでは、湾岸戦争に突入した、砂の嵐作戦が始まったと報じていた。
翌日の3時から手術が始まるという。私はその日も休みを取り、7時半に起き、横樋地蔵に願を掛けた。M.K.の手術が巧く行きますように。私の鬱病も完全に治りますように。
「オンアロリキャソワカ」と、意味も分からず唱えた。病院には、10時20分に着いた。
2時40分M.K.は手術室に向かった。予定通りに手術は行われた。4時30分2時間足らずで手術の終了が告げられた。手術は、輸血無しに、成功したと言われた。
子宮約60~70gに対して、筋腫は約1kgあったという。まるでローストビーフのような感じであった。こんな物を持ち歩いていたのでさぞ痛かったであろうと思ったが、さほどでもなかったらしい。悪性でなくて良かったと胸をなで下ろした。
翌日、M.K.はCPUに置かれた。
それからの平日は、電話での様子伺いになった。M.K.は素っ気なかった。ようやく点滴の器具を付けたまま、トイレに行くことが出来るようになったとか。土曜日を待ちかね、病院に駆けつけた。
M.K.は2人部屋に移されていた。日曜日も病院に行くが、後は日にち薬で、時を待つしかない。
私は、肉と豆腐を買って、家で自炊した。料理はからっきし駄目だったので、M.K.の存在の大きさを感じた。肉は焼いて、豆腐は湯豆腐で、それしか芸がなかった。
ポストロボットで、ロードバランサーの話が出てきた。油圧を使い、重量物を運搬する装置だ。建築現場などで使われる要素が大きいという。
私は、油圧の本を買って読んだが、独学ではなかなか理解出来るものではない。
ロボットの解体の話がそろそろ始まった。又玉研の技報に載せる話もあった。
M.Kの母がM.K.を見舞いに行き気分が悪くなったとの知らせが入ったので、私は慌てて、3時に休みを取り、病院に向かった、片道30kmが長く感じられた。取り敢えず、総社まで送って寝かせた。
健康保険との関係を調べ、入院費5万7千円を超えた分についてはやがて返納があると聞いた。
昼休みに電話をした。半月振りに退院するという。予定より1週間早い退院だ。定時後病院に駆けつけた。
無事退院することが出来た。
翌々日には買い物に出かけ、M.K.は、久し振りに歩いたせいで、疲れさせてしまった。
暫くして横樋地蔵に病気平癒と、身体健全、家内安全を祈願しに行った。自分の病気である。
NEDOの中間検査が行われた、NEDOから4名の検査官が来た。こちらも関係者は、一堂に会した。
週末に非常な寒波が襲ってきた。一歩も家を出ることは出来なかった。夕方風呂を入れようとして、ソーラーシステムが凍り付いてしまい、湯が出てこないのには閉口した。翌日の日曜日も、強烈に寒く、持ち帰っていたレポート作成のワープロをやろうとしたがなかなか能率が上がらなかった。
翌週も寒かったが、退院の内祝いを買いに、岡山の天満屋に出かけた。帰りに30号線の紅陽寿司で夕食を済ませて帰った。
月に1回程度、病院に薬を貰っている、無くても平気なのだが、何時、引き金は引かれるか分からない。最初私はM.K.に黒い犬のことは黙っていた。
それを知った、M.K.は、不機嫌になり、取り付く島が無くなった。
しかし段々に理解を示してくれて、現実を認めてくれるようになった。
ロボットの成果報告書で、仕上げをしなければならず、スタッフは大忙しであった。
3月半ばの土曜日、大雪が降った。玉野では珍しいことだ。午後、何とか出社して、成果報告書の仕上げ作業を行ったり、その為の他社とのファックスのやり取りを行った。
3月も終わりに近づき内原君が、退職の挨拶をして回りやがて去っていった。
そんな中、小学校時代の四宮君から電話があった、同窓会をすると言う。とても行けそうになかった。
4月1日付をもって、プロジェクトチームは解散となった。そのまま横滑りで、船舶鉄構総括部が出来其処の玉野分室という位置づけに替わった。内容は何ら変わらないがラベルが、技術本部の研究所を離れ、船海本部に移動した。
本社でキックオフミーティングが行われたが、予想通りというかみんなを説得するまでの具体的な話は得られず、担当する部長が、逆に玉野に来ると言うことになっただけだった。
極ロボの打ち上げ会の日に、担当の部長は玉野にやってきた。そして、第一回の事業開発会議が持たれた。要するに、何もやることがないので、みんなで考えて、何とかしてくれというものだった。
玉研(玉原)から元居た玉野設計本館に引越が決まり、やがてかって活躍した、造船設計の4階から離れた、2階の薄暗い部屋が我々に与えられた。
其処は如何にも隔離された、本社の分室ですという感じの部屋だった。
薄暗い一室での最初の話は、課長補佐以上を集めて、この先どうするかだったが、何も得るものはないことは分かっていた。私は敢えて、スタッフが、どれくらい乾ききっているのかを肌で感じようとした。
所謂偉い人の前では、本音が出ない。彼らだけなら、本音が聞けると考えたからだ。
しかし乾いたものは湿らなかった。
今俎上にあるのはロードバランサーでありそれしかなかった。
週末は雨模様だった。倉敷で打ちっ放しをして、M.K.のおばさんの家を訪問した。置物や飾り物が所狭しと並んでいる。一つ一つを見ると高価な物らしいが、雑然と置かれたそれらは、余り品の良くない物ばかりであった。いわゆる成金趣味が、諸に出ていた。
そこで良寛の茶会券を貰った。円通寺で行われる茶会は、良寛ゆかりの地で、倉敷の年中行事になっている。円通寺は、京都にもあるが、そことは名前が一緒であるだけで、何ら関係は無さそうだった。
早速、日曜日に円通寺に出かけたが、晴れ着姿の女性がちらほら見られた。
永井から電話があり安藤の親父が亡くなったとのことだった。私と父の間は、私が9人姉弟の末っ子であるために、親と孫の関係ほど年が離れていたので、私の友人よりは、先に親が居なくなっていた。取りあえず弔電を打つ。
私は、岡大に最後の通院をした。何の都合だか、通院先は岡山日赤病院に変わった。依然として、2時間待ちの5分診療は変わらなかった。その日も打ちっ放しをしたが、バラバラな球の行方を見て、何か、自分の人生そのものであるかのように感じた。
船舶海洋技術部(船海技)玉野分室が私の居場所だったが、東京の部長が、やってきて、事情聴取が行われた。
私のグループの他に地中探査のグループが船海技所属になっていたが、そちらの方は、ほぼ商品化が出来る段階まで来ていたので、悠然と構えていた。それに引き替え、私のグループは、何をして良いのかも判らず、四苦八苦していた。
日曜日から連休に入る、EDを駆って、又姉の家に行った。RX7に比べてずいぶん燃費が良い。リッター20km近く走った。
いつも思いついたときに行動を起こすので、全く計画性がない。只、日頃の憂さを晴らすにはこれしか手段が見つからない。着いた翌日、天保山にある海遊館を訪れた。単なる水族館かと思っていた私は、そのスケールの大きさに、少し圧倒された。
そこには体長5mは有ろうかと思われるジンベイザメが2頭大きな体をもてあますように悠然と泳いでいた。水のトンネルを抜けたり、とにかく大人でも十分に楽しめる空間があった。美術館なども併設されたり、世界最大級の観覧車があったりして、お弁当を持った家族連れが、楽しそうにゆったりとした陽光を楽しんでいた。
我々3人も童心に帰り、水族館の魚に見とれた。梅田まで帰って、夕食を取り、姉の家に戻った。
翌日は、ゆっくり起き、9時過ぎに奈良へ出かけた。
室生寺は別名を“女人高野”という。室生川上流の山間、朱の橋を渡ると境内で、緑の杉木立の中に弥勒堂・金堂・本堂・五重塔などの堂塔が美しいたたずまいを見せて立ち並んでいる。
訪れた時は、シャクナゲ・ハナズオウの花が咲き競っていた。奥ノ院へは石段400段。奥の院迄は、急な階段があり、汗をかきかき昇った。龍穴神社は室生寺の前から室生川に沿って約一キロさかのぼった渓谷の入り口に龍穴神社、その奥の峡谷の清冽な流れに面して、雨や雲を支配する龍王が住むという龍穴がある。室生龍穴の信仰は室生寺の創立とほぼ同じ平安前期以来で、朝廷の崇敬厚く度々雨乞いが行われ、龍神の室生として知られるようになったという。
次に訪れたのは、ボタンの長谷寺であった。初瀬(はせ)山の南中腹、本堂をはじめ大小の諸堂、五重塔が立ち並ぶ。一際目につくのは仁王門~本堂まで続く回廊で約400の石段を登るように作られ、天井には行灯が釣られている。本堂は舞台造で本尊は木造十一面観音立像。西国33カ所の一つで観音信仰の霊場として信仰が厚い。牡丹の名所というだけあって、園内に広がるボタンの花は,圧巻であった。紅葉も美しいらしい。
次に橿原神宮を回った。明治22年(1889)京都御所の賢所を本殿として神武天皇の橿原宮跡に創建された。畝傍山東南麓の広大な神域を占め、緑に覆われて素木(しらき)の壮大な社殿が立ち並んでいる。祭神は神武天皇とその皇后である姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が祭られている。考古博物館、森林遊苑も併設されている。
その日は、橿原神宮で、終わりにした。翌日も同じ頃、姉の家を出発、京都に向かった。京都は、何回も行ったところだ、でも上滑りに見ていた。隣にいつも誰かが居た。そちらの方に気を取られ肝心の京都自身は鑑賞していなかったのかもしれない。
清水寺へ向かった。だらだら坂を上る途中に、清水焼を売る店が、道路のそばまで張り出してきている。そんないくつかの店を冷やかして歩いたが、買わなかった。清水寺の下で、水垢離をやっている。この時期はいいが、真冬でもやるという。私はただただ驚くしかない。
木造の櫓を組んだ、舞台の上に立つと、京都の東の部分が、一望でき、すがすがしい気持ちになった。清水の舞台から飛び降りるとよく言うが、本当にここから飛べば、間違いなく死ぬなと思った。
続いて、高台寺へ行った。北政所(ねね)が秀吉の菩提のために建てた禅寺で桃山様式の表門は伏見城から移したものだという。調度品の蒔絵は高台寺蒔絵として知られ、庭園〔名勝〕・絵画・霊屋・茶室など見所が多い。
余り中に入ったことの無い私は,いつも前を通っていた寺の由緒を改めて認識した。
最後の寺院は,地恩院だ。ここは,Y.Y.と良く通ったところだ。
除夜の鐘と日本一の大きさを誇る三門でおなじみのお寺。承安5年(1175)法然上人が浄土宗の総本山として開かれ、秀吉や家康の庇護をうけて、いまの壮大な大伽藍が出来上がったと聞く、ことに徳川幕府は、ことあらば戦用の城郭に転用すべく多大の援助を惜しまなかったとのことである。1619(元和5)年に建立された我が国最大の楼門を始め、その広大な堂社は歴史的価値の高いものが多い。
大山門をくぐって数十段の広い石段を登ると広大な境内がひろがり、本堂(御影堂)・集会堂・大方丈などの大建築が並んでいるが。いずれも江戸初期の建築という。「左甚五郎の忘れ傘」など伝承話とともに、実際に屋根の上に忘れられた傘の柄の部分が、見上げるとあったりして興味深く指差す観光客も多い。
知恩院に伝わる七不思議として,次のものが有ると聞いた。
◇鶯張りの廊下
歩くと鶯の鳴き声に似た音が出で、忍者もその音を消せなかったといわれています。
(これは,実際歩いてみて、その音の出方はどうなっているのか不思議と、興味を覚えた)。
◇白木の棺
三門を建てた普請奉行、五味金右衛門夫婦の自作の木像が収められています。
◇忘れ傘
本堂正面、東寄りの屋根のひさしにあり、左甚五郎が魔除けに置いたといわれています。
◇抜け雀
襖に描かれた雀があまりによく描かれていたので、抜け出してどこかへ飛び立ったといわれています。
◇三方正面の猫
杉戸に狩野信政の筆で描かれた猫の絵で、どこから見ても見る人の方を正面からにらんでいるように見えます。
◇瓜生石
黒門のところにあるこの石に瓜が青々と実ったといわれています。
◇大杓子
すべての人々が救いとられるという一切衆生救済を現したもので、長さ約3m、重さ約30kgあるといわれています。
京都見物を終え、四条河原町から、阪急電車で、梅田迄出て、高島屋で買い物を済ませ、家路へと急いだ。
翌日は、姉の家を辞して、神戸のポートアイランドへ立ち寄った。青少年科学館で、プラネタリウムもどきを見て、玉原に着いたときは、夜の10時近かった。
残りの3日の休みは、家で、休養を取ったり、打ちっ放しに行ったり、長いようで短い、休みも終わった。
会社での空白は続く。何かはやっているが、それが何なのか私にはつかめていない。
ロードバランサーが、やはり実動中では最も確率が高い。
週末は、打ちっ放しと、日曜日には恒例のキリンビール祭りがあり、生ビールを4~5杯飲んだ。
来る日も来る日も、空転した。そして週末の打ちっ放し。表面的にはいざ知らず、内心はこれで良いのかとの思いが強かった。
そんな6月はじめ、固着を担当していた鳥越君が7月一杯で退職するという申請書を携えて、私の下に訪れた。鳥越君は仕事は出来るが、大勢の組織に中では育っていない。せいぜい2人の組み合わせで動いてきた。
鳥越君は研究所長に、CIを提案するなど、会社のこともそれなりに心配していた。そこに、極ロボが終わってからの空白。鳥越君には我慢が出来なかったようだ。
辞表は、一時玉研長の預かりとなったが、やがて、退職やむなしの判断が下された。
立体駐車場関係の課長補佐とのミーティングに参加した。どれも私には興味を示せるものではなかった。
ロードバランサーの本社ヒアリングにも私が行くべき所、内容が判らないために担当者に行かせた。そんな無力感から、体調も必ずしも良い方向には向かっていなかった。
自転車を買った。山道では使いようがないと思ったがM.K.は簡単な買い物には、自転車で良いと言って、安い物を買った。
毎度のことだが、眠るが、早朝に覚醒し5時過ぎにはいろいろなことを考えていらいらして寝られぬ。
M.K.は前を引きずっていると言うが、そういうこともあるかもしれないが、仕事のことが主な原因である。「もう死ねば」とにべもなかった。ショーガナイとこの時諦観が頭をよぎった。日赤病院の先生は、燃料(薬)を入れてもブレーキ(家・会社)を掛けていては列車は走らないですよと言われた。
当たり前のことで、そのブレーキは。独力では、はずせないのだ。
ボーナスも当然C2と上がらない。打ちっ放しも最近は一人が多く、M.K.は私が練習をしている間に自分は買い物をするようになった。
一緒にいた連中も苛立ち、何をやるのかはっきりしてくれとの要求が日増しに強まった。
私自身の指導力のなさを暗に批判する者も現れた。私にとっては、非常なプレッシャーになった。
立体駐車場の田中部長が、やってきて、現状を説明、マーケットはあると強調していた。
私は一人立体駐車場のことを考えたが、どうもしっくりするものはなかった。
家では、昔買っていた置物の件で、誰に貰ったものかとの話となり、M.K.の逆鱗に触れてしまった。それから数日は、別れる、別れないの話を続けなければならなかった。
月曜日に突然同窓の先輩原田理事から、大阪工業倶楽部に出席を依頼された。然し私は、仕様があると言って断ってしまった。事実、病院に行く日と重なってしまっていたのだ。
こういうことが、私を浮かび上がらせない原因の一つになっていた。
気分は段々に塞ぎ、泥沼に入っていくような気配だった。鳥越君の送別会をする日がやってきた。あらゆる引き留め策も彼の決心を変えられなかった。
会社では席を変えるべく引っ越しの準備が行われた。
夏休みに入り、三宮に行った。ボーンチャイナを買い後は三宮の散策だけに終わった。
会社では、極ロボの連中がそのまま一緒に席を並べた。藤原君と、その尻馬に乗る湯藤君は、完全に私のことを無視し始めた。最悪の状態を連想し、心が段々重くなる。
ケ・セラ・セラの心境でやらなければ、体が持たない。そう感じた。
買い物に出かけ、デコイを買ったが、その日あった花火大会には出ていかなかった。
テレビ番組を見て、人のためにあんなに一生懸命働いている人がいるのに、自分は自分のことだけを考えるのに精一杯だ情けない・・・。そう思った。こういうときはいつも自虐的になる。みんなは、それぞれ自分を持っている、そして、表現している自分だけが違う、陰鬱でおもしろくないそんな風に思ってしまうのだ。
藤原君、湯藤君に合わせるように、その他の人間も私を浮いたものにした。
娘から電話があり、デザインの学校に行くので、お金がいるとのこと。応じられないと断った。これは前妻が言わしめたものであることは明らかであり、離婚の時にピアノを含む家財の殆どを断りもなく引き払っていくような女のすることだと、忌々しく思った。
EDとアルトの2台の車は、余り機能していなかった。そこで、2台をベースにして1台を買おうとした。日産のセフィ-ロだ。私は、日産車は、初めてだったが、スタイルの落ち着いた、又値頃感に心が動いた。
8月の連休は、殆ど何もしなかった。総社にあるミニゴルフ場で、遊んだのと、吹屋の広兼邸へ出かけたことぐらいだ。
大石さんが、玉野に来て、久しぶりに飲もうと言うことになった。大石さんは私が中途半端であることを常に気に掛けてくれていた。私に難しい本「DI・ドメインアイデンティティー」という本を渡し、読むようにと勧めた。
岡山の日産へ行き、ヘッドライトがプロジェクター方式から一般のものにしようが変わっていたが、何故かプロジェクター方式のマスクが気に入っていたので、仕様を少し変更依頼して帰った。
それから2週間ほど経った。私は相変わらず、行方をつかめず呻吟していた。部下からも疎まれている、積極的になろうとしても体が動かない。こんな事が上司に耳に入ったら、その時は破滅だ。開き直りしかない。所詮先は見えているのだ。神のみぞ知る自分の気持ちを奮い立たせることは出来ないのだろうか。残業の終わりに一人寂しく思った。
月曜日セフィーロが納車された。
週末には、又三宮へ行った。ピエロをかたどったプランターを買った。
極ロボ時代の東京の部長が、玉野にやってきて、転職するという。
我々は路頭に迷い掛けているのに、結構なことだと思わざるを得ない。
自分勝手だと思ったが然し、歓送会をし、2次会まで付き合い午前様になった。
そして、立体駐車場へ、段々と傾斜していった。
週末、墓参りに行った。ちょっと狭いところにある駐車場で、セフィーロの下の部分をこすってしまった。真新しいだけに悔しかった。でも修理を要するほどの傷でもなかった。その晩は寝られず2時過ぎまで本を読んでいた。
翌日、M.K.は早く起きて弁当を作った。因島の村上水軍の本拠地を目当てに、西日光と呼ばれる耕三寺まで、高速道路を走った。その日の昼飯(おにぎり)はことのほか旨かった。
ドライブから帰って、僅かな休みの気分転換に浸った。
会社では仕事もうまくいかず、疲れて、居眠りがつく日が多くなった。
大谷氏から「○○さん、何か悩み事でもあるのですか、足が地に着いていない感じがします。会社のことならどうにでもなります」と励まされた。
大谷氏はスタッフの中でも長老で、私より年上でもあったし、落ち着いた人であった。私は、少し救われる感じがした。
藤原君は、最初私がプロジェクトに参画する時は良かったが、最近は、私を攻める急先鋒になっていた。他の人は、どうも自分が無く、藤原君に扇動されている節があった。
その藤原君が、私に、今後の方針を明らかにして欲しいと詰め寄った。
そこで、全員のミーティングになったが、藤原、湯藤君の言いたい放題の会になってしまった。
それを契機に立体駐車場の話が、大きくなり(と言ってもどこからも、誰からも何の要求もなかったからだが)駐車場の見学や、三井建設と共同で行う、大型駐車場のコンセプト作りに入った。
駐車場専門メーカーとの打ち合わせも持たれ、段々駐車場一色になってきた。取締役を交えての打合会議も行われるようになり、仕事は認知されたが、果たしてどう進めるべきか、いかなるコンセプトで行くべきかがはっきりしなかった。
何回目かの自動車免許を更新した私は、妻と共に山陰に出発、蒜山大山の紅葉を愛でた。蒜山方面から、くだんのだらだら坂を上る間に見える全山一帯が、赤や黄色に彩られている様は、息をのむばかりであった。
玉造温泉に泊まろうと、出むいたが、満室であると断られ、やむなく松江駅前のビジネスホテルに泊まった。少し侘びしかった。
翌日は、松江城、八雲記念館、その旧居、武家屋敷などを回った。
更に、私が、一人暮らしの時RX7で訪れた、出雲大社、島根ワイナリー、一畑薬師を回遊してから松江に戻りそのまま、帰路についた。島根ワイナリーでは、ワインの試飲をして、運転を妻に替わって貰った。
訪れた、松江城は、千鳥城とも呼ばれ、宍道湖の北側、市内の展望が良い標高28mの亀田山にあり、慶長16年(1611)堀尾吉晴により築城された。江戸期は松平家の居城であった。堀で囲まれた城内には本丸跡、天守閣、二の丸跡、馬洗池、城山稲荷、松江神社、椿谷、石垣などの他、松江郷土館(興雲閣)などがあり、大手門、千鳥橋、いなり橋などで城下と結ばれている。天守閣は五層白壁、黒板の下見板張りで山陰地方唯一の現存する天守閣として国重要文化財に指定されており、一帯は桜の名所でもある。
八雲記念館は、著書「怪談」でおなじみの小泉八雲の記念館で旧制中学の教師として迎えられたハーンは、松江士族の娘、小泉セツと結婚し自ら小泉八雲と名乗り、松江の文化や風俗を著書「知られぬ日本の面影」や、松江地方に伝わる怪談「雪女」「小豆とぎ橋」で世界に紹介している。
セツ夫人と共に過ごした家や庭は、ほとんど当時のままに保存され、当時を偲ばせている。2層瓦葺のそれほど大きくは無い屋敷は、昔の風情を今に伝えていた。
又武家屋敷は、松江城の北、堀端にあり松平氏入城とともに松江に移った家老塩見家の屋敷。江戸後期の武家屋敷の遺構で、室内には武具や台所道具など多数の家具調度を展示していた。
会社では、OA機器に対するVDTの検査と同時に、成人病検診の結果が届いた。肝機能、乳酸、中性脂肪など、6項目について、許容値を上回っていた。翌週に再検査をするよう言われた。
週末に、テレビを買った29インチの「画王」だ、さすがに迫力があった。
課の忘年会があり2次会まで付き合い10時半に流会なった。
三井建設との合同会議も5回を数えた。我々はとにかう、コンセプトを出した。出来るかどうかは判らない、アイデアだ。明らかに矛盾するものもあったが、とにもかくにも当面のアウトプットは出た。
そして、その年も呉れた。
新年を迎えても、新たな感慨はなくなっていた。私は非常に疲れていた。思えば、自分の意に添わぬ事を命じられて、4年目がこようとしているわけだ。内からわき出るような感動は何もない。この若さでもう人生消化試合かと自嘲した。
我々が考えた大型地下立体駐車場は、既に広島市内で、具現化されていた。それに遅れまいと必死になっていた。
前後に高速で動き、その間に上下する、即ち斜めに稼働する駐車装置が試作段階に入った。
そんな折り、私に声が掛かった。
建築鉄構部からだ。構造の分かる現場担当者が必要だとのこと。行く先は千葉だった。
私はあれほど玉野に固執していたが、この声に、何かの救いを求めて、応じることにした。立体駐車場はどうでも良い。動くものは、私には分からない。制御だって、油圧だって、私の遠く及ばないところだった。
行く先は、千葉建築鉄構部で製造課長をやれとのことだった。私は、最後に掛けてみようとこれに応じた。しばらくの後、千葉転勤が決まった。
それを聞きつけた、旧船殻設計の連中が、急遽送別会を開いてくれた。
送別会を受けながら、私の母胎は、やはり此処なのだと、ある種の感動を覚えた。
4月をすぎると。具体的に赴任先が決まり、取りあえずは、賄い付きの独身寮に入居することになった。
1年間は、単身赴任を決めて、千葉という風土、千葉の職場に慣れるように心がけた。
千葉建築鉄構部そのもののステータスは低く、バブル前からの建築ブームに乗って、鉄骨の需要が、増えてきて、今日やっと部としての体裁を整えたばかりであった。
部長は、私と同期入社の人間だった。部長は、私を覚えていて、懐かしそうに話しかけてくれる。これなら、いけると思った。ずっと設計畑、製造課長などはやったことがない。部長は、気長に私を自由にさせてくれた。実務は、年輩の課長補佐が握り、その下で働く作業長が、職人を指揮していた。結局私はここでも飾り物であった。
実際の作業員(本工)の他に大勢の下請け工が居た。私は、課長補佐と、各作業長の歓迎を受けた。又、下請け4社の合同での歓迎会にも出た。出だしは、向かえる方も丁寧であった。
私は、8:00前には毎朝作業服に着替え、安全靴を履いて、工場前の運動できる広場に集合する。
各作業長が、一番前で、みんなの方を見て安全体操をする。作業員たちは、その方を見て安全体操する。私と部長は、後方からそれらを眺めながら同じように体操するという案配だ。
作業区は、加工、組立、溶接、運搬と4作業区になっていた。作業区毎のミーティングが行われ、私はそのミーティングを毎日順番に聞いて回る。作業長の下には、班長が居て、おのおの5~6名の作業員を指揮監督している。
課長補佐はその全体を仕切っていて、絶大な権力を持っていた。課長である私は、その力量を問われるまでもなく放置すれば、事は進んでいった。安全管理に関する事が強く言われて、それを監視するのが、私の主な仕事の一つであった。
更にたばこである。工場内は禁煙であるにも拘わらず、たばこのポイ捨てを目にすることが多々ある。
大概よそから来た業者のトラック運転手が捨てるのだとの言い訳を聞くが、必ずしもそうでない所もあるに違いない。やはり私は、いわゆる現場人間の道徳意識の欠如と、能力の低さに限界を感じずには居られない。ビルの鉄骨はそんなレベルで作られていった。
安全管理士なる職位が、独立してある。労働安全衛生基準法に精通しているものがその任に当たる。私はたばこのポイ捨ては勿論、玉掛け(クレーンで重量物を吊る時に重量物にフックを掛ける)作業が適正に行われているか、重量物を移動する時には、その重量物が、揺れて落下しないように道紐を付けて前後で、誘導すること、ヘルメットをかぶらず作業しては居ないか。
溶接工(電気屋)は溶接時にめがねと防毒マスクを掛け、長袖をまくっては居ないか。大型トラックは後進する時必ず誘導の人間を付けているか。等々、目を光らせることになった。
私自身労働安全衛生基準法の内容など知らない。皆宮内氏に任せてある。実質私のする仕事はほとんど無いのである。
私は、形式通り、朝の安全体操から、工場内を一巡し作業員に声を掛ける。健康状態をそれで判断する。そして、一旦事務所に帰る。何をするべきかを考える。
又昼食を食べて一段落すると、工場巡回をする。形こそ変われ、やっている内容は皆同じである。元々、鉄構工場の一部を借りて出来た工場なので、設備が完全ではない。
工場内の美化もその一つだが、もっと本質的なことはないかと考えた。
同期である部長も何をしろということもなく自主性に任せている。此処では、課長補佐が全権を握っておりその牙城は崩れない。私は、安全通路が確保されていない箇所を見つけ、班長に道を造り。ペンキで色分けするように
指示した。
両脇に白ペンキを塗り通路部分を緑に塗るだけのことだが、テープを貼ってやったわけではなく、適当に塗られた通路は曲がりくねっていた。
その時またも私は、作業員達のレベルの低さを感じた。
安全管理士の宮内氏は人なつっこい人で、とても私に親切に接してくれた。
もともと彼も造船出身であるため生まれる連帯感だった。
それから頻繁に飲みに行くようになり、内情を話してくれた。やはり此処は課長補佐が天皇であり、後は皆その顔色をうかがっているのだと言うことも確認出来た。部長でさえも一目置いているので、やりたい放題であると。
私は、現場の実務に関する勉強を始めた。「鋼構造溶接施工・管理教本」を一から始めた。
とにかく溶接のことを先ず知らねば、話にならない。皆技能としての溶接は出来ても、どのようなメカニズムであるかなどは殆ど知らない。事務所での殆どをその事に費やした。
又、工程管理も、その天皇が仕切っているだけで、所謂感によるものだった。これをなんとか数値化して、その日のノルマは、どれだけで、何処まで進捗しているかを目に見える管理で示そうというのだ。こういう事をやり出すと、天皇の機嫌が悪くなる。自分の牙城を荒らされるからだ。こんな風に天皇と私の間には徐々に溝が出来た。勢いやりにくくなる。
こんな時私は何時も思う。仕事に熱心になるのも考え物なんだ、郷にいれば郷に従うのが、一番良いのではないか。それでは、改善進歩がないが、進歩出来るポテンシャルの人間の集まりで初めてその事が言えるのだ。先ずその天皇を切らねば、此処は良くならないと感じた。
部長はそれではたちまち困る。宮内氏も同意見だった。
そんな中、業者の一つに部長に取り入ろうとのことで、度々ゴルフの誘いが掛かった。
そんな時は必ず私にも声が掛かった。千葉は、全国でも2番目にゴルフ場の多い所である。行く先はあの樋口久子の所属する浜野をはじめ、立野、源氏山、グリーンパーク、市原、大千葉、富士、新日本と様々である。
休みともなると、朝必ず業者の社長が迎えに来る。ゴルフの下手な私としては、余り気の進まぬ時もあったが、所謂接待ゴルフである。後になって問題が起こっても申し開きが出来ない。役人では無いので、その心配は無さそうだっが、それにしても問題のある行為であった。
何時も1ラウンドりすると、その帰りの車の中から、カラオケバーに電話を入れ、飲んで帰るというのが一般的だった。カラオケバーは、フィリピーナが多く片言で、愛嬌を振りまいていた。流石に部長とその社長は行きつけているだけあって、顔見知りが多い。
千葉には、フィリピンパブが多いらしく、順番にフィリピンからの女性が来るらしい。この事は私が、後にフィリピンに行ってその内容がもう少し詳しく分かった。
宮内氏を初め全ての人が、元は造船であった。それが使えなくなって?とばかりは言えないけれど、鉄構に流れ、又その一部が建築鉄構に流れたようである。
概して、造船のスタッフに比べるとそのレベルの低さは否めない。
宮内氏はその意味で、脱船会を結成して、と言っても数人の集まりだが、何かにつけて、集まり飲んでいた。私も、もと造船であることから、脱船会の中に組み込まれた、中心的立場に置かれた。
はっきり言って、ろくな人間の集まりではなかった。
私は、この先どうなるかはその時点で分かるはずもなく、毎日を消化していった。
建築鉄構はビルの鉄骨である柱や、梁を作る職場で、柱などは3階分が1本であるような柱を基本として組み上げていく。柱は小さなビルでは、H型をした断面を持っているが、横浜ランドマークタワーなどに使われるものは、30~40mmの板厚を持った鋼板を四角に組んで800~1000mm角のボックスを作りそれを組み上げていくのが常套手段だ。
私がいる時には、聖路加病院、幕張ツインタワー、浜松アクトシティ-、横浜ランドマークタワー、と数え上げたらきりがない位の物件をこなしていった。
ボックス柱を組む時は4隅を溶接するわけだが、之がサブマージアーク溶接と言って、スラグの中に心線を入れ溶融熱でスラグを溶かし込んで、溶接を行うものである。この時出る非常な高温でさしもの厚板も反り返り30mmも変形する。之は、熱が冷えてくると、元の形状に戻るが、大きな蛇が体を反らせるように歪む様は、信じられず、熱の威力の大きさを感じないではいられない。
勿論この溶接は自動(機械で)行われるわけであり、作動を確認する人間が、一人、その助手が一人と2人で制御を行っていた。出来た柱は表面上は、なんの変化もなく欠陥も見受けられない。
ところがこれを超音波探傷(UTという)でチェックしていくと、内部に欠陥がよく分かる。
そうなると、欠陥部分の溶接を人力ではつり取り、これを又、人力で、際溶接する羽目になる。
品質保証の出番である。我々は容赦なく赤チョークで、欠陥位置を指示していく。
誰でも手直しはいやである、何とかして、この欠陥を治すにはどうしたらいいかを検討するが、何しろ溶接に関する素養がない連中ばかりである。結論のでないまま、作業を続けざるを得ない。
熱によるそりの問題、又溶接を上がり勾配でやらなければ巧く行かないとか、色々検討した。
欠陥も治し終わった、柱は、正確な長さになるように端面を機械加工する。そして最終段階で、3階分の柱に梁をボルトで留めるべく仕口と呼ばれる金具を溶接で取り付けていく。
その時点では、もう赤さびが出ているが、建物の陰にはいるためか、防錆のことは気にしなくて良いようだ。そう言えば、建築中の柱や梁は、赤さびが出ていても平気で作業が進められている。
それが済めば、工場内に運ばれ、施主の検査を待つ。色々な工事をしている関係から、施主は、入れ替わり立ち替わりやってくる。溶接箇所を念入りに見る検査官や、仕口の付具合を見る検査官。又I型の梁の隅肉脚長をチェックする検査官。色々個性がある。
概して、部材1本だけを見て後少しチェックをすると終わりになるのが普通だが、中には全てを検査し始める検査官もいて、そんな時は、品質保証の連中は、対応が大変である。
検査成績書を作り、是正書を作り後始末が大変になる。
そんな毎日が、淡々と過ぎていった。それにしても、暗い部屋の中で、立体駐車場を考えていた時に比べたら、雲泥の差だった。その事を先ず有り難く思った。
それ以外は、何処に行っても自分の思うような仕事は最早無いのだと思うしかなく、ポテンシャルの高い高度知的会話は最早必要ないとの思いになった。
部長に言われた、「○○さん、此処では、もっと目線を下げて、作業員のレベルで話さないと理解が得られませんよ」と言う言葉の意味がようやく実感出来た。
職人は昔から江戸っ子じゃないが、宵越しの金は持たないという気質であり、昔は給料を渡すと暫く帰ってこず、給料が無くなるとひょっこり現れると聞いた。そんな刹那的な生き方に対して、系統だった事をさせようとするのが、そもそも間違いである。
千葉単身赴任後1年が経った。あっという間の時間であった。当時バブルは、未だ続くと思われていた。
私は、千葉建築鉄構に籍を置き、そのままサラリーマン生活を終わるかも知れないことを感じた。そこで、玉原にいる、M.K.を呼び寄せることにした。
玉原での近所の仕打ちに耐えかねていた、妻は、千葉に転勤することに同意した。会社の社宅は狭い。近所に別の会社から借り上げた社宅があったのでそこにはいることになった。修理もしていない、汚れ放題のその社宅は、初めて見た時之で人が住めるのだろうかと思わせた。
4DKの社宅は、畳の張り替え、障子の張り替え、壁の塗り替え、庭の草刈りをして、我々に引き渡された時は、結構住める環境になっていた。
駐車も家の前の細い路地になんとか止められるので、その意味でも便利であった。玉原では馬鹿でかい家に住んでいたので、ものが多く、トラック2台分が収納出来るかどうか私は図面を書いて予め検討した。
こうして、千葉建築鉄構の仕事が、本格的に始まった。
建築鉄構2年目に入っても何ら替わることなく、同じようなことをして過ごした。
天皇である、課長補佐と、初めて大分工場に出張し、最新鋭の工場設備を見せて貰った。千葉から、羽田へ出て、大分空港へはそう長い距離ではなかった。大分空港に降りると直ぐ、ホバークラフトが待っていて、それに乗って大分港へ着いた。
ホバークラフトも会社が作ったものである。音が大きく、水しぶきが多く、快適な感じはなかった。大分港から、タクシーに乗って、大分工場に着いた。
だだっ広い田舎の田圃の中に造られた工場は、人影も少なく、稼働中なのかどうかも分からないほど、深閑としていた。
所長は、私が吉田号事故で大童だった時の工場長であった。部屋が少し開いていて顔が見えたので、表敬の挨拶をした。その後会ってはいなかったので、千葉に来た経緯や、建築鉄構をやっている事などを話した。どうせ関係のないことだとは思いながら少しの間話し、直ぐ辞去した。
先輩の工作部長が、工場をくまなく案内してくれた。さすがに新鋭工場だけあって、設備は千葉の数倍のものが導入されていた。
特に私には何の用もなかった。只、見てくると良いと言うだけで、具体的なことは何もない。
仕事の関係もあって、稼働率はそれ程高くはないようだった。
1泊を予定で来ていたので、その晩は、私の後輩で既に部長になっている松本君が、町へ案内して、関鯖、関鯵をご馳走してくれた。
飲んで酔って、ホテルに帰って寝るだけだった。
翌日は、又同じルートを帰った。飛行機の威力は凄いと感じた。搭乗前後の時間のほうが長く、搭乗時間だけを見れば、新幹線に比べると飛行機の方が随分早い。
相変わらず、柱と梁を作り続けた。殆ど、新しいことはなかった。私は安全管理士と、飲む機会が多くなった。脱船会の連中も、昔を懐かしんで、何度も集まった。
その内私は、朝礼で、作業員を前に安全訓話なるものをする羽目になった。朝礼時に台上に立ち、安全のことについて喋らなければならない。安全管理士に話のポイントを教えて貰った。当日は緊張したが、何となく話し終えた。
鉄筋加工工場も建築鉄構の所掌であることを知り、その工場へも足を運んだ。
一応別会社であるが、建築鉄構の所管となっていた。
堆く雑然と積まれた鉄筋の山のそばにベンダーとカッターが置かれていて、どのように仕分けしているのか、之も不思議に思った。
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