ラッコの映画生活

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2007.01.25
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カテゴリ: フランス映画
UN COEUR EN HIVER
Claude Sautet

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フランス映画が好きな自分なのですが、クロード・ソーテという監督さんにある種の偏見を持っていて、それまで見ようとしていませんでした。偏見の原因は主に邦題の付けられ方にあったと思います。『夕なぎ』であるとか 『とまどい』 とか『 エマニュエル・べアール 愛を弾く女』とか、ビデオのジャケット表の写真などのデザインと相まって、ボクが嫌いとするオーラを発していたんですね。先日 『とまどい』 を見て偏見解消。それどころか好きになり、今回『愛を弾く女』を見ました。ものすごく良く出来た作品でした。似たような原題のトリュフォーの「ジュールとジム」は『突然炎のごとく』になり、「セザールとロザリー」は『夕なぎ』ですか。1972年の状況では『セザールとロザリー』では駄目だったんですかね?。1995年『とまどい』の場合「ネリーとアルノー氏」ではやはり興行的に難しかったでしょうか。この『愛を弾く女』の場合は「en hiver」と「Un」、英題がフランス語原題の直訳だから英語で説明すると、「A Winter Heart」ではなく「A Heart in Winter」の「in Winter」の特に「in」の部分と、最初の不定冠詞「A」が日本語にしにくいですか。「冬の心」ではちょっと違いますし、日本語としても何か違う感じがあります。この「心」の主は男性主人公ステファンですが、「 愛を弾く 女」として人気のエマニュエル・べアールで売ろうとしたんでしょうね。

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というわけで、この映画の主人公は、屈折して孤独な、悪く言えばプライドの高過ぎるステファンという男です。ダニエル・オートゥイユと言うと『ザ・カンニング』シリーズの喜劇的イメージもありますが、ステファンという難しい役を秀演しています。物語はもちろんエマニュエル・べアールが演じるバイオリニストのカミーユとの愛の物語ですが、ステファンという人物を描くための恋愛相手カミーユの役を、べアールも秀演しています。監督も彼女を魅力的に撮っています。驚かされたのはべアールのバイオリンを弾く演技がほぼ完璧だということです。普通ピアニストとか指揮者とか、その演技が本当っぽくなくて、笑いや恥ずかしさを感じて、シリアスなストーリーを追う上で気分を殺がれるんですが、べアールのバイオリンは立派です。彼女実はバイオリン弾けるの?、なんて思ってしまいます(事実は知りません)。

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(少しネタバレ)
『とまどい』 のアルノー氏は誰にも語ったことのなかった秘密をネリーに語る。同じようにカミーユも誰にも話さなかったことをステファンに話します。で、このシーンなんですが、スタジオから出てきたカミーユとステファンが「演奏が良かった」とか話していて、ステファンが「お茶でもちょっと飲みに行きます?」って誘う。カメラはリバースショットでカミーユの顔を捉えるんですが、彼女の喜びの表情がほんのほんの微かに描かれる。満面の笑みなんてのではない。本当に微かな表情の変化です。ものすごい名演技だし、名演出です。外に出ようとすると雨が降ってくる。躊躇するステファンをよそに、彼女は街に駆け出す。彼は追う。雨が強くなってきて、彼女は道路を渡ろうと飛び出して車に轢かれそうになって彼が後ろから彼女の身体を抱きとどめる。またすぐに走り出して道を渡り終え、軒下で雨宿り。彼女は先に早く進みたいという思いで雨の様子をうかがおうと空を見ている。ステファンも同じように雨の様子を見ていますが、彼の方は一人外の世界ではなく自分の殻の中の世界にいて、自分には関係のない世界を見ているかのようです。彼女はステファンに惹かれ、誘われ、思いは先へ先へと待てない思い。車に轢かれそうになるのも先しか見ていないからでもありますが、ここでステファンが肉体的接触で彼女を抱きとどめるのは、比喩的に彼女が心も体もステファンに委ねている象徴でしょう。マン・レイの『アングルのバイオリン』ではないけれど、そもそもバイオリンは女性の体の形をしていて、カミーユが自分の大切なバイオリンを修理・調整のためにステファンに託すというのは、自分自身をステファンに委ねることの象徴でもあるんですね。そして混雑したビストロのカウンター。雨の中で彼女に上着を貸して、ワイシャツ姿の彼はびしょ濡れ。でも感情は出さずに「大丈夫だ」と言う。彼女がビールとチーズを注文すると、彼の方は冷静に「キャフェ」とコーヒーを注文する。これがコーヒーであることと、その「キャフェ」という言い方も上手いです。席が空いてテーブルに移る2人。近くのテーブルで男と女が言い争いをしている。その様子を面白そうに見るカミーユ。彼女は喧嘩する2人をバカにして楽しんでいるのではない。男と女が感情を出し合っている様子に好感を感じている。「男は泣いてるみたい」と彼女はステファンに言いますが、ステファンが感情を彼女にぶつけ、弱さをも出してくれるような関係、ステファンのしないこと、それを彼女は求めているのであり、映画的には対比して見せているんですね。そろそろ時間だと迎えがきて、彼女は「この後の録音にも来てくれるわね?」と言って去りますが、次のシーンの電話で彼が結局スタジオに行かなかったことがわかる。この雨のシーンは見事、見事。何度見てもグッときますね。素晴らしいシーンです。

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(以下ネタバレ)
ストーリーをごく簡単に書いておきます。バイオリンの製造・修理・鑑定・販売などをしているバイオリン工房を一緒にやっているステファンとマクシム。マクシムには若い女性バイオリニストの恋人カミーユがいる。カミーユとステファンは出会って互いに惹かれ、彼女はその情熱に突っ走るけれど、彼は自分の殻から出ようとせずに「愛していない」と彼女に告げる。

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カミーユはステファンに出会って、今までになく特別に彼に惹かれる。既に書いたように誰にも話していなかったことが彼には言える。全身全霊投げ出すことのできる相手だったんですね。英語のラブソングを聞いているとよく「set me free」という歌詞が出てきます。「自分を自由にしてくれる、解放してくれる」という意味でしょうか。誰かに出会って愛して、自分をそのまますべて相手に投げ出せたとき、set freeされるんですね。でもマクシムが言うように、マクシムに対しては自分のどこかを守って、すべてを委ねることはできない彼女。それができるのはステファンだった。そう感じる相手と出会ったとき、その相手なしには自分が何であるかも解らないほど自己喪失をしてしまう。彼女が言うように「もぬけの殻」になってしまう。相手が自分を愛していないのなら、それはそれで悲しいことであるにしても単なる一つの失恋でしかない。しかし相手も自分に惹かれているステファンが自分を拒否するのだから話は深刻です。ではどうしてステファンはそうなのか。理由を訊かれた彼は「幼少期のトラウマが・・・、とか説明すればいいのか」と皮肉混じりのことを言います。この言葉は映画の中での2人の会話のコンテクストでもありますが、監督の世間一般に対する皮肉でもあると思います。世間はいとも簡単に幼少期のトラウマとかで一人の人物の今を説明する。でも実際にはそんなに簡単に説明できるものではない。そして映画でもそういう安易なステレオタイプ的発想で描いていい気になっている、と。それがどういう経緯でそうなったかは別として、自分を外に晒すことのできないステファン。プライドが高いと言えば高い。子供が駄々をこねて親に何かをねだる。成功すれば望みはかなっても駄々をこねた自分は残る。失敗すれば無様な自分だけが残る。ならば望みを我慢してしまえばいい。そうすれば決してプライドが傷付くことはない。こうして自分の殻に閉じこもり外界に自分を晒すことをしない。残るのは我慢と孤独だけだ。しかしそれでも内部に残る欲望や情熱、それは夢の世界として音楽を聴く。そんなステファンのような人間には2つの道しかない。慣れ親しんだ殻の孤独の人生を続けるか、容易には出来ない努力をして自分を変えるかだ。しかし自分を変えるなど簡単にはできない。ステファンにもそれは出来なかった。その機会は何回もあった。カフェでの修羅場の後、朝ステファンはカミーユを訪ねる。来訪を取次いだレジーヌに彼を通すことをカミーユは許す。この時点ではまだ彼女はステファンを諦めてはいないということだ。しかし彼の第一声は「謝るつもりはない」なのだ。

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この映画で平行して描かれているのがマクシムやステファンなどの音楽学校の恩師である老ラショームの物語。晩餐の日にステファンは外界には関わらずに一人離れて食卓の準備の手伝いをしているが、残りの人々は一緒に散策している。そしてラショームはステファンに関して「彼は特殊ケースだ」と言う。思うに自分を晒せないステファンをそのまま受け止めて愛情を持ったのがラショームだったのではないだろうか。だからステファンも彼を愛することが出来た。彼がカミーユに言うように「ラショーム以外を愛せはしないのだ」。ラショームが病身で先はもうない苦しみばかりになったとき、彼は身近な者に安楽死の注射を願う。しかしステファン以外にはそれは出来なかった。それをしたステファンが冷酷なわけではない。他の者はラショームを愛しているという自分の気持ちを相手に投げかけてしまっているからだ。これが普通の愛だ。しかし自分の相手に対する感情に流されずに、死を望むラショーム本人をそのまま受け止めたのがステファンだ。それはステファンのあるがままを受け止めたラショームと同じだ。2人の絆は、あるいは愛はそこにあったのだ。

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Last updated  2007.01.25 02:00:51
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