雪月花

椅子









椅子






夜中に道を歩いていたら、椅子があった。鋪装された人気の無い道の真ん中に椅子があった。事務用の、転がせる、上がったり下がったりする椅子があった。いくら街灯が知らぬ顔でいつも通り下を照らしていたといっても、それはあたしの日常にとっても夜にとっても道路にとっても、甚だ不釣り合いな光景だった。街灯も夜も道路もあたしもみんな少し困っていた。かかわり合うべきか否か。そんなありふれた疑問などそれこそ知らぬ顔で、椅子は、向こうを向くでもなくこちらを向くでもなく、これまた甚だ無造作にそこにあった。椅子が自分の意志でそこにいるのか、誰かがそこに置き忘れたのか、捨てるのが面倒でそこに放っておいたのか、落とし物なのか、何かの罠なのか、もしかして地面から生えてきたのか、知る術は無かった。混乱はしていたけれど、椅子に聞いてみるなんて真似はしなかった。だって、誰かがみているかもしれないし、夜中に道ばたで声を出すというのは結構勇気がいるものだし、何より椅子が素直に答えてくれるとは限らない。世の中に存在する全ての椅子が、一様に素直だとは限らないのだ。こう見えても人見知りするたちである。

あたしは別に立ち止まったわけではなかったから、椅子との距離は必然的に縮んできている。考えながらあたしは歩き続けた。昔、道ばたに倒れているおじいさんに出くわしてしまった時は、救急車を呼んだ。そんな経験は、椅子に出会ってしまった今、意外に役に立たないものだという事に気が付いた。なるべくこうした事態に出会わずに生きていくのが理想だった事に、今さらながら気がついた。


よかった。椅子の上には誰もいない。


すれ違いざまに、椅子があたしを呼び止めた。座ってみないか。いや、また今度でいいです。間抜けな受け答えだと思ったのはあたしだけではなかったらしい。逃げるのか。椅子が少し気分を害した。急いでるんです。町中で声をかけて来る人間にたいして使うこの言葉は、この状況には完璧に無力だった。嘘だ。椅子が鼻で笑いながら言った。椅子には鼻なんか無いように見えたけれど、もしこれが人間だったら、まさにそんな感じだった。嘘である事は本当だった。嫌なのか。そういうわけじゃないですけど。ここまできて、あたしは最大の失敗に気付いた。あたしとこの椅子が日本語という種類の言語で意志疎通をしている以上、あたしが丁寧な言葉を使ってしまった事で、あたしと椅子の力関係がおのずと決まってしまっていたのだ。今、あたしは下だ。参った。出会う人には礼儀正しく接しなさいという両親の教えを憎んだ。

何がそんなに嫌なんだ。いつもお前がそうしているように、ちょっと腰掛けてみればいいだけなんだし、こっちはただの椅子だ。道ばたに座り込むよりもよっぽど行儀がいい。椅子は思いのほか手強い。だって、座る必要が無いじゃないですか。座らない必要も無いだろう。お前は急いでいないんだし。この椅子は、あたしが今まで出会った椅子の中でも、相当に弁の立つ椅子だ。じゃあ、座るだけ。折れてしまった。座る以外にする事なんて無いだろうと椅子があたしを馬鹿にするのを聞きながら、あたしは、いつもこうだと思った。断れない。断る事で発生しうる不具合は、断らない事で起きる事態よりもはるかに多岐に渡るから、安全な方を選んでしまうんだな。ほとほと自分に愛想を尽かしながら、あたしは、失礼しますといって腰をおろした。思った通りだ、座り心地は特によくない。座ったまま、体をゆらした。

前に進んでみろ。椅子が命令した。もうどうでもいいやと思ったあたしは、従うことにした。誰かがあたしをみたからといって、夜中に道の真ん中で椅子に腰掛ける女だろうと、夜中に道の真ん中で椅子を走らせる女だろうと、こうなった以上大きな違いは無い。なるようになれ。両足を地面について、つま先に力を入れて、地面を後ろに蹴った。予想以上に大きな音と共に、予想以上の距離をあたしと椅子は進んだ。不覚にも、少し面白がり始めた自分がいた。悪いもんじゃないだろう。図星だ。あそこの信号まで行こうか。椅子は言った。賛成も反対も口に出さず、あたしは椅子を走らせ続けた。景色が違って見える。夜風が気持ちいい。なにより、こんな時間にこんなところでこんな事をしてる人間は他にはいないだろうという確信が、あたしに優越感をもたらしていた。気持ちいい。

あっという間に信号についてしまった。椅子の上のあたしの顔が見えるわけがないのに、椅子は満足げに言った。いい笑顔だ。続けざまに次の命令が来た。立て。いつのまにか椅子のことを悪い奴じゃないと思い始めたあたしは、次は何が始まるのだろうと半ばわくわくしながら立ち上がる。椅子から次の言葉は聞こえない。待ってみた。何も言わない。話しかけてみた。うんともすんとも言わない。椅子は、椅子に戻ってしまった。大多数の方の椅子に戻ってしまった。つまらないどころかさみしささえ感じたあたしは、椅子を後にして歩き始めた。あたしの家は、信号のまだ先にあるのだ。しばらく歩いてから振り返った。椅子は、こっちを向いていた。こういう夜も、ありだと思った。








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