ラッコの映画生活

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2007.12.11
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カテゴリ: ヨーロッパ映画
MIES VAILLA MENNEISYYTTA

97min
(DISCASにてレンタル)

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初カウリスマキです。良かったです。こういう映画を見ると、もちろん内容が良かったのですが、映画技法、と言うより映画作法、筆致というものに興味を持ってしまいます。文学作品の映画化の原作本ではなく、映画が作られた後にそれを小説化したシネノベルみたいなものもありますが、それは映画を物語のみに単純化してしまうことでしょう。例えば「あそこで主人公が彼女を裏切るのは許せない」とかとか・・・、普通に映画を語られる物語として楽しむのは、それはそれで良いのですが、「映画の映画たる所以は何か?」と言った問が作者の映画作りの根本にある映画はやはり面白いです。

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簡単な一つの例えを書いてみたいと思います。映画の中で主人公がハンバーガーショップで友人と待ち合わせるシーンの例です。主人公は店に入ってきて客席を見回し、まだ友人が来てないことを知るとカウンターで何かを注文し、トレーなりカップを持って客席に着き、しばらくすると友人がやってくる。(1)普通はマクドナルドのある店鋪を撮影のために借り切るとか、あるいはセットで寸分の差もないようにマクドナルドのインテリア等を模してセットを作る。そして脚本にはカウンターでの注文の主人公のセリフ、それに対する店員のセリフ、友人がやって来ての2人の出会いのセリフ、すべて脚本家によって書かれている。役者は脚本家や監督が想定した通りのシーン(あるいは人物)を演じる。このやり方は単純化して言えば、映画作家が観客に物語るお話の映画的映像や音声を実現するものだと言える。しかしここに嫌でも介入してくるのが役者という人間。役者はロボットではなく人間なんですね。それで(2)諏訪敦彦流のセリフ台本のない演出法なんてのが出てくる。例えばかなり遅れてやってきた友人の意外な発言に主人公が驚くとかむっとするとかが(1)では最初からわかっていて役者はそれを演じるけれど、(2)では友人が実際に何て発言するかも主人公は知らないわけで、実際に意外な発言がされたときにそれに反応する。この違いは役者が演じるのは(1)では脚本に書かれたセリフが中心であるのに対して、(2)ではもっと広く「人物」を演じること、「シーン」を生きること。(1)の少し別の形としては(3)フェリーニのような人工世界もありますね。ローマならローマのコロセウムを、実物を撮影するのではなくフェリーニのイメージでデフォルメした形でセットを作ってしまう。人物もそうで、(1)の場合ならマクドナルドの店員役は隠しカメラで実際の店内の様子を撮ったかのごとくの本物らしい店員を演じる。でもフェリーニの映画に出てくる例えばスチュワーデスは容姿もセリフも、現実的であるよりもフェリーニのイメージ世界のスチュワーデス。(3)は映画作家のイメージ世界の展開なわけです。そんな意味で、物語に単純化しやすい(1)に対して、(2)は映画の中で(監督の意に反して、監督も予期しないような形で等々)役者が映画作りで果たす役割をより追求したという意味でより映画的であり、(3)は物語に加えて映像的・音声的イメージが重要だから、やはり物語だけに単純化できない映画性が強い。

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さてそこで『過去のない男』のカウリスマキ。この映画、その作法は(4)としておいても良いけれど、一見して普通の(1)的映画の類とも見られるけれど、実はかなりバラバラな要素に分断されて提出されるものを、「観客が見る」という行為によって再構成するようなもののように思う。そういう意味でこれも実に映画的なのだと思う。ここであらすじを簡単に書いたとしたら3~4行に要約することができるし、それを読んでもあまり面白くもないと思う。自分はフィンランド語はわからないし、フィンランド人の文化や行動様式を良く知っているわけではない。だから棒読みのような妙に淡々としたセリフ回しや、派手な表情による演技のない無表情的演技を、「フィンランド人はこうなんだ」と解してしまうかも知れない。でもこの映画のそういう部分は実はフィンランド人が見ても同じようにちょっと奇妙なのだと思う。一見(1)風に普通の映画の一種であるようで、良く見ていくと実はある種のリアリティーがないことに気付く。

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まずこの映画の時代設定はいつなのか?。ある分析によれば画面に映る新聞に1996年という年号が見られるという。たしかに最初の病院の場面での心拍数や脈を表示する機器、後半で登場するタクシーのVOLVOの年式や、公衆電話がプッシュフォンであったり、銀行で行員がコンピューターの端末を操作する様子などから、この1996年は妥当なのだと感じられはする。しかし最初の方で登場する車は1950年代風であり、時代感覚がハッキリとはしない。一方主人公が列車の食堂車で日本の寿司を食べ、日本酒の燗酒をボーイがサーブするシーンがあるのだけれど、これはもちろん(笑)実際のフィンランドの列車ではないという。またヘルシンキ駅の拡張された屋根は2002年以後のものであり、1996年当時にはまだ無かったと指摘する向きもある。しかしこの映画の作法はそういうリアリティーには関心はないのだと思う。銀行強盗のシーンでの主人公、女性行員、主人公男性の立ち居振る舞いやセリフ、主人公が女性行員と金庫に監禁されるシーンでの会話、下手な素人芝居のようでもある(実際には名演出・名演技)。主人公と恋人のシーンも実に淡々としているし、自分の過去の分かった主人公がある男と対決するシーンやその男との駅での別れシーン、表面的には演技らしき演技のないような演技だ。

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タイトルも示しているようにある記憶喪失者の物語。夜トランクを持った主人公がヘルシンキの駅に到着する。彼は公園で暴漢に襲われサイフやラジオ等の金目のものを奪われ放置される。病院に運ばれるが彼は頭を打たれ記憶をなくしていた。そんな彼が貧民地区に住むようになり、救世軍に助けられ、そこの女性と恋をし・・・というお話だ。 (ややネタバレになるけれど)

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既に書いたように動作や表情は不自然一歩手前の無演技的演技であり、またセリフもほとんど抑揚のない無表情なもの。なんとなく日本の 能 を連想もした。必要最低限以上の物的リアリティーを追求するのではなく、感情を過度の演技するのではなく、感情は内に込めて抑制された表情やセリフの表現から伝わってくるのは人物たちの深い感慨だ。表現法(4)としたのはそういうあり方だ。無表情な能面は場面場面で見る者によって悲しい顔にも嬉しい顔にも変貌する。そしてそのとき観客は一定の表情を予め表した面によりも人物の深い感慨を堪能することができる。演技された映像や音声が既に出来ているのではなく、映画を見るという行為によって映画が完成するというあり方だ。映画の近縁表現芸術として芝居があるが、映画の映画的側面は普通の芝居よりも能に近いという人がいるが、そういう流れの映画なのかも知れない。

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技法的なことを主に書いたけれど、この映画は心あたたまるハッピーエンドの寓話だった。またカンヌ映画祭でパルム・ド-ルならぬパルム・ドッグを受賞した名演の犬は可愛かった。




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Last updated  2007.12.12 00:14:08
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