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左:「花魁
渓斎英泉による」ゴッホ 1887年
右
: 英泉 1830年前後
9月26日まで北海道立近代美術館で開催中の「浮世絵のヒロインたち展」のパネルに「歌川派」と「菊川派」の系図がありました。「東海道53次」を描いた歌川広重に代表される歌川派に比べ「菊川派」は僅か3名ですが、最後の「英泉(渓斉)1790-1848」の名前を見て
「雲龍打掛の花魁」を思い出しました。
以前にNHK「歴史探偵」の「花魁」についての回でこの絵が紹介され、ゴッホが英泉の絵を模写し、その後「タンギー爺さん」の背景にも描かれている事を紹介していました。
アルルに旅立つ前にパリで暮らしていたゴッホは弟のテオが画商「グービル商会」に務めていた事もあり、1871年にフランスに帰化しその後パリで美術商を営んでいたユダヤ系ドイツ人「サミュエル・ビング 1838-1905」と懇意にしていて彼の好意によりビングが所蔵する浮世絵を無償で借りて模写していたようです。
私自身は原田マハ著「たゆたえども沈まず」でビングと同時代に同じくパリで美術賞を営んでいた林忠正(後に日本から浮世絵を流出させた国賊とまで呼ばれました)の存在を知り、もしかしてビングは林忠正から英泉の絵も入手したのかと思っていましたが、著書を読む限り2人の仲はそれほど良くなかったようです。
改めてビングの生涯をウイキペディアで見てみると、1885年に初来日していました。多分絵の買い付けをし、その2年後にゴッホが特に魅かれた英泉の絵を模写していたのではと想像してしまいます。日本に憧れを抱いていたゴッホはまたビングから何か日本についての話を聞く事があったのかとも想像します。
「タンギー爺さん」ゴッホ 1887年(パリ時代)
模写と同じ年に描かれたタンギー爺さんの肖像画の右側の背景にゴッホが模写した絵も描かれています。現在この絵はビングや
ゴッホと同じように日本通だった彫刻家ロダンがかつて実際に住んでいた邸宅を改修した「ロダン美術館」の所蔵になっています。
余談ですが、ウィキペデアのサミュエル・ビングの生涯の中に妻の兄(マルチン・ミカエル・ペア)について記載がありました。長く日本に滞在し武器輸出の会社を営み日本人女性と結婚もしていたようです。日本の芸術や文化をフランスに伝え根付かせたビングの功績は彼の家族や親族が心の中に培った日本愛の表れだったのかもしれません。
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