once 30 抱けない女性



俺・・・もしかして、まだ重大なことを忘れてる・・・のか?!

有芯は鏡を見ながら言った。「なぁ先輩・・・」

「ん? あっ、うわぁ~! キレイー!」

朝子は鏡に映った緑に気付いて、窓に駆け寄った。

「いいなぁ~有芯、こんないい部屋に泊まってて! 今朝はまだ暗かったから、こんなに眺め良かったなんて気付かなかったよ~」

今朝、って・・・やっぱり・・・?!

有芯の考えを察したのか、朝子は振り返ると、笑って言った。

「何ビビってんの。本当にしてないよ? ま、朝まで返してもらえなかったのは本当だけどね。ほら、さっさと着替えてきてよ」

言われて、有芯の体が強張った。

「・・・マジで、行くのか? 先輩も?」

「当たり前でしょう!? 私に二言はない! ほら、早くしてってば~!」

朝子は有芯をバスルームに追い出すと、ベッドに腰掛けた。とたんに、みるみる涙が溢れてきた。

やだ・・・泣くんじゃないよ、私・・・化粧が崩れる・・・!

しかし涙は止まらない。朝子は肩を震わせ、手で顔を覆い声を殺して泣いた。私だって・・・私だって有芯が好きだった・・・口に出してそれを言う勇気すらなかったけど、失うのが恐ろしすぎるほど、あなたを愛してたのよ・・・。

不意に、後ろから抱き締められて、朝子は我に返った。振り返ると、濡れた顔の有芯がいた。

「泣くなよ」

朝子は有芯の方を向くと、慌てて涙を拭った。「・・・うそでしょ? 着替え早すぎ」

「顔洗ったら、タオル忘れてた」

「・・・ドジ」

有芯は朝子の濡れた頬を指でなぞった。

「朝子・・・先輩に言われたくないね」

言うと、有芯は朝子をきつく抱き締め、ベッドに倒れた。

「やっ、ちょっと!!」

朝子は抵抗しようとしたが、有芯が動かないので、動きを止めた。

「有芯・・・?」

「・・・抱けない」有芯は自分と戦っていた。この人を抱いたら、きっともっと泣かせることになる・・・いや・・・俺自身がゴタゴタに巻き込まれたくないだけなのかもな・・・。

「有芯・・・苦しい・・・」

彼は腕に力をこめすぎていたことに気付いた。「ごめん。・・・着替えてくる」

有芯が去ると、朝子はベッドの上に起き上がり、呆然として脱力した自分の両手を見つめた。抱かれたかったのか、抱かれなくてよかったのか、分からなくて頭の中はメチャメチャだった。

やっぱり、あんな話の後で来るんじゃなかった・・・ううん、有芯を東高の子に会わせるって決めたのよ、それまではいなくちゃ・・・。

朝子はぐちゃぐちゃな頭の中を整理するように、額に手を当てた。有芯のしぐさ一つ一つが愛しくて、破裂しそうな頭を必死で支え、理性を保った。

私は、一人の母親よ・・・。一人・・・ママを助けて・・・。

朝子は両手を膝に置くと、気持ちを切り替える短いため息をついた。


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