ラッコの映画生活

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2008.02.16
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カテゴリ: フランス映画
UNE VRAIE JEUNE FILLE

93min
(DISCASにてレンタル)

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決して単純に広くオススメできる作品ではない。カトリーヌ・ブレイヤの初監督作品だが、物凄くインパクトのある力強い作品。他の映画数本のレビューを書きかけだったのだが、この作品に圧倒されてそれらが脇にすっ飛んでしまった。短く要約するなら、「真摯で赤裸々で妥協のない、あるフェミニズムの主張」とでもなるだろうか。まずは性懲りもなくタイトルのことから。この映画の原作はブレイヤ監督自身の小説『Soupirail』(1974)。西洋建築でほぼ90%ぐらい地面の下に埋まった地下室の、地下室内部から見て壁の天井すぐ下にある高さの低い明り取りと換気のための小窓が soupirail だ。小説は読んでいないが、息の詰まりそうな閉塞感と、そこにあるほんの少しの外界との接触を暗示しているのだろうか?。そして映画の原題を日本語にすると、「本当に」ではなく「本当の若い娘」だ。フランス語の fille という語は英語の daughter と girl の意味を合わせ持った単語だが、品のある言葉遣いでは、daughter の意味であることが明白な場合を除き、fille 単体では使われない。小さな娘なら petite fille や fillette と、若い娘なら jeune fille と言う。fille 単体では娼婦のような意味になってしまいかねないのだ。そんなわけで乙女とか若い娘の場合にはこの映画のタイトルのように jeune fille(ジュンヌ・フィーユ)を使う。なのでこの映画のタイトルの意味するところは「本当の若い娘はこんなもの」といった意味で「本当に "らしい" 若い娘の実像」と捉えるのが正しいのではないだろうか。

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この映画の時代設定は1963年夏。撮影されたのは1975年。公開は四半世紀後の1999年だ。ブレイヤ監督は1948年生まれだから、1963年というと彼女が14、5才であり、正に映画の主人公アリスの年令。映画の背景にある社会は1970年代のものでもあり、そういう二重の同時代性を持った作品。ブレイヤ女史の初監督作品だが、内容の過激さと資金の問題で公開がずっとされなかったのが、 『ロマンス ×』 の公開と合わせて公開されたらしい。主人公14才の本当の若い娘の名はアリス。これは描かれる世界はかなり違うが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を念頭に置いてのことだろう。ヘアバンドをしたアリスの姿の少女性はなんとなくキャロルのアリスを連想させる。1963年夏。ボルドー辺りの寄宿学校に入っているアリスは休みになるとボルドー市の南、フランス南西部大西洋岸から内陸に広がる森林地帯ランドの両親のもとに帰省する。一人っ子の彼女にとって両親とだけの、長い夏休みの生活は息が詰まる。既に小さな女の子ではなく、しかしまだ大人の女にはなっていない中途半端な状態。胸などの発達は年令よりも進んでいる。最近かしばらく前か生理は始まっていて、頭ではなく体の中には、蠢く生や性があり、しかしそれをまだ消化は出来ないでいる。この内部と外界との流通が未消化とも言える。先に書いたように Soupirail という原作小説の題がそれを象徴しているだろうか。あるいは最初の晩彼女は自室のベッドで理由もなく嘔吐するが、これも内部が外界に溢れ出ている象徴だろう。家に到着してすぐの食事のとき、もちろん両親もいるのだが、彼女はスプーンをわざと床に落とし、テーブルの下からそれを拾いながら股間に入れる(あてる?)。これは『不思議の国のアリス』の小さな金の鍵なのかかも知れない。妄想と現実の世界の旅へと彼女は入っていくのだ。

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物語にはストーリーと言えるほどのこともない。ランド地方だから松材の製材や松脂採取を業とする父の会社でジムなる若い青年が働き始める。彼女は追いかけるけれど、まだまだ幼いからか、彼には恋人がいるからか、無視され続ける。ジムは解雇されるのだけれど、やっと彼女は彼の関心を惹くことが出来た。そして・・・、なのだけれど(ちなみにラストは他のブレイヤ作品と共通)、それよりも途中に描かれる彼女の行動や、妄想や、日常の風景がちょっと過激。蠅取リボンにくっついたたくさんの蠅の死骸やまだ動いている蠅。ニワトリに啄まれて死んだネズミ。産み落とされたばかりのタマゴを手で握りつぶすアリス。田舎だから食べるためには当たり前なのだけれど、飼っているニワトリを絞めて内臓を出す様子。地面に捨てたその内臓を啄む他のニワトリ。遊園地の乗り物で隣合わせて座った中年男性がアレを露出してしごく様子。彼女が死んだ魚のようだと形容する白い液体を射出したあとの萎えた男性のアレ。砂丘で若い女を抱いた父親が外の射出した後にハンカチで拭く萎えたアレ。股間を露出した姿で地面に縛りつけられ、ジムにミミズで攻められる妄想。この少女が変態なのでは決してない。「本当に "らしい" 若い娘」がすべてこういう妄想をするとは言わない。しかし目覚めてから起きた自分を把握するまでのたった1秒か2秒の心理、生理を数ページにまで増幅した書いたのはプルーストだ。自分の内部に蠢く生理的状況を詳しく捉えて描写すればこういうことになるのではないだろうか。男性にあるのが射出欲求と頭での妄想であって、比較的(いやごく)単純なのに対して、女性のそれはもっと生理的感覚が絡んでいるから複雑だ。男性である自分は実感としてそれを感じることはできないから、あくまで想像する女性の世界であって、ボクがこんなことを書いているのはおかど違いかも知れないが。

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父親は上記のように若い女性とよろしくやっているのだけれど、そんな彼は支配的であり、男尊的であり、白い液体で汚れたパンツやズボンを平気で妻に洗濯させている。フランスにおける、特にこの映画の二重の同時代である60年代、70年代にはまだ、そして都会の知識層よりも田舎の庶民層では、古いフランスとしての男性支配の社会は、現在我々が日本で感じるそれよりも遥かに強固だ。そしてそれを支えているのは被支配の女性でもある。ほんの一部ブレイヤの原作小説の一節を引用しよう。映画の中では、自転車で近くの町まで足をのばすようになっていたアリスについて、保守的(で実は欲求不満でもある)商店のおばさんがアリスの母親に告げ口的イヤミを言った場面(エイスタンレギー夫人というのは商店の女だろう)。

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(アリスは)もう小さな子供ではないでしょう。それを強調して、恐らくエイスタンレギー夫人はアリスを母親がもっとしっかり監視し始めた方が良いと仄めかしたのだ。それはアリスの母の心に、娘を監視することが当然の行為だという第二の気持ちを芽生えさせたが、それが執拗であったので、決して母が言うことを変えさせることはありえなかった。その母の決定的な言葉とは、生理が始まったことは娘の魂が膿み始めたことなのだから、バカロレア(大学入学資格試験)も近付いているこの時期に、悪徳であり危険でもある悪い習慣を持たせるべきではなく、娘を家から遠くへ外出させることをしてはならないということだった。

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Last updated  2008.02.19 03:37:47
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