ラッコの映画生活

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2008.03.27
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カテゴリ: フランス映画
LA BELLE NOISEUSE Divertimento

131min
(所有VHS)

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リヴェット監督作品を見ずにいた経緯は 『セリーヌとジュリーは舟でゆく』 のところに書いたけれど、去年の8月に 『恋ごころ』 を見て気に入って、 『北の橋』 『彼女たちの舞台』 『地に堕ちた愛』

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印象はややがっかり。好きな&面白い作品かも知れないが、他の5本の方が面白かった。オリジナル4時間版ではないけれど、それを言えば『地に堕ちた愛』も同じことだ。いつもは劇中劇という作りで、それは舞台演出家でもあるリヴェットにとってはお手のものだ。しかしやはり画家の世界を本当に描くことは出来なかったのではないだろうか。画家フレンホーフェルを演じたミッシェル・ピコリを賞賛する人も少なくないが、ボクには彼が画家にも見えなかったし、作画創作過程もまったく画家のそれには見えなかった。やはりこういう世界は映画のものではなく小説に向いたものなのかも知れない。画家としての演技、というよりも演出は、このピコリよりも 『ミナ』 のロマーヌ・ボーランジェの方が上とさえ言いたくなる。もちろんこれはピコリの責任ではなくリヴェットの責任だ。

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さてそのピコリなのだけれど、あまり人は言わないけれど、この映画の大きな部分は実はゴダールの名作『軽蔑』のリメイクなのではないだろうか。まずはバルドーやベアールが惜しげもなくヌードを晒す点が似ている。『軽蔑』の中でピコリとバルドーは愛し合う仲だったけれど、脚本家のピコリが、アメリカのプロデューサーのプロコシュにラングの撮っている作品の脚本の手直しを依頼され、単純化して言ってしまえばプロコシュの金の前に屈してプロコシュに対して卑屈になる。それは本当は意に反してプロコシュの要求に芸術を曲げることだけではなく、愛する女バルドーをも差し出すようなことまでである。もちろんピコリは表立ってそうするわけではないけれど、自分は介入しないという卑怯な態度をとる。それゆえにバルドーはピコリを軽蔑するようになるのだ。そこでフリッツ・ラングが撮っていた映画中映画はオデュセウスの物語だ。妻ペネロペの要求は彼女を狙うすべての求愛者をオデュセウスが皆殺しにすることだった。しかしピコリは逆に別の男に妻を提供しかねない勢いなのだ。このブログにはまだ『軽蔑』のレビューは書いてないので少しだけ続けると、ピコリが屈して卑屈である対象は、生活であれ、映画作りの予算であれ、金という権力を持った人物であり、この映画は男女の機微の物語であると同時に、その背後にある、あるいは人を規定する資本(金)という、ゴダールに親しいテーマが読みとれる。この映画ではピコリとバルドーの家を赤、プロコシュの別荘を青、と色の描き分けをしている。もしかしたら赤は労働者階級の象徴なのかも知れない。

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 (↑ゴダール『軽蔑』)

そのミッシェル・ピコリが、今度はプロコシュの側に回ったののがこの『美しき諍い女』だ。ベアールの恋人の若い画家ブルツタインは金の前に屈っするのではないけれど、隠とんしてしまっている天才画家ピコリに対して卑屈になり、本当は晒したくない恋人ベアールの裸体をモデルとしてピコリに差し出す。そのことでベアールは恋人ブルツタインに苛立ちを覚える。軽蔑したと言っても良いのかも知れない。最初は嫌がっていたベアールだけれど、バルドーがそうであったように、自らピコリに近付くようになる。この映画を労働を考察した作品であるというどなたかが書かれたレビューを読んだけれど、ゴダールの映画と重なっているとすれば、この説もあながち間違いではないかも知れない。

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さてこの映画の中ではモデルと画家の格闘が始まる。気付いたのは画家がモデルに取らせるポーズが、ある時は腕を上げた絞首にでもなる人の姿であり、またある時は磔刑のキリストのポーズだ。そしてそれを命ずるのは画家だ。ここに関係の非対等性がある。画家とは映画監督の比喩であり、モデルが裸体を画家に晒すように、監督は役者が裸になってその人間を出して演技することを求める。そして実はその求めのためには監督はやはり自らを晒す。役者とは他の人物のふりをするのではない。劇中の人物を演じることによって、自らのすべてを曝け出すのだ。精神分析の患者と医師の関係に似ているかも知れない。だからいずれの場合も、役者やモデルが自分を裸にしたとき、それを作品にしたとき、傑作が成立する。しかしその作品はモデルそのものであり、画家そのものでもある。この関係は通常のセックスをも越えた親密な関係であり、ベアールをモデルに画家が完成させる未完だった傑作の元のモデルである妻ジェーン・バーキンとの関係も複雑だ。それゆえに完成された傑作はこの3名の暗黙の当然の秘密として壁の中に封印される。(今回はこれぐらいで、他は4時間版を見てからと言うことで。)

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Last updated  2008.03.28 03:42:30
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