3-29 健二郎の誘い



「野菜、今日の分です」

施設長が玄関へ出てくると、朝子はそう言い野菜が山盛りに入った大きな籠を置いた。

「いつもありがとう優美さん」

施設長に言われ、朝子はにっこり笑った。

「いいえ、こちらこそ。……あら? 今日は静かですね」

「子供達、今食事中なのよ」

話し声を聞きつけた6歳のナナが、奥の食堂から飛んで来て朝子に飛びついた。施設長がナナをたしなめる。

「あらあら、お食事中ですよ?」

「はーいごめんなさい!!」

そう言いながらも、ナナは食堂に戻ろうともせず、朝子にしがみついている。

「ナーナ。ご飯ちゃんと食べて」

朝子が言うと、ナナは直ちに不満そうな顔になり朝子を見上げた。

「だーって、お姉ちゃん遅ーい! ご飯の前に来てよね!!」

「ごめんねー。明日はもっと早い時間に来れるから!」

長居すると食事の邪魔だと思い、朝子は施設長とナナに挨拶すると帰路を急いだ。今朝子が野菜を届けに行っていた児童養護施設『ヤナギ愛児学園』と、彼女が優美として居候している楠木家は目と鼻の先なので、ほどなく家の土間が見えてきた。朝子はサンダルを脱ぐと、持っていた手ぬぐいで額の汗を拭った。

まさかここに居つくことになるなんて、最初は思いもしなかった。行く当ては全くなかったし、有芯がいたという孤児院がどんなところなのか興味があった。この場所を目指した理由はそれだけだった。

でも気付いたら、「ここで働かせてください」と必死で頼んでいたっけ……。

その日の夕食後、朝子は風呂場で一人硬直していた。姿見に映る自分の姿が、ここ1週間で明らかに変わってきたからだ。

お腹―――ちょっと出てきた………。当然よね、もう少しで5ヶ月になるんだもの……。

朝子は風呂場の隅でうずくまった。

婦人科、行かなくて大丈夫かなぁ……赤ちゃん、ちゃんと元気に育ってるのかな。今のところ体調不良とかはないけど、とにかく医者にかからなくていいように、体調管理を万全にして、きちんとした食事を採って……。

そこまで考えると、朝子は額に手を当て、ため息をついた。

私……楠木家のみんなを、都合のいいように利用してるんだ………。

でも、いつまでも隠しておけるわけがない。お腹は大きくなるし、この家には大人の女性が二人もいる。同じ女性だもの、絶対に気付かれる―――。

言わなくちゃ。ちゃんと言って、何とかこの子を産まなくちゃ。

それさえ果たせば、私にはもう、思い残すことなどない―――。

朝子が風呂から上がると、廊下で健二郎に会った。

「あれ? 健二郎さん、お風呂まだだったの?」

「ああ、うん」健二郎はなぜか気まずそうだ。

朝子がそのまま通り過ぎようとすると、健二郎は彼女に声をかけた。

「あの!……優美ちゃん」

「何?」

即答した朝子に対し、健二郎は言葉に詰まった。

「明日……何か都合悪い?」

「へ?」朝子には質問の意味が分からなかったが、夕方ナナ達と交わした会話を思い出してとりあえず答えた。「明日は早めに野菜の配達に行って……ごはんの当番はなくて、ヤギと豆畑のお世話よ。どこも都合は悪くないから大丈夫だけど?」

「あの……明日、一緒にどこか行かない?」

「……え?!」

「優美ちゃん、こっち来てから働いてばかりで……たまにはゆっくりしなよ。母さんやばあちゃんも、行ってこいって」

「……そう。わかった。朝の配達済んだら行こう」

朝子は内心、やれやれと思っていた。

恒さんやおばあちゃんに言われたからって、無理して私を誘うことないのに……会話続くのかしら、面倒だなぁ……。

朝子は自室に入ると、布団を敷きそこに倒れこんだ。疲れていた彼女は、そのまますぐに眠りについた。




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