ジンバブウェ

ここは、私がジンバブウェで仕事をした時の日記です


ジンバブエ庁舎

95年8月14日、盆明けの出社で、多田次長に呼ばれて、ジンバブウェ行きを打診された。
命令通り動くのが仕事、否やはなかった。工営の副理事のレクチャーを受ける。
ジンバブウェは昔南ローデシアと呼ばれ昔のソールズベリーが首都(現ハラレ)だった。
ODAでジンバブウェに6橋を建造する。現在高橋政美氏がレジデント・エンジニアで行っている。人柄の良いJOCV上がりの人と聞いた。
鴻池組が、コントラクターである。

フィリピンの後事を託した大林組の方も8月15日に帰国されるとの話を聞いた。

ジンバブウェまでのビジネスクラスのエアチケットは、1,244,360円とのことだった。とてつもなく高い。
多田次長の梗概説明を聞き、かなり気候的にも恵まれたところらしい事が分かり安心した。
それから数日間出発前にばたばたと事前勉強をした。
ポストテンションのPC桁橋である、といってもはっきりイメージされるものはなかった。
造船しか知らなくて、フィリピンで、土木の単語を少し覚えただけである。
しかし先人がいる、前に行くことを打診された、パキスタン、インドに比べると天国のようなところと聞いた。
いよいよアフリカか。

8月23日に成田へ向かった。チェックインを済ませイミグレーションのところまでは女房も見送ってくれた。そこからはもう外国。エグゼクティブルームで、出発までの時間を潰す。
キャセイパシフィックで、香港トランジット、ヨハネスブルグに向かう。

時間の感覚が麻痺する。フライト中、飲み物と、食事の攻勢にたじたじとなった。香港の空港は啓徳空港で、世界でも指折りの機長泣かせと聞いている。高い集合アパートすれすれに機は、啓徳の滑走路に進入した。此処でのトランジットは難なく済む。外に出ないから又エグゼクティブルームで休む。
香港からヨハネまでは、12時間の長丁場だ。
ヨハネスブルグでは一旦入国の審査を受ける。すぐ又チェックインし今度は、ジンバブウェ航空に乗り換えた。
ヨハネを飛び立って、眼下に見える、砂漠とサバンナ、とにかくアフリカの規模は大きいの一言に尽きた。2時間ほどのフライトで、ハラレ空港に無事無事到着した。イミグレーションと簡単な手荷物検査を終えて、空港の外に出た。

暑いかと思ったが、意外に涼しい。日本で聞いてきた通り、ジンバブウェ自体が、高原に位置し、ハラレは標高が1500mと軽井沢並みの気候である。
空港には高橋氏の代理といって日商岩井の砂氏が来ていた。後でわかったことだが、高橋氏は、若いお姉ちゃんと、ケープか何処かへ行っているとのことだった。

その日は宿舎兼仕事場である、ハラレ郊外ヒラー通りのガンヒルにある家に着いた。夕方夕食を一緒にといって、砂氏と鴻池の山田氏が私を迎えに来た。高橋氏が根回ししていてくれた。ジンバブウェで中華料理を食わせる唯一の店パールガーデンで、小さな歓迎会を催してくれた。
後にチャイナタウンが出来るまでは、ここだけしかなかった。

南アの赤ワインは、旨く、チリや、ボルドーに引けを取らない。飲みゆくうちに段々とうち解けていった。砂氏は我が同窓生で、通信工学科出身の異色の商社マンであった。
そうしてハラレでの第一夜は更けていった。
一日後、高橋駐在エンジニアが帰ってきた。高橋氏がいる限り私は殆ど何もしなくて良かった。

こうして段々と、人の顔も覚え、かつ仕事も徐々に出はあるが、分かってきた。
これからお世話になるODAの橋名は
1オジ橋、2ウングウェ橋、3デブレ1橋、4デブレ2橋、5ソテ橋、6ペンベジ橋の六橋だった。
全部ポストテンションのPC桁橋であった。
短いオジ橋は約50m、長いデブレ2橋でも高々170mそこそこであった。

短期間に多くのことを学んだ。何しろ道路はおろか橋についても殆どその成り立ち、名称から覚えないといけない。
鴻池組は、池永所長、安達副所長、山田氏、富田氏などがいた。現場に張り付いて仕事を実際切り盛りしているのは高尾氏であった。高尾氏は何でもよく知っていた。
現場は、南アの業者に丸投げしていて、池永所長らは、マネージメントだけをしていた。

私の仕事は、現場に行くことだった。そして覚えること。現場はそれぞれ、3地域に別れ、その各々が、ハラレから200~300km離れていた。交通機関は、車だけ。日本工営側の布陣は、高橋レジデントエンジニア、私、現地のシニア・エンジニアであるチャワンダ(ショナ族)ジュニアのニョニ(ン・デベレ族)、大女の秘書マトーレ、運転手のマレーテ、庭師のパトリックとその女房、後から雇った女中のテンダイであった。

さらにマンスリーレポートを提出、ODAのお金を引き出すための相手のMOTE(日本の国土交通省に相当)の担当官テベレジ、ムダワリマ、チプルなどに面談した。
JICAの専門家である山根氏は、私と同じ歳だった。

大使館には、後にニューヨーク国連大使の元へと転出された小西大使の後の束原大使。岡本公使、後に来られた安村参事官、小路一等書記官などがおられた。
日本人会は、約200名足らずであり全国に散らばっているJOVCの人達以外は、各商社の商社マンが多く、別のプロジェクト出来ている人が何人か居た。

年の瀬も近づいたので、一旦日本に帰ることになった。(というか、高橋氏の計らいで帰る口実を見つけてくれた。:その前に女房と、姉が来ていたので一緒に帰ることになったが、この顛末は後に譲る。)
日本では特にすることもなく、来日ベトナム人を国内で案内したり雑用をこなした。今度行くと年末までは帰られない。女房に思い切ってくるように説得した。
満更でもないようなので、来るまでの手続きを丁寧に書いて、渡しておいた。
此処にその控えがあるので掲載しておこう。

成田からハラレ迄の旅程 (香港経由の例:エコノミーの例)
チェックインカウンター
空港使用券購入
出国審査への入場
出国審査
出発ゲート
機内(東京一香港)
TRANSIT
出発ゲート
機内 (香港-ヨハネス)
入国審査(一時)
この間結構長時間の待ち合わせ(ヨハネスブルグ)
1階上がチェックインカウンター
出国審査
出発ゲート
機内(ヨハネスージンバブウェ)
入国審査
荷物受け取り
税関申請無し
入国(ジンバブウェ内)
 2時間前(出発40分前閉鎖)?エアーチケット貰う?搭乗券〈ポーデイングパス〉受
 1.荷物預け(20kg迄:預り票を航空券に貼付:ハラレ迄スルーにして貰う)
機内持込丈なら不要
2.出帰国カードがどこにあるか聞き出国欄記入
:自動販売機(2000円)
:空港使用券を渡す (ここから先は出国者だけ)
 ここにも出帰国カードが置いてあるはず
3.パスポート、出帰国カード、搭乗券の3つを提出
 パスポートに出国スタンプと帰国カード(半分をホッチキス止される)
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲ-ト番号注意
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際に香港へのImmigration Cardが配られるが香港へは入国しないので記入不要。
:Transit or Transferの通り進み。次の航空会社(同じか)のカウンターで搭乗ゲ-トの確認を受ける。(搭乗券に書いてくれる)
:Min.60分余裕みる
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲート番号注意
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際に南アへのImmigration Cardが配られるので記入する。(目的はTransitとする)
:1.パスポート(スタンプを受ける)2.Immigration Card渡す3.エアーチケット見せる場合有り。質問受けたら・・トランジットと答える
 出国してすぐ次の出発便の予約を・確認する方がよい(出巷ロビーで)
:1.パスポート見せる2.エアーチケット見せる3.搭乗券受ける
 4.荷物検査をする。2時間前(3時間前くらいに行っておく方が安心)
:1.パスポート2.エアーチケット3.搭乗券
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲ-ト番号注意
一寸歩くがゲート番号目当てに進めばよい。(ゲートからバス又は歩き)
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際にジンバブウェへのImmigration Cardが配られるので記入する(目的は観光:Visitorとする)
:1.パスポート(入国スタンプを受ける)2.Immigration Card渡す
 3.帰りのエアーチケットを見せろと言う場合がある。(名刺を見せる)
:荷物を受け取る (預けた場合:ぐるぐる回って出てくる〉
:税金申告関係ないので申請不要ゲート通る
:空港(狭いのですぐ分かる)の外に出たら僕が待っています。

続いて、注意事項を書いた。
注意事項
1)成田のチェックインカウンターでチケットを受け取ることになります。2時間より早めに行く方がいい。(格安切符を受け取ったりする)
2)荷物を預けた場合、ハラーレまでスルーと頼んで荷物のタグのFinal designation にHREと書いてあることを確認して下さい。同様にエアーチケットに貼り付けた分も確認しておく(後でクレーム等があるとき必要になる。:2つとも例を同封)
3)四角で囲んだところがポイントです
4)別紙に、日本人出国、帰国記録(出国分は成田で渡したので無い)、パスポートのスタンプ押印、Immigration Cardの各例を示します。ジンバプェへのImmigration Cardは予備がなかったので同封しませんが大体同じ事を書きます。その時もしジンバブウェでの住所が必要であったらNippon Koei Office 10 HILLER ROAD GUNHILL HARARE Tel:745018として下さい。
5)僕の時、持ってきた時刻表や、空港見取り図(縮尺はいい加減)を書いておきますが、看板を見て確認し、近くの係員に、Excuse meと言い後は「とっさの英語」を使って下さい。(単語だけで分かる 例:Where Gate?と切符を見せるとか)。
6)南アで一旦出たら(入国)、荷物を預けたり、レストランで休憩して飲み物を取るかするでしょうから、銀行で少し両替(Exchange)が必要。約30円/RAND(ランド)です。僕が来る時両替したのがありますので、決まれば送ります。
7)ヨハネスブルグでは、荷物を運んで、小銭をせびろうとする奴がいるかも知れないので、きっぱりノーサンキューと言い自分でカートで運ぶこと
8)南アでもチェックインは早めにする。(中にシャワールームもあるそうです)
気候は、今朝夕は少し肌寒く、日中は少し汗ばむ(外では)。
分からないことはFAXで聞いて下さい。
大事な事(香港経由の例で書きます)
フランクフルト周りりは、少し値段が高くなり、しかも1日だけだし、もったいないと高橋氏は言います。また、アフリカに出張があれば(日本工営にいて)何時でも行けるからとのことです。
ポイントは、何と言っても、ケープタウンだそうです。
 格安切符の料金の聞き方(旅行会社に次のケースを聞いて下さい)
 1東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)-ハラーレ(H)の往復料金
 2東京一香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)の往復料金
 3東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)-ハラーレ(H)の片道料金
 4東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)の片道料金
 日本では、ヨハネスデルグ(J)-ハラーレ(H)間のエコノミー切符はないはずだから2と4を聞く。
12〉ジンバブウェ(ハラーレ)の入国審査で帰りのエアーチケットが無い(片道)とき、分からないことを言われたら(そんなことはないが)、僕の名刺(同封)を見せて(I am his wife)とでも言えば良いそうです。
13)姉さんが一緒なら心強いですね(歓迎です)

いよいよ本格的にジンバブウェの生活に入るべく年明け早々1996年1月8日再び機上の人となった。香港まではあっという間についた。香港のトランジットの時に免税店で、パーカーのボールペンと肝得健を買った。このボールペンは極太で書きやすく、その時私は再び訪れる、この香港で無くすなんて事は考えだにしなかった。
香港からヨハネ行きゲートで暫く待っていると、Mr.○○・・・と呼ぶ声が聞こえた、後もう一人呼ばれた。何事や有らんと係員に申し出ると、1St クラスにアップグレードいたしますとのことだった。偶然とはいえ、非常にラッキーだった。
ビジネスクラスでも、かなりゆったりしているが、ファーストクラスはさらに落ち着けるし、スチュワーデスがそれこそマンツーマンのようにサービスしてくれる。隣は同じくアップグレードされた丸紅の商社マンだった。私よりは数段若い。

高級出稼ぎ人夫ではあるが、その事自体を楽しまなくてはと、私は、ワインを注文し、心地よいまで飲んだ。飛行機は高度9400m(外気温マイナス36度)速度905km/hで31km/hの向かい風の中を順調に飛行していた。

こんな時同期の出世や、後輩に追い抜かれた悲しさ、空しさが胸を突く。
まどろんで起きたら食事を繰り返し、約12時間の飛行を終えて、機はヨハネの空港に降りた。
私は気が弱く、荷物がスルーされるかどうかを確認に行き、係官に必ずハラレまで行くようにと念を押さなければ気が済まなかった。
それが済むと、貴賓室で休憩するまもなく、ハラレ(ジンバブウェの首都)行きの飛行機の時間となった。
ジンバブウェ航空機長のアナウンスは、殆ど聞き取れなかった。こんな英語力で、本当につとまるのだろうか。女を口説くだけの言葉と迫力はあるが、公式となるとからっきし意気地がない自分を不甲斐なく思った。
ヨハネスブルグを飛び立つと、眼下に見えるのは荒涼とした大地、赤茶けた、木も生えていない砂漠のような大地だった。私はつぶやいた「こんな所で仕事が出来るかな」。
しかし、機がハラレに近づくと、地上は全面緑に覆われていたのを見て、心が和んだ。
荷物は届いていた。イミグレーションで、荷物を開けさせられた。パソコンは、業務用で、終わったら持ち帰るというとOKだった。
ニョニとマレーテが迎えに来ていた。ニョニは、ン・デベレ族で、褐色の綺麗な肌をしていた。
ジンバブウェの目抜き通り

私は、黒人は皆黒くて同じだと思っていたが、黒さにも色々あって、ショナ族の黒よりン・デベレ族の方が褐色がかって、それなりに優越意識を持っているようだ。
女もそうで、最初は美醜が分からなかったが、暫く居ると、矢張りブスと、そうでないのとが居ることも分かってきた。後で聞いた話だが、黒人も日焼けを気にするらしい。日焼け止めクリームを塗っていた。なにおかいわんやである。次回はジンバブウェってどこということを書いてみよう。

ジンバブウェって?と良く聞かれる。

Map of Zimbabwe

南アフリカのジンバブウェは,南アフリカ共和国、ボツワナ、ザンビア、モザンビークと国境を接している。高地の真ん中をカリバ湖とザンベジ川に注ぐ川が縦横に流れ,ザンベジ川には,ジンバブウェの自然景観を誇るヴィクトリア滝がある。かつては南ローデシアという名のイギリスの植民地であったが,イアン・スミス首相率いる少数白人政権と,ロバー卜・ムガベ,ジョシェア・ヌコモ率いる黒人多数派のジンバブウェ・アフリカ民族同盟・愛国戦線〈ZANU・PF〉の闘争の末,1980年に独立を達成した。
ジンバブウェは高地のため,熱帯地方のわりに温暖で湿度も低い。11-3月にかけて雨期が訪れるが,東部の高地以外では雨量もまばらで,渇水も珍しくない。
 年間降水量は,雨量の多い東部の高地で1,400mm・雨量の少ないリンポポ谷で400mmである。政府は交通網の開発に積極的である。とくに鉄道の拡張と最新技術の導入,国際線航路の増便に力を入れている。
ジンバブウェを訪れる観光客の目的は,アフリカ文化に触れ、サファリで遊ぶことである。
観光の目玉はヴィクトリア滝で、カリバ・ダムや数々の国立公国,マシンゴに近いグレート・ジンバブウェ、マノポ・ヒルズなど世界有数の景観がすばらしい。ザンベジ川でのカヌーやいかだの急流下り、東部の高地での登山やマス釣りなど.アウトドアのための施設の開発が進んでいる。
ハラレやヴイクトリア滝には会議場もある。政府は環境破壊を懸念しており、ジンバブウェの観光業をあまり増大させるつもりはない。
しかし,外貨獲得の魅力は捨て難く、エレファント・ヒルなどヴイクトリア滝周辺の開発は進んでいる。旅行者の入国制限は緩和され.所持金の制限もなくなった。外国人はドルでの支払いが義務づけられており、2本立ての通貨制度が効を奏して.ジンバブウェ・ドルでの支払いが滅っている。

私は空港に降り立った時に肌でそのすがすがしさを感じた。太陽は眩しいが、何しろ湿気は少ない。此処ハラレは、標高が1400m程度と聞いており軽井沢の雰囲気である。
何しろ黒人の国であるが、独立した今も、白人の豪農によって土地の大部分は専有されている。
私の事務所兼居住の家も1エーカーの土地に、テニスコートとプールがあり、ベッドルームは3つある。他の人に聞いたが、それでも狭いようだった。

昨今、ロバート・ムガベ大統領の独裁が露わになり、白人が迫害を受けていることは、新聞紙上で報じられている通りであるが、
虐げられた、黒人達が、鬱憤を晴らすかのような現在ではなく、私はジンバブウェに滞在した時が現在のような荒んだ環境ではなかったことに安堵している。

南に南ア、東にモザンビーク、西はボツワナ、そして北にザンビアに接する位置にある。丁度日本の九州の北半分の地形に似ているなあと私は思った。しかし海はないのである。

「黒い犬」さえ来なかったら、やっていけると感じた。
私はここに来る前に、フィリピンにいたが、その時は、全くコンサルの何かも知らずただ将棋の駒であれば良かった。しかしジンバブウェに来る前に私は一通りのレクチャーを受け、勉強もしていたので、自分のミッションが何であるかをわきまえることが出来た。

妻も来ることになっていたので、仕事そっちのけでその対策に追われた。駐在技師である、高橋さんは若いが、とても面倒見が良く、特に低開発国を歴訪しているだけに虐げられた連中にも優しかった。

話は相前後するが、私の妻が前の年の暮れに姉を伴って一度来ていた。その帰りに、高橋氏の計らいで、ケープタウンまで、ブルートレインに乗った。ヨハネまで出て、ホテルに泊まり、外出しようとすると、ホテルのガードマンが護衛するという。そんなにまでして危険に身を置くことはないと、ホテルに引き上げた。
翌日、ブルートレインの停留駅までタクシーを飛ばした。いざ乗ろうとした時、予め払った金額は何と一人分であることが発覚した。私は少し慌てて、旅行社のアンジーに電話を掛けた。
色々調べてくれたが、矢張り旅行社の間違いだった。私は、持ち合わせていた、クレジットカードで難を逃れた。それにしても高い。

ブルートレインは、1室しか無くベッドもテーブルが寝る時に早変わりするようだった。車掌に掛け合うと、丁度隣に1室空いているといって、便宜を図ってくれた。2コンパートメントを3人が使うゆったりとした旅が出来た。
朝食から夕食まで、食堂車には着飾ったご婦人達がいる。妻も姉も、1着ではあったが、華やかなドレスに身を包んで、食事に臨んだ。
ブルートレインは、ジンバブウェのビクトリアホールから出発し、南アのケープタウンを終点とする2国間列車だ。途中南アのキンバリーで昔の金鉱を見学し、大きく掘られた穴に水がたまって、当時盛況だったことが伺えた。砂金捜しの余興もついて、休憩点としては、格好の場所であった。

再び列車に乗り、朝もしらけた頃、通路側が賑やかになってきた。私は何事かと出てみると、無数のフラミンゴが、集結しているではないか。妻と、姉に声を掛け、暫しピンクの競演に見入った。
列車に乗って1昼夜、ようやくケープタウンに近づいた。巨大なテーブルマウンテンが、眼前に迫ってきた。
旅行社のアンジーとの約束では、ケープの駅にネームカードを持った出迎えがいるといっていたが、一向それらしい姿が見えない。
私は、慌てて、探したが見つからない。仕方なく、自分たちで荷物を運び、タクシー乗り場まで出た。

近づいてくるタクシーの運ちゃんに荷物を運ばせ、ようやくそのタクシーに乗った。行き先であるシティロッジを告げると、運転手は分かったとばかり、車を飛ばした。ケープタウンの港町の中にホテルを見つけ、入っていくと、予約は聞いていないと言う。またか!、しかし間違いなくシティロッジと書いてある。私は運転手を待たせ、フロントに確認した。
フロントは、それなら、山側の姉妹店だということで、電話で確認すると予約は入っていた。
運転手の早とちりだが、こちらも2つ同じ名前があるなどとは聞いていない。
又アンジーの奴(女性だが)と思った。

紆余曲折のあげく目的のホテルに着いた。ゴルフコース併設のロッジだが、なかなか落ち着いた感じだった。
フロントに、今夜、何か催し物がないかと聞くと、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」があるという。ホテルから送り迎えをしてくれるというので、3人でそれを見に行くことにした。
英語だから雰囲気は分かるが、まぁそんなところだ。2時間ばかりも経っただろうか、迎えの運転手が見つかりホテルでやっとゆっくりした。
翌日はテーブルマウンテンと、喜望峰へのバスツアーを組んでいた。朝起きると、妻が、調子が悪いという。昨日オペラの会場は少し寒かったので体調を壊したらしい。
取り敢えず、妻はホテルで待っているからと言うので、姉と2人で、テーブルマウンテンに登った。

ケープ・ライオン岬

上から見下ろす光景は、絶景の一語に尽きた。
眼前に広く大西洋が見えた。中国の女性が一人でリュックをしょって、旅して回っていると話しかけてきた。やはりここでは黄色人種は互いに親近感が湧くのかも知れない。

山から下りて、ケープの港町で、海鮮の食事をし、暫く散歩した。
午後、喜望峰に行くといったが、最初、姉だけをとも考えたのだが、姉は英語が駄目であるので心配である、私も喜望峰を見たかったが、妻のことも気になった。
結局最南端の喜望峰に行くことを諦めた。

ホテルに帰って、近くを散策するに留めたが、妻の容態は、さほど悪くもなく、回復し、明日の帰国には、大丈夫そうだったので助かった。
翌日、朝食を済ませると、元気になった妻とケープタウンからヨハネスブルグまで、SAで帰途についた、ヨハネから香港経由で成田までは、どちらもキャセイパシフィックが快適な旅を提供してくれた。
1995年11月23日9:40ケープ発成田には11月24日14:50に着いた。
実に長い観光旅行だった。
最初を端折ったので次回は、観光のために如何に仕事をしていなかったかを記しておきたい。

話が戻ってしまうが、妻と姉が、観光に来た最初からを記しておこう。この間仕事らしい仕事はしていないことになるわけだ。
妻達は1995年11月2日、私が書いたマニュアル通りに、ハラレに到着した。
その翌日はハラレ近郊の動物公園に、又植物園にマレーテが案内した。

ボタニックガーデン


1995年11月4日、3人で、カリバまでジンバブウェ航空で飛んだ。マレーテは車でこれを追いかけ、空港で待機していた。マレーテの運転で、カティーサークホテルに入り昼食を採った。
カリバ湖の夕日が沈むのを湖上から見るというので、サンセットクルーズに出かけた。遠くの方でかばの集団がいる中、湖面から出ている白樺のような木の間を通り、帰り道に丁度カリバ湖西岸にそれはそれは大きな夕日が沈むのをじっと見つめていた。
カリバ・サンセット

夕日が完全に湖面に沈む頃、カティーサークホテルに着いた。夕食を取り、シャワーも浴びてくつろいでいる頃、窓の外で、草をむしるような音が聞こえた。私はカーテンを開けてぶったまげた。何と4~6トンはあろうかという巨大なかばが眼前にいるではないか。
慌てて、姉に知らせると同時にカメラでばしゃばしゃ撮った。かばは、ひとしきり草を食べ終わると、のそのそと方向を変えて藪に消えていった。
見た!2メートルも離れていない至近距離で、巨大なかばを見た。我々は、非常に興奮して、暫く寝付けなかった。夜は静かに更けていった。

1995年11月5日、カリバ湖をせき止める巨大なダムの天望台に上り、又ダムの上を歩いた。
多くの犠牲者を出したとはいえ、当時この様な土木工事を異国の土地でなしえた、技術者の気概を感じて、感慨ひとしおのものがあった。
傍には慰霊の教会が建ち、人々は、そこでお祈りを捧げていた。
如何に人間の祖先トォーマイ猿人やガルヒが、此処アフリカを発祥しているからと言って、彼らにこれを造る技術はなかった。改めて西洋人の偉大さに頭が下がった。
夕方5時前のフライトでハラレに帰ると高橋氏が迎えに来てくれていた。

1995年11月6日、マレーテがバランスロックに案内した。

1995年11月7日、スネーク、ライオンパークを見に行き、帰りは、彼が帰国時大変世話になった、クレスタロッジに投宿した。落ち着いた良いホテルだ。

1995年11月8日、マレーテが、近くのチノイ公園に案内をした。

1995年11月9日、ハラレ市内でショッピングを楽しむ。と言っても買うものは余り無い。一寸した土産物しか買えない。象牙は御法度である。

1995年11月10日、10時のフライトで、ワンゲ国立公園(と言ってもボツワナに跨った大きな自然公園)に行く。空港までは高橋氏が送ってくれ、マレーテは、別便でワンゲに待機彼らを空港から、サファリ・ロッジに運んでくれた。
サファリ・ロッジで昼食を取り、ホテルにチェックイン。マレーテ運転の車で動物公園内を見て回る。キリンが多くゼブラもいた、インパラや、草食動物は多かったが、ライオンには巡り会わなかった。
しかしゾウは、黒山のようにいた、僅かな水飲み場はゾウで占領されていた。

ワンゲ象

その晩はサファリ・ロッジに泊まった。明け方、ロッジ近くまで、色々な動物が、来ていた。

1995年11月11日、マレーテの車で、早朝6:00公園に入った。なかなかライオンには巡り会えない。バッファローは沢山いた。
車で、そのままビクトリアフォールへ向かった。本社から部長が見えるので、高橋氏はその応対に忙しく、奇しくも同じ日ビクトリアフォールに来るという。泊まりたかったエレファント・ホテルに先に泊まられたので、少し離れた野性的なサファリ・ロッジに宿泊を変更した。昼は、自由時間としショッピングを楽しんだ。
夕方から始まるトラディッショナルダンスを見て楽しんだ。

1995年11月12日、ビクトリアフォールツアーに参加した。雨期が始まる前で、水量は差ほどでもなかったが、そのスケールの大きさに舌を巻いてしまった。高いところで120mはあった。
夕方、カリバ湖のカリバの反対側でのシャンペンクルーズに参加した。西欧のおじいさんが、健脚で、一人で世界を回っているというのに巡り会った。何言葉か英語で話したが、年寄りとも思えぬ冒険心は矢張り血の違いからだろうか。
その晩もサファリ・ロッジに泊まった。

1995年11月13日、朝クロコダイルパークに行き、気持ちが悪いくらい沢山のワニを見た。
ホテルの車で地方空港まで行き、ビクトリアフォールを空から見るセスナ機に乗った。
妻はきゃーきゃー言って、殆ど見ていなかったという。姉と私はしっかりと見たが、矢張り水量は少なかった。帰りにパイロットと記念撮影をして別れた。午後はビクトリアフォールの市内観光をして、夕方の飛行機でハラレに帰った。

1995年11月14日、休養をかねて自由時間

1995年11月15日、ハラレからマレーテの車で、レオパードロックへ移動。ジンバブウェ第3の都市ムタレで、近くにニャンガ公園がある。此処は前ダイアナ妃も来られたというおとぎの国のお城のようなホテルでゴルフ場が併設されている。
一人ゴルフをし、二人はついてきた。景色が良いし空気が旨い、いうこと無しのホテルだった。

レオパードロック

1995年11月16日、ブンバを見に出かけた。レオパードロック2泊目

1995年1月17日、レオパードロックからハラレに移動した。

1995年11月18日、日本に帰るための準備をした。
そしてこの書き出しの最初に戻り、ヨハネからケープを経て、妻と姉は日本に帰った。

1996年1月9日
鴻池組から高尾氏がやって来た。最後に行われるセレモニーについての打合せも兼ねていた。
相手政府、大使館、日本工営、鴻池組、これに建設機材供与の日商岩井の全てを調整しなければならなかった。
小西大使が、国連大使として転出、それを見送りに空港まで有志で行った。
土曜日曜は、ゴルフである。最初は整備もそこそこの、ポリスクラブへ、ゴルフは得意でない高橋氏と行った。
日曜日には、ウインゲート、ゴルフクラブを初めて回る。
人の、癖なり、人となりがよく分かり面白い。安村参事官は、人の良い、偉ぶらない人だ。キャディ付、昼飯を食って、118Z$ととにかく安い。
この日から、私は、ゴルフ三昧の日を送ることになる。

仕事で始めて行ったのはウングウェだった。借りている宿の近くで飲み、酔った勢いで黒人女に目配せをすると、かの女は、もう私のベッドに来ていた。酔っているとはいえ、余り良い味はしなかった。
次に出かけたのは、グツ4橋だった。グツからマシンゴへ、ニョニの運転で出かけ、高橋氏と私は、シェブロンホテル、ニョニはグツのチャワンダの宿舎に泊まった。その晩は、安達氏の家で、放談。カラオケを0時近くまで歌った。安達氏はもう、アフリカ人になっていた。
翌日はグツの4橋を視察、、特にオジ橋のアバットの損傷状況を視察した、相当堀直して、再施工しなければならない。
デブレ2橋の完成を急ぐことを第一主眼とした。
南アの業者のスチュアートと、工事監督のフリッキーにあった。帰り少し自分で車を運転したが、ガス欠が心配で、チマニマニ方面へ遠回りして、ガソリンを補充した。
帰りはひたすらに走り、クレスタロッジで食事をして、ガンヒルの宿舎に帰り、ぐったりした体にシャワーを浴び綿のように眠った。

鴻池池永所長に竣工検査が間に合うのかと督促、結局高尾氏が来て、1ヶ月延びることとなり、テベレジにその旨伝えた。
色々な情報が一気に私を襲い、パニック状態であった。

近くのハニーデューへ野菜を買いに行く。産地直送というか、裏が広大な畑で、肉類なども置いているスーパーマーケットだ。当然白人専用である。日本人は準白人。

高橋氏は、2月10日頃帰国し、次の仕事に備える。そうなると私一人となる。一寸不安はよぎった。
セレモニーの具体的内容が、段々と煮詰まってくる。
高橋氏は、モザンビークに行くかどうかは微妙になってきた。しかし次のプロジェクトは、完全に来る。高橋氏も交代を控え、かなり神経質になっていた。
旅行社のアンジーに往復の航空券を手配50万円は高いとファックスにて交渉をしていた。
何れにしても何処に行くのか未だはっきりしていないようだ。

日曜日の日本人会ゴルフコンペの練習といって、日商岩井の砂さんが、チャップマン・ゴルフクラブに行こうと誘ってくれた。なかなかトリッキーなホールもあり、2番ホールの池越えパー4はとても2オンする感じではない。刻んでも難しく、私は何個この池にボールを入れたやら。昼飯を入れて、181Z$だった。但し、砂氏がメンバーであることで110Z$は安くなっているということっだった。 
池永さんに借りた柳田邦男の「犠牲」を読み終えた。
あとがきの「敗北感にさいなまれる」といわれる気持ちは分かりますが、真実に歩んだ人生に敗北はありません。打ち倒されて低くなればなるほど、見えない神の生命は確かに注ぎ込まれるのです。:グリーク・ワーク(悲嘆の仕事)
私は自分自身と照らし合わせた。
日本人会コンペは雨模様だった。昔から、人前であがる。(ゴルフに限り)成績は、自分相応だが惨憺たるものだった。ブービー、ブービーメーカーにはならないが、ダボペースでは回れない。ええい117だ!284Z$だった。
夕刻砂氏が来てルサカ(マラウィ)には新開部長が行くらしい。
日本工営の何たるかも知らず、橋の何たるか、道路も何も知らず、良くまあぬけぬけと、シニアブリッジエンジニアと名乗っているものだと自分自身に感心した。
山根氏を通じて、ディレクターのクデンガに会う。進捗状況、セレモニーの話などする。
今は雨期、道路路肩の流されているところ有り。ソテ橋では大雨のために工事はストップだ。
乾期と雨期がかくも差があるとは、日本では考えられない。
山根氏は、JICAの専門家で来ている。いわば向こうの政府側の見方をする人。52年から59年まで明石の本四公団にいて、坂出、児島で過ごしたとか。
奥さんはクリスチャンで、お二人で英語を習っておられた。

デブレ2橋で高尾氏の説明を受け、チャワンダ、フリッキーに会う。帰りは、デブレ1橋からハラレの入り口まで運転をした。ポリスがスピード違反で止めたものの、山根氏が粘って、放免された。

高橋氏は次のプロジェクトで頭は一杯である。
1月最後の日曜日、チャップマンに砂氏、伊藤氏と出かけた。
またしても砂氏に負ける。ゴルフ以前の問題。精神的不安定さがモロに出ている。
楽しまなければ、意味がない。
夕食は砂氏宅で、安村参事官やJETOROの中西さんらとご馳走になる。
高橋氏が追いかけている女性は、鹿野チサさんというとても可愛い人のようだ。
皆話題豊富な人ばかりだ。砂氏はS24年生まれ、私より5歳若かった。

私のオフィスには3台の車があった。1台はマツダのファミリアで乗用車だ。もう一台はロッキーというジープで、そしてポンコツのピックアップである。ピックアップはもっぱらチャワンダが使い、私らは後の2台を駆使して、現場を手分けして回ることになる。
ニョニと、マレーテは、マシンゴに出かけた。
高橋氏は、マラウィのニュープロジェクトの件で、忙しくしていた。その間を利用してMOTEに出かけたが、殆ど留守だった。テベレジもアンパンマンのようであるが、その下のムダワリマはもっとアンパンマンのようであった。

翌日ダイレクターのクデンガとグツの4橋を視察に出かけた。その先のポコトケ橋は先の大雨で冠水し、相当ダメージが大きいようであった。
高橋氏と、砂氏は、マラウィに出かけた。今日は給料日で、銀行に金をおろしに行く。パトリックの給料などは、夫婦で日本円の6000円程度である。運転手のマレーテも15000円くらいで日本ではとても考えられない。

ニョニが、もう少しのところで、ピックアップが動かなくなり、全員出動で、押し掛けして、何とか、家に持ち帰った。スターターが悪く修理屋に出す。

土曜と日曜は、ゴルフ。マッチプレイと、そのウイットネスそれにしても私のゴルフは巧くならない。腰がスウェイしているのだが、どうしても治らない。大きくハンディを貰っている。(30)これは、一番最初に日本人会で回った時公使がつけたハンディである。
夕食は砂氏の家で、採ることが多い。彼は世界中行って無いところがないくらい、壁に貼った大きな世界地図の上に自分が働いてきた所にピンを立てている。料理も旨いし、奥さんもいる。アフリカでこんな料理がと思うほど素晴らしい食卓となる。

月曜日から又仕事だ。といっても鴻池が頑張ればいい。私はMOTEとの連絡と、マンスリーレポートの作成をするだけだ。
高橋氏は、既に帰国の心づもりで、後に残る私に何かとアドバイスをしてくれた。
彼は、プログレスレポートは、チャワンダに書かせるようにすればいいと言う。あと鴻池は、頼りにならないとも、真情を吐露する。
MOTEの連中の電話での受け答えも、なまりのある英語でなかなか分かりにくい。
買い物は週1回行くのだが、山のように買っても高々知れている。周りが黒人ばかりでなかったら、非常に良い所だがと思う。
高橋氏と、夜の街頭を走り、適当なのを連れて帰っては、朝になったら帰した。何しろ風呂に入っていないので、シャワーで身体を清めるところからしなければいけない。それとコンドームは絶対必要だ。エイズが怖いから。私は流石に動物と関係しているような気になったものだ。
幾度か、その様な夜を過ごした。又やっても良いと言うようなのも居たが、殆どその場限りである。

モンゴリアンと黒人は試したが、西欧人の味は分からない。私は、考古学にも興味を持っており、トゥーマイ猿人が750万年前、又ガルヒ(肉食を初めた)が250万年前にアフリカを発祥の地としている。そこから北上し一方はクロマニヨン人としてヨーロッパ、ガリア、や西欧に残り分岐した一方は東へと辿った。又途中に、南下したアーリア人と、東南アジア人がいる。陸続きだった日本は、当然モンゴリアンを代表するトライブである。北京原人が出てきたのはまだずっと遅れてである。

アリューシャン列島を渡り、エスキモーやアメリカインディアン、メキシコのアステカ、ペルーのインカなどはモンゴリアンそのものである。
そう言えばペルーの味も変わらなかった。
人類の祖先はトゥーマイ猿人については日経新聞にその記載があったので此処に記載しておく。
『トゥーマイ猿人最古の人類化石(2002.7.21:日経)
アフリカ中央部チャドで見つかったトゥーマイ猿人化石は人類の起源に新たな視点をもたらした。これまで多くの化石が発掘された東アフリカから離れた場所での発見で、頭骨の形も独特だ。人類の祖先は早い段階から広範囲に居住地域を広げ多様な進化を遂げていたことがうかがえる。

チャドとフランスの国際調査隊が見つけたトゥーマイ猿人は六百万-七百万年前の化石で、人類の祖先としては最古。既知の猿人にない特徴を持つ。脳容積は三百五十立方?前後で現代人(約千三百三十立方?)の四分の一。チンパンジー並みに小さいが、歯をみるとチンパンジーのように大きな犬歯はなく、人類の特徴をはっきり備える。
 歯の表面を覆うエナメル質の厚みは食生活を知る手がかりになる。森で軟らかい果実などを食べるゴリラやチンパンジーのエナメル質は薄いが草原で砂混じりの草木の根や硬い木の実を食べた猿人は厚く丈夫なエナメル質を持つ。トゥーマイのはチンパンジーより厚いが、アウストラロピテクスなどもう少し新しい時代の猿人に比べるとそれほど厚くない。「両者の中間」と、国立科学博物館の馬場悠男人類研究部長は指摘する。
 顔面で目をひくのは目の上の隆起だが、これはずっと後世(二十五万-四十万年前)のネアンデルタール人などを思わせる特徴。他の猿人にはみられない。猿人はみな似ているのではなく、人類への進化の初期段階から「様々な特徴を持つ猿人が存在し多様性があった」(馬場部長)ことを示す発見だ。
 居住地域にも広がりがあることが分かった。多くの猿人化石は、アフリカ東部を引き裂く長大な大地の割れ目「大地溝帯」の東側で見つかった。その付近で豊かな森が途切れ、東へ向け乾燥した草原が広がる。
 地球内部の力で大地溝帯が生まれ始めたのはおよそ一千万年前。割れ目に沿って生まれた山々が西からの湿った風を遮り、大地溝帯の東側では雨が減った。森林が消え早原に変わっていく大きな環境変化の中で、草原に適した二足歩行の生活様式を確立した猿人だけが生き延び、人類の祖先になった。、
 この人類誕生のシナリオは「イーストサイド物語」と呼ぶ人類学の定説だが、トゥーマイは定説を裏切るかのように、大地溝帯から二千五百?も遠く離れた場所で見つかった。
 実はトゥーマイ猿人化石と一緒にワニなど水辺に住む動物の化石も見つかっている。アフリカ中央部の、現在はサハラ砂漠南部にあたる地域もかつては水や線が豊かだったことがうかがえる。こうしたことから森林と草原が接する場所であれ「アフリカのどこでも人類の祖先が生まれ進化していったと考えられる」と、京都大学の石田英実教授(自然人類学)はみる。もはや人類誕生の地は「イーストサイド」に限定できない。
 十年ほど前者では人類とチンパンジーなど類人猿との進化の分岐点付近の化石が全く見つかっておらず、系統図の大きな空白は「ミッシングリンク(失われた環)」と呼ばれてきた。
 東京大学の諏訪元・助教授ら日米の研究者グループがエチオピアで見つけた四百四十万年前のラミダス猿人が最古で、それ以前は石田京大教授らがケニアで発掘した九百五十万年前の類人猿化石(サンプルピテクス)まで、実に五百万年もの空白があった。
 この数年で五百万年前を超える古い猿人化石が相次いで見つ空白が急速に埋まりつつある。アフリカの古い地層に注目し、ねばり強く調査を続けた結果だ。
 人間や類人猿のDNA(デオキシボ核酸)分析からは、両者の分岐は約五百万年とされる。この見積もりと食い違うトゥーマイ猿人発見はDNAを利用する「分子進化学」に再検討を促すものだ。
 トゥーマイ猿人の方も、直立二足歩行の直接の証拠となりうる足の骨が見つかっていないなど、現状の化石だけからでは人類への進化のどこに位置づけられるか正確には分かっていない。人類学が探求を目指す空白はまだまだ広い。
    (編集委員 滝順一)』





続きます。


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