雪月花

江戸の性


ー風呂と吉原と歌舞伎ー




序.江戸の人々にとっての「性」
江戸時代、と一言に思い浮かべる時、古き良きいわゆる「日本」、つまり、日本人であるはずの現代の私たちまでもが異邦人を思うような心持ちで思い出す「日本」のイメージが沸いてくる。そこに生きる人々は、情緒豊かで、風流心に富み、慎み深く奥ゆかしく、義理を重んじる律儀なたちで…と考えがちであった。しかし、江戸時代の、例えば風呂を見ただけでも、昔の日本人の姿は、偏見とは全く異なったものであることが伺えるのである。特に、現在ですらあからさまにすることが未だはばかられる性の領域は、現代と比較してどうだったのであろうか。江戸時代、つまり「明治維新」までの日本の色の文化について見て行きたい。

まずは、冒頭で触れた「風呂」だが、江戸に風呂屋ができた当初は蒸し風呂であり、また、入浴は当時の人々にとっては贅沢な休養だった。今でこそ、銭湯は女風呂と男風呂に別れているのが当然で、旅館などでたまに混浴があると騒いだりするぐらいである。しかし、入浴専門の風呂屋が明暦3年(1657)にできた時、そこは混浴であった。そして、男性と女性とが別々の風呂を使うようになったのは、幕府から禁止令が出た寛政3年(1791)のことである。その間130年余、混浴の週間が続いていたのだ。この事実だけでも、(特に成人した)異性の裸を恥ずかしいものとする現在の感覚とは充分に相容れない。江戸の人々にとっての性は、慎みがないといわれがちな現在より、あるいはオープンだったのではないか。

ここからは、江戸時代に隆盛を誇り、明治維新までに失われた日本の性に関する文化、吉原と歌舞伎を吟味して行く。その前に前提として述べておきたいのは、「性」の組み合わせは男と女だけではもちろんなかったということである。西洋文化が大々的に流入するまで、日本では男性が男性と関係を持つこと(これを江戸期には衆道と称した)も珍しくなかったのである。つまり、吉原は性的関心の対象が女性であり、歌舞伎ではそれは男性だったということである。


遊里「吉原」の社会的ステイタス
まず、性に関する女性の商売の代表といえば、芸者といえば吉原である。吉原、といっても、それは現在では売春を行っている店の集まった地域、歓楽街の半ば代名詞のようになっている。だが「吉原」は江戸で唯一公認された遊里であった。深川や品川も遊里として栄えたが、吉原以外は全て「岡場所」と呼ばれ、他に幕府に公認されたのは京都の島原と大阪の新町のみであった。吉原のみを別格とすることは、売春を規制し幕府の管轄下に置くことを建前としていたが、実際は岡場所も暗黙のうちに公認され、厳しい取り締まりを受けることはなかった。

それでも公認された場所ということで吉原には一種のステイタスのようなものが備わった。吉原はただ単に女を買い求めるための場所ではなく、吉原に通うということは財力や地位の証であり、また吉原は単なる遊郭ではなく高級な社交場という意味合いも持っていた。女遊びのルールを知らないものは笑われたり、そこで働く花魁(高級遊女)たちも身を売るだけでなく、様々な芸のたしなみや幅広い知識を身に付けていることが条件であった。

花魁の最高ランクである「太夫」の花魁道中(花魁が、客が花魁と遊ぶために用意した別の店まで練り歩くこと)は、その衣装や付き人、歩き方からして、普通の人間とは異種のように見えただろう。花魁は高級になればなるほど、「女」とはまた異なる生き物になって行ったものと考えられる。花魁は花魁という生き物であったに違いない。格式ある遊女屋では、遊女は初めから客と交わるということはしなかった。このことからも、遊女は男にとっての女である以上に、ステイタスの上に存在していたといえる。

こうしてみると、男性が芸者を買って寝るという単純な構図よりも、近付き難く高級なイメージがあったのだと思われる。現代では、いわゆる「風俗」に出入りすることは公には出来ない雰囲気があるが、当時は岡場所はともかく、吉原は違ったようである。ただ遊ぶ場ではなく、庶民にとっては金と知識を必要とする一大エンターテインメントとして、きっとあこがれの場だったのだろう。


近世までの「男色」について
ここまで、女性と男性の関係である「女色」について、吉原を例に挙げて検証してきた。ここからは、男性同士の関係「男色」について、主に歌舞伎を材料に検証して行きたい。

実際に歌舞伎について話を進める前に、近世日本文学の中に男色または衆道と呼ばれる同性愛が語句自然に描かれていることも注目に値する。性に関する内容の江戸期の代表的な文学作品をみても、女性との関係だけでなく衆道もごく自然に描かれている。井原西鶴の『好色一代男』や『好色五人女』、藤本箕山の『色道大鏡』などがそれである。特に箕山の『色道大鏡』は、筆者自身が全国の色町を渡り歩いて辞典のようにその情報をまとめたものである。これらの中で筆者や主人公は、女性とだけでなく男性とも関係を持っている。また西鶴は、男色のみを一冊にまとめた『男色大鏡』という作品さえ残しているのだ。これほど同性愛がポピュラーなものとして受け入れられていたことも、銭湯での混浴と並んで現代の日本人には意外な事実といえるであろう。

また、そういう目で見るとこれも一種の男色かと考えられるのが、上田秋成『雨月物語』に収められている『青頭巾』の物語である。

<概略>快庵禅師という徳の高い行脚僧が、下野の富田の里に入ると、 「鬼」と騒がれ怖れられた。訳をきくと、里の上の山に、美しい小姓の童子 の死をいたむあまりその死体を喰らい、食人鬼となった僧がいるため、それ とまちがえたという。快庵は山の寺に向かう。僧は快庵を喰わんとして果た せず、頭をたれて救いを求める。快庵は、青頭巾と証道歌の二句を授けて 去った。翌冬、快庵が再び寺を訪れると、影のように痩せて証道歌を繰り返 している僧を見つける。快庵が禅杖で頭を打つと、僧は消え、あとには青頭 巾と白骨だけが残った。(石川淳『新釈雨月物語』より)


この物語は、読み用によっては、山奥にいた僧の小姓に対する同性愛の物語とも解釈することができる。その僧が「愛欲にこころみだれ」たと本文にもあるからである。この男色の関係が仏に仕えるものの上下関係という点は、古くは『宇治拾遺物語』にも僧正と若い僧との恋愛の話にも登場する。重なる構図である。

ここ数年、日本でもゲイは社会的に少しずつ公認されてきたようである。現代でいうゲイとは、(同性同士なら本来女性同士も指すのだが)男性を恋愛対象としてみる嗜好を持つ男性、またはその嗜好を指す。この場合、男性は相手の男性を一人の男性として恋愛対象にしている。しかし、近世までの「男色」と呼ばれた同性愛は、現代のこれとは趣を異にしている。同じ男性の同性愛といっても、ゲイは西洋的、男色は日本的と言えるかもしれない。なぜなら、男色の場合、男性は相手の男性をむしろ女性を愛するのと同じに愛したからである。対象となる男性は、女らしい程魅力的だったということである。そして、男性がどれだけ女性らしくなるかという方向に発展した芸能が、歌舞伎なのである。

日本という国では、宗教と演芸と売春とがきわめて近い位置にあった、と柴山肇氏は『江戸男色考』の中で述べている。歌舞伎を生み出した出雲阿国も、定住せずに占いや売春をして全国を渡り歩いた賤民の巫女だったと言われている。それが人気を呼ぶと、遊女歌舞伎に完璧に模倣され、それが禁止されて野郎歌舞伎が生まれた。それまでに存在していた「少年愛」と重なり、この野郎歌舞伎は大ヒットする。では、野郎歌舞伎以前に日本に存在していた美少年への愛とはなんであろうか。

昔の日本人(特に男性)にとって、少年は女性と何ら変わりがない存在だった。そして、成人男性は少年を自然に恋愛の対象にした。西洋から持ち込まれた「ゲイ」と日本の「男色」の概念の違いはここにある。「ゲイ」が、互いを男性として意識した上で恋愛すると思われるのとは異なり、日本の場合、相手が男性であるということは重要な問題ではなかったのである。日本人の精神特性として、美しいものには無条件に惹かれたり、はかないものに美しさを感じたりするところがある。少年への愛情は、いずれ成長過程で失われてしまうその美しさであるからこそ、余計に加熱したのかもしれない。

また、歌舞伎俳優の女装が少しずつ本格的になって行くにつれ、彼らは実物の女性よりも女らしくなることを目指した。その「女らしさ」は、現実の女性をいかにうまく模倣するかではなく、男性の理想像としての「女」のイメージを、いかに具現化するかにあった。その美しさや艶やかさは、結果的に男性だけでなく女性も魅了し、後の歌舞伎の更なる発展に繋がった。彼らは何故そこまでして美しさを追求したのか。それは、野郎歌舞伎の俳優は、当初は売春もしていたからである。つまり、歌舞伎の公演自体が、芸者の顔見せのようなものだったのである。そのうち、野郎歌舞伎での売春の意味合いは徐々に薄れ、演芸の面が発展しひとつの芸術としての地位を確立したと言われる。


「女」を超えた花魁と、「女」を超えた女形
以上のように、江戸時代に見られる「性」に関する風俗は、現代日本人の持つ一般的なイメージとは異なる部分の大きいことが分かった。「女であること」を売りにするように思えた遊里の花魁は、高級になるにつれいわゆる「女」のイメージとは異なる存在になってゆき、吉原はむしろ格式のある社交場としての役割を果たしていた。また、今日よりも江戸時代の方が同性愛に関して寛容だった。それは、当人たちに「同性愛」という意識がなかったからである。美しい人、であることが条件であり、性別にはこだわりが少なかったのだろう。


結.西洋文化の流入
色町がステイタスのある社交場だったり、自然なこととして同性愛を楽しんだりするという風潮は、西洋文化の流入とともに姿を消す。それは一重に、キリスト教、それもカトリックの考え方の影響と考えられる。裸を野蛮とする概念の急激な介入である。姦淫を7つの大罪の1つとしたり、同性愛を「ソドム」として忌み嫌う思想は、次第に日本人の性への意識さえも変化させて行った。近世までは、オープンなようで厳格な暗黙のしきたりや心遣いに満ちた日本の色の世界が、明治維新によって、それまでとは全く異質な「慎み深さ」をまとうようになったのだ。

そのことが、つまり現在の日本人が持つむしろ西洋的な「性」への意識が、江戸時代までのそれと比べて優れているか劣っているかという議論は出来ない。しかし、昔この国に暮らしていた人々の考え方を今さらでも知ることは、大変興味深いことである。性に関してどこか恥ずかしいという意識を持つのは、伝統的な日本人の慎み深さである、とは、歴史を知った今は一概に豪語できなくなるからである。






・引用文献
・石川淳著『新釈雨月物語』、角川書店、1994。
・柴山肇著『江戸男色考 悪所編』、批評社、1992。

・参考文献
・稲賀敬二他監修『カラー版 新国語便覧』、第一学習社、1990。
・久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997。
・笹間良彦著『復元 江戸生活図鑑』、柏書房、1995。
・輝岡康隆編『鑑賞 日本文学 第27巻 西鶴』、角川書店、1988。
・中野三敏著『叢書日本再考 内なる江戸 近世再考』、弓立社、1994。
・樋口清之著『日本人の歴史8 遊びと日本人』、講談社、1983。
・森田喜郎著『上田秋成の研究』、笠間書院、1979。









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