ラッコの映画生活

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2008.09.27
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カテゴリ: 日本映画
私が棄てた女

Kirio Urayama
白黒&パートカラー116min(1 : 2.35、日本語)
(桜坂劇場 ホールCにて)

suteta0.jpg

桜坂劇場9月の「日本の名画特選・麗しき浅丘ルリ子」特集で、今回『銀座の恋の物語』『私が棄てた女』『愛の渇き』の3本がとりあげられた。それぞれ1962年、1969年、1966年の日活作品。子供の頃テレビでよく見た浅丘ルリ子だけれど、子供だったので映画は見てません。『銀恋』は名作らしいけれど、ボクは裕次郎が苦手なのでまだ見ていなかった。今回も時間の都合で見る機会を逸してしまいました。『愛の渇き』はかつてテレビで見たことがあって、再見したいとずっと気になっていた作品。

でまずはじめて見る『私が棄てた女』。原作は遠藤周作の小説『わたしが・棄てた・女』。監督は『キューポラのある街』の浦山桐郎。「私」というのはもちろん主人公の男・吉岡(河原崎長一郎)だけれど、その吉岡が棄てた女、つまりタイトルロールは、浅丘ルリ子演ずる女・三浦マリ子ではなく、小林トシ江が演じた女・森田ミツだ。ちなみに日活はより遠藤周作の原作に近い形で、1997年に『愛する』(熊井啓監督)としてリメイクしている。また ヴァンサン・ペレーズの『天使の肌』 はノンクレジットの遠藤の小説『わたしが・棄てた・女』の映画化とも言われるし、場合によってはこの1969年の浦山作品のリメイクかも知れない。この浦山作品も、ペレーズ作品も、原作にあるハンセン氏病及びその療養施設というのを切り捨てているが、どちらも森田ミツやアンジェルが後半カトリックの施設での仕事に身を捧げるという設定で、原作者・遠藤の世界を残している。

suteta1.jpg

さてその遠藤周作の世界。捨てられる女の名前、ペレーズ作品ではアンジェルで、天使を意味するけれど、森田ミツというのは映画内だけではなく、遠藤の原作のものだ。「ミツ」は逆に読めば「ツミ」=「罪」となる。森田ミツというのは人々の罪、ここで端的には男性主人公・吉岡の罪を背負って死ぬ聖女、ないしはキリストになぞらえられた存在と言えるだろう。だからってもちろんこの映画は抹香臭い宗教映画などではない。ごく普通の人間ドラマであると、誤解のないように断っておこう。吉岡は、今は自動車販売会社(?)に勤め、会社経営一族の娘と恋愛関係にあり、結婚を控えていた。時代は映画の作られた60年代末と考えればよいだろうか。吉岡はかつて田舎から出てきた貧乏学生で、60年安保を理想主義で戦ったが、結局その甲斐もなく選挙では保守勢力が勝利し、今は猛烈サラリーマン。社長の姪か何かのマリ子(浅丘ルリ子)と婚約し、上昇志向のサラリーマンとしては将来は明るかった。しかし彼の中では60年安保への敗北感が燻っていた。マリ子が吉岡に惹かれるのもそんな彼だからであり、彼女は有産階級出身ながら富と虚栄に安住する親族たちの世界を嫌っていたのだ。彼女は母親に「何だかわからないけれど、彼には何か響くものがあるのよ」とか言っている。監督は『キューポラのある街』の浦山桐郎だけれど、ここでは現実社会の中で信念を貫いて生きることの難しさが描かれているとも言えるだろう。そう言えばこの作品には、小沢昭一も出ているし、その他思想的に左翼系の劇団俳優が多々出演している。余談ながらこの頃の日本映画の良いところは、昨今の是枝裕和作品などと違い、現実肯定ではなく理想実現への模索がテーマになっていることだ。そんな一人物であるマリ子を演じた浅丘ルリ子が、この作品の大きな魅力だ。

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(以下ややネタバレ含む)
吉岡は社長一族のブルジョワな晩餐で酔っぱらって批判的な悪態をついたりするが、マリ子とめでたく結婚して新居を構える。結婚前に一度偶然吉岡はミツと再会して彼女のことが心のどこかに引っ掛かっていたが、しま子の企みで2人は会わされる。ミツは「あんたにぶらさがって幸せになろうと思ったけれど、あんたは逃げた。」と言い、吉岡は「人にぶら下がれたら誰だって逃げるさ。」と答え、決定的に別れようとするが、2人は再び愛し合ってしまう。その様子をしま子の情夫は撮影している。ミツはしま子と情夫の部屋を出て行く。彼女はあるキッカケでカトリック的慈善の老人ホームで働くようになっていたが、しま子はミツが残して行った吉岡からの手紙をマリ子に送りつけた。マリ子はミツのゆすりだと思い、老人ホームにミツを訪ねる。そしてわけの解らぬミツに手切れ金を叩きつけて帰る。ちょうどその日は老人慰問会の日で、ミツはステージに立って故郷の民謡を歌う。突然カラーとなり、故郷の祭・相馬野馬追、色とりどりの騎馬武者の映像だ。現実ではなく夢や記憶の世界は活き活きと色があるけれど、現実の悲惨な毎日には色がないということなのだろうか。

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(以下ネタバレ)
ミツはしま子の部屋を訪れる。盗み撮ったの写真を見せられ、それを奪ってストーブに投げ込もうとするミツ。ハサミを手にヤクザの情夫に刃向かうが、ハサミを奪われ、逆に窓辺に追いつめられてしまう。ミツはそのまま窓から外に落ちて死んでしまう。帰宅してマリ子に問い詰められ吉岡が語るのがこの映画のテーマかも知れない。ミツは純粋で、自分を棄てた吉岡をも優しさで受け止め、非難することもなく愛し続けた。善意を持ちながらも弱さゆえに罪を犯す吉岡。その罪を自分の身に引き受けたのがミツだ。だから「ミツは俺」であり、「ミツはマリ子」なのだ。マリ子は吉岡をひっぱたいて出ていく。このシーンでの浅丘の毅然とした演技がいい。そんな吉岡は悪夢か幻想か妄想のようなものを見る。とてもちゃちな映像だけれど、カットを要求する日活首脳部に対して浦山監督が頑なに従おうとしなかったシーンだ。街を走り回る、逃げ回る吉岡。そこには人々の死骸が転がっている。ヘルメットをかぶった黒ずくめの無気味な軍隊のようなものが吉岡に向ってくる。逃げる吉岡だが、やがて閉ざされた塀に捉えられ、地の底に落ちていく。現実、この世界を牛耳り、動かしている権力、体制。それに刃向かって生きて行くことはできない。人の持つ弱さゆえに、誘惑に抗することが出来ずに負けてしまう。

最後の場面。マリ子は吉岡と表面上は和解したのかまた一緒に暮らしている。たぶんマリ子もミツの何たるかを理解していた。権力を持つ者は弱いからこそ力を持とうとする。それに屈して欺瞞の中に生きる者も弱さゆえだ。その弱さゆえの罪をひとり、愛、あるいは優しさで背負っって死んでいったのがミツ(=キリスト)なのだ。マリ子は妊娠していた。こうしてまた弱き、罪深き存在である人間が生まれようとしている。しかしそれは希望でもある。映画は人間の弱さと罪の肯定であるかのようだけれど、そうではなく真っ当に、真直ぐ生きることを志向している。約40年前の作品だけれど、昨今の日本映画と比べて、骨のある名作で、テーマは今日的にもいささかも古くなっていない。

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Last updated  2008.10.02 02:30:02
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