ラッコの映画生活

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2007.12.17
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DR. JEKYLL AND MR. HYDE

白黒サイレント 67min
(DISCASにてレンタル)

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トーキーが1927年にできる前1920年のサイレント映画。「ジキルとハイド」と言うと今では善悪二重人格の代名詞にもなっているけれど、「狂へる悪魔」と意訳タイトルがついている。いったいこのタイトルはいつ付けられたのでしょうね?。原作は『宝島』なんかも書いたイギリスの作家スティーブンソンの『The Srange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde』で、IMDbでちょっと調べたところでは約30本ぐらいの映画にされているのではないでしょうか。最初に映画化されたのは1908年オーティス・ターナー監督の作品らしい。これはたった16分の作品で、その後も何度か映画化されているけれど、このS・ロバートソンの作品が最初の本格的なものではないでしょうか。映画「ジキルとハイド」の原典版となった作品だと思われます。先日見た 『デート・ウィズ・ドリュー』 のドリュー・バリモアの祖父ジョン・バリモアが主演しています。

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こういう古い古い映画を見るときって、そして更にそれを評価するときって、ある種のとまどいのようなものがあります。いったいどういう視点で見、どういう視点で評価するかです。19世紀末に公開されたリュミエール兄弟の『シオタ駅への列車の到着』で列車が迫ってくる映像を見て当時の観客は逃げ出したという話があります。テレビがあり、あるいは携帯でも動画が撮れたりと映像の氾濫した今日とは違う時代に作られたもの。そういう条件の差を無視して現代の映画と区別せずただ1本の映画として見るかどうか。あるいは映画史上の一つの作品として見るべきか。その両者の比重の取り方に感じてしまうとまどいです。

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こんなとまどいについて書き始めてしまったのは、映画作品として純粋に身を任せて楽しむにはやはり物足りなさがあったからなのでしょう。今日の音あり映画の一部で意図的無音部分があったりして、それはそれで表現の一手段として面白く、効果的だったりしますが、ボクはやっぱり映画の音(音楽よりもセリフによる表現や物音など)がとりわけ好きだし、映画にとって重要だと感じているのだと思います。技術的に音がない時代だったわけですが、作品によってはその制約を知った上で効果的に作られたものもあって、それは例えばロベルト・ヴィーネの『カリガリ博士』(1919)であったり、(時代的にはもっと後の作品ですが)エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925)だったり、プドフキンの『母』(1926)や、衣笠貞之助の『狂った一頁』(1926)だったりするのだけれど、この『狂へる悪魔』を見ていて感じたのはトーキー映画を音を消して見ているような感じでした。

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この映画で二役(?)ヘンリー・ジキル博士/エドワード・ハイド氏を演じるジョン・バリモアは名演で、またその変身の映像は稚拙ながら映画チック。狼男の変身などもそうだけれど、実際にはないことを映像で見せようとすること。一方人物の心理を描くことと、筋に沿って物語の推移を表現すること。そういいう意味で今日映画が普通にそうであるような作りはこのとき既に完成されていますね。ボクが良く書くことで、映画で役者が演じることでその作中の人物だけではなく役者の人間を表出していて、その意味で演じる役者を撮ったドキュメンタリーという側面があるのだけれど、そういう映画の醍醐味はここでは少ない感じ。セリフが聞こえないからそう感じるのかも知れないけれど、ただただ役を表面的に演じている感がある。でもそれは、映画の技術が稚拙だからこの映画の時代の人間も稚拙だということではないんでしょう。我々は50年前、100年前より進歩したと思いがちだけれど、それは科学・技術の面がそうであるだけで、文学でも音楽でも芝居でも絵画でも、表面的様式は変化していても内容のレベルは変わっちゃいませんね。そうでなければ1000年前の『源氏物語』をまともに読むことなど出来ないはずです。ただ大衆娯楽としての映画の作り方としてはやはり深化(進化)途上で、やはり声が入るようになるのを待つべきなんでしょう。無声映画 + 弁士 なんて世界を経験していない、そしてヌーヴェル・ヴァーグ以降の時代に映画を見るようになったボクのやはり正直な感想です。学生時代には古いサイレント映画もある程度見ていたのですが最近はほとんど見ていません。また少しサイレントの映画の原点を見てみようかと思っています。

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Last updated  2007.12.18 00:01:52
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