「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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源義経
清和源氏の流れを汲む河内源氏の頭領である源義朝の九男として生まれ、
牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。平治の乱で平清盛と戦った
父の敗北により鞍馬寺へと預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。
後に奥州平泉へと下り、その途で父義朝の最期の地でもある尾張国にて
元服。熱田神宮にて儀式を行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、
初代経基王の「経」の字を以って諱を義経とした。その後、
奥州藤原氏の宗主 鎮守府将軍藤原秀衡の庇護を受ける。
兄頼朝が平家(平清盛一族)打倒の兵を挙げるとそれに呼応し馳せ参じ、
一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、平家滅亡の最大の
功労者となった。京にある時は河内源氏重代の館であった
堀川御所に住まう。その後、兄の許可を得ることなく官位を
受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せた為、
対立し朝敵とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び奥州藤原氏を頼ったが、
頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓という言葉、
多くの伝説、物語を産んだ。
生い立ち
牛若(源義経)は河内源氏の棟梁である源義朝の末子。母常盤は九条院の
雑仕であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄今若、乙若とともに
大和(奈良県)の山中を逃亡した。
しかし常盤は実母が捕まったことを知り平清盛の元に出頭し、
清盛の妾となることを条件に、牛若とふたりの兄と母の助命の許しを得た。
のちに常盤は公家一条長成に嫁ぎ、牛若は9歳(11才説も)のとき
鞍馬寺(京都市左京区)に預けられた。鞍馬山の少年牛若伝説は、
この時のエピソードがもとになって形成されたものである。
牛若は長じて奥州平泉に奥州藤原氏を頼って下り、藤原秀衡の庇護を得た。伝承によれば、それは牛若16才の時で、金売吉次という金商人の
手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。
そして、奥州への旅の途中、尾張の地で牛若は元服し、
名を「義経」と改めたと伝えられる。
源平合戦
治承4年(1180年)8月17日(以下日付は旧暦)に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。
秀衡から差し向けられた佐藤継信、
佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。
義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の
陣(静岡県駿東郡清水町)で対面し、
平家追討の指揮を委ねられた。兄頼朝はこれにより、
本拠地の鎌倉に腰を据え東国武家政権の確立に専念することができた。
翌年には鎌倉の軍勢を率いて宇治川の戦いで、従兄弟の木曽義仲を破り、
寿永2年(1183年)には頼朝の代官として軍勢を従え京に入った。
義仲に京を追われた後、平家(伊勢平氏)は西国で勢力を
回復しつつあった。
2月 (旧暦)義経は平家を撃つため播磨国に出征し、摂津源氏の
多田行綱らが従った。義経らは一ノ谷の戦いで奇襲戦法を用いて
平家の軍を破った。
一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年)8月6日、
後白河法皇によって左衛門少尉検非違使少尉(判官)に任官し、
従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。
しかしこのことが頼朝の許可を得ていなかったことから両者の関係は
不和になり、のちに二人が敵対するきっかけをつくった。1184年9月、
義経は結婚し、郷御前を正室に迎えた。
元暦2年(1185年)2月には、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある
平家の拠点屋島に攻め寄せ、大勝した(屋島の戦い)。
この勝利に力を得た源氏方は、船を集めて平家の篭る九州に向かい、
3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで平家打倒を果たした。
源平合戦において義経の参加した合戦は、いずれの戦いでも
義経の戦法や機転が戦況を左右したと言われる。
頼朝との対立
平家を滅ぼしたのち、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが
果たせず朝敵として追われることになる。
この経緯は『吾妻鏡』に詳しい。
頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、
軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時と義経の間に
間隙があり景時が頼朝に讒言したこと、そして平家追討の功労者である
義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが
指摘されている。
また嘆願のために記した書状腰越状に源義経と自署したことも、
源氏姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りをつのらせたという
指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源氏姓を
自身や一部の親族重臣にのみ許す命令を出していたが、
これに義経は入っていなかったのである。
元暦2年(1185年)4月15日(以下日付は旧暦)に頼朝は、
内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、
京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、
平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた梶原景時から、
「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した
書状が頼朝に届いた。
一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた
平宗盛父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。
しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを
鎌倉に入れた。
さらに義経に対して許可なく官位を受けた事を咎めて、
東国への帰還禁止と領地を没収するよう命ずる書状を送った。
このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現藤沢市)満幅寺に義経は
留め置かれた。
5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に
託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。
「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、
片時も心の休まる事は無かった。
諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、
平家一族の追討の為、上洛し木曽義仲を誅し、平氏を傾ける為、
或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に
風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。
甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に
他ならない。五位検非違使に補任された事に他意は無く、
許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」
しかし義経は鎌倉を追い返されて京に戻った。
6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と平重衡を伴なわせ帰洛を
命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、
義経に属くべき」と述べた。
これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で
宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。
一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる
義経の様子を探るべく梶原景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父
源行家追討を要請した。
義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏である事を
理由に断った。
10月、頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。
10月17日土佐坊昌俊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、
応戦する義経に行家が加わり、合戦は敗北に終わった。
捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、同じく頼朝と
対立していた叔父の源行家らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。
彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、
義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は
少なかった。
さらに後、法皇が今度は義経追討の令旨を出したことから一層窮地に陥った。
29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で
体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国
黄瀬川に達すると、義経らは西国九州の菊池氏を頼って京を落ちた。
義経一行の船団は摂津国大物浦(尼崎市)から船団を組んで九州へ
船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって
ともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは
不可能となった。
一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。
さらに頼朝は、義経らの追捕の為として、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。
そこで義経は郎党や愛妾の白拍子の静御前を連れて吉野に身を隠したが、
ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は藤原秀衡を頼り、義経追捕の網をかいくぐって奥州へ到り、平泉に身を寄せた。
伝承は、北陸道を通り、東大寺再建のための勧進の一行に身をやつして
の旅であったと伝えている。
最期
平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が
奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に没した。
頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に圧力をかけた。
泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡を
殺害した。そして文治5年(1189年)閏4月30日、
500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。
館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、
まず正妻郷御前と4歳の女子亀鶴御前を殺害した後、自害して果てた
とされる。数え年で31であった。
義経の首と胴は分離され、胴は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと
伝えられる。首は43日かけて、泰衡の弟・高衡に護衛されて鎌倉に送られ、文治5年6月13日、和田義盛と梶原景時によって、腰越の浦で首実検に処せられた。
その後、首は藤沢の白旗神社付近に葬られたという。その際、
首を洗うのに使われたという首洗い井戸が現在も白旗神社側(藤沢市)
に残っている。
系譜
義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。
一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父鎮西八郎為朝が八郎であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。
源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条良成があった。
義経の正妻は河越太郎重頼の娘(郷御前)であるが、愛妾の白拍子、
静御前が義経の夫人として非常に有名である。
子は女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、
奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、
後に伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)に嫁いだ。
静御前を母として生まれた男児は出産後間もなく
鎌倉の由比が浦に遺棄された。
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