この映画はもちろんいわゆる宗教映画ではない。では何故にマリアの処女懐胎がテーマか。それはゴダールという男性の眼で見た女性性、あるいは妊娠、あるいは愛を考察するのに、性愛と妊娠を一度分離する必要があったのだと思う。宗教性を除いてもマリアの処女懐胎の物語は現代でも意味を持ちうるということだ。一つには愛と性的欲望の関係があり(この点に関してはミリエム・ルーセルのヌードや局部を段階的に見せるという形でゴダールは男性観客の興味を操る巧さを使っている)、もう一つは愛の、あるいは性の行為を取り払った形での「妊娠」そのものの意味がある。映画の構成はおおよそ広い空間から狭い室内へという流れを持っているのだけれど、これは通常的・社会的思い込み・解釈から、女性(マリー)の内面へという流れにも対応している。愛の行為から分離した形でマリーが妊娠し、自分の女性性を消化して受け入れていく過程でもある。眠っているマリーのお腹が寝息に合わせて上下するシーンが2回あるが、ふくれてはしぼむお腹は妊娠・出産を象徴しているかのようであり、生命の誕生と死の永久なる繰り返しである。そして最後の方でマリーは「神は con なのだ」と認識する。con とはもともと女陰のことであり、転じてバカ者、愚か者の意味をも持つ語だ。この映画に対してカトリック教会や保守的信者層を怒らせたのはとりわけこのセリフだろう。ジョゼフに代表される男の存在はいわば神の影であり、妊娠・出産(種の保存)という意味での母性はこの con によりセックスと統合される。マリーがジョゼフに教える「愛してる」という言葉の使い方は、ジョゼフの手が伸ばされてマリーのお腹に触れるのではなく、反対にお腹から手が引き離されるとき、正当な意味を持つ。