忌まわしい二度目の会社その15


忌まわしき二度目の会社時代その15

木戸川橋



2000.8.25(金)
12:25:AUGUST 25
LONGBOOMに期待するより、将来のコ゛ミに心配するより、先にEーCELLを一番先に利益につながりそうな会社を教えてください。それに、DNAチップは何ですか? それを一番やっている会社を教えて下さい。それらの会社の株を買って一儲けしたいと思います。

早く仕事をしたいなら、早くSPORTS CLUBへ行ってください。思っていらしゃるばかりではなくて...

必ず原語で本を読んで下さい。一日1ページでも...
14:44:やり場のない焦り
段々厳しくなるメッセージ。
頭を錆び付かせないようにと思って新聞記事を読んでいたのですが、現状の自分のすることが留守になっているかのように受け止められているようでショックでした。
今は休ませて貰っているので、昼間の外出には抵抗があります。夕方のジョギングで体調を整えているだけです。
今は来月になれば出社させて貰おうと考えています。ただ、A、Sさんがどういうかもあります。(今月一杯は休め。中途半端に出てくるなと言う感じだったので・・。)
医者には土曜日行くことになっています、その時見通しを聞きますが、境界の分かりにくい病気なのでどんな判断になるか分かりません。△△には○○がまともにやれることを客観的に判断して貰おうとして、今までのようなメールを書いてしまいました。
仕事と、一般的なことは別だろうと思いますので、多少の不安はありますが、やっていけると思っています。
もっとも、想像以上のストレスが待ち受けているとしたら話は変わると思いますが。
株のことは分からない。(製薬会社が延びるだろう事は折り込み済みであろうし)
原語で読む件は紹介の本等を探してみますが、能力の差もあるし多分苦痛だろうと思います。
今頭の中は真っ白です。
○○

2000.8.28(月)
11:48:AUGUST 28
暗いMAILを書いてこないでください。
効率のない空焦りばかりで、なにも行動しない事は理解できませんので。
自分しか分からない事が自分でやってください。
医者の判断?同僚の慰め?そんな子供的な幻想は止めてください。
掛かってこないでください。

これで、△△との短かったつき合いは終わりになってしまった。

四国へ主張

この間8月一杯と9月1日まで、自宅療養ということになったが、事態は悪く、落ち込みは激しくなっていった。

この様にして、私と△△の短い関係は終わってしまった。それからというものは、全く何もなく、顔を合わせても、完全に無視する間柄となってしまった。

これで又通常の状態に戻る事が出来る。

△△はもともと中国人所詮大和魂を知り得ないとうそぶいた。

職場に復帰したときは、まだ頭がふらつく感じがして、まともに出来るかどうかは不安であった。完治せずに出て行った事は自覚していたが、長い休みは、常識的に許されないであろう事は百も承知であった。従って、会社に出て行くことが第一義と考えての行動だった。
会社に行っても心は晴れず、月2回程度の出張も前ほどには元気が出なかった。
そんなどっちつかずの状態で、2000年は終わってしまった。
年が明けても気力が出ず、ずるずると1ヶ月が過ぎてしまった。その内また不快感が拭えず、会社に出かけることが出来なくなった。
2月の初め今まで通院していた医者では埒があかなくなって、入院を考えないとずる休みと思われる旨話があったので、急いで、入院施設のある病院を探した。
そして、入院の予約をして数日後に準備をして新宿の病院へ訪れた。
たまたま電話を取った医者と違って、院長先生が初診をされ、入院することになった。
完全看護であるため、妻は、1~2週間に一度洗濯物を取りに往復してくれた。
先生のやり方は、1ヶ月ぐらい何もかも忘れるために昼間でも眠くなる薬を投与され、ベッドでごろごろしていた。そしていつの間にか寝込んでいる自分に気が付いた。風呂も順番が決まっていて、1週間に1回の休みを除いて入浴が出来た。
色々な病名の人がいるのだろうが、皆比較的元気そうなのに、力が出ないと言っていた。
健康な人から見ればずる休みをしていると見られても仕方がない感じだ。
しかし、本人にとっては息も絶え絶えであり、入院当時はげっそりと痩せこけてみる陰もなかった。
気分が完全に払拭されず、かといって、毎日ベッドに寝ているのも苦痛になってきた。
先生の薦めで、4階の図書室を知り、そこから色々な本を借りてきては読みふけった。
一方では本を読むことが出来るのに、なかなか気力が湧いてこない。
先生の考えもあるようで、最初は2ヶ月の入院と告げられた。
昔は1ヶ月足らずで退院することが出来たので、何とか早く出して下さいとお願いしたが、じっくり治してからの方がよろしい。と取り合って貰えなかった。
こちらは入院が長引くと、頸になるのではないかと内心びくびくした。

彼の日課は、朝の体操、3度の食事、入浴、それと薬を飲み寝ることが殆どすべてであった。
看護婦は医師の指示もあってか、彼がふらつく恐れがあるので、特に注意をするように言われているようだった。
図書館の本もめぼしいものは読みあさったが、殆ど印象にない。ただ、山崎豊子の、「沈まぬ太陽」だけは、面白く読んだ。
この病気は、特に完治という時期が曖昧で、自覚症状がある間はどうにも出来ないが、無くなっても軽々しく退院させてくれない。
そんな中、N氏とまた別の日に、S,Eの二人が見舞いに来てくれた。
今度は完全に良くなってから出てきて下さいと言われた。中途半端で出てこられても、面倒が見きれないと言うこともあるようだ。
彼は2ヶ月の入院期間で退院することを考えていたが、医者も後一ヶ月はいた方が良いと言って目標は3ヶ月の入院になってしまった。
入院の最後は、丁度花見時であり、院長から外出許可を出されていたので、近くの公園に花見に出かけた。また早稲田大学のキャンパスにも訪れた。
しかし、美しい花を愛でる人達を見ても、学生の軽やかな会話を聞いても、彼の気持ちは、なかなか晴れるものではなかった。
入院の最後には、書道の教室もあることを知った。心落ち着いて、字が書けるか、静かに墨をすることが出来るか、何回かその教室に通った。
その内外出許可も自宅まで可能と言うことになり、久し振りに家のベッドで寝た。
何時も思うことだが、健康が一番だとこの時も思った。
そして、どの様にして、退院し、自宅に帰ったかは忘れたが、兎に角フリーになったという気持ちと、またあの会社に出て行くのかという鬱陶しさが頭をよぎった。
長かった休みは、自宅療養を含めて、早4ヶ月になっていた。
社長にどう挨拶すべきか、職場の目はどうだろうかと相変わらず、後遺症を引きずっていた。
会社に出ても、まだ本格的に仕事がばりばり出来るほどでなく、泣かず飛ばずの生活をしばらくは送らなければならなかった。

4ヶ月の間に給料は引かれていなかった。ただ名刺を渡されたのは、技術部長を降ろされた、単なる取締役だった。仕事の内容は、余り変わりがなかったが、出張はめっきりと減った。
人前で喋るのが億劫になっていた自分には、有り難いことだった。
3ヶ月位経った頃から通常の出張が始まった。しかし入院前に比べると激減していた。
一度は、一人で、島根の山奥までレンタカーを借りて出かけたこともあった。
その頃を境に体調はめきめき良くなった。
おそらく黒い犬の反動であろう。何事も出来ないことはないとの大きな気持ちになった。

その年の12月に社内旅行を、それぞれの好きな所を選んでいくことになった。
その中に香港が入っていた。香港からのオプショナルツアーで、マカオと深せんが入っていた。
彼は、既にパスポートの期限は切れていたが、取り直して、香港旅行に参加することにした。
香港は活気を帯びた雑踏の街であった。市内ツアーなど決められたコースを回る途中で、宝飾店で、買い物をして、そのお陰で、帰ってしかられた。

また2泊の間、真夜中にホテルを抜け出し、路地を入って、安い飲み屋を探した。ところが、目の玉が飛び出るようなことを言う店が多かった。
さらに探しているとやり手じいさんが出てきて、おっぱいを触るだけだよと言う。
それで結構と奥まったエレベーターで2階に上がると、奥の部屋に導き入れた。
しばらく待つように言われて入ってきた香港女性は、薄い下着になり、既に私の上から、覆い被さるようにする。予期以外のことが起こったので、少し戸惑ったが、成り行きに任せて、行為を終えた。
私にはその娘が、とても可愛く見えた。どうも玄人ではなく学生のアルバイトのような感じだった。
行為が終わると、お互いに余り話すこともない。
しばらくして服を着ると、やり手じいさんがやってきて、私を店の外に連れ出した。
之から何処に行くのかと聞かれたので、海岸まで散歩しようと思っているというと、危険だから、止めておけという。
時計を見ると午前2時をまわっていた。
やり手じいさんの助言に従って、ホテルに帰ることにした。やり手じいさんは、気を遣ってくれたのだろう、私をホテルまで送ってくれた。
そして、おもむろに携帯電話の番号を教えてくれた。
部屋は2人部屋なので、足音を忍ばせてベッドに潜り込んだ。そして朝になって、デジカメを紛失していることに気が付いた。
大変な失態である、、まさかいろ呆けしたわけでもないのにとがっかりした。中には、旅行で取った色々な写真が入っていたから。

翌日は、深せんへのツアーが組まれていた。1国2制度通関なんてほとんど無いかと思えば、何のことはない、通常の入国手続きよりも面倒なほど長い時間が掛かった。やはり国は違うのだと言うことと、無闇に香港に流れ込む難民を防いでいるのかも知れない。と思った。
深せんにはいると、ここが中国かと思う位に高層ビルもあり、街自身が綺麗であった。
上海などと並んで特別行政地区に指定されていることが一目で分かった。
各民族がどんな風に過ごしているのかをディスプレイした一区画が、博物館のようにあり、その中を歩いたが、山奥の人種を集めたコロニーに行って、会話を試みたが、やはりほとんど伝わらなかった。

中国の古仏を陳列し、販売もしている所に入った。
言葉巧みに高額の物を買わされ、たが、それが後々長い尾を引くことになろうとはその時気づかなかった。あちこち見て回り、帰りも厳しい出国検査をへて、香港に帰ってきた。夕食もレストランで美味しく頂いた。ホテルのそばの屋台を冷やかして歩いた。

みんなホテルに引き上げた後、また単独街に出た。何しろデジカメを探さなければならないが、あることは期待していなかった。あるとすれば、昨日の女のところしかないと思い、携帯電話の番号を掛けるが通じない。
メインストリートに面したカメラの店に飛び込み、ここに電話が掛けたい、と店長とおぼしき人間に頼んだ。なかなか掛からなかったが、やっと通じ、くだんのやり手爺さんが、店の前にやって来るという。
ひょこひょことやり手じいさんがやってきた。カメラのことを話すと分からないと言う。
期待した通りの返事だ。そこで昨日の女の子と会いたいというと、付いて来いと言う。
今度は別の館へ連れ込まれ、しばらく電話をしていたが、昨日の子は、今朝上海に出かけた、しばらく帰ってこないと言う。これでカメラはもうでないと分かったので、別の子を紹介すると言われ、一目見てブスなら帰ろうと思い、出口に現れるのを待った。

現れた娘は、昨日のより若く可愛かった。これで良いとやり手親爺を帰し、すぐさまキスをしながら洋服を脱がせた。そして、お粗末ではあるが備え付けのシャワーを浴び、ベッドに横になった。
私は朝まで大丈夫と思っていたので、セックスをする前にフィンガーテクニックでその娘を何回も行かせた。そろそろ本番と思ったその時にそのホテルのママさんが時間だという。
冗談じゃないこちらは何もしていないのにと食い下がったが、一向に聞く気配もない。
ポケットには1万円も入っていない。その内女の娘も上気した気分が醒めてきたのか、もう駄目だという。
こうして二日目の晩は何とも中途半端で巧く行かなかった。周りを通る人や、アベックに帰りの道を尋ねたがなかなか埒があかなかった。最後にインド人に聞くと、連れて帰ってやると言う。
自分の電話番号と住所を紙に書いて、また香港に来るときは電話しろと言う。
親切な親爺だと思い、帰って手紙を書いたが、なしのつぶてだった。
ホテルに帰って、同室者を起こすのが気の毒なので、ロビーのソファーで夜が明けるのを待って仮眠した。

みんなとは別行動で、香港を満喫した。その間のバスガイドとの掛け合いも今度は反動で、自分がややハイになっていることを示していた。
香港・深せんの旅は終わった。と思ったが、高額な買い物をすっかり忘れていた。

落ち着いて考えてみると、そんな買い物は必要ないと言うことが身にしみて分かってきた。
私は、もう要らないと輸送業者に通告した。
深せん博物軒には、電話が通じないし、ファックスも通じない。輸送業者、カード会社などを通じて、受け取らない旨を再三相手に言った。多大な労力をつぎ込み、ほとんど1ヶ月にわたる死闘の元に、相手もやっと折れて、
購入金額の1/5で良いとのことになり、こちらも渋々支払った。

デジカメと、ボールペンについては、旅行の保険で、ほぼ全額が帰ってきた。
1ヶ月間の戦いは、壮絶なものだった。最後に香港から、お客さんも疲れたでしょう、私たちも疲れました、と電話があった。
これで、ほぼ香港・深せん旅行は終わった。

その年の暮れに静岡支店に若者を集めて勉強会を開くと言うことになり。私が講師となった。勉強会は活発の質問が出て有意義であったが、その間に現場での事故が報告された。社長はそれと絡めて、こういう大事な時期に勝手に集まるとはないごとかということになった。当然事前報告はしていたけれどそんなことは例によって、とっくの昔に忘れている。関係した静岡支店長と私は出勤停止を言い渡された。
12月27日のことだった。そして、それも年末で解除され、結局2日早い正月休暇と言うことになった。
12月28日には、今は退職した人も交え4人で忘年会をした。

年が明け、順調に仕事をこなしていた。各現場への技術説明なども以前と同じだ。

ところが2月14日突然役員を降りてくれと言われた。総務の常務からで、この男は、ゴキブリと呼ばれ、社長の単なるメッセンジャーボーイでしかない。私は、4ヶ月の病欠との負い目もあるし、甘んじてそれを受けることにした。
それからはやる気も失せて、成り行きに任せることになった。
3月末の株主総会で、退任が正式に決まり、一礼して空しく会場を去った。
通常は、役員を辞めると、退職と言うことだが、それは無いという。
要するに振り出しに戻るということである。

数日後私は本部長付という名刺をもらった。

仕事も段々と回ってこなくなり、暇な時期がやってきた。しかし、暇そうにすることは御法度なので、適当に自分で仕事を作りそれをこなしていった。
東北支店に出張があった折りに義母を呼び瑞巌寺と松島の見学を行った。
数少ない親孝行である。
後は之といったこともなく、時々まわってくる出張をただ淡々とこなしていた。
友人と飲む機会が増えた。
小学校、高校の同窓会の誘いがあったが、気分もさえず出て行かなかった。
昔の会社の上司、先輩に声を掛けて、昔のことを魚に飲んだ。

この会社は、130人位いるだろうか。兎に角初めは、数人で立ち上げ、その後私が入ったときには20人にも満たなかった。当時の雇用状態は、まだ買い手市場といってもそれ程激しくなかったが、とにかく細々とやる個人商店と理解していた。
小企業、中小企業のジャンルには入りきらないもう一つの形態であるように感じた。
社長の好みで、何でもやらされ、周囲の環境がどうであれ、人の意見は聞かず、ひたすら猪突猛進する。絶対に自分が間違っていたとは言わない。
気に入らない人間は、何が何でも辞めさせる。
女と、中国人がことのほか好きである。セクハラ、パワハラし放題。
組織と言うことを全く理解していない。会社というものを正しく理解していない。
公私の混同がつかない。近所に住む経理の専門家を会社に呼び込んだら、経理の専門家は、その私費流用に驚き、社長の給料を上げて、公私の区別をしようとしたら、やっぱり治らず、給料を上げた分だけ損をしたということ。
それに似た、部下がいた。
サラ金借金魔、さらに会社から仮払いで金を引き出ししているこの男を
弱みを握られているのか、同病故共感が持てるのか、なかなか切ることが出いない。古傷や、プライベートを握られているとしか思えない。

社長の女は、福岡、瀬田、名古屋、東京と山ほどいる。
それを知らぬ社員達でもあるまいが、とにかく社員は虫けらのように思っているのだから、どんなことでも大声で喋る。
社員の中にもスパイがいて、社長は特に女の言葉は裏を取ることなくすぐ信じる。そして直ちに処分する。

その社長が、コンプライアンスの本を社員に読ませた。一体どういうつもりか。
元々自分で読んでないことは明らかだが。公団で聞いて、そのまま鵜呑みにしてのことだろう。

それ以降も社長の悪行は限りなく続く。
なぜこんな会社に入ったのだろう?後悔は、止めどなく自分を襲う。

ここでやっと現実の今と追いついた。如何に寂しい生活を送っているかがうかがい知れたと思う。
これからは毎日書くのは苦しいかも知れないし、量が少なくなると思う。

2003.4.25
これから普通の日記形態になる。

今朝大成建設へ行った。営業の話だと技術的なこともあるという。
準備をして出かけたが、通り一遍のことだけで、これからスタディするという。
新宿だから良いようなものの、これが、遠い所だとがっかりする所だ。
それでも半日潰れてしまった。
もうすぐ変則的な連休が始まる。とにかく会社に行かないで良いのは何よりだ。

2003年 4月 26日 (土)
病院へ行く
今日は、薬を貰うために新宿の病院まで出かけた。朝通常の出勤通りに起きて、ベッドに座り、ボーとしていた。いつもは使わない自転車で駅まで出かけた。
変則ゴールデンウィークだが、朝はそれ程混まなかった。
駅を降りて、都バスに乗り病院で薬だけを貰う。薬が無くても十分にやっていけるが、飲んでおいた方が良いのかと通った。
帰り新宿のデパートで本を買った。余り面白そうなものはなかったが、新書もので、2冊を買った。
買いだめした本がまだ沢山あるし、今読んでる本は、ちんぷんかんぷんで分からない。
夕方都議会議員選挙の最後の連呼が聞こえた。

2003年 4月 27日 (日)
一期一会
この間、こんな会社にいられ無いと言って、辞表を書き、辞めていった、友人がいる。
もう還暦だというので、どうなるかと心配していた所、今日、本人から再就職が出来たとメールが入った。本当に良かった。今の世の中まともにいってもなかなか難しいのに、よくぞ就職出来たものだ。
それもこれも、彼の人脈のせいと思っている。
久し振りに朗報に触れると共に、自らの惨めさを嘆く。
全くやり甲斐のない会社だ。不平等も甚だしい。個人商店がどんなに頑張っても知れているのだから、頑張ろうという気にさせて欲しい。

2003年 4月 28日 (月)
呆けた社長
「あんな事をしておいて、謝りに来るのが当然だ。何で来ないんだ。」
朝から怒鳴っている。既にその人は数日前に謝りに来ている。すっかり忘れているのだ。
誰が話したのだ、わしがいない間に・・・。いやちゃんと貴方がいるときに貴方の部屋で、お話になっていました。
これを聞いて、もうあかんと思った。ついに呆けてしまったようだ。
近々中国へ行く予定だったのが急に取りやめになった。すこし不在になると喜んだが、皆がっかりした。
上海のSARSは数こそ発表されていないが、相当な数に上るはず。
中国は都合の悪いことは皆隠す。隠しきれなくなって日に日に倍々と増えていく。
中国は元々嫌いだが、社長はもっと嫌いだ。SARSが頼みだったのに。

2003年 4月 29日 (火)
変則の休み
休みでよいこと、それは目覚ましの音に起こされなくて良いこと。
何となくだらだらと過ごせること。本を読みながら寝られること。
それでも今日は、難しい本を一応終わった。読んだとは敢えて言わない。
明日からまた2日行くと代休を取っての4連休となる。何もすることはないのだが、ほっとする。
考えてみると、人生の消化試合みたいなものだ。

2003年 4月 30日 (水)
責任のあるような無いような
何とものらりくらりした仕事である。別にしなくても誰も困らない、でも行きがかり上仕方なくやっている。
この頃は、責任あることをするのを避けるようになった。やっても仕方ないと思うからだ。
意義のあることをやろうが、そうでなかろうが、全く評価はされないからだ。
ただ自分の好みと、先入観での評価は、勤労意欲を著しく損なう。
還暦まで、後1年半、何とかたどり着きたいと思っている。
若い頃一生懸命勉強し、また真面目一本で仕事をしてきたことが報われるように。
今日は風が強く、雨も凄いとの天気予報だったが、全くその気配はなかった。
気象予報士というのは気楽なものだ。彼らが謝ったことを見たことがない。

2003年 5月 2日 (金)
代休
5月1日出勤する替わりに代休を取れとのことだったので、早速今日は代休を取り、4連休とした。
昨夜は、ほぼ恒例になった、義兄と食事をした。義兄は酒を飲まないが、私は焼酎を飲む。
SARSの話になり、北京政府のいい加減さがねたになった。上海でも同じ事が起こっているが、上海では、病人を田舎に搬送するので実態は分からないという事だった。
中国政府、共産主義のいい加減さが今回の事件を大きくした。
南京虐殺30万人説は、既に南京人口を遙かに超えている。針小棒大のケースである。
こんな所が中国嫌いになる所以である。ところが個人個人は、考えられないぐらいのプライドを持っている。
SARSと言い、白い集団と言い世の中は何かしらおかしい。毎日新聞記者の手榴弾?爆発の問題も検閲段階だから、これ位で済んだが、飛行中であればどんな惨事になるかも知れない。
良識の人間のやるべき事とはとても思わない。

2003年 5月 3日 (土)
良き友良き師
人生は、巡り会うなら、良き友良き師である。今のような、悪しき先例を見るに付けおぞましいことはない。年取って、最後に名誉を欲しがるというのがあるが、未だに金と、女を求めて止まないいやらしさが何とも言えず空しい。
それが我がトップであると言うことは、本当は、何もかもうち捨てて逃げ出したい所だが、何とも出来ないのが悲しい。正当な労働に対し正当な対価を得るはずが、ここでは、単なる好みによって、金もそうだが、かってに頸を切る。
何しろ失業率が高いので、1人の募集に20人位集まってくる。
それを良いことに、今までの人間を軽視する。でも何にも言えないのだ。

2003年 5月 4日 (日)
蒸し暑い一日
早くも外は蒸し暑くなってきた。この間まで出ていたストーブをしまい、扇風機を出した。
フローリングの床の冷たさが、心地よい。まだ5月の初め、新緑が爽やかな季節なのに、雨でも降りそうな湿気を感じる。今年も嫌な汗のシーズンがやってきた。満員電車で、流れる汗を拭くことも出来ず、長時間立っているのは苦しいものだ。
連休の人出を見ると、若い人や家族連れが多い。
こちらは、若くもなく、子供も居ないので、何処にも出かけない。さらに車がないのも致命的だ。
電車を乗り継いで、行楽地に出かけることは考えても億劫である。

2003年 5月 5日 (月)
短いようで短い連休
ゴールデンウイークとはならず、カレンダー通りの休みになってしまった。
その短い休みも今日でお終い。明日からはまた鬱陶しい日が続く。この頃の天気例年よりは暑いのではないか。今年の夏も暑いのだろうな。
白装束の連中を余り追いかけすぎると思う。少なくともマスコミはそれがひどい。
たまちゃんも一緒だ。勝手に入ってきて勝手にしているのだから、勝手にさせればいい。
スカラー波がどうのこうのと言っているが、物理的には何の意味もなさそうである。
違法行為をしないように、見定めるのは必要だが、騒ぎすぎると増長する。
もっとしっかりと報道すべき事が山のようにあるのではないか。

2003年 5月 6日 (火)
この世は奇々怪々
またもや白装束。嘘八百の言動はいい加減にして欲しい。ドームへ帰ると言って、そこで何かしら悪行をたくらむのでは。それでなくてもSARSで大変な時期なのに。
それにしても中国の衛生管理についてみていると、後進国であることがよく分かる。
日に日に患者数、死者共に増えている。本当に国を挙げての取り組みだとは思われない。
一番進んだ病院を放映して、さも近代的であるかのカモフラージュをする。
中国というのは矢張り気の抜けない国である。
北京ばかりが放送されているが、上海などもこの例に漏れないと考えられる。

2003年 5月 7日 (水)
蒸し暑い日
既に7月に入った陽気と言われ、いやが上にも暑さが感じられる。
五月晴れを味わうことなく、梅雨入りするのではないか。SARSの香港での死亡率は20%と言う。
中国は、全く当てにならない、共産党独裁政治は今更ながら恐ろしい。
自分たちに都合の悪い数字は隠してしまう。初動対策の遅れと言わなければならない。
マスコミのニュースの数が本当だと思っては、間違いかも知れない。
都合が悪ければ、病人を田舎に運び、隠してしまう恐れがあるからだ。
日本は、今のところ感染者がいないので助かる。たちの悪いウイルスを何とか退治して欲しい。

2003年 5月 9日 (金)
送別会
入社して間もない女性が、仙台へ変わることになった。プロモーターが2人になったので合同でと言うことになった。果たして集まるのは、若い人ばかりで、私が一番年上かと思って心配したが、まだ上が、2人もいたので安心した。
社長からセクハラまがいのことをされ、頑なに抵抗したので社長も諦めたのか、仙台左遷となった。
しかし、仙台はその娘の故郷であり、社長から解放されて2重の喜びと思える。花束を貰っていたけれど、小人数とはいえ、彼女にとっては、楽しい想い出になることだろう。初めて勤めた会社が、こんな所であるというのは不幸だと思うが、彼女には、それを評価する術もないわけだ。
でも現代っ子はしっかりしている。2次会でカラオケに行ったが、どんどん自分の歌を予約して、歌い続けていた。
こちらはワインを飲み過ぎて、二日酔い的になってしまった。
もうすぐ今度は新婚ほやほやの男性が愛媛に飛ばされることになりそうだ。
いつも思いつき移動と、思いつき解雇の商店である。

2003年 5月 10日 (土)
末期的症状の会社
そろそろ売り上げに陰りが見えてきた会社は、相変わらず、独裁者社長の下で、あらぬ方向に進んでいる。公私混同は元より、女を連れて外遊である。その女も数が増えてきたので、女同士の見えない火花はすざましい。
人生の終わりをこんな会社で終わるのか、朽ち果てるのかと思うと悔しくて仕方がない。
しかし溢れかえる失業者、職安で得た屈辱感を思うと、辛抱金なりと思うしかやってられない。
如何にこちらが、一生懸命やろうとも社長の気分一つで、辞めさせることは出来るらしい。
1ヶ月前の通告でなければ1ヶ月分の給料を払えば何とでもなるのか。
不当解雇と言うことにはならないのか。
大企業でもリストラが流行り福祉の体制も出来ていない世の中で、贅沢を言うことになるのか。
昔のように人間50年ではなく70位まではまだ働ける時代になったのに。

2003年 5月 11日 (日)
くつろぎの2日
何と言っても、金曜日の晩から、今の時間までが心休まる。読書をしたり、居眠りをしたり、くつろげるときだ。TVの番組も、同じようなものばかりで、余り楽しくはない。
アメリカは、北朝鮮の動向を注視しているとは言うが、単独で北朝鮮を攻める気は無いという。
北朝鮮は、地球に残った最後の独裁国だから、これを野放しにして良いはずがない。
田舎の写真を見ると、ビアフラの子供のように骨と皮とになった子供の写真が出ていた。
独裁者の近辺だけが潤って、その他は、支援の米さえ届かない。
非人道的と言えばそれまでだが、いつまでもこんな状態を許すわけにはいかない。
中国もそうだが、同じ同胞を助けられないなんてそんなのは、既に国家ではない。

2003年 5月 12日 (月)
差別待遇
社長は、一流企業、一流会社出身を好む。しかしそれも初めだけで、自分になびかないものはけ落とされる。兎に角余り能もないのに、尻の軽い女は、好まれる。
そんなだから、皆のやる気はほとんど無い。ノー天気な奴だけが訳も分からずついていっている。
新聞で見る、経営の本だとか、如何にすれば会社は良くなるか、と言う類の本は、全くこの会社には当てはまらない。能率を求めることは不要だと、社長自らが言う。
商売とは、昔の知り合いを頼り、大口顧客の機嫌を損ねないとする所にあるらしい。
顧客の運命と共に沈没するのをいとわないようだ。

2003年 5月 13日 (火)
本を読む
近頃本を読んでいるが、どれも之も難しい。興味が湧きそうな題名の本を選んで買うのだが。内容は最後までついていけない。兎に角小説というものを余り好まないので、こうなってしまうのだろう。
昔は、横溝正史全集とか、吉川英治の坂本龍馬物語「飛ぶが如く」とかを読んだが、この時は面白かった。
少し前は、吉村昭にこり、それから、井上靖も読んだ。
買う本も単行本に凝ったり、金がないので文庫本にしたり、その時々で変わった。
今は塩野七生さんの「ローマ人の物語」を続けて読んでいる。何しろ年1回の出版とかで、凄い気力だと思う。
また、中国に関心があり、中国関係の本を良く読む。SARSでも分かるように、一党独裁の国は、外部向けの公表と、内部の実態は相当乖離したものがある。

2003年 5月 14日 (水)
商品コード
遅ればせながら、当社でも商品に背番号を付けようと言うことになり、大勢で寄ってたかって、話をする。一言の発言もしないのがいる。遅くとも、みんなで決めれば怖くない。である。
商品コードの何たるかを知っている人間も少ないし、電算機にのせると言うことになるとさらに腰の引けるのが出てくる。
商品そのものを理解しているものも少ない。それでもこういった動きは、結構なことだ。
今までは、電算機というと、机を叩いて怒ったトップが、なし崩し的に緩んできたからだ。
通常は、トップが効率化を叫び率先して後押しをするものだが、当社ではどうも逆のようだ。

2003年 5月 15日 (木)
人柄と性格
同じ事を言っても、受け入れられる人と、何か嫌な顔をされる人とがいる。
之はひとえに人柄と、その性格によるものであろう。例えば同じ提案をしてもすんなりと受け入れられたり、なにがしかのコメントがついたり。
女性を飲みに誘っても、すぐ了解が得られる人と、断られる人。
いつもにこにこ愛想が良い方が、苦虫を噛みつぶしたような人よりも良いのに決まっている。
電話の応対もそうだ、誠意を込めて、丁寧に応対するのと、暗く明瞭でないのとは歴然と違う。
そんなことは百も承知だが、出来ないものは出来ない。
これを性分というのであろう。決して人格とは関係ない。
知らない人には案外丁寧に出来るものでも、相手を知るとそれが気に入らないとなると、どうしようもなく本音が出る。
そんなことはお構いなしにニコニコしていることは出来ないんだ。之も能力の欠如か。

2003年 5月 16日 (金)
お上りさん汐留へ行く
今日は、朝起きるのは同じだったが、いつもより30分遅く出かけた。国交省関東技術事務所へ行くので、埼京線を反対方向に向かって武蔵浦和で、武蔵野の線に乗り換えた。
JRも国鉄時代の気分が抜けず、がらがらの車両に、ベンチを跳ね上げ、10時からでないと使えませんと車内放送をしていた。非常に官僚的なやり方である。
武蔵野線も朝は結構混んでいたが、通常の埼京線ほどではなかった。
新八柱に思惑通り約束の30分前についた。自分は、どうもせっかちというか、気が弱くてぎりぎりにはいけない。八柱の駅のベンチで、目をつぶって待った。
最初は、全然分からないことだったので、行くのが嫌だったが、今日は、見通しがついたお礼と言うことで比較的楽だった。
帰りに汐留再開発地区にお上りさん宜しく行ってみたが、経済の2局化を少し味わった。

2003年 5月 17日 (土)
眠い一日
一ヶ月ぶりの土曜出勤で、朝目覚めに変わった夢を見た。その内容は、ぼやっとして、思い出せない。
土曜日の出勤は苦痛だが、通勤電車は割合空いているので助かる。
それにしてもすぐに座りたくなるほど体力はなくなってしまった。
会社についても特別之と言ってすることがない。文献を読んでいると眠くなる。
やはり畑違いは、どうしようもなく、先ず基礎から不明瞭だ。
この年になると、殆どのことは、皆学校に返してきたので、残っているのは僅かだ。
宝くじの話が始まった。一人はバラで買うという。横から、バラだと2億しかならないよと。
するとバラ買いが言う、1等が10枚当たる可能性があるからその方が良いのだと。
みんなで爆笑した。

2003年 5月 18日 (日)
テレビの寿命
うちのテレビが、そろそろ駄目になってきた。最初は、映らなくなると叩いて画像を出していたが、
叩く場所も微妙に変わり、技術を有するようになった。その内放っておくと、画面全体にコンディションを調整する字が一杯に広がる。そしてリモートコントロールを話すと、ブラックアウトしてしまう。続けて見たいときにはチャンネルキーを押し続けなければならない。
もう15年近く経っているので仕方がないのだろうが、見てくれはどうもなっていない。
多分何処かの接触が悪いのか、それとも基盤が悪いのか工学部を出てもテレビの配線一つ見ることが出来ない。
後どれくらい我慢が出来るだろうか。店では、プラズマテレビを売っている時代になっているようだ。

2003年 5月 19日 (月)
りそなの更正
大銀行の一角が脆くも壊れた。代表権を持つ役員は総辞職をすると言うが、役員すべてが辞職すべきではないか。それに、銀行員給与の明細を公表すべきと考える。
昨今は能力主義と言われているので、単純に年令では割り切れないものがあるだろうが、年令平均か一人あたりの単価かを公表すれば、如何に彼らが裕福な思いをしているかが分かると思う。
そんな所に公的資金をつぎ込まねばならないのは、銀行が持つ公共性と、他への波及を恐れたものだ。
職員の給与退職金を、一般企業並みに落とし、経費の削減をした上で、必要な公的資金を投入することはやむを得ないことかと思う。
みんなが苦しんでいる中、銀行だけが不沈艦であって良いはずがない。

2003年 5月 20日 (火)
頭に入らぬ文献
文献を読んで、理論的に武装をしようと試みるけれど、なかなか身にはいらない。
デイリーの仕事は、殆どつまらぬものばかりだし、大勢に影響のないものばかりである。
もう少し若い頃背水の陣で頑張ったことが不思議に思えてくる。燃え尽きる位一生懸命やったのは、分からないことに対する挑戦だったのだろう。
今すべてが分かったというわけではないし、もっと奥深い所に進みたいが、これを指導してくれる人はいない。
正に独りよがりの他を顧みないそのくせが抜けきっていないし、どうしようもない。
文献や、その他を見ても、なかなかその道で過ごしてきたわけではないから、頭に入ってこない。
早く言えば、頭が悪いのである。
頭が悪いなりにも人に呉して話が出来るようになりたいものだ。

2003年 5月 21日 (水)
現実の空しさ
この会社に入って、不条理という言葉の意味を実感した。そしてその事を一人も糺せないことも分かった。平和の国日本でも、そしてちっぽけな会社でも、こんな不条理がまかり通るのだ。
まして、軍隊を抑え、洗脳された国民を、恐怖を持って押さえ込む国があっても不思議ではないわけだ。この会社の場合は、逃げ出せばいいことだが、この不況で、しかるべく口に糊することは難しくなっているので、やむを得ずいるのが素直な気持ちだ。
一生懸命働いても何の評価もなく、ただ好みだけで、給料が上がり、また理不尽な金が入るのだ。
まあいい。適当に流すことに決めたのだから、余り言うまい。
死んでもやることは無くならないのだ。真面目一本でやって来て、自分がいないとどうにもならないと思った時代もあったが、長期入院したときも、心配なく歯車は動いていた。
かくほど、自分の存在は、軽く、平凡で、つまらないものなのだ。
人生に余裕を持って生きよう。それが、自分に一番素直で、ストレスが溜まらないやり方のようだ。

2003年 5月 22日 (木)
無意味な忙しさ
客先に渡した成績書に誤りが多く、客は何がなんだか分からないと言う。もう一度纏めて出し直せとのこと。成績表の再調整と不足分を取り寄せた。
それが過不足無いか、また、誤りがないかを一つ一つ当たった。
こんな仕事ほど後ろ向きのものはない。それぞれの担当者が、自分の仕事を誇れる気風がないからだ。
実に思いつきの人配置を行い、(敢えて人事とは呼ばない)、教育の必要性を全く感じず、
担当者が慣れた頃には、部署を簡単に変える。
およそ、非能率的事この上ない。ここ一両日、全く無駄骨を折らされた。

2003年 5月 23日 (金)
S君の送別会
若いといっても32歳、滋賀に新築したばかりで東京勤務が6ヶ月、その後、新居浜に転勤を命じられた送別会をした。サラリーマンで転勤は、避けて通れないものであるが、その後のビジョンが全くないので本人は焦る。正に鬼人の如き社長の独断だけである。
それぞれに慰めたり、励ましたりの夜になった。どんなにつまらないと思う会社でも一旦奉職してしまうと簡単には変われない。政治の貧困でもある。
一部特権階級が旨い汁を吸い、下々(江戸時代の農民と、今のサラリーマンは同じであると感じる)
には、行き渡らない。
この道一筋の黄綬褒章は、サラリーマンには開かれていない。正に士農工商の農だけはつんぼ桟敷である。企業戦士として毎日通勤地獄に耐え、職責を全うしたものに対する報償はないものか。
馬鹿げた考えを持つこの頃である。

2003年 5月 24日 (土)
所詮すべては小さな事
今日は下剤を飲んだので、一日中腹が痛かった。其れ以外はいつも通り時は流れていった。
そんなものなのだ、小さいことにくよくよするなと言う本を読んでいると、当たり前のことが書かれていて、それを実行出来ない自分を知る。
今までは、一つ満たされれば、もう一つと、上を上を願ってやって来た。それがあるから、たゆみ無き前進があるのは事実だが、その為にこうした荒んだ、不均衡な世の中が生まれたのもこれまた事実である。
NHKで阿久悠の軌跡とも言うべき番組をやっている。随分大したミリオンセラーを出し続けている。若い頃の歌手は可愛かった。
一様にふっくらしていた。今の本物と比べると、老いは隠せないし、整形で得た、異様な顔に変化している。マイケルジャクソン程ではないが、別人に近い。
彼らはきっと金を持っているので不老長寿の薬があると一番に買うのだろう。
所詮すべては小さな事なのに。

2003年 5月 25日 (日)
憂える日本経済
デフレという不況を脱しきれない。銀行が本来の役目を忘れてしまった。
本来客のお金を集め、それを運用して、その差額を得、利子として元金にプラスして返すことが主たる目的ではなかったか。その利子が、実質0である。それに加えて、手数料を取るという。
踏んだり蹴ったりである。そんな中りそな銀行が危うくなり、公的資金を導入した。
それでも従業員1回分のボーナスを返上するだけで、一部を除き役員報酬は1/2にするだけという。
ただでさえも、給与レベルの高い銀行関係者に、その程度の血を流したことで、あがなわれると思って貰っては大間違いである。我々とは何処までさすか疑問だが、ボーナスカット又は停止は、目に見えているし、今後の生活不安は隠すべくもない。
全くプロ意識がない。給与を全額返済し、中小企業で働く給与分を受け取る位何故しないんだ。

2003年 5月 26日 (月)
JISの講習会
JISの講習会が始まった。3ヶ月に渡り全部で10日間だ。赤坂見附の規格協会で9:00から受付と言うことで、急いだが、赤坂見附の駅で、何と反対方向に歩いてしまった。
どうも感じが違うと思ったが、汗がどっと出た。それにしても赤坂見附の改札の奴は不親切だ。
歩いている女性に聞いたが、交番を教えてくれただけで本人は知らなかった。
交番は慣れたもので、親切に教えてくれた。兎に角地下鉄は、出口を一つ間違えると途方もない所に行ってしまう。
押っ取り刀で、会場に着き、受付を済ませて会場内にはいると、何と既に満員ではないか。同じ会社のが2人来て後ろの方に座っていた。その後ろに腰を掛け、流れる汗を拭った。
会場を見回すと若い人ばかりで、少々気が引けた。会社は年配者が多いのでまだ若い部類かと思ったが、世間は、違っていた。モノトーンの講師の説明に居眠りが付きそうだったが、何とか我慢して、大変疲れた。宿題もある、試験もあるで、とても大変そうだ。

2003年 5月 27日 (火)
講習二日目
120人余集まった講習会は、今日で2日目を終わった。まるで素人ではなく、少しは勉強したこともあるので、まどろっこしい所もある。昼休みを終わってすぐの講義は、ややもすると眠い。
大学の若い先生が講師だった。若くて溌剌として、なかなか良かったが、余り内容がなかった。
明日は内容のあることを密度濃くやると言う。
兎に角まだ後8日もある。色々知恵はつくだろう。赤坂見附の規格協会へは、池袋から丸ノ内線に乗って議事堂前の次で降りることになる。丸ノ内線は、東京をほぼ一周している感じだ。
夜の赤坂はまた雰囲気が違うのだろうな、等と考えながら一ツ木通りの中華料理店で、昼食を取った。
まあ、我々には、関係のない場所だ。

2003年 5月 28日 (水)
演習問題と宿題
講習3日目もようやく終わり、演習問題やら、宿題を頂いた。体がだるくて、とても夜考えることは出来ない。
頭も相当に呆けたなと感じるし、第一、パソコンばかりやっていると鉛筆で字を書くことが出来なくなってしまっている。
明日からまた別の大儀さが始まるので今日はこのくらいで。

2003年 5月 29日 (木)
講義の宿題
この年で講義を受け、宿題をする羽目になった。何時もパソコンを相手にしているので、なかなか字がうまく書けない。おまけに根気が無くなっているから大変だ。
ましてハウツーもののような解説なので覚えなければどうしようもない。
脳細胞は減少を続けているし、なんともはやである。
回りを見つめると、少しは熟年もいるが、皆若い人ばかりである。
若さというのは何と素晴らしいことかと思う。もう一度若返るとしたらどの年まで若返りたいか、と自問してみるが、やはり受験勉強は嫌だし、大学入学した所から始めたらどうかなと思う。
そうすると、既に進路は決まっていて、同じような生活が待っていることになるのだろう。
だからといって、高校時代からやり直して、そんなに勉強好きでないのだから全く大きなかけになってしまう。今のままひっそりと萎んでいくしかないのか。

2003年 5月 31日 (土)
三陸南岸の地震
急に揺れを感じ、その揺れがとても長かった。東京は震度3だったが、東北方面では震度6で、かなりな揺れを感じたようである。日本には地震予知連絡会なるものがあったはずである。
何故予知が出来ないのだろうか。地震があったら何処が震源地で、しかもマグニチュードはいくらと発表が出来るのに、どうして、地震前に予報が出ないのだろう。
随分危なっかしいがけの下に住んでいたことがある。崖が崩れたらひとたまりもないであろう。
三陸沖には過去7~8回地震が頻発している。
太平洋プレートが、日本の地盤に入り込むときのスティックスリップの現象と、今回のように少し中に入ったプレートとの摩擦によるものと、あるようだ。
田舎で、人家が少ない所で起きる地震でもこれ位の騒ぎだ。阪神大震災のような地震が、東京を直撃すると、日本という国が、成り立ちゆかないかも知れない。
誠に恐ろしいのは、地震、雷、火事、親父である。もっとも今時の親父は、除かねばならないか。

2003年 6月 1日 (日)
梅雨の始まりか
週末はずっと雨だった。雨の日は体がだるい。人間目的がないと、どうしても力が入らない。
最近は無気力状態だ。歳も現実よりもくってしまった。
人間は希望と共に若く、失望と共に老いるというものだ。明日から通常の日課が始まる。
意味もなく、ただ時間を潰す日課が始まるのだ。
もう少し若い頃の自分は、事情が分からぬ事もあって、随分がむしゃらだった。
内部の事情が分かるに連れて、改善をするにも何も、自分の出る幕はないと悟った。
何でも首を突っ込む親父がいて、それが、仕切ってしまう。厳密な組織はないわけで、適当にやってくれればいいとの社長の下では、厚かましいのがしゃしゃり出る。
その親父は、自分には声を掛けてこない。こちらが嫌っていることがどうも分かっているらしい。
まあ良いじゃないか、その親父が喜んでいるのだからと、思うことにしている。

2003年 6月 2日 (月)
人間の欲望
人間の欲望は果てしのないもののようだ。どん底を這いつくばっているときは、3度の飯を食べられればそれでいいと思っていても、一旦それが達成されると、家が欲しい、車が欲しい、段々とエスカレートする。正しくそれを成し遂げるならばこれ程立派なことはない。
手軽に悪の道にはまりこんだり、不法に金銭を求めるようになるのも欲望故であろう。
10日以上も痴漢行為をしていた56歳の親父や、連続何件かのひったくりをくり返す男がいる。
国会議員が、高額の賄賂を取ったりすることで、またそれが分かっても議員を辞職しないで固執する。
またその議員が、選挙民に支持される。回り回って自分の所に帰ってくる。
今無茶苦茶で、傍若無人なことをやっている社長よ、きっと良い死に様はしないだろう。
もう直接声を聞くこともなくなったが、みんなよく我慢をしているものだと感心する。

2003年 6月 4日 (水)
中国女性と飲む
既に二人とも結婚しているが、会社では、比較的恵まれてないが、自分を確立している女性と飲んだ。
飲んだと言ってもこちら2人組の男性が飲んだだけで、女性は殆ど飲んでいない。
一人は文系から、電気関係の大学を日本で卒業した。もう一人は、中国の有名大学で、法律関係を学んだという。おっとりしているが、なかなか分析は鋭い。
4人でタイ料理を食べに行こうと言うことで行ったが、本場のタイ料理よりは辛かった。
何時も一緒に飲むM君は、スタイルの良い、電気関係の娘が、良くてたまらない。
今度一緒に食事に二人だけで行こうと誘ったら、バラの花束でもくれたらその時は一寸考えるかな、とかわしていた。
何時も焼酎の水割りを飲むけれど、グラスが空になるペースは自分の方が速い。
今日はその余波で、眠くてしょうがなかった。もっとも仕事らしい仕事もなく、進んで考えても何の張り合いもない。段々と仕事から逃げるようになった。
色々な人間と飲むが、心からくつろげる相手は数えるほどもいない。




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