ゆくあさ堂~価値主義的見識~

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第三章『嘘』





外形的によい行為を実現しながら、心にうちには動機として道徳的法則に対する尊敬ではなく自己愛が渦巻いているのは憎むべきことである。何が非適法行為であるかは最後まで判然とせず、そのことが我々をあらゆる悪に直面させる。
我々は放っておくと適法行為を実行しようとしてしまい、それを道徳法則に対する尊敬と言う動機に基づいてではなく、自己愛と言う動機に基づいて実現してしまう。これは根本悪と判断すべき事実である。我々が悪い行為を全力で避けようとし、善い行為を実現しようとしてしまうがゆえに、我々は根本悪にとらわれてしまう。

道徳法則と言うのは、道徳的に善い行為における意思と行為との必然的かつ普遍的「関係」であり、具体的には格律と行為とをつなぐ定言命法である。しかし厳密には、「真実性の原則」と言い換えることも出来る。
「真実性の原則」における「真実」とは客観的真理ないし絶対的な普遍的真理のことではなく、むしろ「誠実」という言葉と交換可能なような、自分が真に信じていること、真に感じていること、真に正しいと思っていることである。

道徳法則=真実性の原則とは、生命が脅かされても決して真実を曲げないという崇高な態度から、日常生活で他人を傷つけまいとして自分が居心地の悪い思いをしたくないがゆえに、つい「特に害のない嘘」をついてその場をしのごうとする時、「それは真実ではない!」とはっと気づかせることまでも含むような広範囲のものである。真実性=誠実性の原則が道徳法則の中核に位置する限り、それが自己愛と対立的に捕らえられることは、当然導かれることである。
嘘をついてたとえ友人の生命が助かったとしても、「嘘をついたこと」そのことは真実性の原則に反したことなのだから、悪であり罪になる。

「人類愛から」嘘をつくこと、つまり「美名の嘘」は多くの害悪をもたらす。嘘をついた瞬間に「善意の嘘」あるいは「窮余の嘘」という言い訳を準備し、さらには嘘をつくことを積極的に奨励しようとする。そればかりか、逆に真実を語ることを非難する。善意の嘘ないし窮余の嘘を筆頭に、日常生活において我々は嘘の付き通しである。その動機は結局自己愛である。

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