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神のゲーム(更新)



「神のゲーム」 -あなたがいきている理由- 北上音緒 著 WAVE出版

です。

日記で少し触れたのですが、この本の良さをもう少し紹介したいと思います。

初めにお断りしておきますが、著者は哲学者であり、神の存在をその哲学の研究の中で深めてきており、けっして何かの宗教、あるいは特定の神様に基づく神の本ではありません。

著者の専門は「認識論の分野で、言語と観念の境界条件を明確にできる理論体系の研究」です。

この研究分野は、日記でも少し触れたドナルド・ウォルシュの「神との対話」にでてくる神が、ウォルシュに神の世界を説明する時に、人間の言語自体が持つ観念体系の説明に対する限界について言及していますが、そのことと通じるものがあるようです。

この本は、こう始まります。



神は存在するのか

 神とは一体なんでしょう。神は存在するのでしょうか。高度に発達した現代の科学は、これらの問いに正しく答えられるのでしょうか。



こういう書き出しで始まる本書は、続けて、いくつかある神の存在証明の中で、現在まで幾多の科学的思考と現代科学の実験・観察に耐え抜いてきたものとして、3つの説を紹介していきます。
著者は、この本を読む人それぞれが、これらの証明を参考にしてでも、一度自分の頭で、神の存在の理由と自分の存在の意義を考えてみることを勧めています。

その三つとは

1)因果律による証明
因果律とは、いうまでもなく物事には全て原因があって生じるという法則のことです。
この証明では「誰が宇宙を創ったのか」あるいは「この宇宙はどうして始まったのか」という命題に対して、この因果律を適用し、現在私たちがいるこの宇宙が存在する、ということを前提に、その原因を追究してゆき、「始めの原因」に行き着きます。
この「始めの原因」がなく、無限に因果関係が続くと何も起こらないし、何も存在しなくなってしまいます。

この「始めの原因」は、その定義から言って何の原因もありません。「始めの原因」は自己完結的に存在するのです。

他のいかなる原因もなく、自分自身で運動を起こせる存在、言い方をかえれば、私たちが住むこの世界の物理法則に拘束されない存在、全ての自然法則を超越する存在がなければ、この「始めの原因」もありえません。

そこで、この存在のことを神と呼びます。
この証明は、そういう意味で、宇宙論的証明とも呼ばれます。

現代科学は、宇宙の始まりをビッグバンにまで突き詰め、最近はビッグバン以前にも考察を進めています。しかし、このビッグバン以前となると、時間や空間の概念が、今現在私たちがいる宇宙と同じ概念では捉えられなくなるようです。 科学者たちは、そこに神を見出しているともいわれます。

2)目的論的証明
この世界は偶然できたものではありえず、何らかの意図的な目的をもって作られる以外に、この宇宙が存在する確率は限りなく0に等しい、とするものです。

例えば、サルがでたらめにパソコンのキーボードをたたいていたら、源氏物語ができてしまった、というようなことがありうるでしょうか。
普通常識的に考えたら、そんなことはありえない、と答えるでしょう。

では、今私たちが生活するこの世界、この宇宙が今あるような形で存在する確率はどうでしょう。
実はこの宇宙が、今、こうして今の形で存在する確率は、上の、ありえない、サルによる源氏物語よりもずっと小さいのです。

だとしたら、サルが源氏物語を生み出せないと言えるのに、この宇宙はたまたま偶然にできたのだ、ということは、もっとできないということになります。

なぜ、この宇宙は、これほど調和がとれて美しい秩序が保たれているのでしょう。それは、なにものかが、そうしたから、と考えざるを得ません。

それではなぜ、そういった世界をその「なにものか」は創ったのでしょう。
それは私たちを存在させるためです。

私たちが、自分たちの存在の理由、生きている理由を考えるとき、この「なにものか」の意思を無視できません。

私たちが存在するのは、この「なにものか」が世界を創造した意思の現れであり、逆に、この調和と秩序の支配する世界が存在することそのものが
「なにものか」すなわち「神」の存在を証明しているのです。

現代科学は、幅広い領域において、この世界を記述するさまざまな法則、原則、定数などを見出してきました。光の速度とってもしかり、プランクの定数とってもしかりです。でも、どうしてその値でなければならないのか、ということに対しては全くお手上げ状態です。

もし、これらの定数や、法則が、ほんの少し、今と違っていたら、この今私たちがいる世界は、存在できなかっただろう、ということが証明されています。すなわち、神がその値にしたと考える以外に、それを説明することができないのです。

これが2番目の目的論的証明です。

3)存在論的証明
この証明は少々わかりずらい。この本で、数ページを費やして説明しているものを、ここで数行で説明できるとは思えません。暇がある方、あるいは興味がある方は、次の説明を元に自分で考えてみてください。神があなたの頭の中に現れるかもしれません。

あらかじめ、言っておきますが、この証明は科学の実験観察に頼らず、純粋に人間の理性だけでなされるものです。

それは一言で言えば、「神とはどのような存在なのか」を突き詰めてゆくと「神とはこの世界を超越し、普遍で、全知全能至善」でなければならず、それ以外はけっして「神」とは呼べない、という結論に至り、このことを、私たちが考えられること自体が、「神」の存在を証明している、という考え方です。

どうです?わかりましたか?

上の他の二つの証明とは違って、これは手ごわいですよね。さすが「哲学」だな~、なんて、私も思ってしまいました。

上の説明だけでは、殆どわからないと思うので、もう一つ付け加えると、

「神の存在は、上記のように、想像する私たちの頭の中にだけあるものか」と考えてください。

もし、想像上のもの、と仮定すると、この神は「神」でなくなってしまいます。どうしてかと言うと、想像だけでなく、実際に存在する「神」というものも、私たちは考えられるからです。

想像上だけに存在する「神」と実際に存在する「神」を比較してみます。
片方は存在せず、片方は存在します。どちらが「全知全能至善」の神でしょうか。あきらかに「存在する」は「存在しない」より勝っていますよね。

もう一つ言えば、存在しない、想像上だけの「神」は、「存在しない」と言うことそのものによって「全能」ではなくなってしまい、その定義から言って「神」ではないことになってしまうのです。

つまり、「神」はその定義から言って、存在せざるを得ないのです。

これが存在論的証明です。 ここまで書けばわかりますよね。


こうして、神の存在が、論理的、科学的に証明されたことを前提として、本書は当時話題になったオ☆ム心理教などによるマインドコントロールに対する対抗策として、神について一人一人が真摯に考えてみることを挙げ、現代人の心の耐性を高める必要性を説いていきます。

でもその部分よりも、この「全知全能至善」な「神」と言う考えをもとに
著者はいろいろな命題に対して、思考を敷衍していきます。いわく、

「神の奇跡」とは。
「私たちはどこから来てどこへ行くのか」
「なんのために生きるのか」
「一人一人の生きる目的」
「神の罰と神の国」

といったことを純粋に哲学的論理展開で、説明していきます。ここが、なかなか読み応えがある。

なかには、成功理論主義者や昨今のスピリチュアル系の考え方、あるいは神は、絶対に人間に語りかけたりはしない、と言っている部分など、反論したくなる部分は結構あります。

しかし、純粋に思考のステップを踏んで、こういった命題に回答していくという姿勢は、正直感激しました。(私が哲学などの本になれていないせいもありますが、新鮮でした。)

最後に、
この本は決して宗教の本ではなく、筆者も宗教に批判的でもなく、肩入れするでもなく、ただその哲学的観点から神の存在を追求した結果として、現代の宗教のあり方にある面、疑問を呈しています。


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