「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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雪月花
長文【女】
無菌病棟会話録
【女の言い分】
「知っている?私が今幸せか不幸せか。孤独か孤独ではないか。あなたを好
きか嫌いか。明日を心待ちにしているのか、それとも出来ることなら逃げ
出してしまいたいのか。今日という日を一生懸命作り上げたのか、それと
も必死でただやり過ごしていたのか。知らないでしょう。分からないで
しょう。そんなものなのよ。」
「私のことを結局何も知っちゃあいないことで、あなたが自分を責める必要
なんてないのよ。今までの私達の関係が不毛なものだったのかって絶望し
なくてもいいのよ。こんな話を私がしたからって、私とあなたの関係が消
えるわけでもないのよ。ただ話したかったそれだけなの。私が気付いてい
たことにあなたも気付いていたのか、少し興味があっただけなのよ。やっ
ぱり知らなかったのね。いいのよそれで。ただね、この際はっきりさせて
おくけれど、人と人との関係なんてこんなものよ。あんまり期待しない方
がいいわ。分かっているなんてタカを括っていると、そのうちにえらい目
にあうんだから。その時の傷はきっと修復不可能かも知れないわね。今あ
なたに、私に感謝なさいなんて言っても無駄だろうけれど、この時点で真
理に近付いたことは、有利なことなのよ。そのうちに分かるわ。期待もし
ない深入りもしないことの安全さがね。」
「そりゃあ正直羨ましい時もあるわ、何も知らずに果敢に人間に体当たりし
ていく人たちがね。傷付くところまで見届けたら、それ見なさいって鼻で
笑いもできる。でもやっぱり馬鹿にしてはいても、羨ましくはあるのよ。
自分でも認めたくないけど。ここに来てから、ひどく傷付いたり嘆いたり
することは無くなったわ。その代わり、涙が出るような幸せも感じなく
なったわ。自分のすべてを投げ出してなにかに当たることがないせいかも
しれないわね。いつも片手でどこかに掴まったままで、そこから届く範囲
のものを手に入れている。両手を離して、身一つにならないと取りに行け
ないようなものは、なるべく見ないようにしている。だって悲劇じゃな
い。もしもそんなに遠くに欲しいものを見つけてしまったら。取りにい
く勇気なんてはなからないのに。高嶺の花には気付かない方が身のため
なのよ。無茶したり贅沢したり冒険したり意地張ったりしなくても、十分
生きていけるんだから。けっこううまく出来ているのよ世の中は。わざわ
ざ茨の道を選ぶ方がそもそも不自然なのよ。分かるかしら?」
「疑問もあるけれどね。特に最近思うのよ。何をする時でもどこか自分を曝
け出しきらずに、守っている部分があるんだけれど、じゃあそこまでして
私が守ろうとしている私って何なのよってね。そんなにもったいぶっ
ちゃって、いつ本領発揮する気なの、ってね。その機会もないまま死んで
いくのかしら、誰にも完全な私の姿を知られないままいなくなるのかし
ら、そういえば私さえ自分を知らないけれど、私には何か、これが私だっ
ていうものがあるのかしらってね。人との関係に飛び込むのを止めたの
は、恐くて仕方がないしやり方も分からないからなのよ。一度失敗して
もうたくさんだと扉を閉じてしまったのよ。
だって知っている?人や物事と本気で向き合うためには自分の中身をそ
の目の前に残らず開けてしまわなきゃならないのよ。自分に中身があるか
どうかにさえ自信がなくてもね。最高に無防備にならなければいけない
の。なのに結果は保証されていない。私には大きすぎる賭けだった。で
も、普通の世の中にいる限り、それがどんなに危険か頭では分かっていて
も、ついふらふらと近寄っていってしまう。明かりに集まる虫みたいに
ね。だから私はここに来たの。物凄い幸せなこともあったけれど、あんな
に傷付くのはもうごめんだと思って。身を引くことに決めたのよ。寂しく
ないといえば嘘になっても、傷付くことはないっていう保証には、何にも
替えがたい安心感があるわ。そして今のところ、私にはそれを手放す気が
ないということ。」
「無駄足を運ばせてしまったみたいでごめんなさいね。でもあなたに力が無
かったという訳ではないのよ。ただこれは私の我が儘なんだから。それ
も、自分を甘やかしたいっていう、我が儘の王道なんだから。気にしない
でね。そのうちそっちに戻るかも知れない。それとももう戻らないかも知
れない。むしろ戻れないかも知れない。しつこいようだけど、今戻る気は
ない、居たいから居る、そういうことよ。単純なことなの。こうやって単
純な理屈だけで暮らしてけるっていうのは幸せなことなんでしょうね。ま
あいいわ。何だか長くなっちゃってごめんなさいね。じゃあさようなら。
会いに来てくれて嬉しかったわ。」
「すっかり諦めたところから始めると言うのはとても素敵なことに思えた。
実際。今までのあたしは何かにかこつけては、というかなにかかっこつけ
ては、自分をすべては譲りきらずに事にあたっていた。必死でキープした
りセーブしたりしていた。それは何だったんだろう?そこまでしてあたし
が死守していたものは何だったんだろう?考えだすと分からなくなる。気
が狂いそうな絶望になる。でもあたしはあたしを愛しているから、I love
you, myselfといってみる。そこから始まる。全部一回諦めて、逃げ道をな
くしてそしてそこから頑張りなおしてみようと思う。幸いなことにあたし
には、どんなあたしでも受け入れてくれるようなともだちがいる。だから
ここいらですっかりsurrenderして、開き直ってみよう。そう思った。この
考え方をくれたのもそのともだ ちなんだけど。ゼロから行かないと
100にはならないんだな。きっと。そういうことなんだろう。なんて賢
い奴なんだ。すげえ、に尽きる。諦めたところから始める。そうすれば失
わない。ゼロに戻ってもマイナスにはならない。ゼロの状態のあたしが、
ある意味あたしの真価なんだね。そうなんだね。そうなんだ。難しく考え
過ぎていた。この往生際の悪さにはほとほと愛想が尽きる。でもI love
you, myself。こっからだ。今日からだ。今からだ。ちょっと生まれ変わっ
た。ありがとう。とりあえずこのくそのような一日も、どうにかめでたし
めでたしで締めくくれそうだよ。ありがとう。忘れないようにしよう。あ
たしはゼロだ。Happy birthday、ゼロのあたし。」
「知っていた?プライドっていうのはね、中に持つものなのよ。自分の中
に。覚えていて。外に持つものじゃないわ。自分のプライドというのは、
自分にたいしてだけ持っていればいいの。他の人に誇示する必要なんてな
いし、そんな事してる人たちって、なんか哀れだよ。しかもうざったい
よ。そういう人の見せびらかすプライドっていうのはさ、えてしてその人
本人のものではないんだよね。自分の関係している何かや、属していると
ころの名前や歴史や、そういうものをプライドと勘違いしている。トラの
威を借る何とかってやつ。あたしは自分にプライドを持っている。これは
美しいことか、これは許せるか、受け入れられるか、自分にきいている。
そして自分の出す答えを信じていたいと思う。それが自信でしょう?話逸
れたね。プライド。鼻に掛けるというのは違う。何かと比べてないと自分
を持てない奴なんて醜悪。人を見下して安心してるやつなんか矮小。他人
をリスペクト出来ない奴にとりあえずろくなのいないでしょ。あたしが今
言ってること、矛盾に聞こえるかも知れないね。お前だって比べてんじゃ
んて思われてもしょうがない。でもね。あたしが最悪って思う奴らっての
は、話が通じない人種のこと。はなから上下と態度決めちゃってるような
人間のこと。属す集団で個人の価値計ったり、金で結果が出せると思い込
んでる連中のこと。あの学校出てるから俺のが偉いとか、このクラブは高
かったからよく飛ぶはずとか。ばっかみたい。でもそういう人間以外と多
いのね。やっててよく恥ずかしくないもんだと他人事ながら心配してしま
うけどね。年下を格下に見る奴とかね。内に秘めた、滲み出るような個人
の美学を、あたしはプライドと呼ぶ。実は根 拠のない高飛車な自信もど
きは、おばかさんと呼ぶ。しつこいようだけど、プライドってのは自分に
対して持ってりゃいいの。ってかそれ以外に存在し得ないの。もちろん
あたしは家族や友人や仲間にプライド持ってるよ。はっきり言って自慢だ
よ。でもそれは、彼ら彼女らがあたしの一部だから言えること。他人が彼
なり彼女なりをけなしたり傷つけたりしたらただじゃおかない。だってあ
たしがそうされたも同然だから。プライドの話。飛びまくったけど、要
は、美しく居てということ。あなたのために。どこに居ても誰と居ても同
じで居て。譲らないものを秘めていて。誇りを。」
オレンジ色の鮮やかなつやっこい爪でファンタグレープの紫の缶を掴んで飲んでると、アメリカな気がした。生半可なステレオタイプはきらいじゃない。
「それでも。そんなこといっててもそんな矮小さんのいうことに一喜一憂し
ちゃってるあたしはまだまだだなって思うよ。あたしのどこかにも、そん
な汚いプライドがかけらでもあるんだろうね。その駆除に邁進する次第で
す。例えばあたしは、昔は今よりもっと他人の目を気にしてた。たぶんそ
れはあたしが中途半端に自意識過剰だったからだと思うよ。今はある意
味昔よりずっと人の目気にしてるし、その分人の目が気にならなくなっ
た。その代わり自分の目が一番気になるようになった。そんな感じです。
今のところは。思い付いた言葉で忘れられない言葉があるんだ。『それ
は進歩じゃない?と彼女は言った。僕は退化だと思うのだけれど』ってい
うの。どう?あたしも思い付いた本人の癖して意味分かんないんだけど、
いつか分かる日がくるかもって。思う。」
「また来てくれたの?物好きだよね。でも嬉しいや。どのくらい前だっけ、
こないだ会ったの。もう一か月半にもなる?ほんと?あたしにはあっとい
う間だった。でも最近思うことがあってさ。本読んで考えて、思った。分
かったかもって思った。その本にはね、私の言語の限界は私の世界の限界
だって書いてあった。そうして考えて、思った。そうか、言語と世界はイ
コールで、言語も世界もプライベートなものなんだなって。そしたらね、
時間もプライベートなんじゃない?って考えるようになった。根拠無いか
ら駄目かしら。根拠は経験のみ、なんちゃって。これはただの思考遊びっ
ていうかジャンプしただけだよ。同じ時間でもさ、待ってる人には長くっ
て無我夢中な人にはあっと言う間だったりするでしょ。誰かがわざといじ
わるしてるみたいに時間がねっとりとしか流れていかない時。一分一分を
意識しないでは居られないくらい長い時。それと同じ時に、どこかで、自
分の片割れのような大切な人はあっという間に時間の中を駆け抜けてい
る。時間より早く生きてる。こっちは時間と正確に同じ早さでしか進めて
ないのに。そこにね、ギャップが生まれちゃってね、、みたいな話。聞い
たこと無い?あるでしょう?あたしの話なんだけどさ。きっと誰にでもい
くらかは起こった話だよね。ただあたしは辛抱できなかった。違う早さで
時間と生きていると言うことが、なにもそのままあたしのことを思わなく
なったってのとは話丸っきり違うのにさ。さみしくてさ。一緒にいたとき
は、同じ早さで時間の中を生きていた。だから。何かがどんどんずれて
いってるのを感じてしまった。そして思った。待てない。彼のことを。不
思議だよね。生きるとか、生き続けるとか、心は立ち止まってるのにと
か、そういうやつ。」
「きょうはごめんね、帰ってくれる?帰しちゃってから寂しくなって後悔す
るんだろうなあとは思うんだけど、今は誰にもここにいてほしくない。
ごめん。これから先も会いたくないってことじゃないの。今だけ。でもど
うしても今は駄目。自分かあなたかどっちかか両方かにいやあな目を見さ
せることになりそう。うっすら感じるから帰って。またね、って言うよ。
またね。」
「でもね、好きなものには深く関わらない方がいいと思わない?」
「次に何かか誰かを好きになったら、深く関わらない関係をキープしたいん
だけど、それって結局自分がそれでは満足できなくなりそうな気もする
し、こんなこと考える間もなく深入りしてそうだし、それに、本当に好き
じゃないものや人にしかそんな姿勢続けられないんじゃないかとも思うん
だよね。矛盾を早々に見つけてしまった。知ってる?ドリトル先生に出て
来る、オシツオサレツ」
「音とか匂いってさ、強烈だよね。全部思い出しちゃう。具体的には何も思
い出せなくても、感覚にすべてがよみがえる。無条件に。不可抗力だね。
この曲聞いたから悲しくなった、とかじゃなくて、なんだか悲しいと思っ
たらこの曲が聞こえてて、そうか、そうかって思うような連鎖の仕方ね。
人混みで香水の匂いに振り返ったり、しない?久々に聞いたアルバムなの
になぜか泣いたりしない?映画までいくとさ、情報量に巻き込まれて、そ
の映画の世界に入っちゃって意外に平気なんだけど、音とか匂いのレベル
だと、素面な部分がやられちゃうんだよね。あっっって。」
「忘れたくないことが多いのは、それは結局、幸せなことなのでしょうか。
先生はどう思いますか?」
「忘れたくないことは多いのに、それが何かも全ては思い出せないくらいに
多いのに、それでもどんどん忘れていく。わすれてわすれて、忘れていた
ことも忘れていて、ふいに何かのきっかけで思い出した時に、怖くて泣き
そうになる。このきっかけが無ければ、もうこのことを思い出すことは無
かったんだとか、今思い出してもまた同じように忘れて、そしてそれをこ
うやって思い出すきっかけがまたあるとは限らないんだとか考えて、だか
らこのことを考え続けておけば忘れないけれどそんなのは無理だし、と
か。あんなに強烈だったものをどうして思い出せないんだと自分を責めた
り、自分を信じられなくなったりしていく。どうしよう。どうしよう先
生。先生は平気?此処の外の人たちはみんなそういうの平気で生きてる
の?それとも辛いけどそれを乗り越えたり平気な顔したりするくらいみん
な強いの?それともそんなの感じる間もないくらいに忙しいの?それとも
心が小さいの?心をあんまり使わないで生活しているの?それとも、それ
とももっと大事な、考えなきゃならないことがたくさんあるのかなあ?先
生はどう?どうなの?もう戻らない過去がいとおしすぎて、戻らないし繰
り返せないぶん思いでは美しく死後硬直みたいに固まっていって、そこに
あたしの理想があって、情熱があって、で、今とかこれから先を見たとき
に絶望するの。恐ろしくて仕方が無い。あたしは、なんとなく、もう一生
分の思い出を十分に持っていると思うんだ、それもとびきりしあわせなや
つ。それを揺るがしたり忘れたりしていく為に此処から先の人生があるの
なら、今すぐ眠りたい」
「もう十分だよ、幸せは。だから、だから、これからどうしたいのかが分か
らない」
「だってこのごろ話が通じないんです。誰とって、出会う人たちと。あたし
が普通に話が出来た人たちは、みんなもう遠いところへ行ってしまった。
心と心がぶつかるような会話、理想を追い求めて理論に走る抽象的な議
論、果てしなく優しくて笑いに満ちて脱線してばかりの会話、冗談だけが
形作る真実、暗号のような会話、記号のような単語、合い言葉のようなほ
ほえみ、そういったもの全てが、今はとても遠い。遠くて遠くて。今、会
話は伝達でしかないし、言葉は一義的な意味しか持たない。そんなのいや
だ。いやでいやで。味の無い何か硬いものをずっと噛んでいろっていわれ
たら、先生だってあなただって嫌でしょう?どうしたらいいかわからな
い。とりあえず、今は、幸せではない」
「たぶん、未来に生きることに疲れたんだと思う。だから、過去から抜けら
れなくなってしまった。物凄く良いことだとは思わないけど、だからって
そんなに非難される覚えも、ないよ」
「だから、どうすればいいの?それが分からないうちに、あたしをここから
放り出さないでね。お願いだから。外は怖い」
私には今、先生と呼んでいる医師と、具体的なつながりは忘れたが物好きにお見舞いにやってきてくれる男の子とがいる。でもそれもまた幻覚なのかもしれない。白い壁に向かって話しているだけなのかもしれないし、壁なんてほんとは白くないのかもしれない。もしかしたら話してさえいなくて、頭の中でぐるぐる言ってみているだけなのかもしれない。もう、どれがほんとか分からない。ただ言葉だけは、溢れる。冬が来る毎に少しずつ編み進めてはまた長さの足りないまましまわれていくマフラーのような、これ。
「あなたは何月だっけ誕生日。手帳に書いてある、大切な人の誕生日を眺め
てたら、あたしにとっての命綱であるところの人たちの誕生日は、十月と
十一月に完全におさまってた。これはびっくりした。ほんとにあるのか
な。季節が近い人との間には感じかたの共通点も多いとか、そういうや
つ。今はきっとみんな覚えててくれるんじゃないかと思うんだけど、例え
ば十年後はどうなんだろう。あたしはずっとここにいるのかな。あたしの
場所は置いておいて、あたしはあの人たちのことを覚えているのかな。あ
の人たちはあたしのことを覚えているのかな。覚えているっていうのと、
忘れてないっていうのと、思い出せるっていうのとは、やっぱりそれぞれ
違うのかな。毎日あっていたら忘れない。毎日会えなかったり長い間顔も
見なかったりしても覚えててもらえるには、どうしたらいいんだろう。
近、嫌われたり憎まれたりすることよりも、忘れられることの方が怖いん
だ。忘れることも怖いけどね。忘れられるのなんて、耐えられない。そん
なの。いなかったことになる。あたしが。ここにちゃんといる、そのあた
しが。」
「聞いて。物凄く久しぶりに、覚えていたい言葉に出会った。社会学の文献
の中にあったんだ。リサ・ゴウって人が言ってた。彼女にとって、自分の
家は結局自分の知識と経験で、亀の様に自分の家をいつも背負ってて、自
分がどこに居ても帰る場所はそこなんだって。でも、最後の最後には海に
帰るんだ、自分にとっての海がどこであり何であるのかはまだ分からない
けど、って。素晴らしい比喩だと思う。そしてあたしも考えた。あたしに
とっての海はどこなんだろうって。わからなかった。あたしがいつも帰る
ところを自分で持っているのかさえ、わからなくなった。わからない。自
分の、この場所の意味。」
「場所が変われば住処も変わるし、出会う人も話す言葉も着るものも食べる
ものもすることも考えることも感じることも違って来るでしょう、だか
ら、あたしにとって物理的な場所と言うものはとても大きな意味を持つん
だ。仕事を決めたり学校を決めたりして、それによって場所が変わること
を受け入れている人が、周りには多かった。今考えてみれば、あたしは自
分が将来何がしたいかが見えないんじゃなくて、どこにいたいかが見えて
ないんだ。だって、ばらばら。同じ引っ越すにしても、100キロ動くの
と1000キロ動くのとでは話は全く違うでしょう。間に海があるかない
か、飛行機じゃないと行けないかどうか、日帰りできるかどうか、近くに
誰がいるか、家族か友人か恋人か、それは、流れに任せて決めてしまって
いい問題では、全く、なかった。むしろあたしは、先に場所から決めてし
まってもいいとさえ考えている。いずれ死ぬ。いずれ忘れる。だから、ど
の時間をどこで誰と過ごすか、それは、何をして過ごすかと同位置、むし
ろもっと重い話のように、あたしには映る。結局、一人はだめなんだ。忘
れ去られることも怖い。忘れ去ることと忘れ去られること。どちらも。ど
ちらが?どちらも。」
「また来てくれたの?ありがとう。何か欲しいもの?『全部、今、此処に、
ずっと』欲しい。困ってるの笑ってるの?大丈夫。本気だけどとっくに諦
めている。」
「自分の気持ちがわかんないだなんて、ほんとは分かってるはずだよ、だっ
て自分の気持ちが分かってないわけないじゃん。って言われたことがあっ
た。でも、あたしはやっぱり自分の心が分からない。これは何なのかな。
だからあたしは今此処にいるのかな。此処に自分がいる経緯がもう思い出
せないんだけど、あたしはどれくらい此処にいるの?どのぐらい前から此
処に居て、どのくらい先まで此処にいるの?知らないのね?残念。もしか
したら此処で生まれたんじゃないかとさえ勘違いしそうになることもある
けど、いくらなんでもそれは違うよね。だってあるもの、思い出。此処の
外で出会った人たちと、此処の外の景色と、此処の外で感じたことの思い
出。記憶。でも、怖い。鮮やかさはそのままに、記憶が粗くなっていく。
記憶という写真が、だんだんと粒子の粗いものになっていって。遠目から
見れば色は十分に鮮やかなんだけど、目を凝らせば凝らすほど、曖昧な部
分が多くなって、もう取りかえす術もなくて。写真ごと無くなってくれれ
ばいっそ楽なんだけど、そうもいかないから、歯痒さばかりが増してく。
あたしは今、何を?」
「全てのものに終わりばかりみてしまう、その癖がどんどんひどくなってき
たみたい。最近じゃあもう、手に負えないんだ。助けて。どうしたら後先
考えず動けるようになるの?どうやって生きてるの?どうやって決めてる
の?どうやって選んでるの?」
「変わった?あたしが?そうかもね。前のと今のと、どっちがほんとなんだ
ろう。どっちもほんとだろうけど。変化、ねえ。どうしちゃったんだろ
う。差異に優劣は無いにしろ。笑っちゃう。」
「いつの間にか自分が積み上げてきたものに気付く。積み上げてきたという
意識も無ければ実感も無い。ただ、いってみれば、積み上がっていた。そ
して、それに関しては、ゼロに戻ることは、もうきっと無い。案外まとも
にやってきたんだなとさえ思うよ、今ではね。」
「全てのものが、それぞれの場所にそうやって今存在しているのには、理由
や、理由がないにしても経緯がある。少なくとも経緯はある。それは確か
だ。台所のトング、本棚のサボテン、赤いショール、爪の上のマニキュ
ア、そして此処にこうして吐き出される言葉。それにしても、吐き出す、
というのは、あたしの言葉にとってはこの上なく的確な表現だ。ほんと
に。だって、吐き出さないといっぱいになってしまう、だからこうして、
まとまりもなければ大したメッセージも無く、言葉を吐き出し続ける。蜘
蛛の、糸、みたいに。蜘蛛の糸、その意図。友達がいってた。ずっと前。
心の中のストレスとかそういうもやもやした悲しみがいっぱいになって、
特にきっかけもなく泣いてしまう時、彼女は、涙タンクがいっぱいになっ
たって言ってた。その言い回しはなんと女の子らしいとさえ思ったけど、
今はそんな風に思わない。女の子らしいとかなんとか言う前に、だって、
なんてリアル。」
「ダイアスポラ。新しく知った言葉には、いくら辞書で調べても掴めない部
分がある。意味は分かった。でも、例えばこの言葉の一般性。若しくはそ
のニュアンス。使うのに適したコンテクスト。ネガティブといえばネガ
ティブな背景を持つ言葉ではあっても、その言葉のニュアンスまでがネガ
ティブだとは限らないし、そうでないとも限らない。それに、ダイアスポ
ラを経験せずにきた民族が使っていい言葉なのかどうかさえも。新しい言
葉へのこの不安定な知識の感じは、何かと物凄く良く似ている。なんだろ
う。わからない。思い出せない?いや、わからない。」
しばらく頭を抱えておこうと思った。しばらくして忘れてしまうような言葉なら、きっと意味は無いのだろう。いや、そうともいえない。やっぱり、わからない。このごろ、分からない事があまりにも多い。写真を拡大コピーした。粒子ひとつひとつが見える。その間の空白は何によって埋められるべきだったのか、わからない。
「おはよう?そっか。おはようだよね。あたしは最近眠れないから、夜と朝
が繋がってるんだ。だから今、ちょっと混乱した。おはようだね。おはよ
う。」
「今更気付いたんだけど、ここはあたしにとってモラトリアムなんだ。今ま
でずっと、何かの渦中にいるときに、次にいる場所を選んできた。そし
て、思った通りの道に、今まで障害もなく進んできた。そのことが怖く
なった。ここで一度、自分を道からおろして、なるべく白い頭で次の場所
を選びたい。迷うだけのための時間が欲しいんだ。それだけなんだ。だか
ら、責めないで欲しい。待って欲しい。どれくらい時間がかかるのか分か
らないけれど、あたしはきっとここを去る時が来るよ。此処に戻って来る
事も、あるのかも、しれないけど。ただ、今は此処にいなければならない
時期なんだと思う。この時間を許して。時間をちょうだい。今あたしは
きっと、何かを見極めようとしている。」
「こんな夜が来ることを、すっかり忘れてた。最近、どうも調子が良すぎた
んだね。多分そうだ。良すぎたんだ。これが、悪くなった状態なんて思う
と辟易しちゃうけど、これが、今のあたしの現実なんだって思ってもやっ
ぱり辟易するけど、そう思ってる方がまだ楽。まだ泣くんだ。ね。結局変
わってないんだ、あたしは。何も手に入れてないし、何も捨てることが出
来ていない。そういうことなんだろうね。いつまでこんなふうに上がった
り下がったりを繰り返せば気が済むんだろう。こっちが聞きたいよ。全
く。あなたが此処にこうして来てくれることにも慣れっこになっていたけ
れど、あなたが此処にこうしてきてくれるのは、当たり前なことじゃない
んだね。きっかけは聞かないけど、ふっつりとあなたが来なくなる可能性
だってあるんだし、全てはあなたの自由なんだね。そのことを忘れてい
た。思い出した。あたしはいつだって一人になる可能性がある。望もうが
望むまいが。そして、一人じゃない可能性もある。同じく、望もうが望む
まいがね。ただ、あたしは最近一人でいながら一人じゃないというこの環
境にすっかり安住してしまっていて、自分がやたら調子がいいのも自分自
身のおかげというか何と言うか、まあそんなものだと思い込んでいたん
だ。でもそんなことは全くない。決してない。断固としてない。あたしの
この状態、少なくとも精神の状態は、あたし以外の人によって少なからず
影響を受ける。そしてあたしを一人にすることは、あなたにとっては簡単
だ。むしろその方があなたにとっては楽かもしれない。ここまで足を運ぶ
必要もないし、何を言い出すか分からないあたしみたいなのの相手をする
必要もないんだからね。ありがとうというべきなんだろうけど、今の気持
ちにはそれじゃないんだ。怖いんだよ。」
「また、空が明るくなってきたね。」
「昼間に一人でいるよりも、夜中に一人でいる方が、寂しくない。だからあ
たしはこんなひどい宵っ張りになっちゃったんじゃないかって、そう思
う。そして本当にそうだとすると、その説明はあまりに筋が通ってい過ぎ
るから、認めるのが怖い」
「久々に夜に泣いたよ。何でだろうね。たまに泣く。決まって夜に泣く。全
然大人なんかじゃない。少なくとも、あたしが思ってた種類の大人では、
ない。」
彼は、とても心配そうな目で、こっちを見ている。
「やめて。そんな顔をしないで。そんな顔を見せないで。心配されるのが嫌
いなんじゃない。心配させるのが嫌いなんだ。こんなとこにいる時点で、
そんなこと言う資格はなくなっちゃってるとしても。嫌なんじゃないん
だ。ありがたすぎて。応えなきゃと思っても道が分からないから、いたた
まれなくなってしまうし、申し訳ない。」
「…もっと早く帰って来るべきだったかな」、彼は言った。
今までと全く別の空気を響かせたその声に、あたしは何の考えもなしに顔を上げた。いつもの男の子の顔。
「もっと早く帰って来るべきだったね」、彼はあたしの目をみた。
…ねえ、あなたは誰?
(これは、終わらない話。少しずつ長くなる、話。)
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